https://note.com/anima_solaris/n/n09ea1fd324b7 【5.樹木と水面が出会うとき】より
言葉にはどのような変化の歴史があるのだろう?
サンスクリット語、古代ギリシャ語、ラテン語などが印欧祖語に遡るという説は驚きをもって迎えられ、音韻対応の分析によって補強された。
だがそれだけでは十分ではない。
人が物語の結果だけでなく過程にも心を動かされるように、歴史言語学という物語にもさらに深い探究が求められたのだった。
一口に印欧諸語といってもよく似た言語もあれば大きく違った言語もある。年代も古代から近現代まで幅広い。
英語とドイツ語はかなり似ているが、ヒンディー語とは相当に違う。
ならば同語族内にも相対的な親疎関係があるのではないか――というのはごく自然な発想だろう。
19世紀中葉、ドイツのアウグスト・シュライヒャーは印欧諸語の歴史的関係を生物の親子関係のように捉え、系統樹説を唱えた(松本2006, pp.11-12, 20-21; 堀田2012, 05/19-1)。
今でも「言葉は生き物」といわれるがそのイメージ通りの説になる。
シュライヒャーは印欧祖語(一番左)が段階的に分派していったと考えた。
右側は上から順にゲルマン語派、バルト語派、スラヴ語派、ケルト語派、イタリック語派、アルバニア語派、ギリシャ語派、イラン語派、インド語派を指す(ここからさらに諸言語が分化したとする)。
印欧祖語という幹から多数の枝が分かれたように見えることから系統樹(Stammbaum)の名がある。
奇しくもチャールズ・ダーウィンの『種の起源』(1859年)と同時期で、モデルも生物の系統樹に近く、進化論の影響を見る説もある(神山2011, p.67)。
ただ1853年にも言及していたようなので、当時の言語学と生物学に共通した潮流の産物なのかもしれない。
(系統樹モデル自体は今でも相当程度に有効だが、シュライヒャー説は後の発見や学説の変化によって古くなっている。最新説はいずれ述べる)。
このモデルは当時としてはかなり画期的だった。
こう捉えればイタリア語とヒンディー語よりラテン語とサンスクリット語のほうが似ている理由も説明できる。
前回挙げた例文の近似性も系統樹の産物といえる(語彙はSkt.→Monier-Williams (1899)、Gk.→古川(1989)、Lat.→水谷(2011)参照)。
日本語
父と母は3頭の羊を導く
サンスクリット語
Pitā mātā-ca trīn avīn ajanti.
(ピター・マーター・チャ・トリーン・アヴィーン・アジャンティ)
古代ギリシャ語(ドーリス方言)
Πατὴρ μάτηρ τε τρεῖς ὄϊς ἄγοντι.
(パテール・マーテール・テ・トレイス・オイース・アゴンティ)
ラテン語
Pater māter-que trēs ovīs agunt.
(パテル・マーテル・クェ・トレース・オウィース・アグント)
印欧祖語が同時かつ1回的に各語派に分裂したというのも無理があるし、段階的な分派が行われた、とするのは穏当だといえよう。
(古典語と近現代語の分岐関係からも推察できる)。
事実、各語派の類似性は等距離ではなく、たとえばインド語派とイラン語派の最古層の差はわずかで、両者は今でもインド・イラン語派としてまとめて扱われる(高津1999, pp.40-41; 松本2006, p.26)。
バルト語派とスラヴ語派も近似性が高い(高津1999, pp.44-46; マルティネ2003, pp.74-82)。
イタリック語派とケルト語派も近い関係にある(高津1999, pp.51-52)。
シュライヒャーは初めて印欧祖語の本格的な再建を試みた1人としても知られる(松本2006, p.20)。
また自ら再建した祖語で寓話を書くという離れ業も行ったが、その形式はサンスクリット語を多少修正した程度で、今となってはあまり有効ではない(松本2006, p.20, 25; 風間1978, p,150参照)。
ただそのフロンティアスピリットに敬意を表し、私訳を添えて紹介しよう。
Avis akvāsas ka.「羊と馬」
Avis, jasmin varnā na ā ast, dadarka akvams, tam, vāgham garum vaghantam, tam, bhāram magham, tam, manum āku bharantam.
