俳句の地平を拓く

https://www.haiku-hia.com/about_haiku/world_info/usa/ 【HIA Haiku International Association 国際俳句  世界の「俳句・ハイク」事情】


https://note.com/mitsukage/n/n54470114b79d 【〝野ざらし〟の芭蕉精神と孵(す)でる〝地球俳句〟―野ざらし延男評論集『俳句の地平を拓く―沖縄から俳句文学の自立を問う』解説】

より

1 はじめに

野ざらし延男氏は、戦後沖縄における「俳句革新」の実践家であり、伝統と前衛の枠を超えた戦後沖縄俳句の「生き証人」である。「俳句革新」の内実については後で詳述するが、野ざらし氏は長年沖縄の地で、前衛的な俳句実作・俳句評論・俳句教育の分野の第一線で活動してこられた。これまで、四冊の個人句集や複数のアンソロジー句集の出版に加え、沖縄俳句史にとって貴重な資料である『沖縄俳句総集』(1981)の編纂のほか、未来志向の俳句教育の実践集『俳句の弦を鳴らす―俳句教育実践録』(2020)などを刊行している。本書は、氏の長年の俳句評論が一書に纏められた初めての本格的評論集である。

本書の章立てと概要は次のとおりである。

第一部「複眼的視座と俳句文学(Ⅰ、Ⅱ章)」では、沖縄の地の自然・歴史・現実社会が野ざらし延男という俳人を生み育んだ「私的俳句原風景」が語られ、そこから導かれる「俳句文学の自立」が問われる。俳句を始めたころ、十代の野ざらし氏は「歳時記」をがむしゃらに読んでいた。その後に季語を入れない無季俳句も含めたより自由な俳句に踏み出す野ざらし氏が、最初は季語の研究に熱心であったことは示唆的である。野ざらし氏のいう「俳句文学」は、個人的にして社会的な沖縄での生活実感が生んだ「複眼的視座」を源流としている。氏は、一つの価値観への妄執や大勢順応を疑い、より広い視点で俳句をとらえ、俳句における「真実」を追求していく。

第二部「米軍統治下と〈復帰〉を問う(Ⅲ、Ⅳ、Ⅴ章)」では、太平洋戦争の日本敗戦後、アメリカに統治され、その後「復帰」した沖縄の社会情況が年代を追って記述され、同時にその沖縄でいかなる俳句の実践がなされたかが具体的な句も併せて記録されている。「復帰」に当たって沖縄の社会と俳句に何が起こりいかに変化したかは、人々の空気感も含め、歴史を将来に生かす意味でも貴重な証言である。中でも一九五六年発足の「沖縄俳句会」という沖縄の俳句愛好家たちが大同団結した組織についての記述は、今後の沖縄の俳句や俳句界全体が「大同団結」していく先例として、その挫折も含め、重要だと感じた。さらにはⅤ章「混沌・地球・俳句」では、東日本大震災の福島原発事故や新型コロナ・パンデミックなど地球規模の社会問題と俳句は無関係ではなく、その中で沖縄の地に根付く「孵でる精神」が提唱される。

第三部「批評精神が文学力を高める(Ⅵ、Ⅶ章)」では、「沖縄タイムス」紙掲載の俳句時評と「俳壇抄」(全国俳誌ダイジェスト)に執筆した原稿が収録され、その時その時の社会や俳句界の動向に俳人・野ざらし延男が舌鋒鋭く切り込んでいる。

第四部「詩魂と追悼(Ⅷ、Ⅸ章)」では、野ざらし氏による他の表現者や俳人の作品への解説と、師と仰ぐ先達や同志たちの死に際しての追悼文が収録されている。単独者のようにも見える野ざらし氏は決して孤立無援ではなく、志を同じくする同時代人と交流し共闘してきたのだ。

また、序章「しゃれこうべからの出発 ―狂気と覚悟」、終章「洞窟に螢火が灯った」には野ざらし氏の思想がコンパクトに凝縮されている。終章で、野ざらし氏が「俳句革新」の足場とした俳句同人誌「天荒」が全国俳誌協会主催の「編集賞特別賞」を受賞したことは、野ざらし氏の「俳句革新」は沖縄内部にとどまらず、全国にとっても意義のある革新運動であったという証明であろう。

