https://note.com/dzv00444/n/nab6dfb9275a1 【西原天気『けむり』】より
西原天気『けむり』(西田書店)
西原天気さんの句集。氏は『人名句集 チャーリーさん』を私家版で出版しているが、これが実質の第1句集とのこと。1955年兵庫県生まれ。1997年に「月天」句会に参加し俳句と出会う。98年から2007年まで「麦の会」に参加、11年春までは「豆の木」に参加。何より2007年に氏が中心として立ち上げた俳句Webマガジンの「週刊俳句」は、インターネットでの俳句の情報発信の中心的役割を担っている。
本句集の特徴として非常に装丁が面白く、色違いの紙を綴り一集をなしている。ポップで手造り感のある素敵な句集である。集中の句の印象としては「自由自在」、主義主張、お題目を唱えるのではなくパイプを吹かしながら(実際に氏はパイプを吸われる)肩の力を抜いて俳句を楽しまれている印象がある。
勿論。言葉の斡旋については十分注意が払われている。私が印を付けた句は「とーんと」出来たような俳句のほうが多かった。ふわふわしたような読後感を持ち、まさに句集のタイトルの「けむり」の印象である。敢て言うと、リズムがよい俳句が多いのだと思う。それが句の「軽み」とマッチしている。
決して「季題」を中心に俳句を詠んでいるわけではないので、私の信条と一致しない句も多い。ただ楽しい俳句が多いのも確か。是非、このような句の楽しみ方も、味わって頂きたい。
これもあのデュシャンの泉かじかめり 天気
季題は「悴む」で冬。「デュシャンの泉」とは便器のことである。「20世紀でもっとも最もインパクトのあった現代芸術作品」に選ばれている。
寒い寒い一日、小便器の前に立って用をたすときの感慨。実にさらりとしているが、「デュシャンの泉」が持つ現代を象徴する或る歪みが伝わってくるのではないか。
噴水と職業欄に書いて消す 天気
季題は「噴水」で夏。こちらも不思議な一句。履歴書の職業欄に間違えて噴水と書いてしまい、慌てて消した。噴水を履歴書のどこに書いたのだろうか。もしかして名前が噴水だったのかもしれないし、噴水に関する著作があったのかもしれない。
全く写生ではないし、そういう季題「噴水」の使い方について疑念を呈される方もいらっしゃると思うが、私は結局「噴水」が持つ、淡淡としたイメージが伝わってくれば勝ちだと思う。清涼感を感じ、「夏」の俳句であると思う。
●Ⅰ「切手の鳥」
はつなつの雨のはじめは紙の音 蚊柱が崩れ遠くの見えにけり
糸屑をつけて昼寝を戻り来し 餅花が頭にふれて遊び人
引越のあとの畳と紙風船
●Ⅱ「マンホール」
チョコレートにがし港のまぶしさに ヒッピーに三色菫ほどの髭
ヨットひとつ風がつまんでいきさうに 海の家から海までの足の跡
首都高はひかりの河ぞ牡蠣啜る
●Ⅲ「だまし絵」
晩春のおかめうどんのやうな日々 卒塔婆のやうなアイスの棒なりき
枝豆がころり原稿用紙の目 十月や模型の駅に灯がともり
ぽんかんを剥いたり株で損したり
●Ⅳ「名前のない日」
缶切の先の濡れたる立夏かな はつなつの土手ぶらぶらと入籍す
目のさめて畳の広き帰省かな 遠火事の音なく燃ゆる晩ごはん
野遊びの終りはいつもただの道
http://spica819.main.jp/yomiau/5544.html 【2012年1・2・3月 第十一回 『けむり』の話 1】より
上田信治×西原天気×江渡華子×神野紗希×野口る理
『けむり』
上田 以前、紗希さんが、twitterで「切実さ」の話、してたじゃないですか。その「切実さ」の、典型的な例が、天気さんの句集『けむり』の中にある、亡くなった山本勝之さんを詠んだ句だと思うんですよ。「ペンギンと虹と山本勝之と」。
西原 おお。その句?
