http://buntan.la.coocan.jp/back2/animism.html 【岡井盛夫 俳句のアニミズムとは?】より
まえおき
1993年8月、「小夏とかつお」(自分史・高校編)を自費出版した。その文集の一つに、藤田洋一さん(故人)の次のような文章が掲載されている。
ー 歳を取るとやっぱりアチラの方の事情も幾らか気になる。遠藤周作さんはよく「生かされている」と言っている。若い頃のフランス留学時代の事を書いた『牧歌』は彼のクリスチャンに至る壮絶な体験が描かれているが、理解する所はあってもあの異国の宗教を信じることで救われるきがしない。梅原猛さんの動物はおろか山川草木総てに魂が宿るアニミズムの方が心和やかに感じられる。-
アニミズムとは何か、私は洋一さんの文章に書かれているように理解していた。今でも、それ以上でもそれ以下でもない。
俳句のアニミズムとは?
著書『中沢新一 俳句の海に潜る 小澤實』に、「俳句のアニミズム」(中沢新一)の章がある。その中に、金子兜太と佐々木幸綱の対談が紹介されている。
佐々木 「俳句の本質はアニミズムなんではないですか」
金子 「そうなんだよ アニミズムを無視して俳句を作るなと言いたいぐらいです」
上記「俳句のアニミズム」は、私の初歩的なアニミズムをはるかに超えている。「俳句のアニミズム」には、そのことが具体的に書かれてある。
閑さや岩にしみ入る蝉の声 松尾芭蕉
「この句はまさにアニミズムの極致。蝉を流れるスピリット(※①)と岩を流れるスピリッツが相互貫入を起こして染みこみあっている」、と書かれている(※②)。
※①動くもの。②私にとっては、難解。
凍蝶(いててふ)の己が魂追うて飛ぶ 高浜虚子
「この句をアニミズム的な詩と呼ぶことができても、じつは近代的なアニミズムである」、と評している(※)。
※中沢氏は、この句を「アニミズムの俳句」に位置付けていない。
採る茄子の手籠にきゅァとなきにけり 飯田蛇笏
「<きゅァ>っと音がした。その<きゅァ>を、茄子が泣いていると言った瞬間に、茄子の中に意識が入ってしまっている。茄子と俳人の間で意識の相互貫入が起こってしまっている」、と解説されている(※)。
※アニミズムの代表的な俳句としてあげられている。
おおかみに蛍が一つ付いていた 金子兜汰
「まさに「東国」のアニミズム感覚。蛍はお尻を光らせ、その体につけたおおかみは、自分の力をもって存在の光をしめす。おおかみはもういなくなってしまったが、じっさいに見たこともないのに、私たちの中には、おおかみの目の光の記憶があるように思える。たぶんこの目の光は「東国」の自然の放つ霊妙な原始的エネルギーの化身なのか。俳句とアニミズムが根源的なところでつながっている」、と評価している。
おわりに
詩の表現に擬人法がある。「物や動物を人になざられえた表現」と言われている。
木啄も庵はやぶらず夏木立 松尾芭蕉
この句は、木啄を人に見立てているから、擬人法だと言われている。但し、擬人法とアニミズムは関係がない。
俳句に「物」に語らせる手法がある。「アニミズムとの関わりは?」、と思ったことがあった。しかし、語らせるのだから、アニミズムではない。
本文で、蛇笏は茄子に兜太はおおかみに、意識を集中し俳句の世界として詠まれている。その五七五の音の世界では、茄子やおおかみに魂があっても自然な描写になる。そのアニミズムに、俳句の本質があるのかも知れない。
https://kyorinpg.xsrv.jp/category9/entry283.html 【読書シリーズ「わたしの芭蕉」
『わたしの芭蕉』加賀乙彦 講談社】より
加賀乙彦:(かが おとひこ、1929年4月22日~)は、日本の小説家、医学者(犯罪心理学)、精神科医。勲等は旭日中綬章。学位は医学博士(東京大学・1960年)。日本芸術院会員、文化功労者。本名は小木 貞孝(こぎ さだたか)。本名でも著作がある。
室生犀星とは7親等の血縁。娘はQVCジャパンショッピングナビゲーターの加賀真帆。自宅は東京都文京区本郷にある。
オウム真理教事件において、弁護士に依頼され麻原彰晃に接見し、訴訟能力はなく治療すべきであると結論づけた。
それにしても・・、芭蕉といい、著者の加賀乙彦氏といい、何と古文書や中国の事情等に長けていることか!!
松尾芭蕉については、こちらのサイトが詳しいです。
「奥の細道」の総移動距離は3月27日~9月6日まで154日間で、なんと600里(2400キロ)!
2,400Km/154日=15.6Km/日
連泊したりしているので、1日の歩行距離は約50キロであったのではないかと言われています。
この時の芭蕉は45歳。この強健さ!そして何度も旅に出るという身軽さから、芭蕉は忍者だったのではないか?という疑惑まであるそうです。(芭蕉の出身地は忍者で有名な伊賀ですから・・!)
