https://www.nansuka.jp/yamashitasairo/p003859/ 【『井の中の蛙』には続きがあった! 世界のすごいカエルも合わせてご紹介♪】より
井の中の蛙
皆さん、もしかしてあんまりカエルが好きじゃないですか…?
私は大好きなんですけど、カエルにまつわることわざを調べてみても良い意味で使われないことが多いんです。
そんな中、『井の中の蛙』に深くてポジティブな“続き”があることを発見!
これは記事にするしかない(ついでにカエルのファンも増やすしかない!)ということで、読めばちょっとだけカエルを尊敬したくなる“ナンスカ”を紹介していきます!
『井の中の蛙』は、「視野がせまい」という意味!
『井の中の蛙』を辞書で調べてみると、「見聞の狭いことや、それにとらわれて、さらに広い世界のあることを知らないことのたとえ。出典:『日本大百科全書(ニッポニカ)/小学館』」と書かれていました!
もともとは中国思想家:荘子(そうし)の『秋水篇』にある一節ですが、日本に渡った時に編纂され、ことわざになりました。『秋水篇』の該当部分はこんなかんじ。
北海若(ほっかいじゃく)曰く、井蛙(せいあ)には以(も)て海を語るべからざるは、
虚に拘(かかわ)ればなり。
【訳】
北海の神、若がこう言った。「井戸の中の蛙に、海のことを話しても分からない。
それは、蛙が狭い環境にこだわっているからである。(出典:『秋水篇』第十七 第一章/荘子より)
ここからも分かるように、「狭い環境にとらわれているから、周りを見ることができない(もっと周りを見なさい!)」という教訓になっているのですね!
また、『秋水篇』をより濃く受け継ぎ、『井の中の蛙、大海を知らず』と表現する場合もあります。『井の中の蛙、大海を知らず』の後にも続きがある…!?
大海
先ほど紹介した『秋水篇』とは別のところで、『井の中の蛙、大海を知らず』の後に続きが付け足されているようです。一部紹介しますと、井の中の蛙 大海を知らず されど 井の中を知る 井の中の蛙 大海を知らず されど 空の青さを知る
などなど。作者は不詳ですが、いつの時代からか“井の中の蛙の続き”として広まり始めたと言われています。
「井戸の中のカエルは大海を知らないが、それでも井戸の中の事情には詳しいし、空が青いことも知っている」。つまり、狭い範囲しか知らないからこそ突き詰めて物事を考えられるのだ、と前向きな捉え方をしているんですね。
また、作者不明ではありますがこんな短歌も発見。
井の中の蛙 大海知らねども 花は散りこみ 月は差し込む
風景がぱっと浮かんでくると同時に、「大海を知らなくても今の自分のままで十分幸せなんだ」と思えるような、美しい句ですね。
自分を戒める意味合いが強い『井の中の蛙、大海を知らず』ですが、少し言葉を足すだけでこんなにもポジティブな内容になるとは驚きです。なんだか元気ができてきますね!
『井の中の蛙、大海を知らず』だけど…世界にはこんなにすごいカエルがいた!
ことわざを調べるついでにカエルの資料を集めていたのですが、世界には面白い特徴を持ったカエルがた~~っくさんいることが分かりました!
「井の中」には収まりきらないすんごいカエル達、少しだけ紹介させてください♪
“大海”知らねども…“海水”での生き方を知るカエルがいた!!
通常の両生類は淡水でなければ生きられませんが、東南アジア等に生息する「カニクイガエル」は、汽水湖(海水を含んだ湖)で生活します。汽水域で生活できる両生類は、カニクイガエルだけなんですって!(参考:富山大学理学部)
名前の通りカニを捕食するカエルなので、狩場を求めて進化をおこなったのでしょう。
もしかすると、環境に適応して進化を遂げたカエルたちが、“大海”を知る日がくるかもしれませんね!
“井の中”なんてものはない! “子育て”の為に水路を作るカエルがいた!!
