俳句の風土性にふれて

https://1gen.jp/GDOH/KOKUTAI/KOKUTAI/42.HTM 【風土と國民性】より

山鹿素行は、中朝事實に「中國の水土は萬邦に卓爾し、人物は八紘に清秀なり」と述べてゐるが、まことに我が國の風土は、温和なる氣候、秀麗なる山川に惠まれ、春花秋葉、四季折々の景色は變化に富み、大八洲國は當初より日本人にとつて快い生活地帶であり、「浦安の國」と呼ばれてゐた。併しながら時々起る自然の災禍は、國民生活を脅すがごとき猛威をふるふこともあるが、それによつて國民が自然を恐れ、自然の前に威壓せられるが如きことはない。災禍は却つて不撓不屈の心を鍛練する機會となり、更生の力を喚起し、一層國土との親しみを増し、それと一體の念を彌々強くする。西洋神話に見られるが如き自然との鬪爭は、我が國の語事かたりごとには見られず、この國土は、日本人にとつてはまことに生活の樂土である。「やまと」が漢字で大和と書かれたことも蓋し偶然ではない。

頼三陽の作として人口に膾炙せる今樣に、 花より明くるみ吉野の 春の曙見わたせば

もろこし人も高麗人も 大和心になりぬべし

とあるのは、我が美しき風土が大和心を育み養つてゐることを示したものである。又本居宣長がこの「敷島の大和心」を歌つて、「朝日に匂ふ山櫻花」といつてゐるのを見ても、如何に日本的情操が日本の風土と結びついてゐるかが知られよう。更に藤田東湖の正氣の歌には、

天地正大の氣、粹然として神州に鍾あつまる

秀でては不二の嶽となり、巍巍として千秋に聳え

注いでは大瀛えいの水となり、洋々として八州を環る

發しては萬朶の櫻となり、衆芳與に儔たぐひし難し

とあつて、國土草木が我が精神とその美を競ふ有樣が詠まれてゐる。


https://www.kogumaza.jp/oni%20hyu01.html 【俳句の風土性にふれて  佐藤鬼房】 

 このあいだ新進女流、中尾寿美子の句集『あまぬま』を読んだとき、そのなかの

  冬森は風のこもり場昏るるべし

という句にひどく感心した。私はこの句を心に刻みながら日本の詩歌の伝統というか、そうした土壌のようなものが含まれているように思ったのである。勿論、非力な私には、詩歌の伝統、その底流の何であるかを正しく掴み得ない。いわば漠然とした感じなんだけれど、その漠然としたなかにある像を私は努めて壊さぬよう、この句を味わい続けて来た。

 この句はやや暗い翳を曳く心象風景なのだけれども、オリジナルな作者の手をはなれ、日

本詩歌の一典型としてここに在るものの如くである。つまり極言すれば、Aの作であっても、

Bの作であっても、あるいは佐藤鬼房の作であっても構わぬほど、個人を越えたところでこの

句は人間共通の精神構造をもっている。ひとは詠嘆と見るだろうし、あるいは独語のそれで

あると見るかも知れぬこの句(事実その通りなのだが)の発想内容に、私は日本の伝統のな

かで培われ濾過されて来た思想・観念を感じるのだ。

 私たちは人間の生活(社会・経済・思想etc・)をいうとき、風土というものを切りはなしては考えられない。大雑把にいって日本というとき、日本的という場合、それは風土と同義に用いられる。気象条件から日本をモンスーン的風土といったのも、地理的条件から島国といわれるのも、通俗的ではあれ当を得ている筈である。そして風土というものは、人間の居る限り

歴史的な時間性が関わってあるものだ。卑近な例を引こう。          

  夏草や兵(つはもの)どもがゆめの跡   芭蕉

 テキストは山本健吉の『芭蕉』。平泉での作。誰でも気づくことは、平泉という土地が単に

空間的実態としてそこにあるのではなくて、さまざまな歴史的性質がそれに交錯(というより

融合)し影響しあっていることだ。

 さきにあげた中尾の「冬森」は、厳密には「夏草や」の作と分けて考えるべきかも知れぬ。

 しかしながら、私は何故か強く「風土」ということと関わりなしには味わえないのだ。つまり私にとって「風土」というのは、人間の生成する地盤のあらゆるものを指したいからなのだ

ろう。従って「精神風土」もまた、私の「風土」に当然入ってくるわけである。「冬森」の句が精神風土を指すに好例の作だが、決して私はそれを強引にいうつもりもない。この句には

