https://gomuhouchi.com/serialization/32634/ 【親と子の心をつなぐ〈ことばの卵〉――オノマトペのちから その1】より
出版ジャーナリスト 原山建郎
今週末(1月29日)に予定していた「子育て講座」(東京都・下里しおん保育園)が、二回目の緊急事態宣言を受けて急遽中止(無期延期)となった。タイトルは『親と子の心をつなぐ〈ことばの卵〉――オノマトペのちから』だが、それは親(父母)と子(幼児)だけでなく、かつて「子ども」だった私たちにとっても重要なテーマなので、かつては子どもだった大人にもそのアウトラインを紹介してみたい。
オノマトペとは、古代ギリシア語のオノマトポイーア(言葉をつくる)を語源にもつフランス語で、日本語では擬声(音)語・擬態語と訳される。おもに自然界にある音や声などを描写した擬声(音)語(ザアザア、ジャブジャブなど)や、あるいはその状態や動作などを音によって表現した擬態語(ぱらぱら、きらきらなど)のことで、それは幼児たちが初めて耳に届いた音(声)や眼で映る動きなどを、身近な大人たちが表現するオノマトペを繰り返し聞きながら、新生児のクーイング(「あうー」、「おぉー」など一音節の母音発声)期から、多音節の「ばぶばぶ」「あうあう」などの喃語(なんご)期をへて、母子の会話が始まる幼児語をかたちづくる〈ことばの卵〉たちである。
このころ(新生児・幼児期)の子どもは、大人にはわからないことばを話すことが多いが、それはかつての私たち大人も話していたはずのいわば宇宙語である。長編アニメ映画『となりのトトロ』では、草壁一家のサツキ・メイ姉妹が「子どものときにしか会えない(※大人になるとその姿が見えなくなる)」森の主・大トトロ、中トトロ、小トトロたちとの交流が描かれているが、親と子の心をつなぐ〈ことばの卵〉――オノマトペを理解することができれば、かつて子どもだった大人たちが「トトロ(不思議な生きもの)」と出会うための「親と子の心をつなぐ」共通語としての役割を果たすものであろう。
十年ほど前、武蔵野大学の授業(キャリア開発セミナー)で、出席カードの裏に「イメージのボキャブラリーを豊かにする」ために、学生たちがよく使う擬声語・擬態語を書かせていた。ある日、「水の音」「風の音」を書き出すように指示したところ、次のような「音」たちが集まった。動きや状態などの擬態語は「ひらがな」で、音や声を示す擬声語は「カタカナ」で書かれることが多かった。
「水の音」(擬声語・擬態語)
★ブクブク、ジョボジョボ、ドボドボ、ゴボゴボ、←排水口に吸い込まれる・あふれる音。
☆さらさら、チョロチョロ、ドォー、ドゥドゥ、ドドドッザーッ、ザァーッ、ザアザア、ジャージャー、ゴウゴウ←水の流れる音・動きの表現。
□ぽたぽた、ボタボタ、ポッチャン、ぽつぽつ←水が滴り落ちる音、滴り落ちる動きの表現。
◇チャプチャプ、パシャパシャ、パシャ、バシャッ、チャップン、←水(水滴)が跳ねる音。
○ポツポツ、しとしと、ピチャピチャ、ぱらぱら←雨が降る音・動きの表現。
◎ひたひた、タプタプ、ジャブジャブ←溜まった水の音・動きの表現。
「風の音」(擬声語・擬態語)
★そよそよ、さわさわ、ザワワ、ザワザワ、カサコソ←草葉を揺らす音や葉擦れの音・風の動きの表現。
☆ゴーッ、ヒューヒュー、ビュービュー、ピューピュー、ゴウゴウ、ゴォーゴォー、グォーグォー←はげしい風(嵐)の音。
□すーすー、サァーッ、ザァーッ、ヒュルル、ヒュルリ、ヒュルヒュル、ピュルルーン、ヒュッ、プゥー←吹き抜ける風の音(一陣の風)・風が吹き抜ける動きの表現。
これらのオノマトペ表現を用いて、自分が感じた「水が流れる・風が吹く」イメージをできるだけ正確に相手に伝える、それが「イメージのボキャブラリーを豊かにする」エクササイズの狙いである。
