https://blog.goo.ne.jp/kyodaihaiku/e/d34bb2fff0fa6c562e8ee1ce624ab39b 【モダニズム俳句の系譜(続)―満州俳句史― 西田もとつぐ】より
2009-11-24 15:02:39 | Weblog
モダニズム俳句の系譜(続)
―満州俳句史―
西田もとつぐ
七、ハルビン学院「韃靼俳句会」
時代は遡り一九二〇年(大正九年)、当時の日露協会総裁後藤新平(初代満鉄総裁)は満蒙大陸に活躍する人材の養成を目指してハルビン市に日露協会学校を設立した。これがハルビン学院(哈爾浜学院)の前身である。同校は満鉄、外務省の派遣学生のほか各都道府県の給費留学生、私費留学生などの逸材を集めた。昭和八年哈爾濱学院と改称された。昭和十三年に満州国に移管されると満州国立哈爾濱大学に改組された。満鉄初代総裁後藤新平の満鉄設立構想には欧米列強諸国がインドに設立した植民地管理組織「東インド会社」のイメージが描かれていた。一方、ハルビン学院の設立は対ロシア政策の人材の育成を目指し、のちにはソ連への防共政策の尖兵としての人材育成をめざした。故に社会主義ソ連からは反共を掲げたロシア語教育のスパイ養成学校と敵視され、また欧米諸国や右翼からは親ソ連、親共派の牙城と見なされた。一九四一年(昭和十六年)の関特演(関東軍特殊演習)頃までは満州の大陸的な風土、ロシア時代に培われた西欧的都市景観や異種文化の混在から生み出される比較的自由な雰囲気があった。韃靼俳句会は若い学生達による開拓者精神とも云うべき「満州ロマン」の情熱があった。日本の帝国主義の北方領土拡大という枠組のなかにも新しい北の大地への夢が広がりつつあった。
昭和三年、ハルビンのロータリークラブの席上にて新任の東洋拓殖ハルビン支店長の佐々木久松が紹介された。当時の日本のロータリークラブの会員は内地、朝鮮、台湾、中国の都市を含めても千人位であった。東京帝大政治科卒の佐々木は会員の注目を集めた。その当時は彼の第一回目のハルビン赴任時であった。同席した日露協会学校長高田富蔵は佐々木に同校の講師として出講を要請したが、公務多忙を理由に断られた。この佐々木久松がのちに「韃靼俳句会」の指導者となる佐々木有風であった。
ロシア学を中心に学んだハルビン学院の学生達のなかにも一般文学の研究サークルがいくつか生まれ「黒水会」と名づけられた。「黒水」とは中ロ国境を流れる黒龍江(ロシア名アムール川)に因むものである。「黒水会」のなかで最も活動的なサークルが俳句グループであった。OBの上西行乞、水原秋桜子の『馬酔木』にて十年近い句歴を持つ学生の竹崎志水が中心となり、当時旧態然としていた北満俳句の刷新を打ち出して俳句会を結成した。これが俳誌『韃靼』の母胎となった。昭和十二年十二月十二日最初の句会がホテルニューハルビン(現在の国際飯店)で開かれた。出席者はOBの桂秀草(満鉄ハルビン鉄道局)、学生竹崎志水ら十名であり、この句会記録が『樹氷』と名付けた冊子にまとめられた。のちにOBとして『ホトトギス』『雲母』で活躍した野島一良(満州電業)らが参加し、翌年一月には『樹氷』は『白山(白頭山)』と改め十三号まで発行された。
昭和十四年二月誌名を『韃靼』と改名した。この巻頭文を抄出すると「……「韃靼」はモンゴル民族の呼称であり、時には遠く中国より亜細亜、ヨーロッパに進出した歴史を持つモンゴル民族の呼称である。日本海の北、韃靼海峡の涯に起つて西のかたトルキスタンに至る……彼等の故地及住民は今や新しき名と形に於て現代に登場しかけている。」
この短文のなかに韃靼と満州帝国の成立を重ね合わせた植民地政策の総枠のなかにも新しい大地に根付く文化の創造を意図した若いロマンの開花があった。短い満州俳句史のなかに「韃靼俳句会」は画期的な大陸俳句の萌芽であった。