アフリカに生息する「アフリカウシガエル」はオスが子育てをすることで有名です。
乾季と雨季があるサバンナの台地では、少ない水辺をめぐって壮絶な争いが繰り広げられます。
父カエルは子育てには欠かせない水辺を確保する為に、水路を作ったり引越しをしたりして、オタマジャクシの子ども達を守るんだそうですよ。
井の中に留まらず、道を切り開いていく父の背中…いじらしくて泣けてきます!!!
https://bookmeter.com/books/6095 【感想・レビュー】より
MJ
古池や蛙飛こむ水のおと 芭蕉は現実の水の音から、心の中の古池を描き出して詠んだ。僅か十七音で想像と現実の交錯する世界を生み出すのが蕉風俳諧の特徴のようだ。そう言われると俳句は文学・芸術だというのも改めて納得した。 心の扉を開いた俳句に対して、筆者はリアリズム・写生の俳句を凡兆的として否定的である。ただ俳壇は子規・虚子を中心に世界をありのままに描く写生俳句も高く評価してきた。その辺も勉強してみたい。
kochi
蛙(かわず、カエル)は古くは河鹿(かじか)と言って、和歌においては、鈴のような鳴き声を愛でて詠むものであり、「蛙飛び込む水の音」という切り取りだけでも斬新であった。上の句をどうつけるかで、その場にいた其角は過去の和歌にならい「山吹や」を提案したが、芭蕉は「古池や」を選んだという。著者は蕉風開眼の句とたたえられてきたこの句を、切り字の存在や句そのもの構造、弟子たちの記録などをもとに、解釈し直して、蕉風自体の解釈に深く迫る。17文字と言うごく短い表現が、これほど多彩な分析の対象となりうることは極めて興味深い。
ハイク
芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」の句は、日本の俳諧で最も知られ人気のある句である。著者はこの句を題材に俳句の本質的意味を鋭く解説している。多くの人は句の意味を「古池に蛙が飛びこんで水の音がした」と解釈しているが、それは違うと著者は断定している。すなわち「蛙が水に飛びこむ音を聞いて芭蕉の心の中に古池の幻が浮かんだ」という句であったとしている。「古池や」の「や」は「切れ字」といって特別な働きをしているのだ。この事を主題にして芭蕉の俳句やその他の俳人の句を説明している。非常に分り易く面白く読んだ。
kinaba
☆ 切字「や」の一字を真剣に読むとこの句はいかに解釈されるべきか、というところから始める芭蕉の世界の総説。なるほど説得力はある、確かに芭蕉はそう詠んだであろうとも思える、面白い。のだが、しかしすると著者の見解に反して、通例解釈よりも凡庸な句に見えてしまうのは子規らに毒されすぎだろうか。「京にても」の二つ目の京を過去ととるのとかもそうなのだけど、解釈は源意をもっと越えて行ってもよいのでは。
Tom Ham
読了。図書館で借りました。以前に面白いと薦めてもらってたのにどうも読めずにいました。なんてもったいないことをしてたのか!読んでみて驚いた。「古池や蛙飛びこむ水のおと」解釈は「蛙が古池に飛び込んで水の音がした」ではなく「古池や」の「や」が切れ字なので、「蛙が水に飛びこむ音がして心に古池が浮かんだ」のだと作者はいいきる!芭蕉は音しか聴いていなかったのだと・・・なるほどとうなってしまう切り口である。あーおもしろかった!(笑)
noraokapi
たいへん面白かった。凡兆的なものへの考察が印象的。凡兆は、芭蕉の晩年の弟子。
https://www.ndsu.ac.jp/blog/article/index.php?c=blog_view&pk=15695551900007&category=&category2= 【古池に蛙は何匹飛び込んだのか?|東城 敏毅|日文エッセイ172】よ
古池に蛙は何匹飛び込んだのか? 蛙は単数? 複数? 言わずと知れた松尾芭蕉の著名な俳句、古池や蛙飛び込む水の音
さて、これを英訳する場合、「蛙」は"a frog"なのでしょうか、"frogs"なのでしょうか。私たち日本人(現代人)の感性から言えは、以下のように考えるのが自然ではないでしょうか。
静寂さに包まれる小さな古池。その古池は、訪ねるものも少なく、寂しげな雰囲気を漂わせている。
と折しも、蛙が一匹、池に飛び込み、ポチャンと小さな水音を立てる。静寂さを、ほんの一瞬打ち破る小さな微かな音。水面には、飛び込んだ後の小さな痕跡が、ほんの僅かな波紋として、揺らめいている。静寂さはなおいっそう古池を覆っている。
確かに、このような解釈は、私たちの感性に合っているようです。海外の研究者も、やはり"a frog"と翻訳する場合が多いようですが、逆に、"frogs"と複数で翻訳されている方もいます。あの著名なラフカディオ・ハーン(小泉八雲)がその一人です。
Old pond―frogs jumped in―sound of water.