①ことばでイメージを伝える技術は、細部から全体を連想させるホログラフィー(3次元画像)だ。
②多彩なオノマトペ(形容詞、動詞、副詞)を用いて、ものごとのディテールを的確に表現する。
③ことば(音調・色彩・質感)は記憶をたどる、回想(想像力)のフック(引っかける鉤)である。
④ことばのもつ正確な意味を辞書で調べて理解し、同時に同義(意味がほぼ同じ)語・類義(意味が同じか近い)語・対義(反対の意味をもつ)語などのボキャブラリーをたくさん仕入れる。
翌週の授業では、電車の中吊りポスターで見つけた水にまつわる「ことば(動詞)」を紹介して、これらの「ことば」から生まれるオノマトペ(飲む:ごくごく、撒く:ザバーッなど)を書かせた。
のむ、まく、くむ、こぐ、ひたす、あらう、こぼす、わかす、たらす、もぐる、およぐ、ぬらす、うかぶ、そそぐ、かける、ためる、ながす、うつ
(「東京都水道局のエッセイ募集」1997年)
さて、三歳の誕生日を迎えるころから、子どもの語彙(ボキャブラリー)は格段に増え始める。子どもの語彙とは、記号として口に出せることば。子どもの脳の中にはまだ記号化していない〈ことばの卵〉が、その数百倍も何千倍も詰まっている。三歳になるまでに培った〈ことばの卵〉を記号化するこの時期、新たな外国語の導入、たとえば幼児の英語学習などには慎重でありたい。孵化する前の〈ことばの卵〉を壊してしまいかねないからだ。四歳から七歳までの幼児期は、ことば、所作、意識の連繋を学ぶとき、つまり「からだ(動き)」と「思い(意識)」の相関連動・相補性という、「ことばの身体性」を学ぶ時期なのだ。
感性アナリストの黒川伊保子さんは、『日本語はなぜ美しいのか』(集英社新書、2007年)のなかで、日本語が【最初のひとしずくの源流ともいえる音韻の時代から、おそらく一貫して、同じ風土で培われてきたものだ】として、【漢字を受け入れたときも、音韻を日本人の感性に添わせている】と述べている。漢字が伝来したとされる5~6世紀までは、話しことばによる会話コミュニケーションだった日本語(やまとことば)を形づくったオノマトペの音韻(音の響き)について、黒川さん自身が「美しいと感じることばの第一法則」として、「ことばの発音体感と、その実体のイメージが合致していると気持ちいい」として、次のようなオノマトペ(擬音語、擬態語)を「情景と語感が一致している」表現例を紹介している。
カラカラ、サラサラ、タラタラ。
カラカラは、硬く乾いた感じ。KaRaKaRaのたった二文字をSに変えただけなのに、サラサラは、木綿の表面を撫でたときのような、空気を孕んですべる感じになる。タラタラになると、濡れて、粘性を感じさせる。
クルクル、スルスル、ツルツル。
クルクルは、硬く丸いものが回転する感じ。スルスルは、紐が手のひらをすべっていく感じ。ツルツルは、まるでうどんをすする音のようで、汁を含んだ粘性のある物体を感じさせる。
コロコロ、ソロソロ、トロトロ。
コロコロは、硬く丸いものが転がる感じ。ソロソロは、廊下をすり足で行く感じ。トロトロは、粘性を感じさせる。
(『日本語はなぜ美しいのか』第七章「ことばの美しさとは何か」130ページ)
黒川さんが解説した「カラカラ、サラサラ、タラタラ」と「コロコロ、スルスル、ツルツル」は、五十音図にある標準的な清音だが、これに濁点を振ると「(重い引き戸を)ガラガラ、(砂ぼこりで畳が)ザラザラ、(血が)ダラダラ(垂れる)」「(重たい石が)ゴロゴロ、ズルズル(引きずる)、ヅルヅル(すする)」となる。標準的な清音のオノマトペより、少し重たい感じや抵抗感が出てくる。また、清音・濁音・半濁音が使える「ハ行」では、さらに豊かなオノマトペ表現が可能になる。
「はらはら・ばらばら・ぱらぱら、はりはり、ばりばり・ぱりぱり/ひらひら・びらびら・ぴらぴら、ひりひり・びりびり・ぴりぴり/ふらふら・ぶらぶら・ぷらぷら、ふるふる・ぶるぶる・ぷるぷる/へらへら・べらべら・ぺらぺら、へろへろ・べるべろ・ぺろぺろ/ほろほろ・ぼろぼろ・ぽろぽろ」
