学ぶことの勇気と流行

https://mag.nhk-book.co.jp/article/29949 【俳句は日本の「リベラルアーツ」だ!【学びのきほん】】より

日本人として最低限おさえておきたい俳句のいろはとは?

『学びのきほん 教養としての俳句』では、「そもそも俳句ってどうやって生まれたの?」「季語ってなぜ必要なの?」「どうやって俳句の意味を読みとけばいいの?」など、知っているようで意外に知らない俳句の知識を解説しています。

今回は本書より、著者の青木亮人さんによる「俳句」へのいざないを公開します。

 俳句を教養として学び、味わうこと。これが本書の目的です。

「教養」とは、名句を詠よむためのコツやテクニックを身につけたり、俳句や詩歌の歴史を詳細に知るということではありません。むしろ生き方に関わるようなことであり、つまり俳句を通じて私たちの生き方がどのように変わり、いかに深まるのか、というのが本書の主眼です。

 生き方、と記すと大おお仰ぎょうに響くかもしれません。それは次のような情景にひととき心を奪われる体験の別名と捉とらえた方がよいでしょう。

まさをなる空よりしだれざくらかな  富安風生

 春の青空の下、天蓋を戴くように大ぶりの枝垂れ桜が咲いています。作者はその桜を間近で見上げているのです。

 まるで青空から降りかかるように枝が垂れ下がり、その枝には薄紅の花がこぼれんばかりに咲いている。空の深いところからスローモーションのように枝垂れ桜が落ちてくるようでもあり、この世に青空と枝垂れ桜のみが存在し、作者の心を青と淡い紅色で染め上げるような情景が広がっています。

 枝垂れ桜は春の柔らかい陽ざしに透かされつつ、微風にたゆたうように僅かに揺れ、花片を静かに散らせています。

 俳句は、このような無言の風景を大切に詠み続けてきました。ある目的のために景色を注視するのではなく、ただ青々とした空が広がり、春の桜が咲いていることに無心に見入り、心が空っぽになるような体験を重視したのが俳句というジャンルです。

 日々あれこれ悩み、大事だと思っていたことがふと洗い流され、ただ心の中が空と桜だけに満たされているような瞬間。それが何かの役に立つのか、価値ある体験なのかは分からない。しかし、確かに忘れがたい光景が広がり、そこに心を震わせた瞬間があったことを俳人は大事なものと信じ、読者に感じてもらおうと黙って景色を指さします。

 その指先の向こうには四季の情趣がたなびき、暮らしの中のふとした出来事や何気ない瞬間が佇んでいる……こういった情景を通じて私たちの暮らしを捉え直した時、変わりばえのしない日常生活が思ったよりも豊饒で、小さな美しさに満ちていたことに気付くかもしれない。それはひいては「私」という存在や、人として暮らしていることの捉え方が変わる契機たりうるかもしれない。

 本書はこれらのことを俳句史を振り返ったり、「写生」という独特の価値観に触れたり、俳句作品を味読したりしながら丁寧に体感してみようと思います。

 では、なぜこういった内容に「教養」という名を冠するのか。

 ドイツ文学の伝統的なジャンルに、教養小説(Bildungsroman)があります。主人公が自分らしい自分になるまでの魂の遍歴を綴るという内容で、文豪ゲーテ(一七四九~一八三二)の『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』が嚆矢とされます。

「教養」を指すドイツ語の Bildung は、英語の Becoming に相当します。つまり、「教養」とは自分を自分として形成することであり、あるべき人間として自らを磨き、揺るぎない「私」を確立させる営為なのです。

 それは富や名声を手に入れたり、多くの人から注目を浴びる人生を歩むといった意味ではありません。自分が最も自分らしいと感じ、納得するために自身を磨き、まだ見ぬ「私」と出会うために勉学や人生修行に打ちこみながら心の襞を深くし、人格を陶冶するのが「教養」なのです。

 何をもって自分らしいと信じるのか、あるべき人間像とは何か。「教養」とは、こういった問いそのものを自身で培い、試行錯誤を経ながら確信を得ようと努める無償の営みといえます。

 ここで、先ほどの俳句の情景を思い出してみて下さい。

 春の空は胸が切なくなるほど青々と澄みわたり、その空から降り注ぐように無数の枝が垂れ下がり、こぼれるように花を咲かせる枝垂れ桜……自然は無償の美しさに満ちています。四季のうつろいの中、こういった自然の表情一つ一つに目を留め、現れては消えゆく季節を慈しむ俳句もまた、無償の営為といえるかもしれません。

