https://kotobanoki.com/haiku/ 【俳句を科学的に見てわかったこと。名句の表現法の秘密とは】より
俳句
名句と言わる俳句は、どうして名句なのか?説明しようとしても、なかなか難しいですよね。
でも、脳科学と心理学を使えば、名句と言われる俳句に隠された表現テクニックを明らかにすることができます。
名句に隠された秘密とは・・・
名句のカギを握る3つの知覚チャンネル
俳句では、自分が感じ取ったものを17音で表現しますよね。
人が何かを感じ取る時には、五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)を使うということは、みなさんもよくご存じでしょう。
ただ、この五感については、人によってどれを優先的に使うのかが、決まっているんです。ちょうど、右利きの人は、右手を優先して使うのと同じです。
どの感覚を優先的に使用するのかによって、視覚優位型、聴覚優位型、身体感覚優位型(触覚、味覚、嗅覚は、身体感覚に含まれます。)の3つのタイプに分けられるということが、最近の研究で分かっています。
実は、この3つのタイプが、名句を作る上でのカギを握っているんです。俳句を鑑賞する相手が、どのタイプなのかによって、反応する言葉が違ってくるんですね。
例えば、視覚優位型の人であれば、花、空、海といった視覚情報に対しては、すぐにイメージが浮かびますが、音、声、歌といった聴覚情報に対しては、パッとイメージが浮かんできにくいんです。
つまり、誰が見ても「これは、いい句だ!」と思われるためには、視覚、聴覚、身体感覚を表す言葉を、バランスよく入れる必要があるわけです。
有名な俳句を科学的に見ると
それでは実際に、名句と言われている俳句について、検証してみましょう。
柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺
正岡子規
まず、視覚については、柿、鐘、法隆寺の3つを挙げることができます。
聴覚については、「鐘が鳴るなり」とあることから、鐘の音をイメージすることができますね。
身体感覚については、「柿くへば」とあることから、柿を食べている動作や、柿の味をイメージすることができます。
見事に3つの言葉のバランスが取れているというのが、分かるでしょう。
古池や 蛙(かわず)飛こむ 水のおと
松尾芭蕉
俳句に興味が無いという人でも、これだけは知っているという人も多い、名句中の名句ですが、これもバランスが取れた句です。
古池、蛙という単語から、視覚的なイメージが膨らんできますよね。
古池というと、さびれた感じの静かな場所がイメージでき、さらに、「水のおと」という部分で、蛙が池に飛び込んだ時の水音が思い浮かびます。
最初は静かだったが、その静かさが一瞬の出来事によって破られたという、聴覚に関するイメージがわいてきます。
また、「蛙(かわず)飛こむ」という部分から、蛙の動作という身体感覚に関するイメージができるわけです。
閑(しづか)さや 岩にしみ入(いる) 蝉(せみ)の声
松尾芭蕉
これも、松尾芭蕉の有名な句です。
視覚に関する単語は、岩と蝉の二つ。
さらに、「閑(しづか)さや」と「蝉(せみ)の声」の二カ所に、聴覚に関する表現が出ています。
また、「岩にしみ入(いる)」という部分が、蝉の鳴き声が、まるで水のように岩にしみこんでいくという動きを表現していて、これは身体感覚に関する部分です。
この句でも、3つの感覚に関する言葉のバランスが取れています。
夏草や 兵(つわもの)どもが ゆめの跡
松尾芭蕉
この句では、夏草、兵どもが視覚に関する表現です。
「ゆめの跡」に関しては、夏草という単語が無ければ、具体的にどういったものなのかをハッキリとイメージしづらいということで、視覚に関する表現に該当するかの判定は、個人的には微妙だと思います。
この句には、聴覚と身体感覚に関する表現が直接的には出ていませんが、夏草という部分から、あたり一面に草が生い茂った静かな様子、また、兵どもという部分から、武士が戦をしている時の声や動きがイメージされます。
一見すると3つの感覚の言葉のバランスが取れていないように見えるものでも、よく見ると、バランスが取れています。