私たち大人が、たとえば桜の花が「はらはら」散る、隊列が「ばらばら」になる、ごま塩を「ぱらぱら」振りかけるなど、それぞれ清音・濁音・半濁音の違いが理解できるのは、新生児・幼児のころに耳で聴き眼に映る世界の音や情景を表現する〈ことばの卵〉――オノマトペのちからがあったからである。
https://gomuhouchi.com/serialization/32925/ 【親と子の心をつなぐ〈ことばの卵〉――オノマトペのちから その2】より
上古代の日本では、オノマトペ(擬態語、擬声語)から生まれた「やまとことば」を、身振り手振りを交えて語る「話しことば」が主なコミュニケーション手段だった。中国から漢字が伝来した5世紀ごろまでは文字のない時代が長く続いた。古今の物語を「話しことば」で伝承する語り部(稗田阿礼)が口述する帝紀(歴代天皇の系譜)や旧辞(各地の伝承)を太安万侶が撰録した古事記(ふることふみ)や、漢字を借りて「やまとことば」を表す万葉仮名で書かれた『萬葉集』が編まれた。
たとえば、額田王(ぬかたのおほきみ)の和歌と原文(万葉仮名と漢字で表記)はこうである。
和歌 熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
原文 熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜
上記の青い太字表記、たとえば「せむと→世武登」は音仮名(漢字の音を借りた当て字)であり、地名の「にぎたづ」に漢字の「熟田津」を当てたのは、訓仮名(その字の訓を、やまこととばの音節に当てはめて用いた漢字)である。ちなみに中国語を指す「漢字」は、「漢民族の文字」の意味である。
その後、漢字の草体(崩し字)による江戸仮名を経て、現在のひらがなが成立したのは、つい121年前、明治33(1900)年(小學校令施行規則)のことである。ひらがなの「か」は「加」の変体仮名から、カタカナの「カ」も「加」の扁(へん)である「カ」から作られた文字である。オノマトペを表記するとき、「ふらふら・ぶらぶら(不規則に歩くようす)」など動きや状態の擬態語は「ひらがな」で、「カラカラ・ガラガラ(引き戸を開ける音)」など音や声を示す擬声語は「カタカナ」で書かれることが多い。
からだの左右に二つあるものは、畳語といって二度繰り返して言う。幼児はからだのパーツ(部位)を大人が畳語で表現する「おてて・おめめ・おみみ・ほほ・ちち・おはな」などから言葉を覚える。『ひらがなでよめばわかる日本語』(中西進著、新潮文庫、2003年)には、からだの部位は身近な植物と似ているとして、「め(目)」は「芽が出る」の「芽(め)」、「はな(鼻)」は「花が咲く」の「花(はな)」、「は(歯)」は「葉(は)」と同じ音、「みみ(耳)」はどうかというと「実が生る」の「実(み)」が二つ「実実(みみ)」ついていると、国文学者・中西進さんによるオノマトペ(擬態語)的な解説があり、それなりに説得力がある。
しかし、和語(やまとことば)の言語科学者、野村玄良さんの高著、『日本語の意味の構造』(文芸社、2001年)の解説のほうが、もともとは話しことば(音声によるコミュニケーション)である「やまとことば」を形づくったオノマトペ(擬態語・擬声語)の本質的な意味がよくわかる。
☆マ(目・眼) 「マ・目」は「メ」の古形である。
「睫毛・マツゲ」「マナコ」「マナ尻」「マナカヒ・目蓋」「マバユシ」「マガシラ・目頭」などある。「目頭」を辞書には「目の鼻に近いほうの部分」と説明するがこれは間違いであろう。恐らく目が魚の形に似ていることから「目尻(魚の尾にみたてる)」の反対が「目のかしら」と勘違いしたのであろう。目頭の熱くなるところは、目蓋を閉じた眼球の上部で「目のアタマ」のことである。(中略)「メガシラ(目頭)」は新しい表現の言葉で「マブタ・マナブタ・目蓋」のほうが古いと言える。