『韃靼』発行は学生達の意気に共鳴した敬愛哈爾濱印刷所が赤字を承知で引き受け百部を印刷発行した。編集は竹崎志水、久保木信也、片桐渓子であった。この学生句会が発足された頃、先の佐々木有風は日本への帰国を経て日満製粉株式会社の重役としてハルビンに再任していた。学生達の要請により有風は喜んで句会の指導にあたり、また他の学院OBの桂秀草(満鉄)、野島一良、吉村格也(国際運輸)が有風を助けて句会指導にあたった。『韃靼』の学生達は有風宅を訪れては俳句を論じ、饗せられた酒に気分が高まると豪気節や馬賊の歌を高唱するなど「韃靼俳句会」の意気込みはますます高揚していった。
『韃靼』は昭和十四年十月二十二号から学内俳誌を脱して会員の門戸を一般に公開した。その作品公募の一節に「……選者はすべて大陸に居住せられ、一党一派に偏せざる大乗的見地から新興大陸の俳句を育み行かんと望まれている……」と出身の内地結社にとらわれない大乗的な姿勢のなかに大陸俳句の刷新と大陸に根付く俳句を瑞々しい若者の感性で主張している。これより、雑詠佐々木有風(ハルビン・雲母)、連作桂樟蹊子(長春・馬酔木)、
題詠高崎草朗(ハルビン・雲母)、題詠大場白水郎(瀋陽・春泥)が指導にあたった。
八、佐々木有風と桂樟蹊子
佐々木有風(明治二十四~昭和三十四年)新潟県新発田市生。本名、久松。新発田中学より旧制二高を経て東京帝国大学政治学科を卒業。東洋拓殖ハルビン支店長をへて一時帰国した。のち日満製粉代表取締役としてハルビンに再任、以後は終戦までハルビンに在住した。俳句は最初は高校の先輩大須賀乙字に師事した。昭和二年、飯田蛇笏の『雲母』に参加すると『雲母』の有力同人の一人となった。渡満後は『恰爾濱日日』の俳句欄の選を蛇笏から引継いだ。有風は包容力に富む俳句指導力を備え、さらに広い俳句人脈を持っていた。まさに青年俳人中心の『韃靼』には最適の指導者であった。さらに「天衣無縫」と称せられた有風の句風から「華麗な韃靼調」が生み出された。有風と大学の同窓の俳人山口青邨は有風との出会いを「夏の夕方、スンガリー河畔の日満製粉ホールの句会に出たのがそのきっかけであった。始めて触れた有風を囲む運座の雰囲気に加えて選者講評の段となると、出席者一人ひとりの心に触れる温かい批評、さらに東京時代における久米正雄や横光利一らの文人との交遊にまつわる軽妙酒脱で滋味あふれる話し振りにはすっかり魅せられた。その風貌は白髪、常にパイプを放さず諧謔寸鉄人を刺し、しかも明朗、常に青春を持っていた。」と記している。
桂樟蹊子は戦後、満州時代の有風の度量の広さを語っている。昭和十五年二月、京大事件が発生した頃である。樟蹊子は京大農学部を卒業し満州国政府に赴任し、当時の満州国の首都新京(長春)に勤務していた。ある日彼を頼ってきた内地の俳人がいた。最初のSは『京大俳句』会員であり樟蹊子とは親しい間柄であった。新京駅から緊迫した様子で「是非会いたい、匿ってもらえないか」と庇護を求める電話があった。樟蹊子はすでに『京大俳句』を脱会していたが、Sの「匿って欲しい」という言葉が胸を突き刺した。新京駅に駆けつけるとSは着のみ着のままの姿で呉服屋に変装し、食事代として売るための反物数本を風呂敷に包んで持ち歩いていた。樟蹊子は新京勤務も日の浅く彼を匿う手段も人脈もなかったが、とりあえず役所の同僚の下宿に入れてもらうと、その夜、ハルビンの佐々木有風(日満製粉社長)に電話してSの身柄を快く引き受けてもらった。翌日、Sを新京駅からハルビン行の列車に送り込み、ハルビン駅には有風の指示を受け竹崎志水がSを出迎え日満製粉の工場に案内した。さらに、何日か過ぎ東京のMと京都のTが新京に着き樟蹊子の庇護を求めた。樟蹊子は再度、有風に頼み、ハルビン駅に二人を送り込んだ。有風は三人を自分の工場で働くように配慮したらしい。樟蹊子はその時の有風と志水の好意を生涯忘れることはできなかった。事が露見すれば有風の社会的な地位に火の粉がかかり社会的な地位から抹殺されかねない状況であった。有風はその後も匿った人たちのその後の処置を語ることはなかった。樟蹊子もその死に至るまで逃亡者達の名を明かさず逝った。