Avis akvabhjams ā vavakat: kard aghnutai mai vidanti manum akvams agantam.
Akvāsas ā vavakant: krudhi avai, kard aghnutai vividvant-svas: manus patis varnām avisāms karnauti svabhjam gharmam vastram avibhjams ka varnā na asti.
Tat kukruvants avis agram ā bhugat.
毛を刈られた羊が馬たちを見た――ある馬が重い車を引き、ある馬が大荷物を背負い、ある馬が人を素早く運んでいくのを。
羊は言った。
私は心が痛む、人が馬たちを駆り立てていて。
馬たちは言った。
聞け、羊よ。心が痛む。
人間の主人が自らのために羊毛を暖かな衣服にしてしまう。
そして羊たちには毛がない。
それを聞いて羊は野へと逃げていった。
波紋説
しかしシュライヒャーの系統樹説にもいくつかの欠点があった。
最大の問題は言語は分岐方向に変化するとは限らないことである。
この点にいち早く気づいたのはシュライヒャーの弟子に当たるドイツのヨハネス・シュミットだった(松本2006, p.12-14)。
シュミットは独自の言語変化モデルとして波紋説(Wellentheorie)を唱えた(松本2006, p.12-14; 堀田2012, 1/21)。
当人は「水面に生じた波紋が中心から周辺に向けて次第に弱まっていくように、祖語にもまず保守的な中心から改新的な周辺にかけて少しずつ違った方言差が生じ、中間にあった方言のいくつかが隣接方言に吸収されるなどして結果的に異なる言語が複数隣接するようになる」といった考えを出発点にこうした説を示していたが(高津1999, pp.109-110, 236)、その「波紋」という着想は後代の言語学で少し形を変えつつ、「水滴が水面に触れて波紋を起こすように、ある言語に起きた変化(改新)が他の言語にも伝わっていき、それが何重にも起こることで(各波紋の伝播の有無や度合いによって)親疎関係が決定される」という形のモデルとして定着した。
(今では周辺の言語変種ほど改新が多いという発想も見直されており、そのような場合もあるが、波紋説が「変化の伝播」という形で捉え直されたように周辺に古形が残ることが多いといわれる)。
波紋伝播モデル
Author: Fred the Oyster CC BY-SA 4.0
画像2
シュライヒャーの系統樹説が単一の祖語からの分岐変化に注目した説だとすれば、シュミットの波紋説は言語の収束変化に注目した説だといえる(松本2006, pp.11-14)。
一方、変化が伝播しなかった言語との差が広がることで間接的に分化も説明される。
have完了の出現
この波紋説モデルでなければ説明できない現象も多い。
(外来語の借用も一種の収束変化である)。
英語のhaveは「持つ」を表す動詞だが、他に完了の助動詞としても使われる。過去分詞と組み合わせれば現在完了形になる(have made「作った」)。
このような言語は他にもある。
イタリア語などがそうで、avere fatto「作った」のavereは「持つ」の完了助動詞用法、fattoはfare「作る」の過去分詞なので、ちょうどhave madeと同じ構造をしている。
しかし系統樹説だけではこの共通点を上手く説明できない。
Facebook山地 弘純さん投稿記事
他の方の翻訳を参考にさせていただきながら、Google翻訳さんや海外wikiにもお世話になりました。「有恐怖」にあたるサンスクリット語の「トラスト」は傷とか恐怖の意味で、トラウマの語源の可能性があることは大きな発見でした。(ギリシャ語が語源の節が有力ですが、そもそもギリシャ語とサンスクリット語が大きく共通する)
「安らぎ」にあたる「ビバラティ」も安息の施設の「ビハーラ」と同義にあたるのでしょうね。「プラープティヒ」は「望むものを手に入れること」で、これは引き寄せと同じことで、完全なる法則性を思っていると落とし穴となることが述べられていると解釈しました。
調べる過程で、龍樹曰く「ニルヴァーナは、別の角度から見た共通の現実に他なりません」という言葉を見つけたことがなにより嬉しかったです。
https://ameblo.jp/anzac76/entry-12837982602.html?fbclid=IwAR14mxV6PFLuNkJprHZhcQWYlnNa-cmqkY82tWGVUa3UPs8-Tc2GwqFb3h0 【「サンスクリット原文から読み解く般若心経」】より
般若心経 漢訳
仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色受想行識亦復如是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減是故空中無色無受想行識無眼耳鼻舌心意無色声香味触法無眼界乃至無意識界無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得以無所得故菩提薩埵依般若波羅蜜多故心無罣礙無罣礙故無有恐怖遠離一切顚倒夢想究竟涅槃三世諸仏依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提故知般若波羅蜜多是大神呪是大明呪是無上呪是無等等呪能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜多呪即説呪曰羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶般若心経
般若心経サンスクリット原文
Namas Sarvajñāya
āryāvalokiteśvaro bodhisattvo gaṃbhīrāyāṃ prajñāpāramitāyāṃ caryāṃ caramāṇo vyavalokayati sma: pañca skandhās, tāṃś ca svabhāva-śūnyān paśyati sma.
iha Śāriputra rūpaṃ śūnyatā, śūnyataiva rūpam. rūpān na pṛthak śūnyatā, śūnyatāyā na pṛthag rūpaṃ. yad rūpaṃ sā śūnyatā, yā śūnyatā tad rūpam. evam eva vedanā-saṃjñā-saṃskāra-vijñānāni.
iha Śāriputra sarva-dharmāḥ śūnyatā-lakṣaṇā anutpannā aniruddhā amalāvimalā nonā na paripūrṇāḥ. tasmāc Chāriputra śūnyatāyāṃ na rūpaṃ na vedanā na saṃjñā na saṃskārā na vijñānaṃ. na cakṣuḥ-śrotra-ghrāṇa-jihvā-kāya-manāṃsi, na rūpa-śabda-gandha-rasa- spraṣṭavya-dharmāḥ, na cakṣur-dhātur yāvan na mano-vijñāna-dhātuḥ.
na vidyā nāvidyā na vidyākṣayo nāvidyākṣayo yāvan na jarāmaraṇaṃ na jarāmaraṇakṣayo na duḥkha-samudaya-nirodha-mārgā, na jñānaṃ na prāptiḥ.
tasmād aprāptitvād bodhisattvānāṃ prajñāpāramitām āśritya viharaty a-cittāvaraṇaḥ. cittāvaraṇa-nāstitvād atrasto viparyāsātikrānto niṣṭhanirvāṇaḥ. tryadhvavyavasthitāḥ sarva-buddhāḥ prajñāpāramitām āśrityānuttarāṃ samyaksambodhiṃ abhisambuddhāḥ.
tasmāj jñātavyaṃ prajñāpāramitā-mahāmantro mahāvidyāmantro ’nuttaramantro ’samasama-mantraḥ, sarvaduḥkhapraśamanaḥ. satyam amithyatvāt prajñāpāramitāyām ukto mantraḥ, tad yathā:
gate gate pāragate pāra-saṃgate bodhi svāhā.
iti Prajñāpāramitā-hṛdayaṃ samāptam.
Namas Sarvajñāya
※漢訳文なし
「Namas(ナマス)」は「南無。礼拝する。」「Sarva(サルバ)」は「全ての。あらゆる。」「jñāya(ジニャーヤ)」は「通じている。知っている。」
āryāvalokiteśvaro bodhisattvo gaṃbhīrāyāṃ prajñāpāramitāyāṃ caryāṃ caramāṇo vyavalokayati sma pañca skandhās,tāṃś ca svabhāvaśūnyān paśyati sma.
