グリーフケア

https://moonsault.net/ 【鎌田東二オフィシャルサイト】


https://news.yahoo.co.jp/articles/2f5abb27d2a7d40faa0cd9b7a122235598c68338?page=1 【鎌田東二「宗教哲学者がステージ4の大腸がんと診断され。告知後にライブでシャウトし、比叡山でバク転も。死が怖くても、心穏やかに受け入れらる理由」】より

「当時の私に、死や病を恐れる気持ちはありませんでした。ただ目の前のすべてを見ていただけです。」(撮影:藤澤靖子)

死を意識せざるをえなくなったとき、人はその衝撃とどう向き合えばよいのだろうか。宗教哲学者である鎌田東二さんは、今年2月、大腸がんと告知された。悔いなく生きるための方策や死生観について、体験的アドバイスを聞いた(構成=菊池亜希子 撮影=藤澤靖子)

【写真】比叡山でバク転中!?バク転して祈る鎌田さん

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◆根源的な痛みをどうケアするか

まず、私が研究してきた「グリーフケア」についてお話ししましょう。人は生きていると、ときにどうしようもない喪失感に搦(から)めとられることがあります。家族や愛する人、仕事やモノ、生きがいなど大切な何かを失ったことで溢れ出る苦痛をグリーフ(悲嘆)といい、そうした人間の根源的な痛みに向き合う手助けをグリーフケアと呼んでいます。

たとえば、愛する人の死。子どもを失った親御さんは悲嘆のあまり、生きていく意味すら見失ってしまう。自然の摂理に従い、親の死ならばまだ受け入れられても、子どもの死は理不尽に感じ、広がるのは圧倒的な喪失感だけ。ただ、そういった苦痛をケアすることができるのかというと、できないのです。

では、どうしたらよいのか。「doing(ケアすること)」はできなくても、「being(そこにいること)」はできる。日本語にすると、「寄り添う」になりますが、その一言で表せるほど簡単なことではありません。何かをするのでなく、ただそばにいて痛みや苦しみを受け止める。「beingwith」のイメージです。

グリーフケアは、英国の看護師であり医師のシシリー・ソンダースやアメリカの精神科医キューブラー・ロスらによって提唱され、1960年代に病院の臨床現場から始まりました。治療や看取りには、医療行為だけでなく、悲しみや精神的苦痛に特化したケアが不可欠との考え方が広まったのです。

私がグリーフケアに関わるようになった素地は、生い立ちにあるかもしれません。幼い頃、私は実家の離れに祖父と祖母と3人で暮らしていました。祖父は私が小学生になる前に脳溢血で倒れ、半身不随の寝たきり状態。祖母は乳がんの治療を拒否していたので、乳房が少しずつがんに侵されていくのです。母が毎日、黒ずんでえぐれていく祖母の乳房を消毒しにきていました。

祖父は脳溢血の後遺症で言葉を話すことができなかったけれど、目を合わせると何となくわかるんです。あ、腰をさすってほしいんだな、と。で、さすってあげると、とても気持ちよさそうな表情をする。

当時の私に、死や病を恐れる気持ちはありませんでした。ただ目の前のすべてを見ていただけです。後に、グリーフケアを理論的、臨床的に学ぶわけですが、その根幹は、人が死へ向かう一瞬一瞬をつぶさに見てきた子ども時代にあると思います。

◆「死にゆくプロセス」を自分にあてはめてみた

鎌田さんの体調に異変が起きたのは2022年10月末。食後、胃が膨らみゴロゴロと音が鳴るようになった。いくつかの病院をまわり、胃カメラ検査を受けるも異常なし、腫瘍マーカー値も正常。大腸がんとわかったのは2ヵ月後の12月半ばだった。

――腹部CTスキャンで、大腸の一部である上行結腸の出発点にがんが見つかりました。その時点ではステージ2か3とのことで、今年1月に腹腔鏡手術で上行結腸を50センチ切除。術後、合併症のため1ヵ月間入院して、2月初旬にようやく退院しました。しかし翌週のPET検査で、肺に1つ、肝臓に7つ、リンパ節にも1つ転移が見つかって、ステージ4の大腸がんと告知されたのです。

