https://toyokeizai.net/articles/-/449456 【毒殺説もある偉人「孝明天皇」が幕末に残した衝撃】より
「徳川慶喜」最大の庇護者、謎多き最期と存在感
突然の死によって暗殺説がささやかれた孝明天皇(左)とその主犯とうわさされた岩倉具視 (左写真:近現代PL/アフロ、右写真提供:akg-images/アフロ)
江戸幕府における第15代将軍にして、最後の将軍となった徳川慶喜。その最大の後ろ盾となっていたのが、第121代天皇にあたる、「孝明天皇」である。攘夷派の代表として多大な影響力を持った孝明天皇は、幕末におけるキーマンでありながら、語られることが少なく、実態はあまり知られていない。いったい、どんな人物だったのだろうか。最終回となる今回は「暗殺説」もささやかれる孝明天皇の最期と、その後の徳川慶喜の覚醒について述べていこう。
<第5回までのあらすじ>
安政5(1858)年、幕府は勅許(天皇の許可)を得ることなく、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスとの間に日米修好通商条約を締結(第1回)。嘉永7(1854)年のペリーとの日米和親条約のときには反対しなかった孝明天皇だが、このときは激怒する。外国と親交を持つこと自体は、時代の流れとして受け入れていたが、外国との通商には慎重な考えを持っていたためである。朝廷内で最も敵に回したくない人物だった開国論者、鷹司政通を失脚させ、主導権を握った(第2回)。
そして、まさに水を得た魚のごとく、勢いを増していく。幕府が、勅許を得ずに日米修好通商条約をアメリカと締結すると、孝明天皇は「譲位も辞さない」という強硬姿勢に出て、幕府との対立を深めていく。そして水戸藩に密勅を下すという逸脱行為が「安政の大獄」へとつながり、不遇の時期を自ら招いた(第3回)。だが「桜田門外の変」で大老の井伊直弼が暗殺されると、再び政治の表舞台へ。徳川慶喜と密接な関係を築く(第4回)。お互い頑固者であり、考えの違いはあるものの、日米修好通商条約では慶喜の決死の覚悟により、孝明天皇は勅許を出した(第5回)。
慶喜への将軍宣下の直後に死亡
慶応2年12月5日(1867年1月10日)、孝明天皇が二条城で将軍宣下を行い、徳川慶喜は15代将軍に就任した。
これまで再三、将軍就任を拒んできた慶喜に決断させたのは、やはり孝明天皇である。慶応2年11月27日に孝明天皇が将軍宣下の内勅を慶喜に下している。慶喜も孝明天皇に言われると、無碍にはできない。また、諸外国に約束した兵庫開港の期日が慶応3年12月7日と約1年後に迫る。切迫する外交問題も、慶喜に将軍就任を決意させた。
そんななか、同年12月25日、孝明天皇が突然崩御してしまう。慶喜が将軍宣下を受けてから、わずか20日後のことである。
死因は天然痘と診断されたが、毒殺説も根強い。というのも、孝明天皇の死によって、その子である明治天皇が14歳の若さで践祚(せんそ)することになった。薩摩藩をはじめとする倒幕派は、宮廷クーデターに成功。倒幕へと弾みをつけることとなった。
一時期は緩解に向かっていた症状が不自然に急変したこともあり、「倒幕派が孝明天皇を葬ったのではないか」とうわさが立つことになった。孝明天皇の病状は、どのように変化したのだろうか。
『孝明天皇紀』によると、慶応2年12月15日から孝明天皇は高熱を発した。その翌日に、吹き出物が出てきたため、17日に待医たちが痘瘡だと診断を下す。18日の夜には、2、3カ所で痘の色が紫色になったので、塗り薬をつけ、漢方の「抜毒散」を服用している。
19日には、発疹が水泡状に腫れあがってきた。夜は安眠できなかったものの、その後は順調な経過をたどる。23日には、発疹からの膿も出切った。医師たちも「明日からは、かさぶたができるだろう」と安堵していた。