俳人高屋窓秋(馬酔木)は『京大俳句』に参加して新興俳句の一方の雄として活躍した。「京大俳句事件」の前に渡満して満州電電に入社した。もし彼が内地に残留していたなら事件の渦中を免れることはなかったと噂された。窓秋は後に全満州統合俳誌『俳句満州』の事務局長となった。その頃には広大な満州は内地の閉塞的な状況のガス抜きのある程度の自由な雰囲気があった。しかし日米開戦とその直前の関特演(関東軍特殊演習)以後は閉塞的な様相が深くなる。有風は戦後、内地に引揚げ俳誌『雲』を主宰する。句集は戦前では『牡蠣の宿』『四温光』、戦後は『一纏の路』『一齣』『杖として』『馬齢』などがある。佐々木有風の『韃靼』時代の作品(昭和十四年~十八年)
冬灯あり神も怖るる娼婦あり
麦笛も飽きぬくちびる盗まふか
凍鶴の生むさびしさにさそはるゝ
大凍江天の唖の神とあり
クリスマス踊り子サロメベろんべろん
青春やある日寄居虫ふところに
白夜光陸の人魚は樹に石に
刺青師涼雨の鷺に啼かれけり
毒ひさぐカインの裔の避暑豪華
とろいかや鞭を光の空に降り
コザックがゆく野は枯れぬ虎落笛
『韃靼』の連作欄選者の桂樟蹊子(明治四十二年~平成五年)は京都出身であり、京大農学部を卒業した。旧制七高時代に水原秋桜子に師事。のちに京都馬酔木会を結成するなど京都馬酔木俳句会の中心となり馬酔木賞を受賞した。京大在学中は『京大俳句』会員であった。卒業後の昭和十二年~十六年新京(長春)に赴任、新京の満州国政府興農部に勤務した。この間『韃靼』の編集者で馬酔木の会員の竹崎志水に乞われて「韃靼連作欄黄塵集」の選者となる。一時帰国して昭和十六年~十七年駐日満州国大使館(在東京)に勤務。昭和十七年末~二十年終戦まで北京に再任すると華北産業科学研究所勤務、同研究所句会に参加した。『韃靼』の連作欄より岸秋渓子、大島裕史らを育てた。終戦前に帰国。戦後は京都府立大学教授を務め、二十二年に創刊した『学苑』を『霜林』と改題し京都俳壇の重鎮となった。処女句集『放射路』(昭和二十二年)の題名は中国東北部の都市景観によるものであり、同書には中国東北部在住時代の句が多い。『霜林』に連載した「放射路物語」は満州回想が中心である。
アヘン鴉片零売所(連作) 桂樟蹊子
降る雪をゆらゆら咳つ来る煙鬼
煙鬼これくづれをれ蒼く助lに生き
煙槍を舐めづり蒼く生き
煙鬼いまいのち枯れつつ助lに生き
露人葬送(連作)
柩追ふ歌しろくゆき枯れ並木
柩ゆきひとらのくらさ雪の上
柩去り冬木が空を刺せるのみ
放射路の未は消えつつただ夏野
流氷の夜もひかるゆえパオを閉ず
目に支ふ日月の下流氷す
流氷にくづれおちゆく野はしずか
流氷の宵あかりしつつ相摶てり
黒衣ゆき柳絮はひかりなく降りぬ
樓破れ冬木影置くこともなき
『韃靼』の他の作者の連作は、
恰響野外演奏会(恰爾濱交響楽団) 竹崎志水
楡の園楽湧き星を降らしめず
楽に揺るる楡の垂枝は夜も青き
夜の園涼し耳底に楽のこり
兵団動く 佳木斯 小沼正俊
くろぐろ黝々と兵団雪の駅に群る
春燈下鈍き光のさじゆう又銃解く
兵列の去りし冬霧濃くなりぬ
騎士と樹氷 ハルビン 久保木信也
樹氷濃き梢の影を地に置きぬ
騎士鞭をかざせば樹氷輝けり
騎士去りて樹氷の影の濃くなりぬ
連作俳句は昭和二年頃、水原秋桜子や山口誓子により俳句革新の一手法として始められた。一句で表現できない内容を連作による表現の多角化を試みたが、次第に一句の独立性に疑問が生まれ作られなくなった。しかし、それから十年以上を経過した昭和十四年の『韃靼』一般公開時に連作欄が設けられたことは、新しい満州の大地の表現には連作俳句の物語性が重視されたのではないか。