荒海や 佐渡に横たふ 天の河
松尾芭蕉
視覚に関する単語は、荒海、佐渡、天の河の三つだということは、すぐに分かるでしょう。
また、「横たふ」という部分が、直接的に動作を表しており、「荒海」という部分が、激しく動く水の動きを間接的に表しているので、ここが身体感覚に関する部分です。
ただ、この句は、聴覚に関する表現が直接的に出ていません。
間接的ですが、「荒海」という部分が、激しい波音を連想させ、「天の河」という部分が、静かな夜空を連想させます。
ここまで、名句と言われる俳句を見てきましたが、3つの感覚に関する言葉のバランスがうまく取れているというのが、お分かりいただけたでしょう。
感情を動かすための工夫
3つのタイプを意識した言葉のバランスの重要性は、お分かりいただけたと思いますが、実は、まだそれだけでは十分ではありません。
単に言葉を並べただけではなくて、感情がはたらかないといけないんですね。
それでは具体的に、どうやって感情がはたらくようにするのかを解説します。
切れ字を有効活用
今回選んだ松尾芭蕉の句は、上句が全て「~や」の形になっています。
「や」は切れ字といって、「!」や「ああ、~よ!」といった驚きや呼びかけの役目を果たすものです。切れ字を使うことで、その部分を強調するという効果もあります。
いったん上句で区切ることでリズム感が出て、ダラダラした感じも無くなり、句全体が引き締まります。
切れ字を効果的に使うことで、感情の高まりを表現できるわけです。
ユニークな発想
当たり前のことを、当たり前に表現しても、誰も感動しません。感動するような句にするためには、相手が思わず「おや?」と思う要素が必要なんですね。
先ほどの松尾芭蕉の句を見てみましょう。
例えば、蛙と言えば、通常は鳴き声を想像しますよね。
しかし、松尾芭蕉は、鳴き声に注目するのではなく、飛び込んだ時の水の音に注目しているわけです。このへんの目の付け所が、ユニークです。
また、「岩にしみ入(いる) 蝉(せみ)の声」という部分も、普通の人であれば、蝉の声は岩に反射して響きわたると考えるところです。
それを、まるで蝉の鳴き声が、岩の中に吸い込まれていくようだと表現することで、味わい深い句になっています。表現の仕方も、ユニークですよね。
他にも、生い茂る夏草を、「兵どもが ゆめの跡」と表現したり、「佐渡に横たふ 天の河」という形で、天の河を擬人化したりなど、ユニークな表現はたくさんあります。
これらの松尾芭蕉の句の表現をヒントにして、みなさんも発想を膨らませてみましょう!
対比によってインパクトを高める
言葉のバランスと感情以外に、もう一つ大事な要素があります。それが、対比。
具体的にどうやって使うのか、どんな効果があるのかについて、見ていきましょう。
松尾芭蕉の対比のすごさ
何かと何かを対比させると、インパクトが大きくなりますよね。
松尾芭蕉の句の対比の例を見ると、「古池や 蛙(かわず)飛こむ 水のおと」では、古池の静かさと、蛙が飛び込んだ時の水音が対比されています。
また同じように、「閑(しづか)さや 岩にしみ入(いる) 蝉(せみ)の声」では、静かさと、蝉の声が対比されています。
「荒海や 佐渡に横たふ 天の河」では、荒海と天の河の部分で、海と空、荒れ狂う海の水と静かに輝く夜空の星、という具合に、対比が効果的に使われています。
ところで、他に対比を使った名句としては
菜の花や 月は東に 日は西に
与謝蕪村
があります。
この句でも、月と日、東と西という具合に対比が使われていますが、言葉のバランスとしては、視覚に偏り過ぎています。(菜の花の香りといっても、イメージできる人はあまりいないと思うので、少なくとも身体感覚には該当しないでしょう。)
松尾芭蕉のすごいところは、3つの感覚の言葉のバランスが完全に取れた上で、対比を使っていることです。
普通であれば、自分にとって優位な感覚の言葉にバランスが偏ってしまい、3つの感覚の言葉のバランスをとるということは、なかなかできません。
それが可能だったということは、まさに松尾芭蕉は、五感の全てを使って味わい切ったものを俳句にしていたということになるんです!
