高橋睦郞句集『花や鳥』

https://furansudo.ocnk.net/product/3045 【高橋睦郎句集『花や鳥』(はなやとり)】より

花や鳥この世はものの美しく

芭蕉一代の表現行爲を継承しようと志すなら、その爲事を尊敬しつつ、各人自分一代の爲事を志さなければなるまい。そこに止むなく生じるかもしれない難解さを恐れたり、況んや忌避したりは禁物だらう。(著者)

栞・堀田季何 小津夜景 岩田奎

◆自選十五句

活字てふ文化滅びん夜の秋          陽炎や人形腑分け綿ばかり

竪の橫の聲交へ雨夜ほととぎす        罅痛し皸リ悲し紀元節

もののふの耶蘇蛆たかり肉薰れ        乳房より乳汁り白し搗上る

梓弓春は一の矢一の的            戀なべて泥うたかたと業平忌

秋蚊帳にまぐはふ靈マか現身か        火を垂るや又掬ヒ上げ飛ぶ螢

草能の後ろいつより月在りし          踏外す若いかづちかあの鳴るは

木のくれの舞一トさしか人一生         鶏頭のいうれい立てりあの邊り

雪頻れ逹磨俳諧興るべう


https://gakuen.koka.ac.jp/archives/683 【人見るもよし 人見ざるもよし 我は咲くなり

(武者小路実篤)】より

今月のことばは、代表作に「友情」、「愛と死」等がある武者小路実篤さんという近代日本の作家が残したことばです。本当は、このことばの前に「天与の花を咲かす喜び 共に咲く喜び」ということばがつき、「天与の花を咲かす喜び 共に咲く喜び 人見るもよし 人見ざるもよし 我は咲くなり」と続きます。

自身を花に例えたこのことばを直訳すると、「天から与えられた自分自身を咲かす喜び、他者と共に咲く喜び、そして、人が自分を見ていても、見ていなくても構わない、私は私として咲きます」となるでしょうか。植物が人の目を気にせず、季節が廻ればその花を美しく咲かせるように、私たちも自然のままに、自らの尊い命を咲かせればいいという意味だと思います。社会生活を送る上で、時に私たちは他人の評価や世間の価値観に振り回されてしまいます。しかしこのことばは、一人ひとりそれぞれが、かけがえのない命を、自分らしく凛とした姿勢で生きていけばいいのだと伝えているようです。

また、このことばを聞いて思い出されるのが、「天上天下唯我独尊」ということばです。これは、お釈迦様が、生まれてすぐ七歩歩いておっしゃられたことばだと伝えられています。

これは、この世にただ、私だけが尊いという意味ではなく、また、他人と比べて自分の方が尊いということでもありません。本当の意味は、私たち一人ひとりが、「この世にただ一人の、誰とも代わることのできない人間として、かけがえのない尊い存在、尊い命」であるということです。それぞれの個性の違いを認め合い、優劣なく、それぞれすべての命が尊いのだと認識することに他なりません。

寒い冬を乗り越え、今年も春になりました。桜が咲き、世界が花の色で色彩豊かに染まり、生命力あふれるこの季節に、新しい生活を迎える学生さんや皆様が、また、それぞれの美しいいのちの花を咲かせることを願ってやみません。(宗)


https://www.san-ai.ed.jp/archives/21163.html 【【日曜メッセージ】「 空の鳥、野の花 」】より

「思い悩むな。・・・あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である。」

(マタイによる福音書6章32節)

4月は様々なところで、新しい歩みがスタートします。何か新しいことを始めようとする時、私たちには希望と同時に、不安や悩みがつきまとうものです。上記の聖書の言葉は、イエス・キリストが群衆に向けて山の上から語られたとされる「山上の説教」の一部です。この山上の説教がなされた当時、イスラエルのガリラヤ地方には、強制移住させられた人々や、土地を持たない人、季節労働者や小作農、放浪者のような貧しい人など、生活が不安定な人が多くいたとされています。そのような人々に向かって、空の鳥や野の花を見習うべきだと、イエス・キリストは語ります。「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。・・・空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。・・・野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。・・・今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。」(マタイ6章25〜30節)そして、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(33節)と教えます。

