https://www.543life.com/about/【日本の季節を楽しむ暮らし「暦生活こよみせいかつ」】より
「日本の季節や旬のものを楽しめる大人になりたい」そう思ったことが、暦生活を立ちあげたきっかけでした。「家族にも伝えていけるようになりたい」子どもがうまれ、その思いはさらに強くなりました。意外と知らない、季節の行事や旬の食べもの草花や空、美しい言葉の数々。
そうした、じつは身近にあるいろいろなモノゴトについて、私たちも学びながら、わかりやすく丁寧にお伝えしていきたいと思います。日本の暮らしは、きっともっと奥が深いから。
https://www.ndl.go.jp/koyomi/introduction/index.html 【はじめに】より
暦(こよみ)は、日や月や季節の移り変わりを知るため、古くから暮らしに欠かせないものでした。それぞれの時代にはさまざまな暦があり、日々使われ、時には趣向をこらして楽しまれてきました。昔の生活や文化を伝える興味深い資料ともなります。
ここでは、国立国会図書館が所蔵する暦のコレクションによって、日本の暦の歴史をたどり、中でも江戸時代に流行した暦の一種である大小暦(だいしょうれき)の楽しみ方を紹介します。
https://www.ndl.go.jp/koyomi/chapter1/s1.html 【暦の渡来 太陰太陽暦とは? 暦の普及――具注暦と仮名暦】より
暦の渡来から太陽暦の導入まで、国立国会図書館が所蔵する暦や資料の画像をまじえて日本の暦の歴史を概説します。
暦の渡来
暦は中国から朝鮮半島を通じて日本に伝わりました。大和朝廷は百済(くだら)から暦を作成するための暦法や天文地理を学ぶために僧を招き、飛鳥時代の推古12年(604)に日本最初の暦が作られたと伝えられています。
日本最古の歴史書である「日本書紀」の欽明天皇14年(553)6月の条に、百済から「暦博士」を招き、「暦本」を入手しようとした記事がある。これが、日本の記録の中で最初に現れた暦の記事である。
暦は朝廷が制定し、大化の改新(645)で定められた律令制では、中務省(なかつかさしょう)に属する陰陽寮(おんみょうりょう)がその任務にあたっていました。陰陽寮は暦の作成、天文、占いなどをつかさどる役所であり、暦と占いは分かちがたい関係にありました。平安時代からは、暦は賀茂氏が、天文は陰陽師として名高い安倍清明(あべのせいめい 921-1005)を祖先とする安倍氏が専門家として受け継いでいくことになります。
太陰太陽暦とは?
当時の暦は、「太陰太陽暦(たいいんたいようれき)」または「太陰暦」、「陰暦」と呼ばれる暦でした。
1ヶ月を天体の月(太陰)が満ち欠けする周期に合わせます。天体の月が地球をまわる周期は約29.5日なので、30日と29日の長さの月を作って調節し、30日の月を「大の月」、29日の月を「小の月」と呼んでいました。一方で、地球が太陽のまわりをまわる周期は約365.25日で、季節はそれによって移り変わります。大小の月の繰り返しでは、しだいに暦と季節が合わなくなってきます。そのため、2~3年に1度は閏月(うるうづき)を設けて13ヶ月ある年を作り、季節と暦を調節しました。大小の月の並び方も毎年替わりました。
暦の制定は、月の配列が変わることのない現在の太陽暦(たいようれき)とは違って非常に重要な意味をもち、朝廷や後の江戸時代には幕府の監督のもとにありました。 太陰太陽暦は、明治時代に太陽暦に改められるまで続きます。
暦の普及――具注暦と仮名暦
陰陽寮が定める暦は「具注暦(ぐちゅうれき)」と呼ばれ、季節や年中行事、また毎日の吉凶などを示すさまざまな言葉が、すべて漢字で記入されていました。これらの記入事項は「暦注(れきちゅう)」と呼ばれています。また、「具注暦」は、「注」が具(つぶさ=詳細)に記入されているのでこの名があります。
「具注暦」は、奈良時代から江戸時代まで使われましたが、特に平安時代の貴族は毎日暦に従って行動し、その余白に自分の日記を記すことが多く、古代から中世にかけての歴史学の重要な史料となっています。
