https://note.com/honno_hitotoki/n/na65f8e0cb856【から鮭も空也の痩も寒の内|芭蕉の風景】より
「NHK俳句」でもおなじみの俳人・小澤實さんが、松尾芭蕉が句を詠んだ地を実際に訪れ、あるときは当時と変わらぬ大自然の中、またあるときは面影もまったくない雑踏の中、俳人と旅と俳句の関係を深くつきつめて考え続けた雑誌連載が書籍化されました。ここでは、本書『芭蕉の風景(上・下)』(ウェッジ刊)より抜粋してお届けします。
から鮭ざけも空也くうやの痩やせも寒の内 芭蕉
数日腸はらわたをしぼる
元禄三(1690)年冬、芭蕉は京都に滞在していた。『おくのほそ道』の旅を前年秋に終えた芭蕉は、江戸には戻らず、故郷の伊賀と大津と京都の三地域に代わる代わる逗留していた。この句を詠じたときには、十一月に伊賀から京都に出てきていたのだ。
芭蕉たち仲間の代表的俳諧撰集『猿蓑』に所載。『猿蓑』掲載の句には前書はないが、「真蹟懐紙」には次のような前書が付けられている。「都に旅寝して鉢叩はちたたきのあはれなるつとめを夜ごとに聞侍ききはべりて」。「鉢叩」とは平安時代中期の僧空也上人が始めたとされる踊り念仏をしながら歩く僧のことである。陰暦十一月十三日から大晦日まで鉢や瓢箪ひょうたんを叩きながら、念仏を唱えて、京をめぐり歩いていた。
前書の意味は「都に旅寝をして、鉢叩のしみじみと趣きあるお勤めを毎夜聞きまして」。芭蕉がこの時期京都のどこにいたかは明らかではないが、毎晩鉢叩が通る場所の近くで過ごしていたことになる。夜もふけてつのる寒さの中でも、けっして勤めを怠らない鉢叩に感動して、掲出句を残しているのだ。
「から鮭」は鮭のはらわたを取り除いて塩を使わずに干物にしたものであるが、現在では目にすることはなくなってしまった、失われてしまった季語である。「空也」は鉢叩の僧のこと。これも京の町を歩くものは滅びてしまった。「寒」とは、立春前のおよそ三十日間である。句意は「から鮭と空也僧の痩せた姿とがともに寒の厳しさの中にある」。
伊賀の門人土芳が残した俳論書『三冊子』の中に、掲出句について、芭蕉が残したことばが記録されている。「心の味をいひとらんと数日腸をしぼる」である。「心の味」とは鉢叩の修業から受けた感銘である。それを発句の形に表現しようとして、数日の間苦労した、と述べているわけだ。「腸をしぼる」という形容に凄みがある。芭蕉自身がこれほどまでに苦心したと告白している句は他に多くない。
空也上人立像のおもかげか
今日は京都市東山区の六波羅蜜寺ろくはらみつじを訪れてみたい。ここは鉢叩の祖である僧空也の活動拠点であり、没した地でもある。空也の彫像も残されている。江戸時代の鉢叩の本拠地は中京区の空也堂であるが、こちらの寺は改めて訪ねたい。芭蕉の「鉢叩」の句はもう一句残されている。なお、六波羅蜜寺も空也堂も、芭蕉が訪ねたという直接の記録は残っていない。
京都駅から近鉄奈良線に乗って東福寺駅下車。京阪電鉄京阪本線に乗り換え、清水五条駅下車。秋も終わりの晴れた日、五条通を東に進み、大和大路通を北上すると、六波羅蜜寺の近くに出る。
本堂を拝した後、本堂裏手の宝物館に向かう。ここに、鎌倉時代につくられた有名な空也上人立像がある。左手は鹿の角のついた杖をつき、右手に撞木しゅもくを持って、胸にかけた鉦かねを打って歩く姿である。口から六体の阿弥陀仏が出ているのが目を引く。これは念仏で唱える「南無阿弥陀仏」の六音を見えるかたちで表現したものである。念仏を唱えつつ、民衆を教化しようとした空也の姿がまさに捉えられているのだ。
そして、頬がそげているところ、胸が薄いところも目を引く。「空也の痩やせ」とは鉢叩の僧の痩せ細った姿を表現したことばであるのだが、芭蕉の句がこの寺の空也上人立像を見たことによって生まれた可能性を夢想したくなる。