俳句イコール「花鳥諷詠」「有季定型」であり、そこからはみ出す文学的主題は他の表現ジャンルで行えばいい、その意味で「俳句は文学ではない」とする無意識の俳句観は、野ざらし氏の言葉を借りれば「単眼的」である。そして俳句におけるこの単眼を相対化してくれるもう一つの眼は、「沖縄」ではないだろうか。

俳句界全体に、さらには人間社会に「複眼的視座」を与えてくれる一書として本書を位置づけ、次の三つの切り口から野ざらし氏とその評論群を読んでみたい。

・野ざらし延男と松尾芭蕉

・沖縄と沖縄俳句においての野ざらし延男

・孵でる「地球俳句」とその背景

2 野ざらし延男と松尾芭蕉

江戸時代に生きた松尾芭蕉は、東京・深川の草庵に居を移すのと軌を一にし、俳号を「桃青」から「芭蕉」に改めた。ここから俳諧宗匠としての世俗的生活を捨てて、芸術的生活を歩み出す。風雨に晒され裂けてこそ侘びの美を湛える「芭蕉」の号はその象徴であろう。また明治時代の正岡子規は、結核に侵され喀血したことを契機に「子規」と名乗り始める。子規はホトトギスの和名で、口を開け真っ赤な喉を見せ鳴くホトトギスを我が身に見立てた。当時不治の病であった結核の運命を引き受け、子規は残り少ない人生の時間を燃焼させ、後世に残る俳句革新・短歌革新を成し遂げる。

本書の著者・野ざらし延男氏も、芭蕉と子規がそうであったように、俳句と、いかに生くべきかという実存的問いとが不可分である。それにしても「野ざらし(しゃれこうべ・髑髏)」とは芭蕉・子規と比べても強烈である。その深く暗い心奥に蠢くものの激しさに戦慄する。

この名付けの自己解説は、序章の「しゃれこうべからの出発」を読めば明らかだ。高校二年、生きることに絶望し自殺寸前まで追い詰められた山城信男青年に、芭蕉の一句〈野ざらしを心に風の沁む身かな〉が、「人生覚醒の一句」として突き刺さってきた。芭蕉の一句が一人の青年を延命させ、その後の人生への生きがいを与えた。「しゃれこうべからの出発」より引く。

……芭蕉の「狂気と覚悟」をわがものとして生きたいと思った。……

……私の中の〝野ざらし〟は私を苦しめる。……

……芭蕉の中の〝野ざらし〟は秋風に鳴っているが、私の中の〝野ざらし〟は春夏秋冬鳴り止むことはない。

「野ざらし」の一句は私の鞭である。芭蕉を狂気もて超えねばならぬ。

「しゃれこうべからの出発」

野ざらしの一句、つまり〝野ざらし〟は〈芭蕉の「狂気と覚悟」〉であり、「私」を生かしもしまた苦しめもする両義的な何かである。さらにそのような芭蕉は野ざらし氏にとって「超え」るべき存在である。ここで野ざらし氏は、単に芭蕉が成し遂げた句業を超えたいと言っているのではない、と私は思う。それではその内実とは何か。芭蕉「野ざらし紀行」の中の、次の有名な一節とともに考えてみたい。

冨士川のほとりを行に、三つ計なる捨子の、哀氣に泣有。この川の早瀬にかけてうき世の波をしのぐにたえず。露計の命待まと、捨置けむ、小萩がもとの秋の風、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂より喰物なげてとをるに、

  猿を聞人捨子に秋の風いかに

いかにぞや、汝ちゝに悪まれたる欤、母にうとまれたるか。 ちゝは汝を悪にあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝が性のつたなき(を)なけ。