応永20年(1413)の具注暦。裏は満済(まんさい 1376~1435)の日記。満済准后日記(まんさいじゅごうにっき)は法身院日記とも呼ばれ、醍醐寺三宝院には応永30~永享7年(1423~1435)の日記38冊があり、国宝に指定されている。満済は、二条師冬(にじょうもろふゆ)の子で、足利義満の猶子となった。醍醐寺三宝院に入室、門跡・醍醐寺座主となり、准三后に叙せられる。足利義満・足利義持・足利義教の三代の将軍に重用され、黒衣の宰相と称された。本日記は当代の政情を知る貴重な史料である。
かな文字の普及によって、「具注暦」を簡略化し、かな文字で書いた「仮名暦(かなごよみ)」が登場します。鎌倉時代末期からは手書きでなく印刷された暦も現れ、暦はより広く普及していきます。
https://www.ndl.go.jp/koyomi/chapter1/s2.html 【江戸から明治の改暦】より
近世の改暦
江戸時代に入り天文学の知識が高まってくると、暦と日蝕や月蝕などの天の動きが合わないことが問題となり、江戸幕府のもとで暦を改めようとする動きが起こりました。それまでは、平安時代の貞観4年(862)から中国の宣明暦(せんみょうれき)をもとに毎年の暦を作成してきましたが、800年以上もの長い間同じ暦法を使っていたので、実態と合わなくなってきていたのです。
そうして、貞享2年(1685)、渋川春海(しぶかわはるみ 1639~1715)によって初めて日本人による暦法が作られ、暦が改められました。これを「貞享の改暦」といいます。江戸時代には、そのあと「宝暦の改暦」(1755)、「寛政の改暦」(1798)そして「天保の改暦」(1844)の全部で4回の改暦が行われました。西洋の天文学を取り入れ、より精密な太陰太陽暦が作成されました。江戸幕府の天文方が暦の計算を行い、賀茂氏の系統を受け継いだ幸徳井(こうとくい)家が暦注を付け加え、各地の出版元から暦が出版されました。
北斎の版画「富嶽百景」に収録されている「鳥越の不二(とりごえのふじ)」に描かれた浅草天文台。江戸幕府の天文方(てんもんがた)が天体観測を行った。中央の球は渾天儀(こんてんぎ)という天体運行の観測器械。浅草天文台は、天明2年(1782)、牛込から移転、天保13年(1842)には九段坂上に移った。
貞享の改暦
貞享暦は、渋川春海がみずからの観測に基づき、中国元代の授時暦に中国と日本の里差(経度差)を補正し、1年の長さが徐々に変化するという消長法を援用して改良した暦法です。貞享元年(1684)10月に改暦の宣下があり、暦号を「貞享暦」と賜りました。それ以前は、春海はこの暦を「大和暦」と称していました。
改暦の機運のなかで、前例にならい中国の明の官暦「大統暦」をそのまま用いようとする伝統派に対し、春海は3度上表し、みずからの『大和暦』の採用を願い出ます。将軍家綱の後見役である保科正之(ほしなまさゆき)や、徳川光圀(とくがわみつくに)をはじめとする幕府の有力者の知遇を得た春海は、改暦に不可欠な政治力をも持ち、改暦を成功に導いたのです。この改暦によって幕府は編暦の実権を握り、暦は全国的に統制されました。春海はその功により、幕府の初代天文方に任命されました。
貞享の改暦後、最初の伊勢暦。前文に「貞観以降用宣明暦既及数百年推歩与天差方今停旧暦頒新暦於天下因改正而刊行焉」と改暦の理由を述べている。
宝暦の改暦
8代将軍徳川吉宗は、西洋天文学に深い関心を寄せ、算学家の建部賢弘(たけべかたひろ 1664~1739)やその弟子の中根元圭(なかねげんけい 1662~1733)を召して、天文暦学の研究を行いました。また、元圭に『暦算全書』の訳述を命じましたが、この書は中国に来た宣教師の編さんした『崇禎暦書(すいていれきしょ)』により、清の梅文鼎(ばいぶんてい)が西洋天文学の知識を取り入れたものです。