有風が掲げた『韃靼』選句の基準は「民族特有の枯淡な表現」である。しかし有風の基準のこの表現には屈折がある。これより前に水原秋桜子は「韃靼俳句には誇張された表現が多すぎる。」と批判した。有風はこの批判に「若い会員の大袈裟な表現は浅薄な単純写生俳句に飽きたらぬところに燎原の火のように燃える新興俳句に惹かれたものだろう。」と若い作家達の奔放な表現を擁護して、若い芽を自由に育てようとした。彼自身の作風と選句は天衣無縫、「華麗なる韃靼調」と呼ばれ大陸俳句の世界を奔放に描いている。彼が示した『韃靼』の選句方針を「民族特有の枯淡な表現」と表現したことは奔放な「韃靼」俳句への攻撃の防壁としての釈明であり彼の奔放な選句方針を曲げるものではなかった。
樟蹊子の選句基準は「真摯な大陸俳句の追求」とあるが、内地とは異なる大陸風土を連作俳句形式によって創造しようとした。連作「鴉片零売所」とはアヘンの小売所であり、またアヘンを吸飲するアヘン窟の描写である。樟蹊子はこれを写生的な表現や絶叫調の描写でなくむしろ耽美的な表現によりこのおどおどろしいアヘン窟を描いている。退廃的なアヘン窟の情景を表すに相応しい表現法であった。アヘン戦争以後イギリスを初め欧米諸国がもたらしたアヘンの弊害は中国国民に多大な薬害をもたらし、欧米諸国に膨大な利益をもたらした。アヘンによる膨大な利益は欧米諸国のみに止まらず、日本も植民地支配の中にアヘンによる膨大な利益を得た。満州国成立の引き金となる関東軍が計画実行した満州事変の膨大な軍事費の財源は関東軍によるアヘンの密輸による財資であった。さらに満州国成立後、満州国政府の実権を握る日本人官僚の巨額な機密費はアヘンによるものであった。このように近代中国を植民地支配した欧米各国及び日本がアヘン密輸に拠って得た莫大な利益と泥沼化する薬害は先進国に大きな負の責任を負わしめるものである。
野嶋島人(曲水)、西島麦南(雲母)、中川宋淵(雲母)、水内鬼灯(馬酔木)高山峻峰(曲水)、金子麒麟草(石楠)、阿部宵人(好日)など多彩な俳人が在満、本土在住を問わず『韃靼』への協力を惜しまなかった。
満鉄はその創生期より、その宣伝のために多くの文化人を満州に招いている。俳人のハルビン来訪も多く昭和四年の高浜虚子、同九年の山口誓子、十五年の飯田蛇笏などハルビン俳壇による盛大な歓迎句会、交流会が開かれ、これらが超結社の『韃靼』の句境をさらに広げた。編集スタッフは学内誌時代は竹崎志水、久保木信也、片桐渓水などがあたり、一般公開後は学生、OBを中心とする編集体制となった。昭和十六年の関特演と大動員以後は在校生がOBの指導のもとに編集にあたった。
スンガリー白き夕べの鴨を撃つ 野島一良
落葉して輿安嶺披璃の空かかぐ
坑に寝てあぎとゆるめる煙鬼かな
冬夜集ふ青春ひたに国を愛す
清明の城壁に日の匂ふなり
四温なるカナリア司祭長の手に
冷却塔見えゐて枯野汽車遅々と
大いなるスラブ白猫曝書守る 竹崎志水
悼学友平山兄
愛読書持てりや落葉踏み行くや
凍江の大き氷塊戦車越ゆ
現代の青年読むべからざる書を曝す
開き読む便箋の間ゆ落つは黄砂
警乗兵バス停まる間ののろ叙Yもを撃つ
沙丘凍つ蒙古の日射しかく明るし
ジプシーの駱駝に遊ぶパスパ来ぬ 桂秀草
パスパ=復活祭
解氷期船は灯して夜を守る
鳴きつれてバイカルの鴨渡るころ
オロチョンは良夜の庭に饗あり
おさまりし霾に緬羊動きそむ
壁炉燃ゆ黒河の宿に旅果つる
慰安船バラライカ手に恋ありき 佐藤青水草
人間に流浪の詩あり啄木忌
大枯野四方に配電盤静か
日輪にアムールねむりはじめけり
旅人の脚の間の灯ぞ博文忌
末枯れの園にきて詩を思はざる 久保木信也
ロシア文字多き駅なり来て四温 有賀淡水
秋つばめ増水の江にふれひかる 片桐渓子
四迷忌やわが青春の露語辞典 合志洋
一般作品もハルビンの学院関係者、学生を中心に北京、大連、鞍山、安東、牡丹江、延吉、新京(長春)、ハイラル、チチハル、ノモンハン、満州里、モスクワ、日本国内各地、ビルマにまで及んだ。日中戦争激化とともに召集を受けた俳人達が所属部隊からの投句が日立つようになる。投句は軍事上の機密保持として所属部隊や地名を〇〇部隊、〇〇と略記された。