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄
「ārya(アーリャ)」は「聖なる。尊敬すべき。」
「avalokiteśvaro(アヴァローキテーシュヴァロー)」は「自在に観察することができる(存在)。」
「bodhisattvo(ボーディサトバ)」は「菩薩。」「gaṃbhīrāyāṃ(ガムビーラーヤーム)」は「深い。」「prajñā(プラジニャー)」は「智慧。洞察力」「pāramitāyāṃ(パーラミターヤーム)」は「向こう岸へ行く。到彼岸。」 (般若波羅蜜多とは現象の向こう側を見通す洞察力)「caryāṃ(チャリヤーム)」は「修行。」「caramāṇo(チャラマーノー)」は「実践する。」「vyavalokayati(ヴャヴァローカヤティ)」は「離れて見る。見極める。」「sma(スマ)」は過去形。「pañca(パンチャ)」は「5」「skandhās(スカンダース)」は「集積。」「tāṃś(タームシュ)」は「それら。」「ca(チャ)」は「故に。だから。」 「svabhāva(スヴァバーヴァ)」は「自性。実体。」「śūnyān(シューニャーン)」は「空。ゼロ。」「paśyati(パシュヤティ)」は「観察する。観照する。」
「sma(スマ)」は過去形。(※度一切苦厄は原文なし)
iha Śāriputra rūpaṃ śūnyatā, śūnyataiva rūpam. rūpān na pṛthak śūnyatā, śūnyatāyā na pṛthag rūpaṃ.
舎利子色不異空空不異色
「iha」は「この世(現象世界)において」「Śāriputra」は「舎利子(シャーリプトラ)よ」
「rūpaṃ」は「物質、目に見える物」「śūnyatā」は「空の性質」「śūnyataiva」は「空性だからこそ」「na」は否定「pṛthak」は「異なる」
yad rūpaṃ sā śūnyatā, yā śūnyatā tad rūpam.
色即是空空即是色
「yad」は「~なるもの」「rūpaṃ」は「物質、目に見える物」「sā」は「それすなわち」
「śūnyatā」は「空の性質、空性」「yā」は「~なるもの」「tad」は「それすなわち」
evam eva vedanā-saṃjñā-saṃskāra-vijñānāni.
受想行識亦復如是
「evam eva」は「かくの如し、これと同じことだ」「vedanā(ヴェーダナー)」は「感じること、感受すること」「saṃjñā(サムジャナ)」は「イメージ、概念化すること」
「saṃskāra(サンカーラ)」は「紐づけられた衝動、業(カルマ)によって生まれる行動欲求」「vijñānāni(ヴィジュニャーナ)」は「(経験して得た)認識、知識」
iha Śāriputra sarva-dharmāḥ śūnyatā-lakṣaṇā anutpannā aniruddhā amalāvimalā nonā na paripūrṇāḥ.
舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減
「iha」は「この世(現象世界)において」「Śāriputra」は「舎利子(シャーリプトラ)よ」
「sarva-dharmāḥ」は「一切法、あらゆる存在が保たれている宇宙の法則、大生命の秩序の根源」「śūnyatā」は「空性」「lakṣaṇā」は「表れる」 「anutpannā」は「生じない」生じるの否定「aniruddhā」は「妨げない」「amalāvimalā」は「汚れることも離れることもない」「nonā」は「欠けない、減らない」「na paripūrṇāḥ」は「満たされない、増えない」
あらゆる生命の存在が宇宙の法則に包括されていて、空なる性質の小さな粒子が大元であり、それが変化する中で表に現れたり消えたりしているのです。それは生じることも滅することもなく、汚れることも浄まることもなく、増えることもなく減ることもありません。
tasmāc Chāriputra śūnyatāyāṃ na rūpaṃ na vedanā na saṃjñā na saṃskārā na vijñānaṃ.