ステージ4と聞いても、なぜか私の心は穏やか。キューブラー・ロスが提唱した「死にゆくプロセス」によると、死期が迫ることを知ったとき、人は「否認」「怒り」「取引」「抑うつ」「受容」を順にたどるとされますが、私の場合、一気に「受容」した感じです。否認も怒りもなく、湧き上がった感情は、ただ「感謝」でした。

なぜでしょうね。不調の原因がわかってスッキリしたこともあるでしょう。幼少期に死を間近に見てきたことや、若き日にバイク事故など命を落としてもおかしくない出来事に複数回遭遇しながら助かってきた経験もあって、「いま生きているだけで、ありがたい」と心底思っていたからかもしれません。

そもそも私は、病を敵と思っていないのです。がんは私のなかで生まれた私自身の一部。手術前は、「がん君、つらい思いさせてごめんね」などと謝ったり、切除するときは少し寂しかったほど(笑)。この一連の気持ちを、私は「複雑性感謝」と称しています。

人生の残り時間を意識してからは、詩とライブにいっそう打ち込んでいます。私の生きる証しの1つが詩作です。10代で詩に目覚めて以来、心の「裂け目」から言葉がほとばしります。70歳になったのを機に「吟遊詩人」を名乗り、全国ライブをはじめました。そしてそれが、第7詩集であり、入退院詩集でもある『いのちの帰趨』になりました。

腸閉塞の危険性があるので安静にするよう医師に言われましたが、がんの告知2日後には、予定していた東京でのライブを決行。仲間のバンド演奏をバックに、自分の詩をシャウトしました。内容は、宗教哲学から愛猫チビの追悼ソングまでさまざま。これだけは死んでもいいから、なんとしてもやり遂げたかったのです。

もう1つ、比叡山に登ることも、私にとって生きることそのもの。山裾にある自宅から比叡山に登るようになったのは、06年。以来、1人で864回登りました。往復4時間ほどかかります。毎回、山頂で「天・地・人」に向かって3回バク転して祈るのですが、さすがに退院3日後の初のバク転は、思うようにできませんでした。(笑)

現在、抗がん剤治療7クール目で、手足、唇のしびれ、顔面硬直など、抗がん剤の副作用は続いています。医師には「無理しないように」と言われますが、無理はしていません。がん遊詩人としてのライブも比叡山も私にとっては治療であり、セルフケア。つまり、私は自分がやりたいことをやり、それまでと変わらない生活を続けています。

1月の手術後、麻酔から覚めてすぐ、傍らにいた妻の手をとって、「愛してるよ」と言いました。目が覚めたらいちばんに言おうと決めていたんです。その場には医師も看護師も数人いて、みんな笑っていました。このとき妻は、主治医から転移がありそうだと告げられたばかりで、「愛してるよ」どころじゃなかったらしい。

その後も抗がん剤治療を受けながら音楽活動や登山をしていて、私がまったく気落ちしていないことは感じるのでしょう。「この人、へこたれないな」と思っているようです。

じつは、今後5年間の生存計画表をつくりました。何年何月に何の本を出版、とかね。動けるうちに自分のやりたいことをしたい。もちろん妻にも見せています。そんな生き方を見せれば、「ずいぶん楽しそうだね」と家族に安心してもらえると思うのです。

◆家族で気軽に死について語り合おう

家族の死が悲しいのは、「愛着」があるからで、それも自然なこと。そういった悲しみや負の感情を手放すには、死をタブー視せず、日頃から自分の死生観について家族で気軽に話し合うとよいと思います。

日本人は比較的、そういう話題を避けがちですが、私は臆面なく正面切って家族と話すんです。私の葬儀の段取りとか、「葬儀はおもしろおかしくやってね」とか。(笑)「死んだら生まれ変わりがあるかどうか」など、意見を交わし合うのもいいと思います。仮に生まれ変わらなくても、遺伝子を含む生命のリレーが未来につながる、などと想像し合ったり。

