http://chihosho.neil.chips.jp/?eid=922 【戦後俳句史 nouveau 1945-2023 ─ 三協会統合論
筑紫磐井 著】より
ウエップ刊
四六判変型上製 382頁
定価:3,300円(本体3,000円 + 税10%)
第1部において「第二芸術」とその論の捉え直しを行い、戦後俳句の三つの典型、「社会性俳句」「前衛俳句」「心象伝統俳句」の基準とダイナミズムを詳らかに提示。
第2部「戦後俳壇史」では、第1部を踏まえた俳壇の流れを辿り、詠法の検証、新たな提言もおこなった。
著者略歴
筑紫磐井(つくし・ばんせい)
昭和 25 年1月、東京都に生まれる。
俳誌「沖」を経て、「豈」同人。現在、「豈」発行人。藤原書店「兜太 TOTA」編集長。
句集に『野干』(平成元年、東京四季出版)、『婆伽梵』(平成4年、弘栄堂書店)、『花鳥諷詠』(『筑紫磐井集』〈平成 15 年、邑書林〉に収録)、『我が時代:2004-2013――筑紫磐井句集』(平成 26 年、実業公報社)。
評論集に『飯田龍太の彼方へ』(平成6年、深夜叢書社)(第9回俳人協会評論新人賞)、『標語誕生!――大衆を動かす力』(平成 18 年、角川学芸出版)、『21 世紀俳句時評』(平成 25 年、東京四季出版)、『虚子は戦後俳句をどう読んだか』(平成 30 年、深夜叢書社)。
詩論に『定型詩学の原理――詩・歌・俳句はいかに生れたか』(平成 13 年、ふらんす堂)(正岡子規国際俳句賞特別賞、加藤郁乎賞)、『近代定型の論理――標語、そして虚子の時代』(平成 16 年、豈の会)、『詩の起源』(平成 18 年、角川学芸出版)、『女帝たちの万葉集』(平成 22 年、角川学芸出版)、『伝統の探求〈題詠文学論〉』(平成 24 年、ウエップ)(第 27 回俳人協会評論賞)、『戦後俳句の探求〈辞の詩学と詞の詩学〉』(平
成 27 年、ウエップ)他。共編著に『攝津幸彦全句集』(平成9年、沖積舎)、『現代一〇〇名句集』全一〇巻(平成 16 ~ 17 年、東京四季出版)、『俳句教養講座』全三巻(平成 21 年、角川学芸出版)、『新撰 21』『超新撰 21』(平成 21・22 年、邑書林)、『相馬遷子――佐久の星』(平成 23 年、邑書林)、『いま、兜太は』(平成 28 年、岩波書店)、『存在者金子兜太』(平成 29 年、藤原書店)、『林翔全句集』(令和5年、コールサック社)他。
現代俳句協会副会長 俳人協会評議員 日本伝統俳句協会会員 日本文藝家協会会員
https://www.jnpc.or.jp/archive/conferences/34975/report 【俳句とは時代状況に鋭敏に反応した文芸】より
森原龍介 (共同通信社文化部)
戦後間もなく、俳壇では戦時体制に協力した長老が影響力を保持していることへの反発が募っていた。そんな中で、中堅、若手の俳人が中心となって創設された現代俳句協会は、まさに「戦後俳句の出発点」だった。
今年70周年を迎えた現代俳句協会。記念式典を目前に控えて行われた記者会見で、宮坂静生会長は「俳句における社会性が戦後俳句の重要なテーマになった」と強調した。ただあるがままの自然や季節の変化を詠むのではなく、社会的な存在としての人間そのものを見つめる姿勢がそこには求められた。顧問の安西篤さんは「戦後俳句は、社会性の自覚に立った自己表現を目指した。自然の客観写生にとどまらず、人間の社会的生活、内面をも表現しようとした」と総括する。
前会長の宇多喜代子さんは「個人の事情、考え、記録が、振り返ると社会の記録になっている」と語る。時代ごとの作品を追っていくと、戦後社会の実像が浮かびあがってくる。例えば、西東三鬼の〈おそるべき君等の乳房夏来る〉について、宇多さんは「もんぺを脱いだ女性たちが自由を得て街を闊歩するようになった」と、その背景を解説する。戦後の日本で人々が感じたであろう解放感が、身体感覚に訴えかけるように伝わってくる。