上田 今井聖さんが、句集の感想として「山本勝之さんの句がいい」って書いてきて下さったんですよね。
西原 はい、お手紙に「好きな句」と。びっくりしたし、すごくうれしかった。
上田 でも、今井さんは、山本さんのことは、知らない。あの人は、そういうところに反応する人で、個人的な表出に対しては、絶対的に評価する。それって、まず個別の切実さがあって、それがそれらしく表現されてるっていうことではなくて、切実さというものはじつは普遍的なもので、それが作品を通して、まったく事情が分からないはずのひとに伝わってしまう、ということの、いい例だと思うんです。
江渡 うんうん。
上田 僕は、いちおう、山本勝之さんのことを知ってますよ。でも、天気さんをはじめとする、すぐそばにいたひとたちのようには、知らない。でも、天気さんが、この句を詠んだことの意味は、分かる。伝わるものがある。大きな切断があって、いいんです。僕、そのtwitterのとき、一般的な「切実さ」の定義作りましたよね。えーと「共有されていない個人的感情が、共有されることを要求している感じ」か。それは自分にも相手にも要求してくるものなんですよ。だから、感情の内容が伝わるのではなくて、同じ切実な感じ、というのが伝わることがある。それが、俳句の面白いところではないか。
神野 そう!そもそも、作った人がいて、作品が出来て、読者が生まれるんじゃなくて、まず作品があって、そのこっち側に作者がいて、こっち側に読者がいる。で、ここ(作者)のことは、ここのひと(読者)にはわからない。
上田 ここは、クレバスがある。
神野 読むひとは、ここ(作品)を見てるわけですよね。でも、ここ(作品)になにか、こっちのひと(作者)の手触りがあって、それがわたしたちを誘う。
野口 「ここ」の意味がそれぞれ違う…。これ、絶対、テープ起こししたらわかんない(笑)。
西原 それこそ、クレバスだ。
神野 まず、ここがあるんだな、ってことですよね、作品が。作者と読者が、まったくおなじものを感じているわけでは、実はない。でも、これは作者の感じたものと同じなんだって、錯覚できる幸せ? それが、読む幸せかなって。
上田 通じるということはあり得ないのだ。幻想なのだ。勝手に、テキストを前にして、生じる反応があるだけなのだ、という、ポストモダン的な感覚というのは、かえって素朴だと思いますね。人間というのは、動物としてお互いこんなに似ているってことを前提とせずに、なんの表現行為が可能であろうか。
神野 うんうん、そうです。
上田 田島健一さんが、twitterで、切実に感じる己を疑えっていってましたよね。切実というのは、主体と別にあるのではないか、と。主体と切実を解体して考えたいっていう、田島さんの気持ちは尊重しますけど、そういうふうに考えるというのは何らかの修行みたいなものであって、普通には、それは無理でしょう、って思う。
神野 そうですね。天気さんの「ペンギンと虹と山本勝之と」に戻ると…
上田 この句は、ペンギンが鍵だと思います。
神野 そう。固有名詞が入ってるから切実なんだ、他人には分からないひとの名前が入ってるから、切実さを感じるんだ、って言っちゃうのは簡単なんですけど、じゃあ、山本勝之さんっていう名前が入っていたらなんでもいいのかっていえば、そんなことは、絶対ない。「ペンギン」と、それから「虹」と。
上田 ペンギンも虹も、山本勝之の名前を出すのと同じくらい、天気さんにとって、必然性があるわけですよ。
西原 ふたりともうまいこと言うねえ。
神野 天気さんが照れてる(笑)。
西原 あの句は、句集の中でもいちばん、読者を無視した句なわけですよ。著名人を詠み込むからまだしも、「山本勝之」をほとんどの読者は知らないんですから。でも、読者がどう思おうといい、自分は句集に入れる。そういう気分で入れた句です。ところが、それが意外な読者に伝わるっていうのが、ほんとにびっくりした。うーん、俳句って、深いわ、と(笑)。
神野 読者に分からなくてもいいっていう、体当たりの姿勢が…
西原 気合いが?(笑)
神野 ひとを感動させる。
西原 むかしカメラマンと、写真撮るときの話になってね、どうしたら、いい写真が撮れるんですか、というようなことを聞いたの。そしたら、「写れ!って念じるんだ」と(笑)。
神野 ほんと?(笑)
西原 まあ、冗談半分でしょうが、本気も半分だと思う。気合いしかない。俳句も似たようなところがあって、どこか気合いが入ってる句と、そうじゃない句は違いが出てしまうのかもしれない。それはシリアスな句ということではもちろんなくて、脱力にも諧謔にも、脱力なり、諧謔なりの気合いというものが必要。
江渡 ふーむ。
西原 実はね、『けむり』を出そうって準備してたのが、去年の一月くらい。で、ちょうど『俳コレ』の企画時期でもあったでしょ。だから、信治さんに提案したんです。「俳コレの予行演習、してみません?」って。僕が句集用に用意してた句を、信治さんに試しに100句、選んでもらう。そしたら、信治さんは選ぶひとの気持ちが分かるし、僕は選ばれるひとの気持ちが分かる。ひょっとしたら他選って感じ悪いかもしれないし…。で、百句選、してもらった。
野口 そしたら?