九、韃靼俳句会の女流
石女のわらべの如き手に青葉 東京 小宮山摂子
恋果てぬ背を見せてゐるひき蛙
僧になる子を送りゆく秋の山
月光によろめき叩く医師の門
冬ざれの簪に巻く予後の髪
夜は寡婦に炉火とろとろと針仕事
ジプシーの踊たのしむ良夜かな
犬(連作) 小宮山摂子
放たれて犬ゆく草の冬うらゝ
犬放ちうすら枯れ野の日に佇てる
冬の日の犬に口笛吹くさびし
日脚伸ぶ佳木斯はホテル多き街 ハルビン 桂美津女
カンテラのゆれて凍江橇ゆきぬ
山火燃ゆ蒙古夜霧にぬれて又
十月を細りてルージュ濃ゆうしぬ
春聯の重き大扉を押して入る
あらはれて流氷の江を鳶舞へり
瓜子児(くわずる)喰み商談ひまな十二月
(瓜子児=西瓜の種)
復活の鐘ききしより夕づきぬ
河明りしてトロイツアの茶房かな
ブザー売る店の並びて島涼し
霧氷林美しきもののこしきぬ 安東 舟橋ひさ女
枯野原暮れて夜がきぬ貨車に住む
帰雁日々仰ぎて貨車に住ひけり
花の壷冬は孔雀の羽根をさし 鞍山 泉利恵
吾子と乗る除夜の電車は窓白き 撫順 左方美代子
墓石に西日こぼして芽木参差 錦州 東浪子
夜のかげを眼窩に残し凍死人
種蒔の手にありなしの風日和 栄口 水野清子
部屋寒し両人もだせば何時までも チチハル 高田秀子
居堪へねばさむき厨にたつならひ
薄雪に紅の手衾はかざすべく 茨城 阿久津美枝
女流会員の分布は男性と同じく満州、中国各地をはじめ内地にまで及んでいるが職業は不明である。おそらく満州政府関係者や満鉄を初めとする日本企業社員の妻女と思われる。桂美津女は『韃靼』中心作家桂秀草(飯田蛇笏門)夫人である。戦後帰国後も俳壇で活躍した。
十、満州季語
次第に泥沼化する十五年戦争の軍靴の足音の中にも韃靼俳句会は月刊『韃靼』、韃靼叢書年刊合同句集『樹氷』付北満季語解の発行を初め、夭折した学生編集者の大島裕史の遺句集『冷たき奢り』を出版している。
冬日影血を喀きて手を胸に寝る 大島裕史
花々は秋の冷たき奢りかな
七人の患者の合嗽朝ぐもり
秋空へ消えなん心降るひかり
関東州俳句協会統合誌『鶉』でも「満州季語」の問題を取り上げているが、『韃靼』でも新しい季語として「北満季語抄」を冬一般について論及し「のろ叙Y」(ノロシカ・冬)、「慰安船」(満鉄が黒龍江省、松花江の沿岸奥地の日本人、中国人に対して物資の供給や娯楽を提供した船。アメリカミシシッピ川のショウボートに似ている。夏)などを季語として提案している。さらに民族的な行事の季語として日本の行事の他、日露戦争の戦跡と志士祭(日露戦争の時、スパイ容疑で処刑された日本人横川省三らの慰霊祭)、博文忌(ハルビン駅頭で暗殺された伊藤博文忌)などきな臭い軍国色もあるが中国の習俗祭礼(春節、春聯、娘々祭など)、モンゴルの風俗習慣(ジンギスカン鍋・夏、アルガリ=獣糞炭・冬)、希臘正教の宗教行事、生活習慣など今日では歳時記に収録されているキリスト教行事も当時はエキゾチックな世界であり異郷を描く重要な方法であった。しかし満州俳句史の時間の短さから歳時記に付記される例句が少なかった。
十一、「韃靼俳句会」の終焉
相対的なリベラルな雰囲気を漂わせていた満州俳壇のなかに創刊時よりの青年達は若々しい情熱と行動力により活発な活動を続けた「韃靼俳句会」は日中戦争の深化とともに対ソ連防衛線の重要度が深まり社会的緊張が高まってきた。泥沼化する中国本土の戦線、満州農村部の反日反満運動が激化してくる。ハルビン学院をはじめ日本人社会に緊張が深まってきた。一九四一年(昭和一六年)は太平洋戦争開戦の年であるが、開戦の直前、ソ連を仮想敵国とした関特演(関東軍特種演習)が行われ兵員七十万人、三十万の馬匹の大部隊がソ満国境に動員された。ハルビン学院の二十期三年生九十一名は繰り上げ卒業の上、語学要員として動員された。また満鉄調査部事件、合作社事件など思想的な弾圧事件が頻発した。