現代社会の中で、私たちは様々な悩みを持って生きています。また、生活していくためにお金を稼がなければなりませんし、いろいろな課題を乗り越えていかなければなりません。そのような私たちにも、復活のイエス・キリストは聖書を通して語っています。一番大切なことは「神の国と神の義」を求めることである、と。「神の国」とは、神が支配する愛と平和と喜びの世界です。「神の義」とは、十字架による罪の赦しを意味します。これらを生きていく第一の目標とするなら、私たちの生活や体に必要なものは用意される、また様々な悩みはやがて解決されていく、そのように聖書は教えています。

今週から新しい学校生活が始まります。北国にも春が訪れ、鳥のさえずりが聞こえ、草花が見受けられるようになってきます。空の鳥、野の花を見るとき、イエス・キリストの言葉を思い出して、神の国と神の義を目指して歩んでいきましょう。


http://spring496.blog.fc2.com/blog-entry-230.html 【説教5-1「空の鳥、野の花を見よ」ー存在の喜びー(マタイ6:25~34)】より

 今晩はマタイの福音書6章25〜34節をお読みいただきました。「空の鳥、野の花を見よ」という説教題に、「存在の喜び」という副題をつけました。「存在の喜び」は、青梅キリスト教会の牧師であられた宮村武夫先生が大事にされた言葉だと聞いています。朝顔教会の湊晶子先生が思い出を語っておられました。お二人がJCC(ジャパン・クリスチャン・カレッジ)で教えておられた時代でしょうか。ある日、宮村先生が輝いたお顔で湊先生の研究室に飛び込んで来て、「先生、『存在の喜び』という言葉を見つけました」と言われたそうです。畑で真珠を見つけたような喜びだったのでしょうね。ご自分の生き身に耕した畑に。私たちも今晩、イエス様の御言葉から、父の御国に生かされる存在の喜びを味わいたいのです。

 お読みいただいた御言葉は、イエス様が語られた山上の説教の中にあります。私は、山上の説教を読む時は、いつもその情景を遠く心に思い描きます。皆さんも心のキャンバスにその時のながめを描いてみて下さい。山上の説教は、福音を信じた弟子たちに語られた御言葉です。12弟子だけではなく、もっと多くのイエス様につき従っていた弟子たちです。そういう弟子たちがいちばん近くで主を取り囲むように御言葉を聞いています。しかし、その時、イエス様の説教を聞いていたのは弟子たちだけではありませんでした。弟子たちを取り囲むようにして、さらに大勢の群衆もイエス様の御言葉を聞いています。山上の説教の導入部分、マタイの福音書4章23節〜5章2節にこう書かれています。

 「イエスはガリラヤの全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで、人々は、さまざまの病気と痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかん持ちや、中風の者などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをお直しになった。こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群衆がイエスにつき従った。この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。」

 そして山上の説教の結び、7章28節にはこう記されています。「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。」

 山上の説教は主が弟子たちに語られた御言葉です。しかし、その日、ガリラヤの丘では、弟子たちだけでなく、からだや心のさまざまな病気で苦しんでいる人や、一緒に痛み苦しんでいる家族、日々の生活の試練の中で悩んでいる人、自分なんかどうしたって神の国には入れないと救いの希望を失っている人、そういう大勢の群衆も弟子たちを取り囲むようにして、イエス様が語られる御言葉を聞いていたのです。 

 そこで人々にはいろんな動きがあったはずです。イエス様を近く取り囲む弟子の中には、隣りに家族を連れている者もいたでしょう。御言葉に招かれて、「私もあの仲間に加わろう」と、人垣を離れて弟子たちの間にすわった人々もいたのではないでしょうか。あるいは、弟子が立ち上がって、御言葉を聞いている家族や友人のところに行って、「さあ、イエス様を信じて、あっちに一緒にすわりましょう」と誘いかける、そういう人の動き、心の動きがあったと思うのです。