なぜ対比はインパクトを高めるのか
人は無意識のうちに、何かを比較しています。自分が見ているものを、自分の中にある基準と比較することで、それがどんなものであるのかを認識するんです。
この自分の中にある比較の基準となるものは、参照基準点と呼ばれています。
この本の中の、「ボーナスに不満を感じる理由」のところにも書かれてあるので、興味のある方はどうぞ。
知識ゼロからの行動経済学入門
他にも対比の使い方としては、こちらの本も参考になります。
伝え方が9割 【「伝え方が9割 2」試読版付き】
比較の対象が示されなければ、人は自分の基準と見たものを比較するんです。
なので、比較の対象を示すことで、相手の判断基準をそちらに移動させることができ、相手に与える印象をコントロールすることができるというわけです。
ここで、二つの対象がかけ離れたものであるほど、脳は異常な状態だと判断して、強く反応するようになるんです。
いい句にするための重要なポイント
名句を科学的に検証してみると、やはり名句と呼ばれるのには理由があるんです!
その中でも、松尾芭蕉は、俳聖と呼ばれるだけあって、科学的に見てもすごいというのが、よくわかりますよね。
さすがにこのレベルの俳句ともなると、誰でも簡単に作れるというわけにはいきませんが、ポイントを押さえれば、名句を生み出せる可能性はグッと高くなります。
まず大事なのが、言葉のバランス。
視覚優位型、聴覚優位型、身体感覚優位型の3つのタイプを意識して、それぞれのタイプが反応しやすい言葉をバランスよく入れることで、相手がどのタイプであっても、反応が得られるようになります。
また、視覚、聴覚、身体感覚の言葉のバランスが取れることで、まさに全身で味わう俳句になるわけです。
さらに、相手に印象付けるためには、ユニークな発想を持って、俳句を作ることも重要です。
さきほども解説したとおり、松尾芭蕉の句は、目のつけどころや、表現のやり方がユニークです。なので、名句を作る上でも、参考にしましょう!
そして、できることなら対比も入れるようにして、インパクトを高めること。さすがに、これらの条件を全て満たすのはしんどいですが、名句を作る上で、ぜひとも意識するようにしましょう。
https://kadobun.jp/reviews/bunko/4h4p6tw1786c.html 【俳句など、日本の伝統文化に強い愛情を表した寺田寅彦。科学者としての生活のなかに文学の世界を見出した名随筆、待望の復刊︕ 『科学と文学』】より
文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。
(解説:川添 愛 / 作家)
人間というのはどうも、あらゆる人間をカテゴリーに分けたがる生き物であるようだ。科学者なら科学者、文学者なら文学者、母親なら母親、男なら男……というふうに。「科学者なのに、文学に造ぞう詣けいがある」「文系なのに数学ができる」などという偏見に満ちた発言にはうんざりするが、私自身も気がついたら「いやあ、私は文系人間なので数学は苦手で(笑)」とヘラヘラ自己紹介をしたり、「この人、理系なのに文章がうまいな」などと失礼なことを考えたりしている。
そうやって人間を分類してしまうのは、きっと心の負荷を軽くしたいからなのだろう。一人ひとりの人間を全体として理解しようとするのは、たぶん相当しんどいことなのだ。しかし、少なくとも私個人に関して言えば、他人だけでなく自分自身をも何らかのカテゴリーに分類し、安心しきっているようなところがある。あの人はああいう人で、自分はこういう人だ、だからあの人はああいうことをするが、自分はしなくていい、とか。そのせいか、どのカテゴリーにも収まらない異形の才人に出会ったとき、まるで自分の立場が危うくなったような気がして慌てふためいてしまう。
寺田寅彦というのは、多くの人にとってそのような存在ではないかと想像する。私が初めて読んだ寅彦の作品は、「ピタゴラスと豆」という随筆だった。これから読む人のために詳細は語らないが、「ピタゴラスは豆畑で死んだ」という奇妙な説に興味を持ち、あれこれ調べているうちにこの作品に出会い、その洞察の深さに唸うならされたのだった。その後、作者が偉大な研究業績を持つ科学者でもあったということを知り、「どういうこと?」と混乱したのを覚えている。