世界中のほとんどの宗教が、来世、つまり、死んだ先に世界がある――「死んだら終わり、ではない」としています。信仰は心の平安に作用するので、死の不安を解消できる。

また、日本には、四季を織りなす風土ならではの死生観や、『古事記』『日本書紀』に描かれ、神話として受け継がれてきた、特有の生と死への思想もあります。自然や八百万の神々を祀ったり、神社仏閣で祈ったりする行為の役割も大きい。いっぽうで無宗教の人でも、それぞれのやり方で心の平穏を得ることは可能です。

「老い」も死へ向かう過程ですから、歳をとることを嫌なものと感じている人もいるでしょう。私が尊敬する宗教哲学者・上田閑照(かんしょう)さんの言葉に、「誰のなかにも〈表の子ども〉と〈裏の子ども〉がいる。〈表の子ども〉は歳をとって衰えていくが、〈裏の子ども〉は歳をとらない」というものがあります。

私も72歳、表は白髪になり、皺が増え、抗がん剤の影響で毛も抜けましたが、どんなに歳をとってもまったく変わらないもの――私の場合は詩をつくる喜びが、自分のなかに確かにある。人はみな、そういうものを必ず持っているのです。

大切なのは、自分のなかの子どものままの自分(裏の子ども)をちゃんと見つめているか。〈裏の子ども〉が生き生きと活動し始めると、それこそが等身大の自分。〈裏の子ども〉が生き生きしていると、老いても心はみずみずしくお茶目でいられます。

人生の苦難は、視点を変えるきっかけになりうるし、視点が変われば楽しめるのです。

◆死の恐怖を和らげる力

死は、納得できるものではない。だからこそ死を意識せざるをえなくなったとき、もし隣で手を握っていてくれる人がいたら、その安心感は最期まで力になるでしょう。

しかし、いまの日本は多死社会であり、無縁社会。おひとりさまも増えて、死の間際に手を握ってくれる人がいない状況が増えてきました。私は、日本臨床宗教師会会長も務めていますが、家族のいない人も、他人に看取られて安心して死ねる社会にしていく必要があると考えています。「同行二人」(お遍路さんに弘法大師が寄り添っている関係)の意識で、これからは社会や地域で看取る体制が重要になると思います。

「臨床宗教師」の活動は、11年、東日本大震災で被災して亡くなった方々の供養と遺族ケアを目的に、東北大学で始まりました。布教や伝道を目的とするのではなく、遺族の心に寄り添い、ひたすら声を聴きます。宗教宗派を超えて活動していて、現在、全国に200人以上。被災地や医療施設、福祉施設などで活動しています。

グリーフケアの観点からいうと、命の最終段階に必要なのは、医療ではなく、「介護、看護、そして宗教的な関わり」の3つ。ここでいう宗教とは、不安を取り去り、心を平穏へ導く方法と考えてください。死に向かう最後の瞬間に、執着やわだかまりを誰かに話すことができたら、ふっとラクになれる。

自分の話をちゃんと聞いてくれる存在がいたら、ただそれだけで安心できることもあります。ケアする側は、相手から出てくる言葉を待って、ただ受け止める。人と人の関係のなかでだけ、ほどけていくものが確かにあるのです。

かくいう私も、死がまったく怖くないわけではありません。死の恐怖の正体は、自分が消えること、つまり自我が消滅することへの恐れだと思います。

恐怖や不安は消さなくていい。死はすべての人に必ず訪れますし、決して特別なことではありません。古今東西の古典にもあるように、人は生死の意味を問い続けています。自分なりに問い続け、深く考えることで、見えてくるものもあるはず。命には、そんな力も秘められているのです。

私にとって、死を受け入れるということは、「お任せする」という感覚。言い換えると、自分の命に感謝して、手放すイメージです。私の場合は神仏習合ですが、お任せする先は、仏でも神でも自然でも大いなる何かでもいい。この先どれくらい生きられるかわかりませんが、私はすべてのことに「ありがとう」と感謝の言葉を述べて旅立ちたいと思っています。

(構成=菊池亜希子、撮影=藤澤靖子)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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