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『出雲と古代』〜八雲たつ出雲
イヅモという地名は、「八雲立つ出雲」といわれるように、美しく雲がわき出る姿から名付けられたというのが一般的である。
『古事記』のスサノヲの歌
「八雲立つ出雲八重垣つまごみに八重垣つくるその八重垣を」
も、スサノヲと櫛名田比売の新婚生活を雲がやさしく包んでことほぐという、いかにも雲の国イヅモらしい歌である。
「出雲」という文字の初見は持統天皇6年(692年)造像の鰐淵寺銅造聖観音立像の台座銘で、それ以前からイヅモに出雲の文字をあてていたのかどうか史料的にはまったく不明である。
イヅモとは雲にかかわりがあるのか、それとも単なる音の借字なのか。
このような疑問から、イヅモを雲以外の要素で解釈しようとする試みが古くからあった。
その代表的な解釈を列挙してみよう。
(1)夕つ方説
東方は朝日の上る朝つ方、西方は夕日の沈む夕つ方。朝つ方がアヅマとなり夕つ方がイヅモとなった。
(2)五面(いつも)説
面とは国土の一地域をあらわす。国引きによって造成された杵築、狭田、闇見、三穂の四国すなわち四面と、もともと存在した原出雲国をあわせると五面となる。
(3)アイヌ語説
島根半島の日本海側はリアス式の複雑な海岸であることから、アイヌ語のetu(岬)とmoi(湾)があわさったetu-moi(エツモイ)、あるいはetuとmui(曲がった場所)があわさったetu-mui(エツムイ)からイヅモとなっった。
(4)外国地名説
朝鮮半島東部の江原道にあった邪頭味(ヤタメ又はヤトメ)の住民が渡来し、故地の地名を渡来地に付けたが、それがイヅモ、エツモとなった。
(5)厳藻(いつも)説
出雲では古代から信仰の上で藻を神聖視するならわしがあった。
また『日本書記』崇神60年の条に豪族出雲振根と飯入根の兄弟が斐伊川の止屋淵(塩冶淵)で川藻を鑑賞したことがみえるから、斐伊川には美しい藻が生えていたことがわかる。
このように、神聖で美しい藻の生えている土地ということで厳藻とよばれた。
注目すべきは、出雲振根兄弟が藻を鑑賞した止屋淵と斐伊川をはさんで向かいあった地が古代の出雲郡出雲郷であって、イヅモの地名の発祥地と考えられることである。
従って厳藻説は上記(1)~(5)までの中で最も説得力がある。
しかし、美しい雲のわき出る土地、出雲という従来の考えを押さえることができるかどうか。
〜参考 しまね観光ナビ 出雲の語源より
【雲気文(雲の文様)】
中国で、戦国・漢時代にみられる文様で、空中に充満する気を表しています。
古代中国では雲気文は雲だとみなされてきましたが、初期のものは中央アジアのヘラ鹿等の角の形状に似ています。
古代では鹿の角はしばしば豊饒や再生のシンボルとみなされていました。
中国では雲気文として、前漢時代の馬王堆1号墓の絹織物の刺繍(死者の身体を包んでいた)が出土しているように、埋葬品リストには「乗雲綉」と記されいて、乗雲とは仙人になる事で(綉は刺繍)、復活再生観念と結びつけられていたようです。
つまり死者があの世に生まれ変わる(仙人になる)ことを助けるのが雲気文だった想像できるのです。
以前より出雲は大和の西にある、幽冥(黄泉)の地であり、土地神(祖霊、大国主)を祀る場所であると推測してきました。
そういう意味では、大和の中で葛城は、まさに出雲となるのですが、では、何故?『出雲』という名前になったのか、出雲とは何なのか調べていきましょう。
〜参考
中国古代の文様雲気文などがもつ復活再生観念の研究
〜猪目はハートの形の黄泉の穴【猪目洞窟(いのめどうくつ)】
島根県出雲市猪目
縄文から古墳時代にかけての埋葬や生活を物語る数々の遺物が発見された洞窟。「出雲國風土記」に記載のある黄泉の穴はこの洞窟だといわれます。
「猪目洞窟遺物包含層 (いのめどうくついぶつほうがんそう) 」の名で国史跡に指定されています。また、2017年4月28日には、日本遺産「日が沈む聖地出雲~神が創り出した地の夕日を巡る~」の構成文化財にも選定されています。