『芭蕉紀行文集』岩波文庫 参照

〝野ざらし〟の決意のもとに旅に出た芭蕉は、富士川のほとりで捨て子に遭遇する。そこで詠まれた一句。「猿を聞人」とは猿の鳴き声を聞いて無常観や断腸の思いを詩歌に書き付けてきた中国の詩人たちのこと。現実の秋風に吹かれる捨て子を目の前にして、あなたたちは何を思うだろうか、風流のみに身をやつしていて空しくないか、と問いかけているのである。ちなみにこの一節について、芭蕉が捨て子に出会ったというのは虚構であるとする説もあるが、事実か虚構かは本質的問題ではない。当時の貧困にあえぐ農村では口減らしのために捨て子も多かった。「捨て子」という社会的に不遇の存在への深い同情が、芭蕉にこの一句を詠ませた。このことは芭蕉自身の中の「猿を聞人」への問いかけであり葛藤でもあろう。

さて、ここで芭蕉は「袂より喰物なげて」と、少しの食べ物を与えて、その場を立ち去る。さらには、父母を恨むのではなく「唯これ天にして、汝が性のつたなき(を)なけ」と、天命として受け入れなさい、という。もちろん芭蕉は慈善活動家でもないし、悲惨な現実を呑み込んだときの心を引き裂かれるような気持ちや無力感もわかる。しかしそれと反対に、どうにかしてこれとは他の現実との対峙の仕方はなかったか、という思いも残る。

私はこの「野ざらし紀行」での「捨て子」を「沖縄」に置き換えてみたくなる。薩摩の琉球侵攻から、沖縄戦では「捨て」石にされ、米軍統治下の戦後は土地も人権も剥奪、日本「復帰」後も米軍基地を押し付けられている。このような沖縄の現実を目の前にして「唯これ天にして、汝が性のつたなき(を)なけ」と言えるだろうか。詩歌に関わる者として〈猿を聞人捨子に秋の風いかに〉の葛藤は無いだろうか。野ざらし氏がいう「芭蕉を狂気もて超えねばならぬ」とは、詩歌の伝統や周囲からたとえ「狂人」のように思われたとしても、「捨て子」の現実から目を背けず主題として問い続ける、という芭蕉にはできなかった文学的挑戦への決意ではないだろうか。

「花鳥諷詠」「客観写生」からなる「有季定型」という現在の俳句の潮流をつくった高浜虚子も、その思想の論拠を松尾芭蕉に寄っていた。それと同じく、野ざらし氏の俳句観の出発も芭蕉である。同じ源泉から後世にいくつもの豊かな思想が生まれてくるのは芭蕉文学の古典としての「複眼的」な魅力であろうが、だからこそ、時代や場所に合わせて芭蕉を生かしていくことこそ大切だ。その意味で野ざらし氏は、戦後沖縄における正統なる芭蕉の「弟子」といえるのではないか。ちなみに野ざらし氏は「右眼に芭蕉の眼、左眼に一茶の眼、複眼的視座を大切にしたい」(Ⅰ章「複眼的視座としての雪 ―私と雪」)と書いているとおり、芭蕉を絶対化はせずに、これも複眼の一つとしている。

 3 沖縄と沖縄俳句においての野ざらし延男

さて、本書の各所で論じられている通り、日本において沖縄が様々な構造的差別を受け、それが現在も進行中であることは明白な事実である。そのような中で沖縄の俳句と野ざらし氏は、二重の意味でのマイノリティ的状況に置かれていた。

一つは、これは言うまでもないことかもしれないが、日本本土の俳句に対して沖縄の俳句はマイノリティであった。戦前の「琉球ホトトギス」、戦後は「みなみ吟社」など、沖縄の俳句の大半は、みな本土の伝統俳句の系統であった。一九五三年一月に開かれた「戦後初の盛大な俳句大会」であった「沖縄俳句大会」を、野ざらし氏は次のように総括している。「沖縄の戦後俳句は「季題」の桎梏から抜け出せないところからスタートし、戦前のホトトギス派の血をひいて、焦土に俳句の芽を育てていたのである。」(Ⅲ章 米軍統治下と俳句)事実、大会の季題は「寒灯・冬灯」「冬霞」であり、それらの季題が読み込まれた句のみが並ぶ。亜熱帯気候の沖縄の俳人たちの「寒灯」の句の並びにはどうしても窮屈な感が否めない。多くの沖縄の俳人たちは本土俳句的な制約に従い、ゆえに俳句の多様性に乏しかった。もちろんこれは同時に本土の俳句においても言えることであるが、遠く海を隔てるがゆえに、新しい俳句の風が入ってきにくかったことは想像に難くない。