 かような俳句や季節感を味わうことはいかなる自分と出会い、日々の暮らしや人生を見つめ直すことになるのか。「教養」として俳句を学ぶ第一歩として、まずは第1章のページを繰るところから始めてみましょう。


http://www.asahi.com/ad/chinohiroba/zemi03/ 【「学ぶことの勇気と流行」】より

霜 栄(しも さかえ)先生 駿台予備学校 現代文科講師

学びの原点は「言葉」と「道具」を学ぶことから

なぜ人は学ぶのでしょうか。私は「自分が持っている今の限界を壊して自由になるため」だと思っています。だから、学ぶためにはそれなりの労力も必要です。そして人類は学ぶという宿命を背負って生まれて来たのでしょう。

人類の歴史を辿ると、およそ500万年前に、樹上から地上に降り、二足歩行に移行しました。しかし地上には猛獣という敵が暮らしています。だから人間は、猛獣から命を守らなければなりません。

そこでうまく役立ったのが言葉と道具です。もちろん生物は、役立つものを手に入れるために進化することなどできません。言葉の始まりは、祈りや叫びといった詩的言語だったでしょう。猛獣に一人で立ち向かうことはできないため他者と協働し、連携プレイを行う必要がありました。その際、仲間とコミュニケーションを取る手段として、祈りや叫びのためにあった言葉が偶然役立ったのです。また、二足歩行により空いた両手で、道具を使うことができるようになりました。こういうわけで、学びの原点は言葉と道具を学ぶことでした。

言葉を学ぶということは、名前を付け、自分とそれらを区別していくことです。机といすを分ける。さらに机とテーブルを、椅子とソファを分ける。こうして身の回りの世界を分けて成長していきます。そしてこれが「分かる」という言葉にもつながっています。サイエンス「科学(=分科の学)」の語源も「分かる」という意味です。分かったと叫ぶのは、それが何の要素でできていて、どんな秩序で存在しているのかを理解した瞬間です。例えば、物質を化学式で表してみる。そうすると何の要素と何の要素がどのようにつながっているかが分かるわけです。また、道具を使って日常の困難に対処し、世界を解釈し環境を変えていく。これは現在の科学技術の原型ではないでしょうか。

言語と道具は一言で言えば「メディア」と言えます。メディア「media」と は、「間にあるもの」を意味する「medium」の複数形です。言語は、私とあなた、彼と彼女、いろいろな人間の間で交わされます。道具も同じ。私と土、私と岩、私と植物の間で作用します。つまり、人間の学びの始まりが、メディアの始まりでもあったと言えるでしょう。厳しい環境の中で、世界を解釈し、現実を変えるために、人間は言葉で連携し合い道具で対処して生きてきた。それが人類の学びなのです。

世界が変わると、勉強することも変わる

2045年には、汎用性人工知能があらゆる分野で人間の能力を上回る「シンギュラリティ」の時代が訪れるとも言われています。囲碁の世界では既に人工知能(AI)が最も優秀な棋士たちに勝利を収めました。チェスの世界ではもっと以前にAIが人間に勝利しています。ではいま、チェスの世界で一番強いのは誰でしょうか。実は人間でもAIでもありません。「ケンタウルス」と呼ばれる人間とAIのタッグチームです。このようなイノベーション(=新しい結合)が今後さまざまな可能性を生み出すと期待されます。

2012年、オックスフォード大学のマイケル・A・オズボーン氏と、野村総合研究所は、日本の労働人口の49%がAIやロボットに代替される可能性が高いと発表しましたが、人間はただ、奪われるだけではなく、新たな仕事も生みだしていくでしょう。人間とAIのイノベーションです。第1次産業革命のときには、人間は蒸気機関を機織り機や馬車や帆船と結合させ、さらには鉄道を生み出し、通勤や通学が始まったのです。ですから、今後の世界が絶望的だと考える必要はないように思います。もちろん今回の第4次産業革命は、人間の身体能力の外化ではなく、人間の思考能力の外化ですから、私たちの学びにこそ最も大きな変化をもたらすでしょう。

2021年にスタートする「新共通テスト」が少しでも時代の変化にふさわしいものであることを願っています。最も顕著に変わろうとしているのが国語です。記述式の設問が導入され、従来ならこれが国語?と思うものも登場します。例えば、契約書や公的文書を読んだうえで、借主として住民として、どう対処すべきかといった問題が問われます。今後は、複雑な設定の中で特定の立場に立って、問題解決を図る能力が問われていくでしょう。

これからの学びの流行とは…

古代ギリシアの時代、仕事は奴隷が担っていました。それに対して自由人は体育、芸術、哲学といった技芸を学んでいました(たとえば哲学者プラトンはレスリングの名人としても著名です)。それがリベラルアーツ(自由になるための技芸)の始まりです。学校「スクールschool」の語源であるギリシア語「スコレーscholē」とは、もともと「今ここでやっていること自体に意味がある時間」という意味。役立つこと、仕事に活かせることを学ぶのは奴隷。自由人は自由であるために、自分の人生を費やすのに価値あることを学ぶのです。