 これは山上の説教を理解する上でとても大事なことです。この説教でイエス様は、弟子たちに弟子としての生き方を教えておられます。しかし、弟子たちにだけ語っておられるのではなく、さまざまな重荷や苦しみを負って生きる群衆をも見つめて、彼らや彼女たちを神の国に招くように語っておられます。弟子たちも家族や群衆の苦しみや悩みを背中に感じながら、そこに遣わされる者として、愛する人々を執りなしながら御言葉を聞いています。ある人がこれが世にある教会の姿だと言いました。皆さんも、教会やこの奥多摩でも、背中に家族のこと、あるいは友人や知人のことを感じながら、主の御言葉を聴いておられると思います。      

 友人の牧師があれこれ想像しながら聖書の話をしていたら、「先生、そんな見て来たような話ではなく、見て来た話をして下さい」と言われて、イスラエル旅行に行って来ました。イスラエルに行けば、山上の垂訓記念教会があるガリラヤの丘に行くのがコースのようです。友人の牧師は見て来た話をしますが、私は見て来たような話をします。

 場所はガリラヤ湖を見下ろす広々とした丘です。季節は春でしょうか。色とりどりの野の草花が絨毯を敷いたように一面に咲いています。イエス様が話しておられる時、空を鳥たちが飛んでいました。その鳥たちを指差してイエス様が言われます。「空の鳥を見なさい。」

 さてどんな鳥でしょうか。どこまでも青く美しい空を鳥が舞っている。美しい空、美空ですね。美空を舞う鳥といえば? やはりひばりではないでしょうか。そうでなくても愛らしい可憐な鳥を想像します。

 ところが、ルカの福音書を見ると、同じ内容の説教でイエス様は「烏のことを考えてみなさい」と言われています。ある集会で「カラス、あの黒いカラスですよ」と言いましたら、集会後ひとりの姉妹に「先生、イスラエルのカラスは白いんです」と言われました。私はもう目を白黒させて、やはり見て来たようなことは言うもんじゃないと落ち込みました。「オレを泣かすな。白いカラスよ」と歌いたかった。でもすぐ立ち直りました。白くても黒くても、それはカラスの勝手でしょう。白黒つけても仕方がない。白でも黒でもカラスは可憐とは言い難い。不吉な鳥です。朝顔教会の近くでも群れをなしてゴミをあさっています。日曜日は玄関の前の電線にずらっと並んでいます。どうも礼拝から帰る人たちを待っていて、その日の御言葉を心からついばんでいる気がします。びっくりしたのは、これは教会の姉妹が実際に見たそうですが、一羽がマヨネーズの容器を足で押さえて、もう一羽がふたを開けていたというのです。青葉若葉の頃です。サラダなんかも食べるのでしょうか。時々、カラスを愛でる奇特な方もおられますが、普通は嫌われものですね。     

 ユダヤ人にとってカラスは宗教的に汚れた鳥でした。不浄の鳥ですね。そういうイメージやタブーは、イエス様の説教を聞いていた人たちの意識の底に根を張っていたと思います。「カラスのように忌み嫌うべき奴らだ」というような言い方もあったかもしれません。

 イエス様は言われました。「空の烏を見なさい。天の父が彼らを養っていて下さいます。」——「よく、ご覧」とイエス様が指差された鳥が、汚れた鳥として人々から忌み嫌われたカラスであったことを心のキャンバスに刻んでおきましょう。

 さて、イエス様は続けて言われました。「野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。」——「野のゆり」と言えば、庭や山道に咲く白百合や山百合の麗しい姿を思い浮かべます。しかし、私たちが考えるような百合はガリラヤには自生しないようです。イエス様が目を留められたのは、その時、周りに咲いていた色鮮やかな雑草の花々に違いありません。アネモネ、ヒナギク、クロッカス、キンポウゲ、ケシ、アザミ——そういう野の草花を総称して「野のゆり」と言ったのでしょう。「きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草」と言われています。当時の人々がそう言っていたのです。ただいのちが短いだけでなく、踏みつけられ、軽々しく扱われる雑草。惜しげもなく刈り取られ燃料にされる野の草花。そういう取るに足りない雑草とその花が、イエス様の目にはあの栄華を誇ったソロモン王の装い以上に美しいものとして見えていました。 