猪目洞窟は出雲国風土記に「夢にこの磯の窟の辺に至れば、必ず死ぬ。故、俗人古より今に至るまで、黄泉の坂、黄泉の穴と名づくるなり」と書かれ、夢で猪目洞窟を見た者は必ず死ぬ、ここは黄泉の穴であると記されている。
『出雲国風土記』出雲郡条の宇賀郷の項には黄泉の坂・黄泉の穴と呼ばれる洞窟の記載があり、「人不得 不知深浅也 夢至此磯窟之辺者必死」と記載されている。
この洞窟は出雲市猪目町にある「猪目洞窟」に比定されるのが通説である。
猪目洞窟は昭和23年(1948年)に発掘され、弥生時代から古墳時代にかけての人骨や副葬品が発見された。
〜神々の故郷山陰 より【宇賀郷(うかごう)の由来】
所造天下大神(大穴持命)が、神魂命の御子・綾門比女命(あやとひめ)に求婚したとき、女神は承諾せずに逃げ隠れた。そのときに大神がうかがい求めた所がこの郷である。
だから宇加(宇賀)という。脳磯(なづきのいそ)という磯は邑人(村人)が朝夕に往来している。また、木の枝は人が引き寄せたかのようである。
磯から西の方に6尺ばかりの窟戸(いわやど)があり、この窟の中に人は入ることができない。そのため奥行きの深さは不明である。夢でこの磯の窟のあたりに行くと必ず死ぬ。
だから土地の人は古より今に至るまで黄泉(よみ)の坂、黄泉の穴と呼ばれている。
*「猪の目」とは、形状そのままに「心臓型(ハート型)」とも呼ばれる文様のこと。
建物の「妻飾」の「懸魚」や錺金物の「六葉・八双」、巫女の持つ「神楽鈴」など、さまざまなところに見つけることができる。
「猪の目」をずらして重ねたものを「瓢箪猪の目」と呼び、合せて用いられることも多い。
因みに、中国の陰陽五行では、十二支の猪(亥)は「水」の属性に当たる。
また「瓢箪」も水の容器であることから、「火除け」のまじないに関わる文様と意識されていたものとも思える。「心臓型(ハート型)」がなぜ「猪の目」なのかに定説はない。
猪の眼の形というのは論外であろう。
ある説によれば、「猪目懸魚」の形自体が正面から見た猪の顔に見え、その眼にあたる部分が、たまたま意匠的に「心臓型」をしていたことに由来するという。
*『出雲と古代』の一〜六(前編)で、出雲の名前に関係しそうな幾つかのキーワードが出てきましたね。
雲と龍、龍と湖、湖と龍宮、龍宮と井戸、穴道と黄泉、猪と龍、猪目と黄泉。前編はここまでです。さて、出雲大社の天井画の雲気文と前漢時代の馬王堆1号墓の絹織物の刺繍「乗雲綉」の雲気文、それに雲夢大沢と夢で見る黄泉の入口、出雲国造の出雲臣広島の監修のもと、秋鹿郡(あいかのこおり)の人、神宅臣金太理(かんやけのおみかなたり)の手によって編纂された出雲国風土記は、さて、謎に包まれた本当の出雲を見せてくれるでしょうか。
〜荒神谷は三宝荒神(竈門神)
八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を
八というのは、この場合、方位を表していて、垣は土地の中であり、いろいろな場所から雲が昇る様子を『八雲立つ』と呼んでいるのだと考えられます。
または、いろいろな場所から水が湧き出す様子でもあるのかもしれません。
島根県の宍道湖は斐伊川や神門川の流れにより堆積した土砂により形成され(4000年前から2000年前にかけて)、その場所は神話で引き寄せられた北にある島根県半島の山々と南の山陰山地の間なんです。(自然の地形)
そこに出来た新たな大地は、スサノヲの歌に出てくる八雲立つ、まさに新しい(清々しい)『須賀』の地なのです。
ここでは、森林の伐採や鉱山開発により、豪雨災害で荒れた山や谷が崩れて、川によって再生された土地が出現するように、大地再生の土地神信仰が育まれ、そこに縄文時代から続く、人間の命の再生という願いが、土地神信仰へと込められていったのかもしれません。
新羅や朝鮮半島との往来があった日本海側の山陰では、大陸の文化が古くから入っていて、稲作や農耕とともに、治水、灌漑技術も伝わっていました。
古代中国では、雲の中にいる龍を神が天上と地上を往来する乗り物としいたり、または雨や水を自在に操る神そのものとしても尊ばれていました。
やがて龍は地上において、土龍や土帝、伝説の黄帝にもなり、四神の青龍のように天上の星神へと昇華していきます。
