https://mag.nhk-book.co.jp/article/45210 【いったい哲学は、何の役に立つのか?【学びのきほん 哲学のはじまり】】より
「当たり前」に縛られた私たちに新しい視点を与えてくれる「哲学の可能性」
SNSを中心とした各メディアで話題となり発売即増刷となった『NHK出版 学びのきほん 哲学のはじまり』。「NHK100分de名著」での解説などで注目を集める哲学研究者・戸谷洋志さんが、哲学をその「はじまり」から紐解く、知識ゼロから学べる哲学入門です。
今回は本書より、「当たり前」に縛られた私たちに新しい視点を与えてくれる「哲学の可能性」についての解説を公開します。
古代ギリシャの哲学者ソクラテスは哲学的な思考を、面白いもので譬(たと)えています。それは、風です。
風にははっきりとした形がありません。風がどこにあるのか、どこからやってくるのか、そしてどこへ行くのかは、目には見えません。でも、それは確かに存在します。そこにあるにもかかわらず、実体の摑めないもの──考えるという営みは、そうしたものだと彼は考えたのでした。
でも、果たして本当にそうでしょうか。たとえば、考えたことを言葉にして、本にすることができたら、それは思考に形を与えたことになるのではないでしょうか。
ソクラテスの考えでは、おそらく、そうはならないでしょう。なぜなら、たとえ私たちが思考を言葉で表現しても、私たちの思考はその言葉を通り抜け、あるいは解体してしまうからです。
たとえば、何かが存在する、ということの意味を考えて、「存在とは○○である」という結論に行き着いたとしましょう。そのとき私たちは、自分の思考を言葉で表現し、その思考に形を与えたことになります。一時は、そのことに満足し、私たちは考えることを止めるかも知れません。しかし、時間が経ってくると、だんだんとまた風が吹き始めるのです。「あれ、そもそも○○ってなんだっけ」と。
哲学は「当たり前」を問い直す営みであり、それはもう少し堅い言い方をすれば、概念のネットワークを解体し、相対化し、検証する営みです。それに対して、言葉で言い表されたものは、すべて、何らかの概念のネットワークに落とし込まれます。そうでなければ意味が伝わらないからです。だからこそ、思考は形にならないのです。
このことは、哲学について書かれた本を読むときには、特に注意するべき点です。私たちは、つい、偉い哲学者が言ったことをそのまま信じようとしてしまいます。あるいは、信じるまでいかなくても、「この哲学者はこう言ったのだ」と、ただ引用することだけで満足してしまいます。でも、その言葉そのものには、正直に言ってあまり意味がありません。大事なのはあくまでも考えることなのです。
しかし、当然のことながら、哲学者が考えていたことを、言葉になる前に遡って知ることなんて、誰にもできません。私たちにできることは、その本を糧にして自分で思考することでしかありません。哲学者が何を言ったのかよりも、その言葉から自分が何を考えたのか、ということの方が、哲学にとってははるかに重要です。
ですから、そこに思考が伴(ともな)っていないなら、本を一冊、初めから終わりまで全部暗記しても、あるいは、ものすごいスピードで速読し、何冊もの哲学書を読んでも、あまり意味はないのです。
では、どういう読み方をすればいいのでしょうか。本書を読み直すとき、あるいはこれから新しい別の哲学書に挑戦するとき、どんなことに注意すればいいのでしょうか。
私が大切だと思うのは、書かれていることに対して問いを連想しながら読むことです。もしもあなたが、本書を一回読み終えることができたなら、ぜひもう一度、最初に戻って、今度はもっとゆっくりと読み直してみてください。「むむむ、戸谷はこう言っているが、果たして本当にそうなのか……?」と、探偵になったつもりで文章を追ってください。
そして、ちょっとでも違和感を抱いたら、その感覚を、決して手放さないでください。ソクラテスも言う通り、思考は風です。それは急にあなたのもとにやってきます。でも、何もしないでいたら、すぐにどこかに消えてしまいます。だからそれを手のなかに包み込み、じっくりと吟味(ぎんみ)してほしいのです。
私のオススメは、思い切って本を閉じてしまうことです。ぱたん、という音が、思考が始まる合図になります。ソファーに腰掛けたり、畳の部屋で寝っ転がったり、お風呂に浸かったりしながら、違和感を言葉にし、なぜ自分がそう思うのかを、問い直してみてください。私が思うに、これが、哲学的な思考の一番クラシックなスタイルです。たぶん、古代ギリシャの哲学者たちも、そんなことをしていたのではないでしょうか。
当然ですが、そんな読み方をしていたら、いつまでたっても本を読み終われません。でもそれでいいのです。先ほども述べましたが、哲学書に関して、早く読み終えることには何の価値もありません。大学の専門的な哲学教育では、一週間かけて数行の文章を読む授業が行われるくらいです。焦らず、自分のペースで、じっくりと思考すること、それが哲学の営みにとってもっとも重要なことなのです。