強いてそれをいわなくとも、日本風土の特徴が明確に出ている。シベリアの冬森でもない、

フランスの冬森でもないのだ。それは「風のこもり場昏るるべし」という、暗い抱擁感と肯定

の度合がひどく日本的だからなのである。

 現代俳句に風土性が喪われているか果してそうであろうか。

 私は終戦一年を経て焦土の日本に還ってきた。目にふれるものは外国の軍隊、闇屋、まさしく植民地である。しかしこの時期ほど強烈に風土というものを身にしみて感じたことはなかった。風土は祖国につながり愛国につながるからだと簡単にはいい切れまい。芭蕉の「夏草や」と同様、喪われたもの、喪われゆくものに対する強い感情というのが妥当であろう。

  夏草に糞るここに家建てんか     鬼房

という当時の句は、作の良否は別として、風土に対するぎりぎりの(生理的ではあるが)執

着心をいっている筈である。

 私たちは長崎といえば異国情緒、東京といえばスモッグ、マンモスなどというが、やはり

東京は東京の、長崎は長崎の特徴をいう場合、それは日本の風土ということで解明すべきであろう。徒らに特殊なことがらをあげでも、普遍的な照明度をもたなければ通り一ぺんの通俗さで忘れられてしまうものだ。幸いにして「俳句」二月号は「日本の風土」(青森県の場合)を特集している。日時がなくてざっと読んだ感じであるけれども、ここに盛られた発言(記事)は、単に青森県ばかりでなしにどの地方にも通じる重要な発言がなされていて、私はこれが大変有難かった。俳句の場合に限らず、どうも風土風土というと郷土の袋小路に入ってしまい、完全に特殊化して文学から程遠いものになってしまう例が多い。「方言」を俳句のなかにとり入れることもその例であるが、つまりはそうした特殊な内容によりかかることなど、俳句の風土性とは別個に考えた方がよいように思う。

 俳句も風土や歴史を除外しては考えられないことはさきにも書いたが、俳句の形式の特性として時間的な叙述性を拒否する。従って歴史的地盤を含むものが背後におしやられ、自然的地盤としての風土のみが表面に立つわけだ。これはこれとして地理的な(自然の)風土が詠われることに異論はないのだが、私はもっと歴史的、人間的地盤のからみあう風土が詠われていいわけだと思うし、俳句の形態に即して歴史的な時間性を収縮し形象すれば、風土が空間的に時間的に有機的な働きをもってくる筈である。旧作になるが

   会津の山々雲揚げ雲つけ稲田の民    兜太

 の句の「会津の山々」は空間的なものである。それが「稲田の民」ということで上五が風

土性をもち、中七の言葉によって健康な風土性がうかがえるわけである。

   罌粟よりあらわ少年を死に強いた時期   兜太

 は「飯盛山」の前書のある句で、この句は歴史的叙述に傾いたところで「風土」を詠ってい

るわけである。なによりも作者の精神風土というものにひきつけて叙べられているのを知るのである。更に附言すれば、この句には作者の抵抗の姿勢があり、風土は順応の形でばかり詠われるものでないということだ。そして

   華麗な墓原女陰あらわ に村眠り      兜太

 の「長崎」の句になると、作者の暗鬱な精神史を背景としてすごく「怠惰な風土」が横たわ

っているのである。

  わずかな引例では俳句の風土性を適切に言い得ないが、おそらく編集部の要望は、こん

なところにあったのではないだろう。「風土」とは、その土地にすみついた作家たち(とくに地方俳人)がその土地土地の風物をもっと作者の身にひきつけて生きた現実として(つまり

風土ということになる…のだが)捉えること、そういう努力に欠けているようなのでー現代俳

句に喪われている風土性について-考えて見なさい、ということなのだと思う。

  いわゆる前衛論議のあとをうけて、ということにもなろうが、私はごく少数の国籍喪失の前衛俳句を除いては、殆んど、風土俳句と無縁ではないと思っている。むしろ、審美的な場から自然観照の句を作り、旅吟を事とする俳句のなかに、風土の厳しさやときには不可解なもの