満鉄調査部事件ではハルビン学院の卒業生が数名連座している。同年、満州文芸家協会が成立した。協会成立に先立つ三月、俳誌統合を目的として関東州俳句協会が結成された。以後、満州国、朝鮮、昭和十九年には日本内地と雑誌統合(俳誌統合)が続いた。これは戦争激化による雑誌用紙の統制、節約という建前をとりながら大同団結という思想統制のための統合であった。三月関東州俳句協会が結成され『平原』(ホトトギス)、『満州』(曲水)、『満州通信俳句』(超結社)が終刊となり、協会機関誌『鶉』が創刊された。会長には谷川静村(満州瓦斯会長・渋柿)』顧問山岡信夫(関東州興亜奉公連盟文化部長)、理事金子麒麟草(石楠)が就任した。
遅き日や砂漠の砂のつくる波 谷川静村
きりん草ゆらゆら月のある夜かな 金子麒麟草
この統合では協会のホトトギス派と石楠派の主導権争いがあり、疎外されたホトトギス派が協会運営からそっぽを向く事態がおこった。さらにこの年、朝鮮半島では朝鮮俳句協会が成立し、統合誌『砧』が発行された。
昭和十八年には満州俳句協会が成立し、『韃靼』(ハルビン・超結社)、「柳絮」(長春・ホトトギス系)「さんざし山薯タ子」(瀋陽・石楠系)は統合誌『俳句満州』に統合された。協会役員には委員長三溝沙美(日満商事会長)、委員三木朱城他、事務局長高屋窓秋、編集委員竹崎志水、野島一良等の顔ぶれであった。i
内地では昭和十七年の文学報国会の成立に始まり昭和十九年の俳誌統合により結社活動の終焉となる。(内地の俳誌統合と同じく各結社は結社誌は統合されたが、結社では句会は継続していた。)内地の俳誌統合は一年弱で終戦を迎え、結社活動を再開するが、中国東北部(旧満州国)では八月九日のソ連軍侵入、満州帝国の崩壊により満州俳壇はその短い歴史の幕を閉じた。
俳誌『韃靼』は俳誌統合により消滅した。結社誌統合後も結社句会は続けられたが、広い満州を再統合することは困難であった。一九四五年八月ソ連軍侵攻によりハルビン学院は学院長の自決、学院の閉鎖によるハルビン学院の消滅が韃靼俳句会の弔鐘となり、再び復活することはなかった。OB達はすでに現地召集されていた。満州国に在住している日本人は国籍法の不備により満州国籍を取得することはなかった。彼等は満州国に在住する日本国民として日本国内法により関東軍に召集された。学生達もすでに学徒動員、学徒出陣によりソ連国境や南方方面に送られていた。
精鋭を誇る関東軍も太平洋戦争の南方方面の戦況悪化により次々と南方戦線に転身を命ぜられ、その空白を埋める現地召集兵、学徒兵もまた準備も慌ただしく南方戦線に転進を命じられた。一九四五年八月九日怒涛のごとく国境を侵入したソ連軍の精鋭には、現地召集の高齢層の日本兵は対抗することが出来なかった。また関東軍は日ソ開戦時より朝鮮国境に防衛戦を設定したためいち早く撤退し、奥地の開拓移民は関東軍の後を追って脱出することになり、ここに「大地の子」の悲劇を生みだす重要な要因となった。敗戦によりソ連軍の捕虜としてシベリアの強制収容所に連行されたハルビン学院卒業生、在校生達には厳冬下のシベリアの捕虜収容所の強制労働が待ち受けていた。ロシア語、中国語に堪能なるが故に長期抑留されるものが少なくなかった。兵役をまぬがれた会員達にも満州はすでに安住の地ではなく都市部在住の日本人、開拓移民等は中国東北部各地から帰国を目指した。ソ連軍の追撃、中国国民党政府軍、共産党軍、中国農民の反撃を逃れて飢えと苦しみながら日本へ帰国の道をたどった。この混乱のなかに残留日本人孤児の悲劇が生まれた。
俳誌統合からソ連軍侵入までの満州俳壇は一部の残された統合誌『鶉』『俳句満州』によって流れの一端を知ることが出来るが、統合後の各結社の活動については句会報などの資料がない、皆無である。敗戦の混乱のなかに霧散していったと考えるのが妥当である。現中国東北部の図書館に残されている可能性は少ない。俳句結社の終焉が満州俳壇の終焉であった。