☆ハナ(鼻) 「ハ」は人体語の「歯」から出た言葉で、原意は「端」の意で「先端部分で仕事をする」ものを表す。つまり「歯・葉・刃・羽」など先端部分の形状が薄っぺらなもので「端で仕事をする・働きをする」のは皆共通している。「刃」は金属製の鋭くてよく切れる個所の意で、「歯」の和語の音が当てられた。「葉」は木の枝の「端」についているし、「羽」は広げると鳥の翼の両端についているものだ。このように「ハ」は「先端・端(ハシ)」の意でもある。(中略)「鼻・ハナ」は「ハ・先端」+「ナ・軟弱」で柔らかなもの・なよやかなものの意で、顔面の先端の軟弱モノだ。この原理からすると「花・ハナ」も茎や枝の先端に取り付いている軟弱なもの・なおやかなものの意であることは疑う余地はない。
☆ミミ(耳) 『見・耳』人体の霊妙な機能を「霊・ミ」と敬うべき霊的な存在として捉えている。「見・水・御・霊・耳」である。耳の機能は「聞き」であるにもかかわらず「ミ・耳」=「見」である。(中略)人間には説明できない不思議で人智の及ばない尊い存在や現象を「ミ」で表したものと考えられる。目を閉じると何も見えない「見」は説明できない不思議な現象で「見事」なことなのである。「ミ」は基本的に「みごと・スバラシイ」の意味を有する語である。
(『日本語の意味の構造』227~228/208~209/236~237ページ)
なるほど、親と子の心をつなぐ〈ことばの卵〉――オノマトペは、単なる動き(状態)や音(声)としての表白(思いをことばにあらわす)だけではなく、一つひとつの音韻(音と響き)、たとえば「あ・い・う・え・お」の一音一音ごとに「かた(硬・堅)さ」や「やわ(柔・軟)らかさ」、「あか(明)るさ」や「しず(静)けさ」の響きがあり、それは言霊(ことだま)、あるいは音魂(おとだま)と呼ばれている。
野口三千三さん(東京藝術大学教授)は、名著『野口体操 からだに貞(き)く』(春秋社、2002年)の中で、【「あ」という音。この音はいちばん開かれる音です。からだを縮めて「あ」とは言いにくい】と、「あ」がからだを通るときの「感じ方」を説明している。また、五十音図のア行からワ行まで、一つひとつの行に特有の響き、感じ方があるとして、その身体的なアプローチ(からだ感覚)を野口さんは、たとえば、「このむ(好む)」」と「すき(好き)」と「ほれる(惚れる)」の最初の音=こ〔ko〕・す〔su〕・ほ〔ho〕、それぞれの「感じ方」の違いについて、次のように書いている。(※下線と太字表記は原山)
「このむ」の「こ」はカ行です。カ行には非常にまとまりのいい感じがあるけれど、その中でも特にこの「こ」はまとまりがいい。要するに主体性がはっきりしていて、必ずしも相手に夢中になっていない。相手をある程度客観視することができる状態の関係です。それに対して「すき」というのはどうか。「す」というのはサ行です。サ行の「さ・し・す・せ・そ」は、どの音をとっても、すじみちがはっきりしている。すっきり、さわやか、すぐ、すーっと、など、みんなすじみちがついている。だから「すき」という場合には、対象と自分とがよく結びついているわけです。つきはなしていないで、つながっているんです。すじみちがはっきりしているということは、夢中じゃない。第三者の存在もある程度分かっている。
それでは、「このむ」「すき」「ほれる」はどう違うのか。(中略)「ほれる」の「ほ」は気体的で、境目がはっきりしない。対象と自分との関係が、いっしょくたになっている。それでもう、自分と相手との関係さえもはっきりしない。まして第三者の存在なんて、まるで分からなくなっている。そういう状態が「ほれる」という状態です。