その快方ぶりは食事にも表れる。病に伏せた当初は重湯くらいしか食べられなかったが、発疹が緩解に向かった23日には、ほぼ通常の食事をとれるまでに回復した。
「今朝より至極静かで落ち着いたご様子」
23日の食事メモには、そう記載されている。待医たちのほっとした様子がありありと伝わってくる。
不自然な死により、ささやかれた「毒殺説」
しかし、24日の夕方から事態が急変する。下痢と嘔吐の発作に苦しむようになり、脈も微かなものに変化していく。そして四肢が冷たくなり、25日に孝明天皇は突然の死を迎えることになった。
大納言の中山忠能は、娘の慶子が孝明天皇の後宮に入っていたため、天皇の病状について娘から情報を得ていた。『中山忠能日記』には、孝明天皇の最期について、次のように書かれている。
「二十五日後は御九穴より御脱血」
「九穴」とは、両目、両耳、口、鼻腔、尿道口、肛門のことで、そのすべての穴から出血したという。すさまじい最期だったことがわかる。
回復傾向にあっただけに、病状が急変して死亡にまで至ったことに、周囲は騒然する。その不自然さから、まことしやかに「毒殺説」がささやかれることとなった。
慶応3年1月5日、横浜から兵庫へと赴いたイギリスの外交官アーネスト・サトウは、プリンセス・ロイヤル号の甲板で、日本の貿易商人から「孝明天皇が崩御した」という知らせを受けた。
そのときのことを次のように回想している。
「天皇は天然痘にかかって死んだということだが、数年後に、その間の消息に通じている一日本人が私に確言したところによると、毒殺されたのだという」
当時から、孝明天皇の死には暗殺がうわさされていたことがわかる。先に紹介した『中山忠能日記』には、女官の手紙も収められており、そこにも「孝明天皇は毒を献じられた」という「献毒」のうわさが書かれている。周囲の影響を考えて、孝明天皇の死が4日間、隠されて29日に公表されたことも、黒いうわさにつながったようだ。
主犯として名前が挙がるのは「岩倉具視」
もし、暗殺されたとならば、誰の仕業なのだろうか。後世の研究者により、主犯として名を挙げられているのが、公家の岩倉具視である。「王政復古の実現を強く願っていた岩倉にとって、親幕派の孝明天皇は大きな障害だったはず」とし、毒殺する動機が十分にあるというのだ。
当の岩倉はといえば、孝明天皇が崩御されたと聞いて、驚きを隠せなかった。国学者の坂本静衛に宛てた手紙で、「仰天恐愕、実に言うところに知らず」と嘆き、「無量の極に至れり」と無念さを吐露している。手紙には次のようにもあった。
「いささか方向を弁じ、少しく胸算を立て、追々投身尽力と存じ候処、悉皆画餅となり」
岩倉は胸算用を立てていたが、孝明天皇の崩御によって、すべて画餅に帰したというのだ。いったい、どんな計画を立てていたのか。「全国合同策密奏書」によると、岩倉は慶応2年に孝明天皇に対し、
「実ニ朕ノ不徳、政令其当ヲ失ヒ、統御其宜ニ違ヒ候ヨリ致ス所」
との勅を出すべきだ、としている。つまり、国内の混乱をあえて「自らの不徳」として、責任を引き受けたうえで政治の一新を担うべしと、岩倉は孝明天皇のリーダシップに期待していたのである。
それだけに、突然の死によほど失望したのだろう。岩倉はこの手紙で「木こりになって山に籠もる」とまで言っている。
もし、岩倉が孝明天皇暗殺の首謀者だったとすれば、この手紙はカモフラージュということになる。岩倉の深謀遠慮を思えば、ありうる話だ。
だが、同時にそんな岩倉が、天皇の発病という偶然に頼って、重大な暗殺を行うであろうか。また、孝明天皇を計画通りに亡き者にしたということならば、その後は岩倉が朝廷改革を主導したはずである。
しかし、実際には、朝廷には人材が枯渇しており、また薩摩藩も倒幕に踏み切るような状態ではまだなかった。