天文方の渋川則休(しぶかわのりよし 1717~1750)と西川正休(にしかわまさやす1693~1756)は吉宗の命を受けて改暦の準備を進めましたが、吉宗や渋川則休の死、西川正休と土御門泰邦(つちみかどやすくに 1711~1784)の対立、さらに正休の失脚などによって、改暦の主導権を土御門泰邦が握るに至りました。進奏した暦法は「宝暦甲戌(こうじゅつ)元暦」と名づけられ、宝暦5年(1755)から施行されました。この宝暦暦は、貞享暦にわずかな補正を加え、暦注を増したものです。しかし、宝暦13年(1763)9月の日蝕予報に失敗し、幕府は明和元年(1764)に佐々木文次郎(ささきぶんじろう 1703~1787)に補暦御用を命じ、明和8年(1771)から幕府天文方による「修正宝暦暦」が用いられました。
宝暦の改暦後、最初の伊勢暦。前文に「貞享以降距数十年用一暦其推歩与天差矣今立表測景定気朔而治新暦以頒之於天下」とあり、暦注を追加したことなどの注意書きが付されている。
寛政の改暦
寛政7年(1795)、幕府は西洋暦法による改暦を企て、広く人材を求め、中国の西洋暦書『崇禎暦書』や『暦象考成』を研究していた大阪の麻田剛立(あさだごうりゅう 1734~99)門下の高橋至時(たかはしよしとき 1764~1804)と間重富(はざましげとみ 1756~1816)を起用しました。至時は、天文方にも任ぜられ、先任の天文方吉田秀升(よしだひでのり 1745~1802)、山路徳風(やまじよしつぐ 1761~1810)とともに改暦にあたり、『暦象考成後編』および『暦象考成上下編』に基づいて『暦法新書』を完成させました。『暦法新書』は、寛政9年(1797)改暦宣下、翌10年から施行されました。
『暦象考成後編』には日月の運行に対するケプラーの楕円軌道論があり、『暦法新書』に取り入れられています。至時は、その後もフランス人ラランドの天文書研究に没頭し、『ラランデ暦書管見』を残しました。
寛政の改暦後、最初の伊勢暦。前文に「順天審象定作新暦依例頒行四方遵用」とあり、新暦に基づいて作成したことを示している。
天保の改暦
寛政暦法は、中国の西洋暦書『暦象考成』を通じて間接的に西洋天文学を取り入れたものでした。高橋至時の死後、長男の高橋景保(たかはしかげやす 1785~1829、シーボルト事件で獄死)と次男渋川景佑(しぶかわかげすけ 1787~1856、天文方渋川家の養子)らによって、『ラランデ天文書』とよばれていたフランス人ラランド(1732~1807)著『Astronomie』の蘭訳書を完訳する作業が続けられ、『新功暦書』が完成します。景佑らは、これに基づく改暦の命を受け、天保13年(1842)『新法暦書』を完成させました。『新法暦書』は、同年10月改暦宣下、天保15年(弘化元年、1844)から施行されました。
天保の改暦後、最初の伊勢暦。前文に、改暦の理由、暦号の由来などが記されている。
明治の改暦
明治維新(1868)によって樹立された明治政府は、西洋の制度を導入して近代化を進めました。その中で、暦についても欧米との統一をはかり、明治5年(1872)11月、太陽暦(グレゴリオ暦)への改暦を発表しました。これによって明治6年(1873)から、太陰太陽暦に替わり現在使われている太陽暦が採用されたのです。
準備期間がほとんどなく、本来ならば明治5年12月3日が、新しい暦では明治6年1月1日になってしまったので国内は混乱しましたが、福沢諭吉などの学者は合理的な太陽暦を支持し、普及させるための書物を著しています。
現在私たちが使っているカレンダーは太陽暦によるものですが、その中にも大寒、小寒など古来から太陰太陽暦で使われた季節を現わす言葉(『暦の中のことば』のコーナーを参照)が残っています。毎年毎年新しくなる暦ですが、人間の歴史と文化がその中に刻みこまれているといえるでしょう。
改暦最初の太陽暦。前文に太陽暦の原理と定時法の説明がある。突然の改暦のため、明治5年末までには行きわたらなかった。神武天皇の即位から年を数える皇紀(明治6年は紀元2533年)が入り、上欄には歴代天皇の祭典等が記載されている。
https://www.ndl.go.jp/koyomi/chapter2/s1.html 【大小暦】より
大小暦は、大の月、小の月の並び方を知るために登場した暦です。絵や文章の中に大の月、小の月を織り込み、アイデアやユーモアのセンスを競い、江戸時代に大流行しました。
月の長さはなぜ違う?