「俳句は時代状況に鋭敏に反応した文芸」と安西さんは言う。俳句の言葉はスローガン的に反戦や平和を訴えるものではない。だからこそ、時代を超え、普遍性を帯びて遠くまで言葉が届く。その力が発揮されたのは、戦後直後だろう。協会名誉会長の金子兜太さんは、いち早く戦死者への鎮魂を詠んでいる。南洋を離れる際の〈水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る〉がそうだ。安西さんは、戦後俳人の特徴に「自分の生の背後に無数の死者がいる」との死生観があると指摘した。
近年、俳句の言葉の普遍性を強く印象づけたのは東日本大震災かもしれない。伊藤雅昭さんの〈除染とは地べた剥ぐことやませ来る〉や、高野ムツオさんの〈泥かぶるたびに角組み光る蘆〉など、東北に生きる多くの俳人が無数の死や原発災害の悲しみと向き合った。彼らの言葉を、宮坂会長は「京都や東京でできあがった洗練されたフィクショナルな美しい言葉ではなく、日常の生の言葉に自分の思いを託している」と評価した。
会見を通して、戦後俳句から震災詠まで、社会、歴史、そして人の生と死と向き合ってきた戦後俳人の背骨が見えてくるような思いがした。
https://www.youtube.com/watch?v=-hnMIJ5h-Eo
記者による会見リポート
俳句とは時代状況に鋭敏に反応した文芸
戦後間もなく、俳壇では戦時体制に協力した長老が影響力を保持していることへの反発が募っていた。そんな中で、中堅、若手の俳人が中心となって創設された現代俳句協会は、まさに「戦後俳句の出発点」だった。
今年70周年を迎えた現代俳句協会。記念式典を目前に控えて行われた記者会見で、宮坂静生会長は「俳句における社会性が戦後俳句の重要なテーマになった」と強調した。ただあるがままの自然や季節の変化を詠むのではなく、社会的な存在としての人間そのものを見つめる姿勢がそこには求められた。顧問の安西篤さんは「戦後俳句は、社会性の自覚に立った自己表現を目指した。自然の客観写生にとどまらず、人間の社会的生活、内面をも表現しようとした」と総括する。
前会長の宇多喜代子さんは「個人の事情、考え、記録が、振り返ると社会の記録になっている」と語る。時代ごとの作品を追っていくと、戦後社会の実像が浮かびあがってくる。例えば、西東三鬼の〈おそるべき君等の乳房夏来る〉について、宇多さんは「もんぺを脱いだ女性たちが自由を得て街を闊歩するようになった」と、その背景を解説する。戦後の日本で人々が感じたであろう解放感が、身体感覚に訴えかけるように伝わってくる。
「俳句は時代状況に鋭敏に反応した文芸」と安西さんは言う。俳句の言葉はスローガン的に反戦や平和を訴えるものではない。だからこそ、時代を超え、普遍性を帯びて遠くまで言葉が届く。その力が発揮されたのは、戦後直後だろう。協会名誉会長の金子兜太さんは、いち早く戦死者への鎮魂を詠んでいる。南洋を離れる際の〈水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る〉がそうだ。安西さんは、戦後俳人の特徴に「自分の生の背後に無数の死者がいる」との死生観があると指摘した。
近年、俳句の言葉の普遍性を強く印象づけたのは東日本大震災かもしれない。伊藤雅昭さんの〈除染とは地べた剥ぐことやませ来る〉や、高野ムツオさんの〈泥かぶるたびに角組み光る蘆〉など、東北に生きる多くの俳人が無数の死や原発災害の悲しみと向き合った。彼らの言葉を、宮坂会長は「京都や東京でできあがった洗練されたフィクショナルな美しい言葉ではなく、日常の生の言葉に自分の思いを託している」と評価した。
会見を通して、戦後俳句から震災詠まで、社会、歴史、そして人の生と死と向き合ってきた戦後俳人の背骨が見えてくるような思いがした。
共同通信社文化部 森原龍介
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