ハーンは、来日後、松江・熊本、また帝国大学や早稲田大学で英語・英文学を教授しつつ、日本人の庶民の日常生活と宗教や風俗を探究し続け、1896年には帰化し小泉八雲と名乗りました。日本人の心性を追求したその成果は、『怪談』や『骨董』の作品群に集約されていますが、ハーンは、かつての日本人が持っていたであろう心の痕跡を後世に残したと言えましょう。この古池の俳句の翻訳は、"Exotics and Retrospectives"(「異国風物と回想」1898年)の"frogs"というエッセイに収載されていますが、そこでは、蛙に関する和歌や俳句を数多く取り挙げ、西洋と日本の蛙のイメージの相違について考察しています。
このように、蛙に異国情緒を感じ、そこに日本の記憶を見出したハーン。では、私たちよりも、日本人の心性を把握していたはずであろうハーンが、なぜ"frogs"としたのでしょうか。そこには何か意図があるはずです。。
蛙は古池に飛び込んだ?
さらに単数・複数の問題のみならず、俳人の長谷川櫂氏が、その著『古池に蛙は飛びこんだか』において論じられたように、蛙自身、古池には飛び込んでいないのではないか、とする問題も存在します。なぜでしょうか。「古池や」の切れ字を無視すべきではない、というのが、その理由です。俳句は切れ字によって、二つの景を作り出す。「古池」という景と「蛙飛び込む水の音」とは別の景であり、「蛙が水に飛び込む音を聞いて芭蕉の心の中に古池の面影が浮かんだ」と捉えるべきだとされたのです。
また、古池の俳句はもともと、初句が「古池」とは定まっていなかったことも想起するべきでしょう。以下は、芭蕉の弟子である支考が、その著『葛の松原』において、この俳句の成り立ちについて述べている箇所です。
弥生も名残お(を)しき比にやありけむ、蛙の水に落る音しばしばならねば、言外の風情この筋にうかびて、「蛙飛こむ水の音」といへる七五は得給へりけり。晋子が傍に侍りて、「山吹」といふ五文字をかふ(う)むらしめむかと、を(お)よづ(ず)け侍るに、唯「古池」とはさだまりぬ。
芭蕉が、もし晋子(宝井其角)の言葉に従っていれば、この俳句は、山吹や蛙飛び込む水の音
だった可能性もあるのです。もしこの俳句が、「山吹」で始まっていたら、山吹と蛙を一緒に詠み込むという、和歌の伝統からは一歩も出ず(確かに、水に飛び込む音を詠むのは斬新ですが)、蕉風の確立とはならなかったかもしれません。「古池」は、そのような意味でも、新たな斬新な言葉だったのです。
再び、蛙は単数? 複数?