その後、「リベラルアーツ」は古代ローマから中世において、自由7科(「文法・修辞学・論理学・算術・幾何・天文学・音楽」)となり,そして近代に入ってからは「人文科学・社会科学・自然科学の基礎分野の横断」へと、学問の流れは変化してきました。

近代の幕を開けたのは市民革命と科学革命でした。この二つの革命がもたらしたのは脱宗教化による近代国家の成立と第1次産業革命です。科学は世界をどう解釈するかの知恵となり、産業革命は、生活や環境を変える現実的な力を人間に与えました。こうして産業革命をきっかけに、学校で科学などの実学を教えるようになりました。これが普通学校教育の始まりです。

したがって私たちの学びには、2種類あります。役立つことを学ぶ実学と、学ぶこと自体に意味があり自由であるためのリベラルアーツです。産業革命後はとかく、役に立つ勉強をしようという流れが強くなりました。保険制度、インフラ、交通網などを整備することとともに、国家の収益をあげるためです。究極的には税収を増やすことが学びの目的とされたのです。

日本でも1872年に学制が公布され、近代の学校制度が始まります。この年には福沢諭吉が『学問ノススメ』を出版しました。これから新しい実学の学びが重要だという内容でしたが、当時日本の人口が3000万人余りの時代に、300万部以上も売れたと言われています。明治維新がけっして単に上からの変革であったわけではなく、人々の新しい時代への渇望に支えられたものであったことが感じとれます。

東京大学が開校したのは1877年。ヨーロッパには中世から大学がありましたが、神学や哲学、そこから派生した医学や文学が重要科目であり、当時、科学は“オタク的な科目”で、ヨーロッパの大学における学問の中心ではありませんでした。しかし東京大学は、富国強兵政策のもと工学系を重視したため、優秀な科学者を招くことができ、世界有数の大学へと成長していきました。

敗戦後の1947年には教育基本法が公布されます。「たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願う」とした上で、この理想を実現するために教育を推進するとしました。1872年の学制公布から75年ぶりの改革。そして2021年の新共通テストは、1947年の教育基本法から74年ぶりの改革。

このようにして人の一生に近い75年、74年という年月のほぼ等差数列的経過が、今回の大きな入試改革に必然性を与えているかのようです。

東京大学もまた変わろうとしています。電子書籍と紙の書籍とを融合させ、双方の利点を最大限に活用できる環境を構築するハイブリッド図書館の構想です。この図書館にはアクティブラーニングを意識した学習スペースも配備されるようです。図書館を起点として授業が展開していくのです。その場で電子書籍と紙の書籍の両方を駆使して学生同士が議論を行う形で授業が進められていく予定です。2045年のシンギュラリティに向けた世界的潮流とも言えますが、また福沢諭吉や緒方洪庵の塾に集った維新前夜の若者たちのアクティブラーニングに回帰していくものとも言えるでしょう。

あたりまえの自分を壊す勇気をもって学ぼう!

新しい時代に適応した「役立つ」教育を行おうという声は、今後ますます大きくなっていくでしょう。しかし大きな変化のときほど、ときに半歩下がって広い視野を保ち、なるべく本質を見極めていたいものです。

私は最初に触れたように、「自分が持っている今の限界を壊して自由になるため」に学ぶのだと思っています。もしも役に立つことだけを学ぼうとするなら、それは奴隷です。奴隷は何に価値があるのかを決める自由を持たず、すでに定められた名誉や権力や金銭の虜となるでしょう。役立つためだけの学びは精神を自由にしません。だから力をもつほどに多くの物や人を支配する力に向かってしまうでしょう。

存在する自分の祈りや叫びとしての詩的言語。役立つことに左右されない始まりの言語を忘れたくありません。自分とはしょせん、他者の他者にすぎません。そして誰もがみな、自分の世界の主人公でありながら、誰もがみな、他人の世界の脇役です。他人との間にけっして壁を築かないようにしたいものです。多くの他者の他者として存在するために。互いに自由であるために。

もちろん自分が達成できることは僅かです。しかし元来、世界の豊かさに比べれば、自分の存在など砂粒にすぎません。それを知るときの清々しさ、自由さ。それを味わうためにこそ、私たちは学ぶのではないでしょうか。

これからの時代、大きく激しく新しい学びの流行がみなさんを捉えるでしょう。松尾芭蕉は「不易流行」という言葉を唱えました。「不易」という不変の本質は、「流行」という新しい流れを追う姿にこそあるというのです。どこまでも自分の未知を知るためのものとしての学びを追求していってください。そしてそのためには、今の自分が身に付けたものを壊す勇気も必要です。世阿弥は「守破離」という言葉を唱えたと言います。守ってきたものを破り、さらに破る自分から離れてこそ、私たちは少し自由に舞うことができるのでしょう。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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