西原 けっこう面白かった。
上田 ひとつ分かったのは、人の句を選ぶのは、意外と大変だってことです(笑)。
神野 ははは(笑)何句くらい送ったんですか?
西原 600句くらいかな。選ばれてみたほうとしては、自分が大事に思ってた句は洩れなく入ってたし、なおかつ、意外な句も入ってた。だから、他選はいけるな、って。それで、句集のほうもね、信治さんの選んでくれた句を、自選とは別のもう1本の柱のようににして作ったところもあった。信治さんの100句選に入った句で、句集に入れなかったのはたしか1句だけです。最後は自分だけど、途中、自分だけだと、どうしても揺れる。揺れが止まらなくなって、「ああ、邪魔くさい、もう出すのやめようか」ということにもなる。その意味で、他選を得たことはラッキーでした。
上田 『けむり』に、ぜひブースカの句はいれてほしかったので、入っていたのが嬉しかった。
神野 「空ばかり見てブースカが芋畑」。
西原 あれは自選だと入れなかったかもしれませんね。俳句を始めて1年経った頃の句。今度の句集、自分で面白かったのは、1年目か数年目の句もわりあいたくさん入ってるんですが、それを近作と混ぜて並べても違和感がなかったこと。進歩がないというのかw、編集は句作とはまた別の作業というか…。
ユキ ブースカ、そこにいるよ。
西原 そうそう。
ユキ ピアノの上にいるんだよ。
野口 ええ、ほんとだ!
西原 あのブースカが、あそこにいたんだよね。芋畑に。
ユキ たぶん、誰かがユーフォーキャッチャーでとってきたのを、畑に捨ててたんだろうね。
上田 ええ、実話なんですか(笑)。
西原 そのまんまの句なんですよ(笑)。それで、ユキが洗って、ずっとあそこに置いてある。
江渡 そうなんだ。
西原 まんま、なんですよ。ソファーの句(「数ページの哲学あしたくるソファー」)も、次の日にソファーが来るなあ、と。そのソファーが、それね。
神野 ええ、これ?
西原 そうそう。
http://spica819.main.jp/yomiau/5554.html 【2012年1・2・3月 第十二回 『けむり』の話 2】より
上田信治×西原天気×江渡華子×神野紗希×野口る理
『けむり』
神野 そういえば、そもそも、句集をいまのタイミングで出したのは、なにかあったんですか。
西原 うーん、忘れた。きっかけは、うーん、よく覚えてない(笑)。
上田 天気さん、句集出さなそうなひとでしたもんね。
西原 なのに出しちゃって、申し訳ありません。
神野 そう。「自分は、俳人じゃなくて、俳句愛好者だ」って言ってたじゃないですか。でも、句集を作って、誰に読んでほしいのか、聞いてみたいなって。
西原 みなさんが、句集を出そかな…と思い立つのと、おなじ感じだと思いますよ。
上田 角川俳句賞に、僕や谷雄介が出すって言ってたら、天気さんが、じゃあ僕も出すかって、粋狂で出してくれたことがあったじゃないですか。天気さんの怖いのは、それで、すんでのところで、取り逃すところなんですけど(笑)。あのときの感じとすごく似てますよね。ひとがそんなに言うなら、やってみよか?みたいな(笑)。
西原 いや、ひとからはそんなに言われなかったですよ。社交辞令でいいから、「そろそろ句集、出したら」と言ってくれるひとが、もうちょっといてもいいと思ってた(笑)。まあ、気楽にスタートしたかな。これまでつくった句を集めてみて、それで句が足りなければ、出さなければいいし、っていうくらいの気楽さ。作った句を整理してないから、拾うところからはじめましたね。
上田 箱に入れる。
江渡 箱に入れる?
上田 単語カードに自分の句を書いて、箱に入れてましたよね。
野口 句集ならぬ、句箱!
上田 現代美術みたいなね。で、句箱をぱかって見せてるうちに、句集も作品になりうるんではないか、という気持ちが天気さんの中に芽生えたのではないか。句集はダサいが、かたまりで俳句を見せるというのは面白いぞ、というね。
神野 あ、句箱が出てきた!