 食べて行くための生活の思い煩い、からだや心の病ゆえの苦しみ、生きていても人の迷惑になるだけだという存在の悲しみ、加えておまえのような罪人は神の国には入れないという人の視線と宗教家からのさばき、そういうどうしようもない貧しさを生きている、「頼りなぐ、望みなぐ、心細い人達」——「心の貧しい者」のケセン語訳ですが——そういう人々が、イエス様の御言葉を聞いていました。イエス様は弟子たちに対してだけでなく、そういう暗い生活の現実の中から這い出すように集まって来た群衆をも招きながら、神の国の福音を語っておられます。「あなたがたが汚れていると言う、あのカラスをよくご覧。あなたがたが踏みつけ、無造作に抜き取っては炉にくべる、この野の草花のことを思ってみなさい。」

 ここでイエス様は、当時の世の常識や価値観に真っ向から挑戦しておられます。当時の宗教家や民衆からも汚れたもの、価値なきものと見られていたものに対して、深いあわれみの眼差しを向けておられます。

 「野の花を見なさい」という御言葉を読むと、ひとりのご婦人を思い出します。96歳で天に召された方です。花の好きな方で、まさに野の草花のように、生涯自分が置かれたところを、ひたむきに、ひとすじに、一所懸命に生きられた方です。長く他の宗教に励んでおられましたが、生涯の最後にクリスチャンのお嫁さんが信じている神様にすべてを委ねて天国に行かれました。その方がつつましく、たくましく生きられた日々のことを私は知りません。私がお会いしたのは、晩年、だいぶ認知症が進み、クリスチャンのお嫁さんのお世話になるようになってからのことでした。彼女の存在を通して、「野の花を見なさい」という御言葉について、目が開かれることがありました。

 その方の家で家庭集会が行われていました。みんな椅子に座っている中で、その方は床にペタンと座って聖書の話を聞いておられました。まだイエス様を信じておられませんでした。私は何とか早く信じてほしいと、遠くなった耳を傾けて下さるその方に向かって、教え諭すように「イエス様を見なさい」と語りかけていました。

 彼女が天に召されて数年後、記念会がありました。お奨めに備えて「野の花を見なさい」という御言葉を思い巡らしていると、彼女の姿がまぶたによみがえって来ました。人生の労苦を生き抜いて、小さくなったお体で、床に座って御言葉を聴いておられます。その姿がガリラヤの丘に咲く野の花に重なりました。ハッと気づかされたのです。「あっ、逆だったんだ」と。私は彼女に「ご覧なさい」と教え諭していました。しかし、イエス様は、私にこの小さな野の花を「ご覧なさい」と言われていたのです。

 「働きもせず、紡ぎもしません。」——これは女性の労働です。「もう働きもせず、紡ぎもしない。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。」 

 26節に言われている、空の鳥が「蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません」というのは主に男性の仕事です。詩のように美しいこの御言葉で、イエス様はただ空の鳥や野の花のことを語っておられるのではありませんね。私たちにとって、およそいちばん心をえぐられる思いがするのは、「このこともしない。あのこともできない」と人に言われることではないでしょうか。誰もそんなこと言っていないのに、そう思われているように感じて、「これもできない。あれもしていない。役に立たない」と自分を責めて生きる私たちです。歳を重ねると「これもできなくなった。あれもできなくなった」という——私などには分からない——申し訳なさや悲しみを生きておられるのを感じます。

 イエス様の説教を聞いていた人たちは、「蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしない」「働きもせず、紡ぎもしません」という御言葉を、ただ鳥や草花のこととしては聞かなかったはずです。「蒔きもしない、刈り入れも倉に納めることもしない、何の働きもない役立たずだ」——そう人から言われていたような人、自分で自分をそう思っていたような人をイエス様は見つめておられます。

 当時、民衆の生活は厳しいものでした。占領国ローマの人頭税、イスラエルの神殿税と2重に課税され、その他にも納めなければならないものを含めると全収入の30%以上になったと言われます。家族総出で働いて、何とか食べていたような中で、病気や障碍を負って家の外や社会の外に押しやられて生きていた人たちは、どう見られていたでしょうか。いや自分をどう見ていたでしょうか。自分の存在をのろっていなかったでしょうか。まして罪人と呼ばれた人々、「何の功績もない。カラスのような汚れた連中だ」と言われた人々に、救いの希望はありませんでした。