是故空中無色無受想行識 (舎利子の漢訳文なし)「tasmāc」は「それ故に」
「Chāriputra」は「舎利子よ」「śūnyatāyāṃ」は「空性の中においては」「na rūpaṃ」は「物質という境界線はない」「na vedanā」は「感受することもない」
「na saṃjñā」は「思いを浮かべることもない」「na saṃskārā」は「衝動が湧くことこともない」「na vijñānaṃ.」は「認識することもない」
それ故に空なる性質の中に在れば、自分と他人をわける境界線はなくなり、感受することもなくなり、イメージを浮かべることもなくなり、業に紐づけられた衝動が湧くこともなくなり、認識することもなくなります。
na cakṣuḥ-śrotra-ghrāṇa-jihvā-kāya-manāṃsi, na rūpa-śabda-gandha-rasa- spraṣṭavya-dharmāḥ, na cakṣur-dhātur yāvan na mano-vijñāna-dhātuḥ.
無眼耳鼻舌心意無色声香味触法無眼界乃至無意識界
「na」は「ない」(否定)「cakṣuḥ」は「眼」「śrotra」は「耳」「ghrāṇa」は「鼻」
「jihvā」は「舌」「kāya」は「身体」「manāṃsi」は「意(こころ)」「rūpa」は「色」
「śabda」は「声」「gandha」は「香」「rasa」は「味」「spraṣṭavya」は「触」
「dharmāḥ」は「法」「cakṣur-dhātur」は「目に映る世界」「yāvan」は「乃至、さらには」「mano-vijñāna-dhātuḥ」は「心が認識する世界」
na vidyā nāvidyā na vidyākṣayo nāvidyākṣayo yāvan na jarāmaraṇaṃ na jarāmaraṇakṣayo na duḥkha-samudaya-nirodha-mārgā, na jñānaṃ na prāptiḥ.
無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得
「na」は「ない」否定「vidyā」は「(自分の知らない)知識、叡智、明」(知識を意味するヴェーダ聖典と同義)「nāvidyā」は「無知、無明」 無明とは「科学で解明できるものではないもの」ともいえるか?「kṣayo」は「滅尽」「yāvan」は「乃至、さらには」「jarā」は「老い」「maraṇaṃ」は「死」「duḥkha」は「苦悩、不安」
「samudaya」は「(苦を)集めているもの、(悩みを)引き寄せているもの、原因)
「nirodha(ニローダ)」は「(集めているものを)を滅し、心をコントロールすること」
「mārgā」は「(滅するに至る)道、過程、手段」「jñānaṃ」は「(自分のものにしていく)知識、理解」「prāptiḥ」は「獲得、望むものを手に入れる、行為の結果得ること」
tasmād aprāptitvād bodhisattvānāṃ prajñāpāramitām āśritya viharaty acittāvaraṇaḥ.
以無所得故菩提薩埵依般若波羅蜜多故心無罣礙
「tasmād」は「それ故に」「aprāptitvād」は「所得もない」(獲得の否定形)
「bodhisattvānāṃ」は「菩薩(求道者)たち」(菩薩の複数形)
「prajñā(プラジニャー)」は「智慧。洞察力。」「pāramitāyāṃ(パーラミターヤーム)」は「向こうへ行く。到彼岸。」「āśritya」は「基づいて、拠り所として」
「viharaty」は「安らぎ」(ビハーラ「安住の場所」)
「acittāvaraṇaḥ」は「心に覆うものはなくなる」(チッタ「心」)
なにも得ることもなく、求道者たちは洞察の修行に基づいて安らぎ、心のこだわりをなくすものなのです。
(この相対世界ではあらゆるものが紙一重、背中あわせで相対して存在しており、煩悩の苦があるからこそ悟りを求める心も生じる、悟りを求める心があるからこそ煩悩がうまれる)
cittāvaraṇa-nāstitvād atrasto viparyāsātikrānto niṣṭhanirvāṇaḥ.