そんなことを言うと、次のような疑問を持つ方もいるかも知れません。「そんなことをして、いったい何の役に立つんだろうか」と。
哲学は「当たり前」を問い直す営みです。当然ですが、「当たり前」に従って生きていくことの方が、色々な意味で合理的です。みんなと同じような人生を、みんなと同じように歩んでいくのですから。他人からとやかく言われることもなく、多数派に属している安心感を抱けます。
それに対して、哲学的に思考することは、そうした生き方から離れることを意味するのです。だから、哲学することは合理的ではないように見えます。「なんでそんな生産性のないことをしているの?」と、他人から訝(いぶか)しく思われることもあるかも知れません。
でも、みんなと同じ「当たり前」に従って生きることが、私たちにとって幸せであるとは限りません。「当たり前」は、同調圧力となって、私たちから選択肢を奪い、可能性を制限するからです。本当は別の生き方もできるはずなのに、まるで一つしか答えがないかのように思い込ませるもの、それが「当たり前」なのです。
哲学は、そうした制限から、私たちを解放します。そこに哲学の最大の価値があるのでしょう。思考が、概念のネットワークをすり抜ける風であるからこそ、既存のネットワークに、つまり「当たり前」に縛られている私たちに、新しい可能性を開いてくれるのです。
私たちは、どんなに歩き疲れていても、この道を歩き続けなければならない、と思い込んでいます。自分が歩き疲れていることにさえ、気づかなくなっています。足元しか見えなくなり、視線は地面に固定されます。それが「当たり前」だから、みんながそうしているからです。
そんなとき、思考の風は、問いかけるのです。「あなたはどこに向かっているの?」「あなたは何のために歩いているの?」と。そのとき私たちは立ち止まり、時間が止まったように感じます。視線は、足元から、遠くの景色へと誘(いざな)われます。そして、いま歩いている道以外にも、道はいくらでもありえることに、気づくのです。
あなたにとって哲学が、そうした、頬を撫でる柔らかく優しい風であったら、素敵だと思います。
Faceboook加藤隆行さん投稿記事 【感情が先、思考は後】
知ってました?「思考」って“道具”なんですよ。だからその思考を使う主体となる者が必要なのです。それが、「私」。
え?何言ってるの?「私」ってのは気持ち、感情、感覚想い、欲求、とカラダのレベルで感じるもの。
私が気持ち、感情、感覚想い、欲求、を“感じて”、その想いを実現させるためにアタマで“考える”。そうやって「思考」は"使う” のです。
あれがしたいこんなものが欲しいと「感じて」、それを手に入れるためにはどうすればよいか、と「考える」。
これは嫌だなこれは楽しいなと「感じて」じゃあ嫌なこれを避けるには楽しいこれをもっと増やすにはと「考える」。
順番は「感じる」⇒「考える」⇒「実現する」
「感じる」が主体。「感じる」が本体。「感じる」がエネルギー。
でもみんな「考える」から始めてる。「考える」⇒「実現する」だけだと魂が抜けてるの。
どこにも“想い”や“感情”がないの。だからどれだけ実現しても空虚だし、自分の望んだものじゃない。そもそもエネルギーが充填されてないので、全然実現さえもしていかないかもしれないね。
「考える」から始めるって「こうあるべき」とか「こうあらねば」とか「偉い人にならねば」とか「お金儲けねば」とか「人に親切にするべき」とか「フツーは、一般的には」とか「みんなは」とか。これは全部、思考なの。”私”の想いが全然入ってないの。
想いがあってはじめて目的地が決まるのに目的地だけ決めてるの。
だから人生がどこにも向かわないしいつまでも満たされないのです。
「思考」にはちゃんと「感情」というエネルギーを入れてあげれば、魂を注入してあげれば
優秀な道具となり参謀となり、軍師となる。
「思考」は道具。「私」が「想い」が「感情」が、使うものなのです。
「私は、どんな気持ち?」「私は、何を感じてる?」「私は、本当はどうしたい?」
これがスタートライン。
ワシ、スタートラインにも立ってなかったと気づいたのは40歳過ぎてからだったわ(笑)
遅咲きのオジサンはいまやっと「思考」をお供に「”私”の道」を歩いてる気がしてます。
がっこの先生から「もっと考えなさい!」とは言われてきたが「もっと感じなさい」と言われたことはない。だからこんな頭デッカチでこじらせた大人になってしまったわ(笑)
「感じる」が先で「考える」が後。覚えといてね。
思考に使われるなよ(^ω^)
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