(煮ても焼いても食えないやつだ) を避けて通るか、それを現象的に捉えることですまし

てしまうような、そうした立入り不十分な弱きが認められる。俳句は認識の詩だという。芭蕉

などその第一にあげられるわけだが、芭蕉の句での旅吟に、芭蕉の皮膚感覚だけで終った

句があるだろうか。

 私は風土をいうとき、必ずしもその土地にすむもののみが俳句の「風土性」を特権のように

ふるまうのは当らぬと思う。俳人の取材旅行大いによろしいのである。吉野を詠いたくてはる

ばる東北から私が出かけて行ったとしても、それは大いによろこばしいことではないか。

非難する何ものもないわけである。非難するとすれば、その取材旅行がどのような発想契機

にもとづくものか、その成果が、出来の良否とは関わりなく、吉野という風土(歴史的に、そして自然的に)が私のなかでどのように再現されたかによってなさるべきだろう。

   風土を日本にだけ限定したけれど、例えば  

  風圧の薙き゜跡 飛沫化した白蝶     堀 葦男

  生(せい)噛みしめる海辺の卓 癒着いろの乾果

 の「メキシコ西海岸」と題する作などは、よくメキシコの風土を詠いあげていると思う。

異国情緒などという観光に解消されるような句ではあるまい。特に後者は、作者の人間性

がきびしく裏うちされているのを感知する。

 〝北辺の風土に探る〃座談会のなかで、例えば村上しゆらは「今日の社会と結びつい

たものだとするためには〝えんつこ〃の把握を作家の資質の問題として考えることが三、

もう一つは〝えんつこ〃が自分のようにこの孟呈着してきた人間の精神、思想の形成に、

抜きさしならぬ柱となっているという実体を知ること、これは俳人である前の北方の〝にん

げん〃の問題だと思う」と述べ、「〝やませ〟を気象学的に考えるんではなくて、〝やませ〃

は〝病ませ〃であ。病ませ倒し″であった何書かのこの遠の条件が、この遠の人間が

それに耐えて、生きぬいてゆくための智恵というか精神を構成してきた、これは否定出来

ないことなんです」という。私はこの具体的な座談に大いに共感したのであるが、さて村

上の作品はどうなのか。

   えんぶりやてんびりがねの総(ふさ)踊り                         

   じゃんぎ切に雪のえんぶりの摺りこみぬ                     

   えんぶりの逸(はぐ)れ大黒舞ひて寒し              

   おしら神遊ばす雪解(ゆきげ)風亢りぬ

   おしら神背山雪崩るるかもしれず

 という風に「えんぶり」なら「えんぶり」の情景叙述に終っていることがいえるのだ。「てんびりがね」「じゃんぎ」などはどういうものか判ったにしても、これらの句は、「えんぶり」の動作を詠ったにすぎず、若しこの句の背後に何かがあるのだとすれば、さきに村上が座談会でのべた、例えば、「病ませ」「病ませ倒し」の歴史的事情を「やませ」に背負いこませて詠っているようなもので、「えんぶり」というものに作者はすっぽりとよりかかっているのではないか。

第五句日の下五は類型的な弱さはあるが、それでもここには作者の「おしら神」に対する感

情が出ているわけだ。やはり、風土をいかにうけとめるか(感受)の作者との相互関係、そう

いうものがなければ流れてしまう。

 「取材旅行」のようなものに批判的であるのは、一つには俳句が私小説的な身辺詠である

とする見方からすればうなずけないこともないではないが、もっと諷詠基盤を強靭にして、

風土というものに対決しなければならないだろう。そういう意味で、村上しゆらが更に加えて「〝私小説的な俳句〟から社会性のある視点に立たざるを得ない」と言っているのは一歩をす

すめた言葉である。風土は自然観照的にばかりあるのではなく、また、それに限定されたも

のでないことは幾度も述べた。行事の如きは特にそれがいえる。そして「えんぶり」なら「えんぶり」が、封建的であろうと近代的であろうと、庶民の底辺を流れる無形の精神史というか、たとえ風習習俗のたぐいにしろ日本人民の思想のどこかに共通して生存してゆく。風土に対する考えが民族の意識として高揚され、風土と民族のあり方が、=標に進んでゆくにしても

だ。それが歴史というものであろう。

 風土を歴史的にとらえるということは、人間の悲願であるといってよい。俳句の取材旅行

が非難されるのは、多くは現象描写に止って人間悲願の陰翳を描き得ない場合なのではないか。

   奥嶺奥嶺へ雪降るやうな繭組む音    加藤知世子

   泉奏づ留守の農家に乳児ねむり 

 など地名など何処でもかまわぬといっていいくらい、日本共通の風土を負っている。、決して特殊な場所へ逃げ込んでいない。そしてリアルなのである(因みにこの句は山形での作であ

る)。

  私は数年前、古沢太穂   子も手うつ冬夜北ぐにの魚とる歌

 について次のように書いた。「ここには日本の風土がある。雪にとざされた下積みの人間の

希望があり生命がある。この句に底流する哀歓は抒情のそれであるが古いあいまいな抒

情の弱さとは質のちがうものである。新潟に旅して小池露星を見舞った句に、〝砂丘沈みゆ

き曇る日のハンチング″というのがあるけれども、こうした小さな身辺的なかかわ。あいをう

たいながらも古沢の感情は病露星だけの交渉に終ることなしに、その状況交錯が非常な幅

をもって、つま。普遍的なひろが。をもって日本の日当らぬ風土と人間の所在を描いてあます

ところがない」 と。いまはこの旧文をもって、しどろもどろな感想の結びとしたい。

私の心のなかには常に山河が住んでいる。私は 「私の風土記」を綴ってゆこう

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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