さて、話を単数・複数に戻しましょう。なぜハーンは複数に翻訳したのか。
俳句の二つの景を考えるならば、「古池」の景と「蛙飛び込む水の音」の景、それぞれ二つの別の景を考えるべきでしょう。古池という、あまり誰も立ち寄らない静寂な閑散な風景。仮に、その景に蛙が一匹だと、二つの景はありきたりの一つの景に溶け込んでしまい、二つの景の対比が、消えてしまうでしょう。先ほどあげた『葛の松原』にも、「蛙の水に落る音しばしばならねば」と、わざわざ書いているように、頻繁ではありませんが、一匹、一匹と飛び込む音が聞こえていたということでしょう。つまり、春になり、新たな蛙(生命)の息吹が一つ、また一つと感じられたのではないでしょうか。新たな生命の息吹が、誰も立ち寄らない古びた池にも見出され、そこにこそ、この俳句の趣があったのではないでしょうか。
芭蕉には、「古池や」の俳句と、以下の俳句を並記する真蹟懐紙が残されています。
ながき日もさえづりたらぬ雲雀(ひばり)かな (出光美術館蔵)
この俳句は、まさに春爛漫のさなか、さえずり足りない雲雀の姿に春の景を見出していますが、この二句を一緒に書き写した芭蕉の心、それは新たな生命の息吹と喜びではなかったでしょうか。したがって、やはり蛙は、春の生命力の充溢さを示すべく、複数でなければならなかったと思うのです。
ハーンは、その芭蕉の心に寄り添っていたのではないでしょうか。
さて、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」。蝉は単数? 複数?
〔参考文献〕
・大磯義雄・大内初夫校注『蕉門俳論俳文集』(集英社、1970年)
・大谷篤蔵監修『芭蕉全図譜』(岩波書店、1993年)
・長谷川櫂『古池に蛙は飛びこんだか』(中央公論新社、2013年)
・Lafcadio Hearn, Exotics and Retrospectives, The Writings of Lafcadio Hearn, Ⅸ,
Boston:Houghton Mifflin,1922.
小泉八雲、平井呈一訳『仏の畠の落穂・異国風物と回想』(小泉八雲作品集 第8巻)(恒文社、1964年)
https://ameblo.jp/rasinban8487/entry-12546392196.html 【カエルは何匹飛び込んだでしょうか?】より
ども、山口です。”古池や 蛙飛び込む 水の音”松尾芭蕉の有名な俳句の1つですがあなたはこの句を読んで、何匹のカエルが飛び込むのをイメージしましたか?
おそらくは、1匹のカエルがポチョン♪と飛び込んだ、どちらかというと、静かな情景をイメージしたんじゃないでしょうか?
ある調査によると、日本人の大半はカエルは1匹とイメージするそうです。
それに対して、アメリカ人の場合は何匹、あるいは何十匹ものカエルが一斉にバシャバシャバシャ!っと飛び込むのをイメージするとのこと。
同じ文章を読んでもここまで違ったイメージをするなんて面白いですよね。
※もちろん英訳した俳句を読んでもらってますよ。
このことは言葉や文字の自由さを表すのと一緒に曖昧さも、僕たちに教えてくれます。
同じ言葉を聞いたり、読んだりしても違うように受け取る人がいるのは当たり前。
だけど、お客さんや患者さんに症状やその原因、解決方法の説明であなたが伝えようとしていることと違うように受け取られるとダメですよね。そんなことになるとリピートが取れない、どころか施術の内容や、あなたという人に対して不安や不信感を覚えるかも知れません。
それじゃぁ、ガンバって集客しても報われないというもの。なので、説明するときに言葉を尽くすのは大前提として他にも解剖図や骨模型、映像映像、写真などのツールを使って説明するようにしてみてくださいな。
あなたなら、どんなものを使いますか?
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ちなみに、娘(小1)に”古池や 蛙飛び込む 水の音”って聞いて、何匹飛び込んだと思う?と質問したらん~、5匹ぐらい。やっぱり6匹かな。と。
たぶん、ある程度以上の年齢だと教科書やテレビ、漫画、その他のメディアでこの句の情景として一匹のカエルが飛び込むのを目にすることがあるからカエル=1匹になるのかも知れないですね。て、考えると日本人とアメリカ人の国民性というよりは、それまでに触れた情報からのインプットで想起するイメージが違ってくるて、ことなんでしょうね。
ま、その情報量が多く、範囲も広くなっていくと地域性や国民性、てのになってくんだけど。
余談でした^^
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