 教会でご高齢の方がよく「何もご奉仕ができなくなって申し訳ありません」と言われます。「そんなことはありません。お祈りができるじゃないですか」と励まします。その通りです。しかし、どこか安易な励ましにも思えます。時間があれば祈れるでしょうか。そんなことはありません。祈る力も萎えることがあります。誰も同じではないでしょうか。 

 それでも、私はある牧師が書いておられたことを忘れません。その牧師は、ひとりの高齢の姉妹が天に召された時に、説教や奉仕の力を失ったというのです。その姉妹は、礼拝の時はいつも同じ場所に座り、じっと御言葉に耳を傾けてくれた。神様の御言葉を聴くという教会にとって最も大切な奉仕をしてくれた。もっとも忠実な説教の聴き手、礼拝者、奉仕者、祈り手を失って、自分自身の奉仕の力が弱るのを感じないではいられなかった。その牧師はそう書いておられました。よく分かるのです。私のこのご奉仕のためにも、寝たきりのベッドで祈って下さっている姉妹がいます。「働きもせず、紡ぎもしません。」しかし、そういう天の父の子たちこそが、御国の宝、御国の力なのではありませんか。

 イエス様は言われます。「よくご覧。あなたがたが汚れていると忌み嫌うカラスでさえ、何の働きもないままに天の父に生かされているではないか。あなたがたが踏みつぶし、惜しげもなく刈り取ってしまう野の草も、働きのないままに生かされて、一所懸命にきょうを生きて、よく見れば美しい花をつけているではないか。」——人のいのちは何ができるという働きにはよりません。できるできないということに先立って、私たちは、神様の愛によって、父の御国に生かされているのです。

 きょうは8月15日、1945年、日本が戦争に敗れた日です。日本の占領下にあった国々にとっては、植民地支配から解放された日です。

 一昨年の今頃、私は惠泉塾で夏を過ごしていました。惠泉塾は、高校教師であった水谷惠信という方が始められた生活共同体で、今の社会に適応できなかったり、心を病んだ塾生たちを中心に、聖書を学びながら畑や果樹園の農作業をしています。わが家の次男が心を病んでそこにおります。一昨年は思いがけず私自身がうつ病になり、教会から3ヶ月の休暇をいただいて、家内と息子と共にそこで過ごしました。うつの発症は意外なことでした。私は「ああ、僕は燃え尽きそうだ」などと軽口をたたいて、「ああ、でも僕は燃えてないから大丈夫だ」と自分で言うような、そんないい加減な性格なんです。心を病むなどとは思ってもみませんでした。 

 惠泉塾では朝は4時前に起き、夜8時には床に就きます。テレビも新聞もない、非常にシンプルな生活の中で聖書を学び、農作業をします。初めての作業の日、丘陵の畑の草取りや水まきを終えた私の様子を見て、リーダーの兄弟は「暁生君のお父さん—息子の名前ですが—これは明日からはもう出て来ないな」と思ったそうです。なにしろ腰が曲がったまま伸びない。周囲の景色は写真のネガのように反転して、カラスも白く見えます。心は燃えていても肉体は弱いですね。私の場合、普段から燃えていない心が燃え尽きているのですから、肉体はことさら悲惨です。私は岩手県の出身ですが、舗装道路や街灯だってある町の育ちなんです。鋤や鍬は小学校の学芸会以外では持ったこともありません。それでも鋤に手をかけたんですから、もう後ろは振り向けません。何としても周囲や息子にいいところを見せたい。がんばってはならないうつ病患者ががんばりました。惠泉塾を離れる日、息子が人を介して小さな手書きの修了証書をくれました。「とりあえず今回は合格です」とありました。嬉しかったです。

 ある日、一息入れて、丘の畑から緑の野山をながめていると、韓国の詩人の言葉が心に浮かんで来ました。「奪われた野にも春は来るだろうか」という詩の一行です。李相和(イ・サンファ)というその詩人は、その詩の中で「緑が笑い、緑が悲しむ」と書いていました。今自分がながめているこの野山が他国に奪われた野であったら、笑っているようなこの緑は、どんなに深い悲しみに包まれるだろうか、と思いました。イエス様が説教をされたガリラヤの丘も奪われた野でした。春の花が咲き、緑は笑っていますが、そこは沢山の沢山の悲しみがつもる奪われた野でした。