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西原 きれいでしょ、この箱。
神野 きれーい。
西原 いただいたお菓子の箱がきれいだったから、捨てるにしのびなく、そしたらたまたま、こういう、長い単語カードを見つけたんですよ。「これ、俳句書くのにええやん」というわけで。
上田 打ち合わせで天気さんちにくると、「最近こんなの作った」って見せてもらったのが、すごく楽しかったんですよ。要するに、俳句の物質化ですよね。俳句の一句一句を、モノにすることが面白い。
上田 俳句が、箱に入ってることが面白いじゃないですか。開けると、読める。
西原 ひとつしかないから、読者は、ひとりずつ。
神野 スペシャル感。
西原 あ、そうそう、句集をつくった理由、もう覚えてないけど、座談でなにか言わないといけないので、回答をつくったんだよ。
神野 おお、用意してくださったんですか(笑)。
西原 そうそう(笑)。ええっとね、自分に関して「週刊俳句をやってるひと」っていうイメージがだんだん強くなってきたみたいに感じていて、これはちょっと違うなと。句集を出したら「俳句もやってるんだ」ってのが分かってもらえるんじゃないかと。今から思えば、自分でバランスをとったということかもしれない。「週俳のひと」と「俳句を作るひと」のバランス。
江渡 なるほど。
西原 実際、「週俳で名前は知ってたけど、まとめて俳句を読んだのははじめて」というひとも多かったと思いますよ。あ、それで、ひとつ言っておきたいことがあって。
神野 何ですか?
西原 信治さんが、『けむり』の栞で「俳壇の人を一切ありがたがらない」人だって書いてくれたじゃないですか。これ読んだひとは、わたしが俳壇のひとを軽んじてるみたいに思うかもしれなくて、そうだと、なんかナマイキなやつじゃないですか。そうじゃなくて、俳句はありがたいし、俳人もありがたいんですよ。でも、俳壇には ありがたがる理由がない。
神野 なるほど。俳人や俳句と、俳壇とは違う。
西原 俳壇ってね、「壇」っていうくらいだから、上下がある。
神野 ヒエラルキー。
西原 まあ、2層だけ、ですけどね。壇上と観衆。たとえば、講演会やパネルディスカッションで登壇する可能性があるひとと、ないひとという区別はやはりあって、前者が俳壇、後者が観客。そう考えるとイメージしやすい。
上田 ふむふむ。
西原 それで実態としては、業界誌としての総合誌が、俳壇の形成に大きな役割を果たしてきた。協会かな、俳壇の太い柱は。
神野 業界誌としての総合誌と、協会の、二つ。
西原 俳壇ってなにするかっていったら、俳句が生まれてくる場所でもあるんだけど、広い意味での政治なわけでね。それはもう、ちっちゃいちっちゃい政治なんですが、それで成り立っている。
上田 はい。
西原 これは別に悪いことじゃなくて、俳句を生みだして供給するためには、政治って必要なんですよね。誰かがそれを担わなければいけないわけです。ところが、わたし自身は、政治にまったく興味がない。ってことで、俳壇には興味がない、ということなんです。
上田 もう、見ないようにしてますよね、天気さんは。視界の中の、俳壇の方向に、モザイクがかかってる。
西原 モザイクっていうと、「見せてはいけないもの」って感じ? エロ?(笑)。まあ、つまり関心がないんですよ。俳壇は必要だと思いますよ。俳壇がないというのは、無政府状態ということですから。それは現実として考えられない。俳壇必要だし、そこには政治がある。でも、関心がない。
上田 僕も、天気さんのスタンスに大いに共感します。でも、はじめから、それが見えないところで俳句をはじめてるわけでもない。天気さんよりも意図的に、俳壇というものをなしにしながら、《俳壇というものが存在する俳句》と関わるという方法を発明しようとしている、ということかもしれない。週刊俳句の場合は、まずは、でたらめに頼む、ということが一つですね。俳壇でのヒエラルキーを考慮しないで、ベテランにも、若手にも、一律に、ランダムに依頼する。
西原 ああ、そうですね。週刊俳句は、ランクつけないもんね。有名な俳人も、そうでないひとも同じところに並ぶ。今年の新年詠が、いい例だ。それは普通の俳句雑誌だと考えられない。
上田 そのひとが俳壇でどの立場にいても、それが見えないようなふりをしていますね。ほんとは、めっちゃ、緊張してますけど。
神野 それは、現在の俳壇の布陣を書き変えていきたい、っていう気持ちにつながるんじゃないですか。