無罣礙故無有恐怖遠離一切顚倒夢想究竟涅槃
「cittāvaraṇa」は「心にとらわれたもの」「心を妨げるもの」「nāstitvād」は「存在しない」「atrasto」は「恐怖がない」「心の傷がない」「viparyāsā」は「顛倒」「逆転」 (四顛倒は衆生が逆に見ている誤った世界観)「atikrānto」は「超越」 (アティクランタはすべての世界を超越するもの)「niṣṭha」は「究極に到る、極みとなる、」
「nirvāṇaḥ」は「涅槃」「(煩悩の火を)吹き消した状態」 (感情的な反応によって引き起こされる火傷の冷却または消火)
心にとらわれていたものがなくなるが故にトラウマがなくなり、顛倒して観ていた世界を超越した極みにあるのが涅槃の境地なのです。
(龍樹曰く「ニルヴァーナは、別の角度から見た共通の現実に他なりません」)
tryadhvavyavasthitāḥ sarva-buddhāḥ prajñāpāramitām āśrityānuttarāṃ samyaksambodhiṃ abhisambuddhāḥ.
三世諸仏依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提
「tryadhva」は「三世の、過去現在未来の」「vyavasthitāḥ」は「分離から離れた」
「sarva」は「すべての」「buddhāḥ」は「目覚めた存在、仏陀」「prajñā(プラジニャー)」は「智慧。洞察力。」「pāramitāyāṃ(パーラミターヤーム)」は「向こう岸へ行く。到彼岸。」「āśritya」は「拠り所」「anuttarāṃ」は「正しい、二元統合の」
「samyak」は「完全なる」「sambodhiṃ」は「目覚め」 (anuttarāṃ samyaksambodhiṃ「正覚」)過去現在未来という三世を渡す求道者たちは、洞察の修行によって正しき完全なる目覚めの存在となります。
(三世の生命(過去現在未来を永遠に生きる仏)の悟りは、「変わり続ける流れを至福の安らぎと感じる捉え方ができる」ということです)
tasmāj jñātavyaṃ prajñāpāramitā-mahāmantro mahāvidyāmantro ’nuttaramantro ’samasama-mantraḥ, sarvaduḥkhapraśamanaḥ.
故知般若波羅蜜多是大神呪是大明呪是無上呪是無等等呪能除一切苦
「tasmāj」は「それ故に」「jñātavyaṃ」は「知るべき」「prajñā(プラジニャー)」は「智慧。洞察力。」「pāramitā」は「向こう岸へ行く。到彼岸。」「mahā」は「偉大な」
「mantro」は「真言」「mahāvidyāmantro」は「大いなる(自分の知らなかった)知識を与えてくれる真言」「’nuttaramantro」は「正しい真言。二元統合の真言。」
「’samasama-mantraḥ」は「比較するものもなにもなくなる無等等の真言。みんな一緒の真言」「sarva」は「すべての」「duḥkha」は「苦悩、不安」
「praśamanaḥ.」は「鎮める。除く。」 (乗法した分は除法でゼロにする)
satyam amithyatvāt prajñāpāramitāyām ukto mantraḥ, tad yathā:
真実不虚故説般若波羅蜜多呪即説呪曰
「satyam」は「真実」「amithyatvāt」は「偽りなき」「prajñā(プラジニャー)」は「智慧。洞察力。」「pāramitāyāṃ(パーラミターヤーム)」は「向こう岸へ行く。到彼岸。」
「ukto」は「言った」(過去形)「mantraḥ」は「真言」「tad」は「それ」「yathā」は「すなわち」
gate gate pāragate pāra-saṃgate bodhi svāhā.
羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶
「gate」は「行った」(過去形)「pāragate」は「向こう岸へ行った」「pāra-saṃgate」は「向こう岸へ完全に行った」「bodhi」は「菩提。悟り。」「svāhā」は「成就しますように」(ソワカ)
iti Prajñāpāramitā-hṛdayaṃ samāptam.