 惠泉塾では熊手で庭や丘の枯草を集めることもしました。絡め取った枯草を積み重ねるのですが、枯草の山の中には赤や白や黄色の小さな生きている花も混じります。奪われた野では枯草ではなく、そのように大人や子供の人間が積み重ねられます。「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません」(マタイ10:29)というイエス様の御言葉を思っていました。私たちは、一羽の雀どころか多くの人間が地に積み重ねられるのを見ます。「そんな雀の一羽でも」——それは軒にさえずる小雀のことではないですね。地に落ちて一山いくらで売られているような雀です。その中のおまけの一羽をも、天の父は決してお忘れにはならない。だから「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはならない」(マタイ10:28)——枯草の中でまだ生きている小さな花を見つめながら、イエス様の御言葉がそのように聞こえて来ました。弟子たちに語られた御言葉ですが、人をゲヘナに投げ込む権威をお持ちの方は、この悲しすぎる人間の歴史の中で、死体の山に埋もれた小さな子供の涙を、赤や白や黄色の服を来て元気に遊んでいた子供の涙を、決してお忘れにならない。そう私は信じます。

 「きょうはあっても、あすは炉に投げ込まれる」というのは、決してただ野の草花の定めではありません。そのまま人のいのちのことであります。奪われた野に生きるいのちであればなおさらのことです。

 しかし、そういう危険な境遇にありながら、野の草花は、自分が与えられた所に根づいて、きょうという一日を祈るように、美しく輝いて生きています。一生懸命という言葉は、一所懸命——与えられたひと所に命を賭ける——がもともとの意味ですね。野の草花は、ひと所に根づいて、そこにいのちを賭けてひたむきに生きています。主は、私たちがどんなに心配する者かをご存知です。心配だらけの私たちに、イエス様は「心配するのをやめなさい」と言われます。「心配しなくていい」という深い父の恵みがあるからです。イエス様は私たちを父の御国に招かれます。 

 私は、高校生の時にイエス様を信じました。クリスチャンになって45年になろうとしています。その間ずっと「まだこれではだめだ」と思いつつ歩んで来ました。牧師になってからも、「もっとちゃんとした信頼される牧師にならなければだめだ」と。自分でそう思うのですが、そういう人の評価や判決を感じます。過大に評価されても不安ですが、評価されなければもっと不安です。パウロのように、おごってではなく、主への恐れをもって謙遜に、「およそ人間からの判決を受けることは、非常に小さなことだ」と言えたら、どんなにいいでしょう。私もまた「あれもしていない。これもできていない。役に立たない」と思い煩い続ける人間です。

 ある時、放蕩息子のたとえ話を読んでいました。「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」とイエス様は話されました。「まだ家までは遠かったのに」という御言葉に目が留まりました。息子に走り寄った父が、彼をふところに抱いたのは、まだ家までは遠いはずれでした。父はそこから息子をふところにおおうようにして、村人の冷たい視線から守って、家に連れ帰るのです。放蕩息子を抱いた父のあわれみのふところが天の父の御国です。

 「まだ家までは遠い。もっとましなクリスチャンにならなければ。もっと信頼される牧師にならなければ、神様に本当には愛してもらえない。天の家に迎えていただく値打ちはない」と私は思って来ました。キリストの恵みによってあるがままに救われていると信じ、そう宣べ伝えながら、心はいつも惨めな自分の取り柄や誇りにしがみつき、「家まではまだ遠い。まだ遠い」と語るのです。しかし、天の父の家は、今晩ここにあります。私たちは、御子イエス様とともに、御父のあわれみのふところにともに抱きかかえられています。よく耳を澄ませば、人生の途上にあっても、すでに、共に、父のあわれみの家にいることに気づくでしょう。

 ここに私の両手があります。多くの罪を犯して来た手です。この手は、家庭や教会に流れ込む絶望と不信の暗い水をかい出そうともがいても来ました。罪を犯す手ですが、一生懸命に労苦する手でもあります。しかし、かい出そうとすればするほど、かえって人を傷つけたり、混乱を生み出したり、さらに絶望と不信を深めてしまうこともあります。それでも私たちは、この小さな手を合わせて、ともに天の父に祈ることができます。「御国が来ますように」と祈ることができます。