大和から見て西方に位置する出雲は、星が沈む場所(土中に潜る場所)であり、不慮の死を遂げた人々が、禍いをもたらす鬼神(荒御魂)ではなく、幸福をもたらす存在として、或いは再生する願いの象徴として、冥界の神大国主祭祀という、新たな出雲が神話と共に作られていったのかもしれません。
弥生時代の荒神谷遺跡は、宍道湖や斐伊川などによって堆積された平野を北に望み、遺跡の南側に『三宝荒神』が祀られている事から、荒神谷遺跡と命名されています。
翌昭和59年、谷あいの斜面を発掘調査したところ、358本の銅剣が出土しました。
銅剣の数は古代の暦の太陰暦の一年の日数に近く、出雲と深く関わるスサノヲが歳神(暦と方位)と習合しているのも不思議な一致となります。
しかし、大量の青銅器の埋納については諸説あり、いまだ多くの謎に包まれています。
1.祭祀説
雨乞い、収穫、地鎮など豊穣の祈りを大地に捧げる祭祀。
2.保管説
マツリの儀式の時に取り出して使用するため、普段は土中に保管した。
3.隠匿説
大切な宝である青銅器を、部外者から奪われないように隠した。
4.廃棄説
時代の変化により青銅器が不要になったため破棄された。
5.境界埋納説
共同体間の抗争の緊張から生まれた“境界意識”の反映。
2200年前に出雲(荒神谷)に半島や大陸から伝わった信仰の根源は、後の大和の三輪山祭祀へと繋がり、大国主を祀る地として、再び出雲の地に戻ってきます。
私は荒神谷の多くの銅剣や銅矛の埋納は弥生時代の『土地神鎮め』であり、現在でも続く地鎮祭の鎮めもの、相撲の土俵の鎮めものの源流ではかいかと推測しています。
つまり、土地神に武器を供え(土中に埋納する)、ここに人間と土地神との敵対関係が回避され、これは土地に住む人々にとって禍いを無くす重要な儀式であり、スサノヲと八岐大蛇、大国主(やちほこのかみ)が根の国に行く神話が、土地神との関係を表しているの考えられるのです。
出雲祭祀が古墳時代初期の大和の三輪山祭祀となって、土器や埴輪、塩造り、酒造りが土公神祭祀と結びつき、より明確に半島や大陸由来の竈門神や家宅神を祖霊(鬼神、土地神)と位置付け、倭国大乱後の中央の祭祀(卑弥呼の鬼道)となっていき、古墳の形成や葬送儀礼を作り、それを土台に神仙思想や中国の影響により陰陽を形成していくことになったのだと思われるのです。
初期の陰陽は新羅より渡来し、毎年の豊穣を方位神で占い、それらは幸せをもたらす来訪神という形で習俗的な儀礼となり、春秋去来の神は土地神や土公神と複雑に絡み合っていきます。
やがて奈良時代、仏教の隆盛とともに、多種多様の偽経の中に取り入れられた土公神や土地神、竈門神などは、堅牢地神にかわり、民間の習俗として、地神盲僧の竈門祓い、伎楽などの寺院行事、仮面の歳神、神楽や猿楽となり、それらは後世の日本の芸能や祭りの源流となっていったのです。
〜大国主はスサノヲ(歳神)に認められた土地神
一般的な地鎮祭は土地の四隅に青竹を立て、その間を注連縄で囲って祭場となし、斎主たる神職のもと、建設業者・設計者・施主らの参列の上で執り行う。
場合によっては、赤白の横断幕を張ったテントの中で行われる事もある。
祭場の中には木の台(案という)を備え、その中央に神籬(ひもろぎ、大榊に御幣・木綿を付けた物で、これに神を呼ぶ)を立てて祭壇(南向きまたは東向き)となし、米・酒・魚・野菜・塩・水等の供え物を供える。
また、関西などの特定の地方によっては伊勢神宮近隣の浜から砂または塩を取り寄せ、四隅に置く場合もある。
祭壇の左右に、青・黄・赤・白・黒の五色絹の幟に榊をつけた「真榊」を立てる場合もある。
この五色絹は五行説における天地万物を組成している5つの要素、つまり木・火・土・金・水を表している。
昔は『龍柱(祝い柱)』を建て、丑寅(北東、鬼門)と未申(西南)の方向にそれぞれ矢を立てて普請の安全を祈った。
日本以外では韓国や台湾でも地鎮祭に似たお祓いをすることがある。
出雲大社では、土地の最高神である大国主大神を仰ぎ、土地の平安堅固を祈る地鎮祭を「出雲屋敷」として、特別な神事を行う。