備忘録
【帯の文章から・・『芭蕉は、美しい日本語の世界に遊ぶ楽しみを私に教えてくれた。』
古典に深く親しんで来た作家が芭蕉の句を読み解きながら、日本語の豊かさ、人の生き方
老いと死の迎え方を伝える名エッセイ。
本書の
第一部では芭蕉の句を詠む姿を追う。度重なる推敲の過程をたどり、満足すべき表現に到達する姿の感動を記した。
第二部は、深い愛着の心で自然や人事と交わる芭蕉の姿を見る。
第三部では、、芭蕉の人生行路に注目しつつ、俳句をちりばめた紀行や豊かな俳味を持つ俳文の世界を味わう。奥深い芭蕉の世界にふれる喜びが伝わる一冊。】
以下本文より・・
《東にあはれさひとつ秋の風》
能因の白河の関の和歌を下敷きにしている。「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」名歌の教養をちらつかせるだけで、名句にしたてあげた。
芭蕉は、冬の寒さに震え、夏の暑さにまいってはいるが、それらの季節を嫌ったり、避けようとしたりするよりも、四季おりおりの変化を楽しむ境地にいたと思う。むろん寒さに苦しんで暖を取ろうとし、暑中には涼を求めて山登りしたりしている。しかし、四季の変化を、それこそが天のあたえた恵みであり、四季の変化に即応する文化を生み出した源泉であると思い、人生の喜びであるとみなしていたようだ。
《秋深き隣は何をする人ぞ》
このように、自分の生と死にいつも関心があるのは人間として当然ではあるが、仏の境地に入った人には、また違った感慨がある、孤独でまったくのひとりぼっちであるのが、現実であっても、なお隣の人への関心は全的には棄てられないものなので、そこに人間の悲しい性がある。
寛永二一年(1644年)生まれ。元禄七年(1694年)10月12日芭蕉逝去。享年51歳。
《荒海や佐渡によこたふ天河》
ところで、この句「荒海や」に母音のA音が多いと指摘したのは、詩人の三好達治である。これは随筆「温感」にある「母音の説」である。「母音のAは、何かしら鷹揚であたたかい感じがする。Oもまたそれにやや似ている。Uになるとその度を減じて、代わりに柔らかくおだやかな感じになるようである。EとIは鋭く冷たい。
《夏草や兵共がゆめの跡》
《なつ草や兵どもの夢の跡》
が初句である。人々の夢と、ひらがな漢字混用のなつ草とでは人間の栄華のあとのほうが強く表現されすぎていて、つまり歴史の出来事が強すぎてなつ草が弱い。
《夏草や兵共が夢の跡》
そこで、「なつ草」を漢字の「夏草」にしてみると釣り合いがとれる。それはそうなのだけれども、「夢の跡」という歴史を思い出すような固い表現になって面白くない。芭蕉の表現のすごさは、「夢」を「ゆめ」というひらがなにしたことにある。
「ゆめ」という、やわらかなひらがなにしてみると、つわものどもは一般化して、草と兵との釣り合いがとれる。
若いとき、芭蕉は寿貞と知り合った。親しく付き合っていたが、芭蕉が俳諧師として抜きんでた地位にのぼるにつれて、彼女は自分は物の数にも入らない、つまらない人間だと卑下するようになってきた。その寿貞を慰めて、芭蕉はいろいろと世話をしてやっていた。寿貞は尼になり、ひっそりと暮らしていたが、元禄七年(1694年)六月二日ごろに急死した。芭蕉庵で息絶えたのだ。そして芭蕉も同年十月十二日に息絶えた。
芭蕉の生国は、伊賀の上野である。寛永二一年(1644年)生まれ。父松尾与左衛門は郷士で芭蕉が13歳の時に没した。芭蕉は幼名を金作、続いて宗房、通称は甚七郎であった。
《水とりや氷の僧の沓の音》
百骸とは体の中にある沢山の骨、九竅(きゅうきょう)とは体に空いている九つの穴のことで、つまり二目、二耳、二鼻、一口、一尿口、一肛門で九つの穴。つまり百骸九竅は人の身体のことである。
風羅とは風にひるがえるうすもので、破れやすい芭蕉の葉のこと、坊をつけて芭蕉は、自分のあだなにしているのだ。
「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」(杜甫の「春望」の詩)
《夏草や兵共がゆめの跡》
《卯の花に兼房見ゆる白髪かな》 曾良(卯の花のように髪の白い兼房は奮戦して花に飾られたと曾良は詠んだ)
《五月雨の降残してや光堂》《蚤虱馬の尿する枕もと》
立石寺にて
《閑さや岩にしみ入蝉の声》《荒海や佐渡によこたふ天河》《一家に遊女も寝たり萩と月》
《塚もうごけ我泣声は秋の風》
小松の多太の神社に、平維盛に従った斎藤別当実盛の甲がある。敵となった義仲に、老人と見られぬよう、白髪を染めて出陣し、奮戦したが討ち死にの末路である。
《むざんやな甲の下のきりぎりす》なんと悲しい老武士の末路であったことか。
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