 「神の国と神の義とをまず第一に求める」とは、信仰の薄い者が、ただあわれみによって生かされる天のお父さまのご支配が、今、ここに来ていることを信じることです。イエス様は、「何も生活のことで考えない人は幸いだ」と言われるのではありません。ただ、私たちの行く所どこにおいても、主を認めることです。たとえ私たちの願い通りにならないとしても、そこに主の最善のご支配があることに信頼することです。

 私たちは、神様に信頼しようとせずに、神様のために働こうとします。人の力や能力で何かを計画して、「これなら大丈夫だ。安全だ。誰からも何も言われない」と言って、「神様、この線でよろしく導いて下さい」と祈ります。祈らないでもいいようにするのが最高の計画のようです。

 確かに窮地に追い込まれたくはありません。人にあれこれ言われ傷つけられることは嫌です。しかし、聖書から人間の失敗や挫折を除いたら、何が残るでしょうか。神様は、私たちの罪や愚かさから、ご自身の義の道、救いの道を造られます。主は、御子を十字架につけるという人間の最悪の罪から、私たちの最善である救いの道を開かれました。

 信仰生活における最大の敵は、罪や失敗ではなく、自分の知恵や賢さに信頼して、神様に信頼しない私たちです。それこそが人間の闇です。「神の国と神の義とをまず第一に求める」とは、どんなことがあっても、人間が仕切らないことです。自分の物差しで他人をさばかないことです。自分でも自分をさばかないことです。自分の義を立てないことです。ともに御父のあわれみのふところに抱かれているイエス様の兄弟や姉妹である人が、その人らしい花を咲かせ実をつけるために、自分の立場で何ができるのか、そのことを考えて人に仕えていく。それが「神の国と神の義を第一に求める」ことです。自分を恥じながら語るのですが。

 三浦綾子さんが召される少し前、「ライフライン」という番組に収録された彼女の姿と言葉がありますね。パーキンソン病でもう自由に動けない状態で、大きな椅子に座ったり、もっとお具合が悪そうな時にはソファーに仰向けに寝た状態で話しておられます。耳をこらしても、あまりよく聞き取れないので字幕がつけてあります。短く息を継ぎながら、吐く息と一緒に深い信仰の言葉を話しておられます。私は、何度かビデオを巻き戻して書き取りました。途切れ途切れの言葉をそのまま読んでみます。 

 「人間って何であるのか分からないから/苦しんで生きるんでしょうね。私はこの頃、神様について、2、3年前と/ちがう考え方にたどりつきました/私が考えていた神様/私が考えている神様より/ずっと ずっと ずっと/大きくて 広くて 高くて/暗くて 明るくて/自分の持っている物差しでは/測ることの決してできない存在であること/それを実感として感じるようになったんですね/そしたら 一生懸命に考えている 自分の小ささにふと気がついて/私はいったい何をしているんだろう/愛するということは/何より一番の/神に至る/道だと思うのですけど」 

 今不安に直面して恐れている人はおられますか。汚れていると言われるカラスのような自分の罪に苦しんでいる人はいますか。一山いくらで扱われる雀のような自分の小ささに悩む人がおられますか。踏みつけられて愛でる人とてない野の草花のような存在の軽さに悲しむ人はおられないでしょうか。恐れることはありません。あすのことを心配する必要もありません。この日一日にさえ労苦は十分にあります。それに対しては、きょう、十分な天のお父さまの恵みがあります。明日には新しい労苦がやって来ます。しかし、それにふさわしい天のお父さまの新しい恵みが必ずあります。何の働きもない者が、罪を赦されて、喜んで生きることができる父の御国がここに来ています。天の父は私たちの必要をすべて知っておられます。誰も助けてくれないとき、「天の父は、今、この時、私の助けだ」と言おうではありませんか。遣わされたところに根づいて、勇気をもって「私は恐れない」と言おうではありませんか。「そうすれば、それに加えて、必要なものはすべて与えられます。」                                                                  アーメン

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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