般若心経
「iti」は「これにて」「prajñā(プラジニャー)」は「智慧。洞察力。」
「pāramitāyāṃ(パーラミターヤーム)」は「向こう岸へ行く。到彼岸。」
「hṛdayaṃ(フリダヤ)」は「核心。心髄。」
「samāptam(サマプタム)」は「完結。終了。」
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「目覚めた存在が説く究極の智慧の核心」
この世界を自由自在にあらゆる見方ができるように道を求めてきた観自在菩薩さんは、修行してその智慧に到達した時、私たちの人間を構成するものは皆、俯瞰して見ると、どこを見ても固定化したものなどなくて、「空」という変化する姿しかないと見抜かれました。
これによってあらゆる苦しみから解放されたのです。
観自在菩薩さんはお仲間の舎利子さんに言いました。
「物質ってね、変化しないように見えるけどそうじゃないんだね。変化する目に見えないものが形を作っているんだね。
全てはいつも変化し続けてる。そして変化していく中での一瞬が、今現れてる姿なんだね。
僕たちの身体もそう。そして感情も、思考も、行動も、記憶もそう。
ね~、舎利子、ここは光が投影した立体映像のような世界で、固形化された実体はないよ。
その光を辿って、私というちっぽけな執着から離れて源へ立ち帰ってみると、生も滅もなく、汚れるも浄まるもなく、増えるも減るもなく、合わさらず散らず、ただ絶妙に組み合わさり支え合い補い合いながら循環する一つの大きな輪のような全体の姿が見えたんだ。
あらゆることが一時的なものなのに、それでいて然るべきところへ導かれていく。
それを信じて、起こるすべてのことに抵抗せずに身を委ねると、あれほど悩んでいた様々な苦しみが消えていく。
個々に備わる六つの感覚だって絶対じゃないし、それによる受け取り方だってそれぞれだ。
みんなそれぞれの表面的違いを受け入れ、その本質的価値に差なんてないって気づければ、その境目だって消えていく。
みんな違ってみんないい。
自分と他人の境目に差がなくなっていくと、目に見える世界と目に見えない世界も境目がなくなり、人間関係の悩みもなくなり、老いや死の悩みもなくなっていく。
私と周りとの「差」にこだわるから、他人との間にマウントを取ったり取られたりという争いにも繋がる。
もう誰かより幸せになろうとか、できない自分を責めたりとか、上から目線なアドバイスとか、見下されたくないとか、他人と比較して苦しむこともないんだ。
私は私のままでいい。あなたはあなたのままでいい。
もう私以外の何者にもなろうとしなくていいし、他者を私みたいにさせることもない。
私はこの世界にぴったりとはまっている。あなたもこの世界にぴったりとはまっている。
それぞれが自分の存在の完璧さを受け入れられれば、自分は欠けているという意識から愛に渇くこともなくなり、渇きを外側のなにかで埋め合わせていこうとする貪りや執着もなくなる。
結局問題なんて自分で作り出しているにすぎないんだ。
一つの悩みを解決すればまた新しい悩みが生まれるだけだし、解決方法だって絶対的なものなんてない。
だからこそ、過去の後悔にとらわれず、未来の不安を気にせずに、ただ今、ゼロからやってみればいい。
この境地までたどりついた今、心を覆う迷いの霧が一気に晴れたみたいだ。
今まで持ち続けてきた悩みはなんだったんだろう。
迷いが晴れたから、恐れもなくなったよ。
私の一部だけを見て不完全さに苦しんできたけれど、見えない部分を含めた全体の姿はぴったりとした輪に繋がって、完全なんだともわかった。
今まで世界を逆立ちしてみていたかのような幻想から離れられると、苦から楽へ一気にひっくり返るんだよ!」
このように観自在菩薩さんは悟られたのです。
観自在菩薩さんだけでなく、過去、現在、未来に渡る覚者たちは、智慧をつきつめて修行を実践していくうちに一つの大きな答えへとたどりついていきました。
そんな覚者たちがたどりついた真実を言葉をここに伝えましょう。
それはもうこれ以上ないっていう最強の言霊なのです。さ~、ご一緒に。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
なんとかなる。なんとかなる。 向こう岸から見ればなんとかなってる。
時を越えて見ればなんとかなってる。 だいじょうぶだ
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
これが智慧の核心です。 (完)
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