上田 もちろん、そうですよ。僕は「だれもそんなにまじめに、俳壇の序列に従ってるわけじゃないでしょ?」ってことが、言いたい。だって、書き手が、みんな、俳壇の秩序に従ってるんだったら、「週刊俳句」には、書かないじゃないですか。でも、みなさん快く「10句お願いします」「いいですよ」って書いて下さること自体が、誰にとっても、要は「俳句があればいいじゃないですか」ってことで。
神野 そうですね。わたしたちにとって、「俳句をつくる」っていうのは、大前提として、ある。それプラスアルファ、なにをするのか。たとえば、「週刊俳句」をやったり「スピカ」をやったりしているのは、ある意味、奉仕活動みたいなところもありますよね。
上田 ありますね。まったくだよな。
神野 俳句のためにっていうと…
上田 くちはばったいよな。
神野 そう。でも、どこかでちょっと、信じてるところはあるかな…。
西原 それはあるでしょ。こないだ、ウラハイに「批評は公共」って書いたんだけど(夜中に冷蔵庫を開けたものの、何がしたかったのか忘れた、)みんなで楽しくなるために、なにかをするんですよ。有償無償にかかわらず。だから、公共の意味を欠いた批評は、すごく厭。たとえば、自分の立場を築いたり維持するための批評。党派的な思惑からくるもの。教義を守るだけの批評。それは公共のためじゃなくて、いわば私欲ですから。基本的に、俳句を読んだり書いたりするのはそうじゃなくて、公共。お互いのために、する。
上田 俳句は、非常に危うい、脆いものなので、ただ享受者であるという立場はありえないわけですよ。だから、俳句と関わる以上はどこかで、自分を、ひどくひとのいい立場に、置かざるを得ない。
神野 うん、公共ですよね。
上田 もらうだけ、っていう立場ではいられない。
西原 それって、俳壇うんぬんとは無関係でしょ。「俳壇のため」ではけっして、ない。
上田 そうです。自分の俳句の場を、楽しく気持ちよく、風通しよくする、ってこと。
西原 俳壇との関係ってのは、性分の話だよね。理屈じゃない。
上田 性分ですねえ。僕は、めんどうなことは見ない振りして、土足で踏み込んでいく、というスタンスです。それは、それなりにストレスフルなことでもあるんですけど、俳句と関わる時点で、自分は無限に人がいいのだ、ということを仮定して、俳句を始めてますから。それがもたなくなったら、リタイヤする。すごく人がいいことじゃないですか、俳句をするってことは。
西原 謎がとけました。なんで、上田さんが、ああまでして『俳コレ』を作ったのか。みんなに読ませて楽しい思いをしてほしい、ということなんですね。
上田 僕は、奥さんが漫画家で、ふだんは生業として大衆芸術というものに携わっているわけですけど、そこでも、じつは誰もが「自分は無限に人がいいのだ」ということを仮定して始めているわけです。お金のためとか、自分の優位性の証明のためにはじめるひとでも…たとえばボクサーとか、野球選手とかね、無茶苦茶ひとがいいですよ。自分がチャンピオンになれる!と思ってるから続けられるんだけど、実際には続けられない可能性も含めて、100対1の確率であるということを知りつつ、ジャンルに携わっているという、人のよさがある。で、めちゃくちゃ殴られる。世のため人のためじゃないですか。俳句も同じことでね、あのね、得しないですよ、俳句したって。あるいは、漫画描いたって。それは、あらゆる表現行為の根底にあることなんですけど、俳句の場合は、あまりに儲からないので、その根底が、非常に先鋭的にあらわになってる。こんなに儲からないことはない(笑)。でも、なんでやりたいの?ってことを、ごく初期の段階で自分に問いますよね。
西原 面白いから、だけじゃない。
神野 楽しければいい、だけじゃない。それなら「週刊俳句」なんて運営できない。
西原 たしか内田樹が言ってたと思うんだけど、道にゴミが落ちてたら、誰が拾ってもいいし、逆に誰かに拾う義務も決まりもない。そこで、義務とか決まりなんて考えずに、自分が拾うよってひとがたくさんいたら、そこは気持ちのいい社会になるという…うーん、ちょっと違うかな…でも、そういうひとたちじゃないと、こういう座談もしないし(笑)。
野口 なんというか、ありがとうございます(照)。
西原 「週刊俳句」もやらないわけですよ。俳壇での地位を築きたい、なんてひとは、こんなこと考えないし、週俳で地位を築くのは無理。
上田 むしろ、不利ですよね(笑)。
神野 なんだか、本当に、自分が、人のいい人間のような気がしてきました(笑)。いやあ、本当に、長い時間ありがとうございました。もっと聞きたいことはたくさんありますが、続きは「週刊俳句」で(笑)。
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