カレンダーには1月のように31日ある月と、4月のように1日短い30日の月があります。また2月は28日で、4年に1回の閏年(うるうどし)には29日になります。
1年を地球が太陽のまわりを1回転する期間とし、このように12ヶ月を設けるのは、古代ローマ以来の風習が伝わったものです。閏年があるのは、地球が太陽のまわりを回る実際の期間は約365.24日なので、4年に1回調節を行わなければならないためです。
このような現在の暦は「太陽暦(たいようれき)」と呼ばれ、日本では明治6年(1873)から使われています。
大の月、小の月
では、それまでの暦はどうだったのでしょうか。暦が7世紀はじめに伝わってから、明治5年(1872)まで日本で使われていた暦は「太陰太陽暦(たいいんたいようれき)」または「太陰暦」、「陰暦」と呼ばれる暦でした。
太陰とは天体の月のことです。「太陰太陽暦」は1ヶ月を天体の月が満ち欠けする周期に合わせます。天体の月が地球をまわる周期は約29.5日なので、30日と29日の長さの月を作って調節し、30日の月を「大の月」、29日の月を「小の月」と呼んでいました。一方で、地球が太陽のまわりをまわる周期は約365.24日で、季節はそれによって移り変わります。
大小の月の繰り返しでは、しだいに暦と季節が合わなくなってきます。そのため、2~3年に1度は閏月(うるうづき)を設けて13ヶ月ある年を作り、季節と暦を調節しました。毎年、次の年の暦を計算して決定するので大小の月の並び方も毎年替わりました。
「大小暦」の流行
幕末の「ええじゃないか」の踊りを大小暦に仕立てた河鍋暁斎(かわなべきょうさい 1831~1889)の作品。男女の別で月の大小を表わしている。
そのため、毎年、月の大小の並び方、あるいは閏月を知ることは人々にとって非常に重要なことでした。月末に支払いや代金の取り立てをする商店では間違えないように「大」と「小」の看板を作り、月に合わせて店頭に掛けていました。
暦がだんだん普及してくる中で、江戸時代には大の月、小の月の並べ方だけを示す「大小暦(だいしょうれき)」、当時は「大小(だいしょう)」とのみ呼ばれた暦が登場します。ただ大小の月を示すだけでなく、絵や文章の中に月の大小と配列を折り込み、工夫をこらして楽しむようになったのです。
干支(えと)の動物などのおめでたい図柄や人気のあった歌舞伎から題材をとるなどさまざまな大小が作られ、年の初めには「大小会」を開いて交換したり、贈り物に配られたりしました。江戸時代の貞享頃(17世紀末)から始まり、明和から寛政年間(18世紀後半)に最も流行しました。有名な画家も「大小」を製作しています。明治時代になり「太陽暦」になると「大小」は必要なくなり作られなくなってしまいましたが、現在でもその謎解きには興味の尽きないものがあります。
大小暦クイズのコーナーでは、いろいろな大小暦を紹介しています。
1684年から1872年までの大小を表にしたものです。閏は閏月を表わしています。
0コメント