遡る昭和十九年の夏の頃、北京の樟蹊子のもとに竹崎志水から、今、北京駅にいるという電話があった。駆けつけると中国人客の雑踏する駅の待合室に志水の姿が人目を避けるようにあり「これから蒙古に行くが今日は張家口まで」と語る志水の姿に樟蹊子は逃亡行の影を感じた。二人は人目を避けて二、三時間余り話つづけた。樟蹊子は志水に張家口までの切符を手渡して薄暮の北京駅に見送った。その後、樟蹊子は志水の消息を知ることはなかった。樟蹊子は晩年の平成五年になり志水の最後の様子を仄かに聞いた。志水はその後、重慶軍(国民政府軍)に捕らえられ北京付近でスパイ容疑で銃殺されたという。真相は不明ながら終戦の前年にもハルビン学院の関係者の身辺に影を投げかけていた。満州は日本が支配した異郷の地であった。
十二、天川悦子と井筒紀久枝
満州奥地の農村には満蒙開拓義勇団の農業移民団が入植していったが、開拓農民の伴侶として「大陸の花嫁」の女性達を募集し入植を進めた。しかし、開拓農民の生活環境は最初から巌しいものであり、割り当てられた土地も未開の土地ではなく中国農民の既耕地を収奪し入植者の耕地として割り当てたため移転を迫られる中国農民との対立から治安状況は最初から切迫していた。都市部に比べ日々の農耕生活に極度の緊張を強いられ、また在満期間の短い農村女性には俳句に接する余裕がなく、俳句結社が浸透する余裕もなかったであろう。満州の結社誌などに農村女性の俳句作品は少ないと思われる。帰国後の回想作が多いと思われるが、天川悦子句文集『遠きふるさと』と井筒妃久枝句文集『望郷』は当時の生活を的確にリアルに描いて作品の完成度は高く、満州女流俳句史の一郭を占めるものである。
天川悦子は大正十五年中国のソ連、朝鮮、中国国境の間島省ろんせい龍井に生まれ、父は醤油醸造業を営んでいた。龍井は人口五万、日本総領事館が置かれていた。両親に可愛がられ弟とともに幸福な生活を送っていたが新京(長春)に嫁し、子供が産まれた昭和二十年のソ連軍侵入により、日本への悲惨な逃避行が始まる。朝鮮半島三十八度線を辛うじて門司に帰国する。帰国後、教職に就き、国語教育に精力をかたむけ、小学校長を歴任した。俳句を『自鳴鐘』の横山白虹に師事し、句文集『遠きふるさと』(一九五九年・自鳴鐘叢書)を上梓した。
遠きふるさと(抄)
「龍井」に住みつき母は寒に慣れ i
昔話せがむオンドル利きし部屋
春着縫う母は黒髪豊かなり
三日月の夜を一心にスケートとぐ
春祭高足踊りの真似で暮れ
髪に挿す杏花一輪異国墓地
泣き女声延々と異国墓地
「あじあ」去りし曠野夏雲まで駆ける
(あじあ号…満鉄が誇る最新鋭の特急列車)
友と駆ける蒙古嵐の過ぎし野を
汽車より見る地平の太陽氷菓溶け
楡若葉つま立ちて棚のジャムなめる
娘々廟過ぎて求める菓子赤し
馬車(マーチヨ)呼ぶ少女のうなじ初夏来たる
アカシヤの大同大街少女の日
三十八度線
目覚むれば露草の中野宿の地
命綱たぐる前方蛍の闇
草いきれ声ひそめ問う「あと何里」
かゆすする無数のひまわり祖国へ向く
目凝らせど夏天支うは異国の旗
粥を啜ることすら幸せという過酷な日々の
流言飛び星飛び背中に吾子眠る
子等埋めし丘べに精霊とんぼ飛ぶ
露兵がすてしリンゴ拾ふも雪の中
ポプラ枯れ吾子と分け合う大豆飯
空腹の吾子に草笛吹き聞かす
雪に曳かれ虜囚よろめく同胞なり
三十八度線汗と涙に駆け抜けし
背の吾子をゆすりて越え来し喜びいう