私がわざわざ言うのもおこがましいが、寅彦は単に「科学ができて、文学もできる人」ではない。それは寅彦の文章に触れた人なら誰もが感じることだろう。寅彦の文章の魅力の一つが「科学者ならではの視点」にあることは言うまでもないが、「珈琲哲学序説」で宗教を酒に、哲学を珈琲コーヒーになぞらえる発想の面白さ、「団栗」や「竜舌蘭」でありありと描かれる還らぬ時間の切なさ、暑さの中で不意に感じる冷気を「味み噌そ汁の中に入れた蓴じゆん菜さいのように、寒天の中に入れた小豆あずき粒つぶのように」とたとえる、独特ながらも読む者に強烈な実感を与える表現の巧みさなどは、「科学者だから」「文学者だから」で説明しきれるものではない。本書においても寅彦は映画や連句についての鋭い分析を次々に繰り出しており、読んでいる側としては、まるで寅彦をガイドとした見所満点の旅に出ているような錯覚に陥り、彼の発見や洞察を一度に消化できない自分をもどかしく思うのである。
寺田寅彦という希け有うな人物は、いったいどのようにして形成されたのだろうか? 田丸卓郎と夏目漱石という二人の偉大な師に巡り会ったことが大きな要因であることは間違いないが、もう少し、科学と文学という営みの本質から答えに迫れないものかと思っていた人は少なくないはずだ。そのような疑問に対し、本書では当の寅彦本人が持論を語ってくれている。この本の裏テーマを「寺田寅彦が語る、寺田寅彦のつくり方」と見るのも、さほど的外れではないと思う。
科学と文学についての寅彦の説明を読んで、これら二つの営みに多くの共通点があることに驚かれた方は多いかもしれない。私自身、科学から文学に近づいていくことが一つの自然な道筋であることを、改めて認識させられた。私の専門分野は広いくくりでは言語学だが、狭いくくりでは「理論言語学」という。これは言葉を科学的に研究する分野であり、物理学のような純粋な自然科学とは多少違うところはあるものの、方法論は科学のそれに則のつとっている。私は数年前にフルタイムの研究者をやめ、今は物語などを書く仕事をしているが、学生時代に科学の方法を学ばなければ文章を書く仕事はできなかっただろうと前々から思っていた。そして今回この本を読んで、寅彦の言うことのほぼすべてに膝ひざを打った次第だ。
適切な喩たとえかどうかは分からないが、科学の道に入るのはけっこう「出家」に近い。なぜかというと、ものの考え方や表現の仕方について、多くの制限を受け入れなくてはならないからだ。それまで好きなことを好きなように考え、何でも言いたい放題に言ってきた人間も、科学を志すとなったらそういった野放図な態度を改めなくてはならない。
科学の世界に入る人の中には、最初からそのあたりをわきまえている人もいる。しかし私はまったく逆で、「(科学者を含め)学者というのは、何でもいいから世間にウケそうな面白いことを頭良さそうに言う仕事なのだろう」と思い込んでいた。そんなことだから、研究においては客観的な事実、つまり「本当のこと」を追求しなければならないと知ったとき、ものすごくショックを受けた(今思うと、どれほどアホだったのかと思うが、本当なので仕方がない)。この、科学の大前提たる「真実を追求し、真実に忠実であろうとする態度」が、寅彦の随筆を含め、優れた文学作品に共通してみられる側面であることは明らかだ。寅彦自身、本書において「文学が芸術であるためには、それは人間に有用な真実その物の記録でなければならない」と述べ、また「雑記帳より」では「随筆はなんでも本当のことを書けばよい」(『科学歳時記』角川ソフィア文庫、43頁)と述べているが、私の経験から言えば真実に目を向けること自体、相当難しいことだ。そういった態度をどこで身につけるかは人それぞれだろうが、私個人に関して言えば、科学の世界に触れなければ不可能だったように思われる。
また科学の理論は、もし間違っていたら「これは間違っている」と客観的に示せるようなものでなければならない。これは科学的を疑似科学から区別する上できわめて重要な条件だが、科学者としてこれを受け入れることは、「自分が間違っている可能性をつねに頭のどこかに置いておかなくてはならないこと」、また「実際に自分が間違っていれば、素直に認めなければならないこと」を意味する。つまり科学者にとって必要なのは、たとえ自分にとって都合が悪かろうが事実を受け入れようとする態度であり、「確実に言えることがいかに少ないか」という実感を持つことである。寅彦の文章に漂う謙虚さは、優れた科学者が持つ慎重さと誠意の表れだろう。