では、孝明天皇亡き後に、朝議を思いのままにしたのは誰だったのか。それは、ほかならぬ徳川慶喜であった。
孝明天皇の崩御によって、徳川慶喜は最大の後ろ盾をなくしたとされている。そのこともまた「倒幕派が孝明天皇を暗殺した」といううわさに真実味を与えてきた。
確かに、慶喜にとって孝明天皇は最大の庇護者だった。だが、自分に大きな力を貸してくれる庇護者の存在は、時に大きな足かせにもなる。その証拠に、慶喜は孝明天皇の死をきっかけに堂々と開国を打ち出して、意欲満々に行動を開始する。
兵庫開港を「将軍の責任を持って断行する」と確約
慶喜は、イギリス、オランダ、フランス、アメリカの4カ国の公使を大阪に集結させて、順番に会見。これまで引き延ばしてきた兵庫開港を「将軍の責任を持って断行する」と確約したのである。
「慶喜の独断を許すまじ」と、島津久光のほか、山内豊信、伊達宗城、松平慶永らがそろい、四侯会議が開かれるも、強固な攘夷論者だった孝明天皇はもういない。会議は、慶喜の圧勝に終わり、4人とも言い負かされてしまう。
翌日の朝議では、慶喜は公卿たちを相手に「今日はぜひ勅命を下していただきたい」と30時間も粘り、強引に勅許をもぎとっている。これで兵庫は開港されることが決まった。まさに慶喜の思惑どおりである。幼い明治天皇にいたっては、朝議に出席すらしていない。
慶喜が一国のリーダーとして開国に踏み切ったのは、対外的にも大きなインパクトを与えた。慶喜と謁見したイギリスのパークスは、自国の外務省にこんな報告をしている。
「私は将軍がどのような地位を占めることになろうと、可能なかぎり彼を支援したいと思っている」
もし、孝明天皇が倒幕派によって暗殺されたのだとしたならば、少なくとも、この時点では大きな誤算が生じたことになる。岩倉は覚醒した慶喜について、警戒心をあらわにして、こう言っている。
「いまの将軍慶喜を見ると、果敢、決断、大志、どの点をとっても軽視できない」
しかし、つくづく歴史はわからないものだ。「家康の再生」とまで評された慶喜の本領発揮こそが、薩摩藩の大久保利通や西郷隆盛を目覚めさせ、岩倉具視を奮い立たせる。謎に満ちた孝明天皇の死が、先が読めない幕末を、ますます混沌とさせることとなった。
「心の雲の晴るるをぞ待つ」
孝明天皇の治世は21年にわたったが、その間で実に7回も改元が行われている(弘化・嘉永・安政・万延・文久・元治・慶応)。それだけ変化の激しい時代に、孝明天皇は朝廷のトップとして、内憂外患の真っただ中につねに身を置いたといってよい。
江戸時代最後の元号となった「慶応」。その元年に、孝明天皇はこんな歌を残している。
「人しらず我が身一に思ひ尽くす 心の雲の晴るるをぞ待つ」
幕末のキーマンとして、波乱万丈の人生を送った孝明天皇。35年の生涯を思い返しても、心の雲が晴れることは一時もなかっただろう。
だがその深い苦悩があったからこそ、急速な開国へのブレーキ役として、孝明天皇はその人生を閉じるまで、大きな存在感を発揮したのである。
【参考文献】
宮内省先帝御事蹟取調掛編『孝明天皇紀』(平安神宮)
日本史籍協会編『一条忠香日記抄』(東京大学出版会)
渋沢栄一『徳川慶喜公伝 全4巻』(東洋文庫)
福地重孝『孝明天皇』(秋田書店)
家近良樹『幕末・維新の新視点 孝明天皇と「一会桑」』 (文春新書)
藤田覚『幕末の天皇』 (講談社学術文庫)
家近良樹『幕末の朝廷―若き孝明帝と鷹司関白』 (中央公論新社)
家近良樹『幕末維新の個性①徳川慶喜』(吉川弘文館)
松浦玲『徳川慶喜 将軍家の明治維新 増補版』(中公新書)
野口武彦『慶喜のカリスマ』(講談社)
中村彰彦『幕末維新史の定説を斬る』 (講談社文庫)
大久保利謙『岩倉具視』 (中公新書)
佐々木克『岩倉具視』(吉川弘文館)
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