宝物館のビデオは、毎年年末に当寺本堂内陣で行われる空也踊躍念仏ゆやくねんぶつを映していた。鉦を打ち鳴らしながら念仏を唱え堂内を巡る姿は、芭蕉が見たはずの鉢叩の姿を彷彿とさせる。
さて、「から鮭」も「空也の痩」も「寒の内」もそれぞれ冬季の季語となる。「空也の痩」は「鉢叩」の派生季語である。三つの季語の季重なりの句でありながら、ゆるみを一切感じさせないのは不思議だ。「寒の内」が主季語となって、二つの従季語「から鮭」「空也の痩」を包むような構造になっているからだろう。
「から鮭」は魚に由来するたべものであり、「空也の痩」は痩せている僧である。まったく異なったものと見えながら、実はともに生き物であり、しかし死と生の状態に分かたれ、それでもどこか形状が似ている。それがことばとことばの間に緊張関係を生み、詩的なスパークを生じさせているのだ。
この二つ「から鮭」「空也の痩」を見つけ出すのに、芭蕉は腸をしぼる苦労をしたのだろう。上五中七下五すべて語頭はK音で、よく響き合っている。鉢叩のたたく鉢の音を想起させるのだ。
口を出て南無阿弥陀仏なむあみだぶの仏冷ゆ 實
痩胸の空也が鉦や小春空
https://ameblo.jp/seijihys/entry-12709815592.html 【町屋「おくのほそ道講座」&松尾芭蕉「乾鮭の…」の句】より
から鮭も空也の痩も寒の内 松尾芭蕉 (からざけも くうやのやせも かんのうち)
今日は東京都荒川区町屋のよみうりカルチャーの「おくのほそ道講座」。
最大のクライマックス「平泉」(岩手県平泉町)だったが、参加者が少なかったな~。
ここが一番の聞かせどころだったのだが残念だ。
後半は、芭蕉はなぜ青森に行かなかったのか? など素朴な疑問を自由に討論した。
そういうこともあって、今日はなんとなく気分が重い。
掲句。元禄3年暮作、『猿蓑』所収。有名な句で、私もたびたび思い出す句だが、わかるようでわからない句だ。
「空也の痩」がなんとなくわからないのだ。
「空也」は平安時代中期の僧、「南無阿弥陀仏」と唱える称名念仏を始めた僧として知られ、浄土教、念仏信仰の先駆者として知られ、生涯を流浪に生きた人でもある。
「乾鮭」は腸を取り去って、塩などをつけず、そのまま干して乾燥させた鮭。
「空也の痩」は空也の痩せ細った姿、という意味だが、11月13日の空也忌から、暮れまでの48日間、「暁の鉢叩」と言って、未明から腰に瓢(ふくべ)を提げ、踊念仏をしながら、鉦を叩いて、洛中洛外…つまり京都の町を練り歩くことなのだそうだ。
つまり、この句は、乾鮭を食べ、京の辻々に聞こえてくる「鉢叩」の音や踊念仏の声を聞きながら「寒の内だな~」「冬だな~」と感じ入っている、という意味らしい。
ちなみに(こういうことを書くと怒られるかもしれないが…)「乾鮭」は「保存食」であり、さっぱりし過ぎて、それほどおいしいものではない。
この淡々とした食べ物が「寒」の空気感と響き合うのだろう。
服部土芳の『三冊子』では、この句について、芭蕉の言葉として、心の味(あじわい)を云(いい)とらんと、数日はらわたをしぼると伝えている。
心の味わいを表現しようと、数日間、考えに考え抜いたという意味である。
芭蕉は「句を推敲」することを「はらわたをしぼる」と言う。
『芭蕉全発句』で山本健吉は、非常に表現に苦心した、類例の少ない傑作と絶賛している。
この「心の味わい」というものを理解する姿勢が現代俳句にはない。
芭蕉の腐心をどれだけの人が理解できるだろう。まあ、私も理解しているとは言えないが…。
きっと、京都の寒さや暮らしぶりなどが実感としてわからないと真に理解するのは無理かもしれない。
https://blog.ebipop.com/2018/07/basho4.html 【乾鮭も空也の痩せも寒の中】より
「乾鮭(からざけ)」といえば、明治時代の洋画家高橋由一の「鮭」の絵を思い浮かべる。
学校の美術の教科書に載っていた、誰もが知っているあの絵である。
口からエラに通した荒縄で吊るされ、半身が切り開かれた写実的な絵。