出雲大社の御土である「御神土」を屋敷に埋めることにより、大国主大神の御支配される屋敷となる。
そして、鬼門、たたり、方位、障りは無くなり、いよいよ繁栄するようになるという。
神事は出雲大社伝統の儀式法にて行う。
神語三唱や御神土埋納、四拍手など特殊性がある。
出雲屋敷後、年々多少の初穂を献納する出雲年貢を行う地域がある。
『出雲大社教布教師養成講習会』発行 出雲大社教教務本庁平成元年9月1日参考
八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに八重垣作る その八重垣を 〜素戔嗚命
八というのは、この場合、方位を表していて、垣は土地の中であり、いろいろな場所から雲が昇る様子を『八雲立つ』と呼んでいるのだと考えられます。
または、いろいろな場所から水が湧き出す様子でもあるのかもしれません。
また、スサノヲの歌となるとスサノヲと櫛名田比売を陰陽に見立てた中心を囲む歳神の八将神であり、中心のスサノヲと合わせて九星神、あるいは九天を意味しているのかもしれません。
島根県の宍道湖は斐伊川や神門川の流れにより堆積した土砂により形成され(4000年前から2000年前にかけて)、その場所は神話で引き寄せられた北にある島根県半島の山々と南の山陰山地の間なんです。(自然の地形)
そこに出来た新たな大地は、スサノヲの歌に出てくる八雲立つ、まさに新しい(清々しい)『須賀』の地なのです。
ここでは、森林の伐採や鉱山開発により、豪雨災害で荒れた山や谷が崩れて、川によって再生された土地が出現するように、大地再生の土地神信仰が育まれ、そこに縄文時代から続く、人間の命の再生という願いが、土地神信仰へと込められていったのかもしれません。
新羅や朝鮮半島との往来があった日本海側の山陰では、大陸の文化が古くから入っていて、稲作や農耕とともに、治水、灌漑技術も伝わっていました。
古代中国では、雲の中にいる龍を神が天上と地上を往来する乗り物としいたり、または雨や水を自在に操る神そのものとして、畏れと共にお尊ばれてもいました。
やがて龍は地上において、土龍や土帝、伝説の黄帝にもなり、四神の青龍のように天上の星神へと昇華していきます。
*おそらく出雲大社本殿の天井画の雲(黒黒)は龍が中にいることを暗示している。
また、古代出雲大社の社殿は、中古(平安時代)には16丈 (48m)、さらに上古(神代の後、平安より前)には32丈(およそ96m)であった、という伝承があり、実際に柱の遺構も出土しています。
神話では、大国主神は国譲りに応じる条件として、
「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」
大和から見て西方に位置する出雲は、星が沈む場所(土中に潜る場所)であり、不慮の死を遂げた人々が、禍いをもたらす鬼神(荒御魂)ではなく、幸福をもたらす存在として、或いは再生する願いの象徴として、冥界の神大国主祭祀という、新たな出雲が神話と共に作られていったのかもしれません。
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週末は札幌講演会。自分の講演テーマのメインは、やはり今のタイミングでもっともキーワードとなっている「出雲」でありました。
北海道と出雲。
一見、何も関係しないようで密接な繋がりのあるのが、この2つの地域。
出雲族、4500年の歴史を口伝にて継承してきた末裔の人々より、古代出雲人が、一体どこからやってきて、どんな歴史を辿ってきたのか明らかになりつつありますが、その中で、
「鼻の長い動物の住む国から来た」という伝承があります。
3500年以上も前、現在のインドの地で母系社会の平和な社会を築き上げていた出雲族は、ある頃より西北の地域から戦闘民族であるアーリア人がやってきて、インドの地を追われることになったそうです。
この時、インドにいた出雲族は、古代インド先住民のドラヴィダ族であり、彼らの使っていた古代タミル語は、日本語の原点と言われていることから、ドラヴィダ族が日本にやってきたことが言語学者や民俗学者からも注目されていましたが、それが出雲族の源流とは知られていませんでした。