もう一つは、野ざらし氏個人が沖縄内部の俳句界でマイノリティであったということである。俳句を始めたばかりの高校生の純粋な文学精神は、周りの環境とのギャップに打ち砕かれた。臨場感のある証言なので少し長いが引用する。

 一九五九年、高校卒業した年、「沖縄俳句会」に恐る恐る顔を出した。石川市(現・うるま市)山城の片田舎からバスを乗り継いで、約半日かけて、那覇の歓楽街桜坂の句会場に参加した。十代の若者は私一人だった。句会場は公民館みたいな公共の場所と思い込んでいた私には歓楽街での句会に違和感があった。句会には沖縄俳句界の長老たちが神妙な顔をして座っていた。初心者の私に投げかけた言葉がショッキングだった。「俳句は季題を入れて作りなさい」「季重なりは避けなさい」「趣味で、楽しんで作りなさい」「他人の作品は批判しないように」。

 その場から逃げ出したい心境に駆られたが、折角、遠方からバス賃をはたいてきた。我慢して最後まで座ることにした。句会は出句、清記、選句、披講と続いた。作品批評はなかった。やがて、「二次会に移ります」という声がかかり、たちまち、句座が酒座と化した。先ほどまで静かに座っていた面々が大きな声で話し始め、座が急に賑やかになった。句会より酒飲み会が目的で参加している様に見えた。

「文学とは何か」「人間とは何か」「真実とは何か」「時代に生きる俳句とは」を探究するために俳句会に参加した私にとって、このホトトギス派の古臭い句座は砂を噛むような虚しい場であった。俳句文学の真実を探り、詩心を磨く、文学魂は無残にも砕け散った。  

(Ⅳ章 〈復帰〉を問う 2)

もちろん、これは当時の野ざらし氏の主観的現実であり、沖縄俳句会の大人たちの目には異なる現実として映っていたかもしれない。しかし、生涯を賭ける文学として俳句を選び大きな志を抱いた青年にここまで思わせてしまったことは、沖縄俳句会に限らずとも、伝統俳句や句会が抱えもつ窮屈さが、潜在的可能性を備えた新人に門を閉ざしてきた俳句界を象徴するような一場面として読めてくる。

このような状況におかれた野ざらし氏が、一九六五年に「新旧俳句論争」に火をつけたのは必然のなりゆきだった。野ざらし氏は「この伝統対反伝統の新旧俳句論争は賛否両論を巻き込み、批評活動が活発化した。」(Ⅲ章 米軍統治下と俳句)と述懐している。野ざらし氏の批判がたとえ「善良」な俳句愛好家に向けられた厳しすぎる鉾だったとしても、俳句に文学としての批評が生まれることは沖縄の俳句界に「複眼」を育む好機であったに違いない。

さて、この沖縄俳句と野ざらし氏をめぐる二重のマイノリティ構造は、いみじくも社会の流れと連動して変化(固定化?)していく。一九七二年の「復帰」に際しての記述である。

 復帰の年、沖縄の政党が全国区の政党へと収斂され、長いものに巻かれる式の独自性の薄れた政党へと変質していった。(但し、沖縄社会大衆党だけは土着政党に拘り政党の系列化を拒んだ)。

 この潮流は沖縄の俳句界にも波及した。沖縄の俳句界で中心的な役割を果たしていた「沖縄俳句会」(連合体)が「沖縄県俳句協会」へ改称し、各県と連携する親睦団体的な俳句集団へと変質して行った。各結社も「沖縄県支部」へと変わった。季語を絶対化する伝統俳句派の俳人たちは、寄らば大樹の陰的な思考へと傾斜し、南国沖縄の黒潮の暖流が、寒流の潮流へと飲み込まれていくさまに、衝撃を受けた。