芭蕉の句に出てくる江戸時代の「乾鮭」は、鮭の腹をきり裂いてはらわたを取り除き、塩を振らずに陰干しにした保存食品であったという。
高橋由一の絵の豊潤な肉の鮭よりも、もっと干からびて縮んだものであったことだろう。
乾鮭(からざけ)も空也の痩(や)せも寒の中(うち) 松尾芭蕉 元禄三年冬の作。
句の前書きに、「都に旅寝して、鉢叩(はちたた)きのあはれなる勤めを夜毎に聞き侍りて」とある。「鉢叩き」とは、空也念仏のこと。
鉦(かね)や瓢簞(ひようたん)を叩いて念仏や和讃を唱え、念仏踊りを行なって布施を求めること、またそれを行なう者のこと。
江戸時代には、門付芸のひとつとして行われるようになったという。
空也上人を始祖として、「鉢叩き」を行なう者は空也僧と呼ばれていた。空也上人は、平安時代中期の僧である。念仏の意味を民衆に説きながら諸国を回ったという。
また空也上人は、訪れた土地の道路や橋を補修したり。受けたお布施を、貧しい者や病に苦しむ者へ与えた。
このことから、人々は空也上人のことを「阿弥陀聖(あみだひじり)」とか「市聖(いちのひじり)」と呼んだという。
京都では、「空也忌」とされる旧暦十一月十三日から旧暦の大晦日まで、空也僧たちが四十八日間、「鉢叩き」を行っていたとのこと。
鎌倉時代の作とされる「木造空也上人立像」は、京都の六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)に安置されているものが有名である。
現代では、国の重要文化財となっている。
開いた口から、針金で繋がれた小像が飛び出している立像の写真は、これもまた学校の何かの教科書で見たような記憶がある。
句の「乾鮭」を彷彿させる高橋由一の「鮭」と、空也上人立像の写真が、ともに教科書に載っていたということ。
これが私にとっての、この句における「乾鮭」と「空也」との唯一の関連付けである。
芭蕉は、「乾鮭」と「空也」とのどんな関係を想定していたのだろう。
考えられるのは以下の点である。
干物である「乾鮭」も、「空也(立像)」も痩せている。
「乾鮭」は、もとは回遊魚であったし、「空也」は諸国を回り歩いた。
「乾鮭」も「空也(空也僧:鉢叩き)」も冬の風物詩である。
これらが、「寒の中」という下五に対応している。
その「寒の中」とは、「二十四節気」という方法で設定した一年の気候の変化のひとつ。
「変化」というキーワードで考えれば、「乾鮭」は鮭の変化したもの。
江戸時代の「空也(空也僧:鉢叩き)」は、始祖である空也上人の念仏が門付芸に変化したもの。
そういう変化に対する芭蕉の実感が掲句なのではあるまいか。
痩せ細った「乾鮭」は、かつて海を泳いでいた頃も面影もなく、ミイラのような異様さを放っている。
鉢叩きの始祖とされる空也上人の立像も痩せ細り、開いた口から小像を吐き出している様は、念仏を唱えながら諸国を行脚したその苦行を表している。
独学で身につけた油絵の技法で、吊るされた鮭の実在感を表現した明治時代の画家高橋由一。
「乾鮭」と「空也」の痩せた実在感を、「寒の中」に際立たせた芭蕉。
変化することで、より実在感がまざまざと浮き出る対象を、芭蕉は「寒の中」に詠んだのではあるまいか。
乾鮭も空也の痩せも寒の中
https://ameblo.jp/esi-jizaiten/entry-10250798017.html 【名句集 世に盛る花にも念仏申しけり (よにさかるはなにもねぶつもうしけり)】より
世に盛る花にも念仏申しけり (よにさかるはなにもねぶつもうしけり) 芭蕉
意味
今を時めく真盛りの花にさえ、有り難がって手を合わせ、念仏を唱えていることよ。あのご老人は。江戸の庶民の信心深さが分かりますね。こんな老人がいっぱいいたのでしょう。
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