私が科学において最も難しいと感じたのは、自分のエゴを殺しつつもオリジナリティを追求しなくてはならないという側面である。科学における種々の制約を受け入れるとき、「手っ取り早く自己実現したい」という思いは非常に邪魔になる。少なくとも、科学における実験は(環境さえ整えば)誰にでも再現できるものでなくてはならないし、科学における記述と説明は(前提知識を共有している人なら)誰にでも理解できるようなものでなければならない。寅彦も「問題が能知者との関係にわたる場合には科学の範囲を脱」すると書いているように、「自分」が関わった時点でそれは科学の営みではなくなる。さらには、使う言葉までが「普通日常の国語とはちがった、精密科学の国に特有の国語」に制限されるため、私などは科学の世界に入ってから長い間、ろくにものが言えなくなったくらいだ。
しかし同時に、研究テーマの選び方や観察の切り口などについてはオリジナリティが求められるし、現象を説明するための仮説や理論を立てるときには柔軟で自由な発想ができなくてはならない。まさに、寅彦が本書で「科学者と芸術家の生命とするところは創作である」と述べているとおりだ。つまり科学者には、厳密さの中で自由を体現できるバランス感覚が不可欠だが、これを身につけて実践するのは容易なことではない。
寅彦はそのバランス感覚を随筆や批評に生かしているし、科学における「制約の中の自由」に通じる営みとして俳句や連句に興味を持ったのは自然なことだったのかもしれない。そういった観点で本書を読んでいくと、「連句の心理と夢の心理」はとくに興味深い。連句を創り出す際の心理について書かれた一節だが、詩的な発想を際限なく自由に広げていくプロセスと、季題や前句・前々句との関係を考慮し、繰り返し制約を課しながら句を淘とう汰たしていくという、あたかもコンピュータプログラムのようなアルゴリズミックなプロセスが述べられている。寅彦は科学者であり文学者であることを実践しつつ、同時にそのような自身を内省的に観察し、分析していたのだということがよく分かる。
内省的であることもまた、寅彦が自身の中で科学と文学を融合させる上での必要条件であったと思われる。寅彦のように、人間が自然の一部であることを認識しながらも、科学が解明するメカニズムの中だけに収まりきれない存在でもあることに対して完全に自覚的でなければ、科学者の目で物事の本質を見据えつつ、文学において許される「非論理的な論理」を駆使して真実を突くことはできなかったように思うのだ。ただし、内省的な人間であるというのは、科学者であることとは直接には関係がない気がする。優れた業績を持つ科学者がみな内省的であるとは限らないからだ。寅彦はもともと内省的な人だったのかもしれないが、漱石との交流、また彼によって教えられた文学が少なからず影響していると考えるのは自然なことだろう。実際、寅彦は「夏目漱石先生の追憶」で、漱石に「自然の美しさを自分自身の目で発見すること」、「人間の心の中の真なるものと偽なるものとを見分け、そうして真なるものを愛し偽なるものを憎むべき事」を教わったと書いている。
科学の力は強力で、世界の運命を大きく変えてしまう。科学の発達によって引き起こされた種々の悲劇を思うと、「人間の心の中の真なるものと偽なるものとを見分け、そうして真なるものを愛し偽なるものを憎む」ことが、科学の成果を利用する私たちの中で十分に達成されていないことに思いを馳はせざるを得ない。寅彦は本書で、科学の進化が人間の不幸を生む原因について「物質科学の方面だけが先駆けをして」、「人間の心に関する知識の科学的系統化とその応用が進んでいないために起る齟そ齬ごの結果ではないか」と分析し、「そういう系統化への資料を供するのが未来の文学の使命ではないか」と説いている。このように、文学の役割に多大な期待を寄せていた寅彦が、文学や文学研究が軽視されがちな現在の状況を見たら何と言うだろうか。
文学は時空を超えて人間に訴えかける存在であると同時に、書かれた時代や場所と強く結びついたものでもあり、読み解くためには優れた導き手が不可欠だ。そういった導き手は、連綿と受け継がれる学究の流れがなければ生まれてこない。漱石や寅彦の文学を未来に伝えることができるか、また寅彦の望んだ仕方で科学技術を正しい方向へと導いていけるかどうかは、今の私たちにかかっている。
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