 文学の力、詩眼はどこへ行ったのか。芸術(文学)は独創の刃を磨き、未知の領域を拓くところに存在価値がある。私は本土化を拒み、沖縄を発火点にした地球、人類を視野に入れた地球俳句へと詩魂を磨くことになる。    

(Ⅲ章 米軍統治下と俳句 13)

この証言も他方の見方としては、沖縄の俳人がそれまで出来なかった本土の俳句団体と連携や交流ができる一面もあるが、沖縄内部で「大同団結」を目指した「沖縄俳句会」の歴史が「復帰」とともにうやむやになり、本土的なものさしによる「単眼」に傾いたことは、沖縄の俳句にとって大きな損失であったように思われる。その一方で、野ざらし氏が次のように記録する反伝統俳句の着実な歩みも、沖縄俳句の未来の発展にとって重要である。

 沖縄にも既成の俳句に対する反伝統の活動があった。大正末期から昭和初期、比嘉時君洞の新傾向俳句の活動。戦後、一九五〇年代後半、中島蕉園・桑江常青・作元凡子・浦崎楚郷ら「黒潮俳句会」における口語俳句の活動。六〇年代後半、「無冠」における延男・楚郷・凡子・新垣健一らによる俳句文学の可能性の追求、無季俳句の推進、批評と自由を求めた活動。八〇年代、「天荒」における延男・おおしろ建・金城けい・平敷武蕉・神矢みさ・川満孝子らの「新しい俳句の地平を拓き、創造への挑戦」を掲げた俳句革新の活動は現在も持続されている。

 これらの俳句革新の動きは俳句が単に客観写生、花鳥諷詠、季節を詠うものではなく、時代に生きる文学としての自立と創造を求める活動であることの証左である。      

(Ⅱ章 俳句文学の自立を問う 1)

伝統俳句とそれに対する革新的な俳句の風通しの良い批評があってこそ俳句文学の活性化につながる。どちらか一方では固定化、縮小化する。そしてそれは、沖縄と本土の俳句、さらには日本国内と海外の俳句の関係にとっても言えることである。多様性のある俳句を読み合うことで、俳句における「複眼的視座」が育まれる。

4 孵(す)でる「地球俳句」とその背景

先ほどの引用部で「沖縄を発火点にした地球、人類を視野に入れた地球俳句へと詩魂を磨く」(Ⅲ章)とあった。我々はよく、沖縄俳句と本土俳句、日本語俳句と外国語俳句など二項対立の図式で考えてしまうが、野ざらし氏の提唱する「地球俳句」はその枠組みを超えた広がりをもっている。そしてその「地球俳句」という俳句観を生んだキーワードが、沖縄独特の言葉「孵でる」ではないだろうか。沖縄最古の歌謡集「おもろさうし」にも見られるが、非常に多義的な言葉である。その中から重要と思われる意味を抜き出せば、「脱皮する」「孵化する」「蘇生する」「生まれ変わる」であろうか。野ざらし氏はこの言葉について次のように解説している。

……川遊びでは沢蟹の「孵でぐる」と出会っていた。白く薄く川底にただようさまは死骸のようにも見え、脱皮の不可思議に魅入った。(略)

……亜熱帯の沖縄では冬眠することもなく、年中、「孵でぐる」や蛇と遭遇している。(略)脱皮したばかりの「孵で殻」はしっとり感があり、ぬめりを感じる。(略)私の人生はハブと孵で殻との遭遇はこれからもつづく。そのたびに、一日一日、孵でて、脱皮して生きていくことを意識させられることになる。(略)

……「沖縄を掘る」営為は俳句表現の立場からすれば文学的想像力によって「沖縄を彫る」ことに繋がり、「孵でる精神」によって古い殻を破り、新たな創造世界へと脱皮することである。