インドを追われたドラヴィダ族、古代出雲人は、次に向かった先はモンゴルであり、やがてモンゴルから樺太を経由して、北海道へ上陸したという伝承があります。
インド、モンゴル、北海道。これが古代出雲人の足跡ですが、偶然にも自分は今年2月にインド、5月にモンゴル、そして6月に北海道と、順番も含めて完全に出雲を辿っており、そのシンクロ性からも出雲の話題を北海道で話そうと思いました。
古代出雲人は、北海道から津軽半島へ移動し、そこから日本海を渡って出雲までやってきたと言われています。
そのため、津軽弁と出雲の方言は重なる部分があり、出雲の言葉の源流は津軽になるとも言われています。
やがて、出雲から東へ陸の勢力を広げ、朝鮮から渡来したスサノオの時代には、京都上賀茂に都をつくり、三輪山を中心としたヤマトの地を治めていました。
このスサノオの時代は、いまから3500年前。
ここから大和朝廷にバトンタッチした後の現代に繋がるまでの「象徴天皇の仕組み」が始まったと言われています。
ピラミッド型の王権社会、そして男性性の社会のはじまり。
いまは、新しい時代の切り替わりの節目。それは、これらのピラミッド型や男性性社会の終焉であり、来年以降の日本社会の大きな変革は、その流れにも関係していることをお伝えしました。
その中で、これから古い時代のシステムも崩れ、そこに現在の金融市場も巻き込まれて崩壊すると、世界的な食糧危機が引き起こる可能性もあり、その時に日本の中で北海道が食料庫として非常に大事な位置となるとも。
日本は世界の雛形。世界大陸を集約すると日本列島になり、日本で起こることは世界で起こり、世界で起こったことは日本で起こる。
日本雛形論の中においては、北海道は北米大陸(逆さ)。
カナダ、メキシコ、アメリカと北海道はリンクしており、特にアメリカとは
・ もともと先住民(インディアン、アイヌ)の土地に開拓民がやったきた
・ 北海道150年の歴史、アメリカも250年の歴史と短い
・ カナダも最近になって大麻解禁となったように、北米は大麻の産地、北海道も自生大麻の産地
などなど、シンクロする部分が多くあります。
北米を逆さにすると、北海道大陸と似ているようで、湖や川、山の位置も雛形となっており、また都市の部分で照らし合わせると、札幌にあたるのは、アメリカのワシントンD.Cとなるようです。
そして、世界最大の金融都市であるウォール街のニューヨークとリンクするのは、北海道の金融都市だった「北のウォール街」の名称を持つ小樽。
これまでの旧時代、世界のリーダー国として牽引してきたアメリカと北海道はシンクロしており、それだけ北海道は重要なポジションになると思います。
20世紀最大の霊能者、出口王仁三郎氏は、この世界を治めている艮の金神という大神は、日本列島の丑寅である北海道(富良野の芦別岳)に鎮座しているといいます。
札幌はまた、北緯43度の通称「発酵ライン」と呼ばれるスポット。
ビールの名所だけでなく、ブルガリア、カスピ海などヨーグルトなどの発酵産地でもあり、微生物が活性化するエネルギー磁場をもっているのが、北緯43度のようです。
さらに発酵だけでなく、南フランスのルルドの泉であったり、聖地と呼ばれる場所もまた、北緯43度に多くあるので、そういった面からも北海道、札幌などは重要な役割を持ったエリアだと思っています。
札幌を中心とした、北海道全体が、これからの新時代に向けて、住まう人々の意識も上がり、地域づくりとしても良いものが出来上がってくると、世界にも反映されて、大きく影響を与えるように思っています。
八ヶ岳はまた、ミニ北海道のようにシンクロするポイントがいくつもありますが、八ヶ岳で雛形の雛形作りが進んだら、次は北海道にも人々が集う拠点、コミュニティやドームハウスなどを普及させていく計画があります。
これからも度々、北海道には訪れて講演会や何か活動をはじめていこうと思いますので、今回参加された方々も、参加できなかった方々も、また次の機会にご一緒できればと思います。(天下泰平「新時代の雛形となる北海道」より)
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