これらはまさに、からだの状態そのままだと言ってもいいし、心の状態だと言ってもいい。こうして音をたどっていくと、からだと心とは分けられないものだということがすぐに分かってきます。(中略)
人間が、土や植物などの自然と一体であるというのと同じで、人間にとってのコトバというのは、書かれた文字とか、単なる音とかいうものじゃなくて、まさに生き物じゃないだろうか。からだそのものじゃないだろうか、とそんなふうに感じられるわけです。私にはコトバの一つ一つの音が、一人一人の人間のように思えてくるのです。
(『野口体操 からだに貞)く』104~105ページ)
さらに、「カ行」について、野口さんは次のように解説している。
「か・き・く・け・こ」は固体的な感じがしませんか。と同時に均質的でもある。均質的ですきまはないけれど、何となく澄んでいる。澄んでいるとはいっても、透きとおった感じじゃなくて、純粋に近い感じがある。そして、固体ですから、かたち(りんかく)がはっきりしていて、ある種の明快さと力強さがある。しかし、水分がちょっと少ない感じがする、というような具合です。
(『野口体操 からだに貞)く』93ページ)
かつて、「子どもの心身症」のテーマで、沖縄の小児科医、大宜見義夫さんを取材した際、「きちんと病」「けじめの母」という言葉を初めて聞いた。前者は「(後片付けは)きちんとしなさい」、後者は「(何事にも)けじめをつけなさい」など、子どものしつけに厳しい母親の性格を表した言葉だが、遊び盛りの子どもたちの中には「きちんと・けじめ」に追い立てられ、過食症(超肥満)や拒食症になるケースがあるという。
「きちんと」の「き」も、「けじめ」の「け」も、四角く妥協を許さぬ、冷静かつ固体的な響きをもった「カ行」のグループである。「きちんと病、けじめの母」の場合も、しつけに厳しい母親――実は母親自身も幼少期に厳しくしつけられたことがあんなにいやだったのに、いざ自分が子どもをもつと、厳しくしつけることが母親の仕事だと自分に言い聞かせる――負のスパイラル(連鎖的悪循環)に陥ってしまうケースが多い。
そういえば、「きちんと病、けじめの母」がよく用いる「さっさとしなさい」の「さ」や「しっかりしなさい」の「し」を含む「サ行」もまた、野口さん命名になる「すじみち」の行であり、気をつけて使わないと「子どもの心身症」のトリガー(引き金)になりやすい。
私たち大人は、オノマトペから生まれた〈ことばの卵〉を、やがて子どもたちが美しい「やまとことば」に紡いでいけるように、ひらがなやカタカナで語られる「オノマトペのちから」を大切にしたい。
【プロフィール】
原山 建郎(はらやま たつろう)
出版ジャーナリスト・武蔵野大学仏教文化研究所研究員・日本東方医学会学術委員
1946年長野県生まれ。1968年早稲田大学第一商学部卒業後、㈱主婦の友社入社。『主婦の友』、『アイ』、『わたしの健康』等の雑誌記者としてキャリアを積み、1984~1990年まで『わたしの健康』(現在は『健康』)編集長。1996~1999年まで取締役(編集・制作担当)。2003年よりフリー・ジャーナリストとして、本格的な執筆・講演および出版プロデュース活動に入る。
2016年3月まで、武蔵野大学文学部非常勤講師、文教大学情報学部非常勤講師。専門分野はコミュニケーション論、和語でとらえる仏教的身体論など。
おもな著書に『からだのメッセージを聴く』(集英社文庫・2001年)、『「米百俵」の精神(こころ)』(主婦の友社・2001年)、『身心やわらか健康法』(光文社カッパブックス・2002年)、『最新・最強のサプリメント大事典』(昭文社・2004年)などがある。
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