(Ⅴ章 混沌・地球・俳句 ―詩的想像力を問う 4)

「孵でる」という言葉は、死と再生を象徴している。沢蟹の抜け殻は死骸のように見える。沖縄の生きたハブとの遭遇は、死を覚悟する経験であろう。言い換えれば、「野ざらしを心に」抱くということである。そしてこれは、野ざらし氏が沖縄の自然からじかに学び取った、死と再生のダイナミズムである。これは、地球上のあらゆる地域で通用する、普遍的な節理であろう。

「地球」規模で考えれば、「有季も無季も同等に扱う複眼の姿勢で俳句に向かう。」(Ⅱ章)という俳句表現における野ざらし氏の提言を受け入れるか否かという次元で争っていては余りに小さいと思われてくる。俳句は「地球文学」として孵でることはできるだろうか。沖縄ではすでに、その脱皮は始まっている。

最後に、もう一度芭蕉の話に戻って、野ざらし氏がなぜ「本土」の俳人である芭蕉にそこまで自分の人生を重ねたのか、という問いを考えてみたい。日本本土の伝統的権威の象徴のような芭蕉に対して反発をしてもおかしくないように、私は思ってしまったからだ。私と同じような疑問を抱かれたのだろうか、第一句集『地球の自転』の跋文で、野ざらし氏の恩師・新屋敷幸繁が、氏の出自について次のように紹介している。

……ところが調べてみると戦前、彼は大阪で生まれているのである。なるほどとこの時に思った。沖縄は父の故郷なのである。それで、沖縄人も沖縄の子も、日本が敗戦になったら、一千年の歴史を持つ沖縄に帰って、世界一堅い土を畑にして耕さなければならないと、アメリカとイギリスと、蒋介石も同意して、この三人でとりきめて、小学校二年のときに、山城信男少年を父の故郷沖縄に送還したのである。(略)

野ざらし延男第一句集『地球の自転』跋文

野ざらし氏は、生を受けた幼少期の境遇として、沖縄と本土の両方を知るいわば「懸け橋的存在」であったのだ。その意味で、心の奥底ではどこか根無し草であり、「旅をすみか」とした芭蕉の身とも通ずる。野ざらし氏本人も、本書の中で家族について次のように述懐している。

 父は私にとって反面教師であった。父との確執は田舎特有の因襲やユタやどろどろした人間関係と無縁ではなかった。ヤマト嫁(母)への白眼視や方言が話せないことへの逆差別が家族全体を覆い、孤立していた。

父は、孫が生まれ、生活が安定してくると徐々に柔和な人間になり、「チムジュラサン」(心やさしい)や「清らぢむ」のある好々爺に変身した。

(I章 俳句・人生・時代 ―情況から内視へ 12)

このような家族関係や「逆差別」は、野ざらし氏の少年時代の痛切な苦悩と直結していることは想像に難くない。しかしそれゆえに、沖縄の地で芭蕉精神の種を蒔き、沖縄での俳句革新の実践を行い、大樹を育てることが出来たといえる。本書でもたびたび登場する篠原鳳作もまた、赴任先の沖縄と本土の間の海上で無季の名句〈しんしんと肺碧きまで海のたび〉を詠んだ本土出身俳人である。また野ざらし氏が第一句集で本土の金子兜太に序文を依頼したのも、当然、本土の人間であるが、兜太を一人の俳人として尊敬・信頼していたからであろう。

野ざらし氏がいう「地球俳句」という越境的で平和的な理念がこのような背景から生まれてきたことはとても自然である。そして先ほど論じた「孵でる精神」は、芭蕉のいう「造化」の沖縄の地での表れであろう。

野ざらし文学は、現実社会の矛盾や差別を直視した立場から「真実」の言葉を求め、沖縄の「孵でる精神」によって国家や民族間の分断を超えていこうとする。その「俳句革新」の理論と実践がまとめられた本書は、国際化、また「地球」化している現代の俳句に向けて、「複眼的」な批評の光を放ちその変革を勇気づけてくれるに違いない。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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