井筒紀久枝は福井県岩立町に生まれ幼少より紙漉を業とした。当時、加藤完治とともに満蒙開拓義勇団に力を注いだ開東軍参謀東宮(とうぐう)鉄夫大尉は少女達の愛国心と大陸浪漫をあお煽った「新日本の少女よ大陸にゆ 嫁け」の呼びかけに共鳴し、貧しい福井の農村を逃れ、昭和十八年輿安嶺の麓の龍江省の開拓団の男性に嫁いだ。荒涼たる耕地と過酷な自然条件、抗日感情、さらに太平洋戦争も南方では戦況不利となるガダルカナル諸島の放棄撤退をはじめ戦況は急速に悪化していった。時には中国農民との交流、交歓が有ったが、畢竟、中国農民の農地収奪の上に開拓団は成り立っていた。夫は間もなく現地召集で出征した。残された嬰児と苦難の育児、農作業に励むが、ソ連軍のソ満国境侵入以後、悲惨な逃避行のなかに子供を失いようやく故郷に引き揚げた。再婚したが苦難の生活はつづく。井筒紀久枝は若い頃より短歌、俳句に親しみ独学ながら作品を綴ってきたが帰国後、加藤楸邨主宰の『寒雷』に入門して俳句を続けている。
満州追憶(抄)
開拓地
解氷期野原動くや豚生まる
麦熟れて東西南北地平線
麦出荷日本語満語朝鮮語
餅を搗くさざめき苦力も姑娘(クーニヤン)も
輿安嶺たちまち暮れて野火走る
こぼれ餌の芽吹くや鶏と馬と棲(す )み
満人
小核(シヨウハイ)に豚百頭や解氷期
(小核=子供)
五月の野小核追ふて豚歩き
吹雪く日の釜や丸ごと牛を煮る
正月の口にひりひり唐辛子
厩出し嫁の決まりし小核と
隊員応召後の開拓
征く夫(つま)の背へ冬没日驢馬鈴ふる
雪の曠野よ生まるる子の父みな兵隊
地平線子連れの馬と耕しに
凍結期泣く子は泣かせ水を汲む
水一斗掘り上げ凍し鼻柱
三寒の馬具をかお貌よりはずしやる
田を植えて夕陽の赤き輿安嶺
水路決壊足に冷たく夜がきぬ
馬盗られ真実零下の身軽さよ
大陸の満月日本語で唄う
敗戦
帝国が唯のにほんに暑き日に
赤ん坊の尻冷ゑてをり蚤跳びて
俘虜われら飢ゑつつ稲の穂は刈れぬ
薯盗む午后八時の陽暮れやらず
薯もらふ服の破れは親しまれ
薯団子正月の釜賑はしめ
酷寒や男装しても子を負ふて
髪剪って歩哨凍冬の男の装
眠る間も三寒四温靴のまま
防寒靴固く結んで殺されし
殺されてから被せられし外套よ
枯野のノロ逃げて子へ向き撃たれけり
飢ゑし子に飢ゑゐてきび唐黍を噛み食はす
つのる吹雪子の息ときどき確かむる
地の底より湧きし寒の気子の息絶つ
飢ゑて死にし子へくれなゐの黍の穂を
子が死んで蚤に虱に血を分かつ
子を売って小さき袋に黍満たしき
馬と寝て虱が眠らせてはくれず
行かねばならず枯野の墓へ乳そそぎ
盗みきし葱煮る鍋は鉄かぶと
鉄かぶとにて野蒜炊き明日あるなり
チチハル収容所
月が出て死んでも胸に俘虜の文字
生きて俘虜冬の野原に並べられ
友の死を満語で告げて悼みぬ
蠅憎し屍体にふたつ耳の穴
子を焼きしヤンソウ羊草代は借りしまま
オンドルのけぶたし満語ばかりの中
引き揚げ
ついに帰国防寒服はぼろ襤褸でもいい
俘虜と書かれてどっち向いても枯野原
雁わたる北満南満はよその国
みなし子に夕焼満州国は亡し
祖国
祖国は木枯パンパンといふ者に逢ふ
生涯を紙漉いてひとり言がくせ
雪が降る峡に死ぬまで紙漉いて
戦後に発表された二人の俳句作品は日本が作り出し、支配した植民地満州国に住む日本人の悲劇を見事に描き出している。ある種の境涯俳句とも云えるが、また激動の環境を描いたモダニズムの俳句の系列といえる。「韃靼俳句会」が新しいロケーションの中に生まれてくる題材を描いたのに対し、ここでは「生」に「命を賭ける」という受動的積極性である。
二人と同じ立場の開拓民の俳句作品集として『銃鍬とともに』(赤星昌編―満州開拓青年義勇隊満鉄訓練生合同句集)があるが、筆者はまだ閲覧の機会がない。戦前戦中の作、編集のため全体的に戦争遂行の立場で貫かれていると思うが、詳細に読み解いて行く必要がある。同じ意味で中国戦線の従軍俳句集もこの範疇に入れなければならない。同じく軍国主義的なスローガン俳句を峻別しなければならないが、戦争、戦場という非人間的な殺戮の場でいかに自然を人間を描いたかを解読しなければならない。近年、これらの作品は高崎隆治、阿部誠文の努力により、後の参考文献に現れる句集や俳句アンソロジーが研究の地表に姿を現したことは喜ばしいことであるが、この作業も膨大であり根気のいる作業である。また終戦時に満州よりシベリヤに連行され、酷寒の地に強制労働に従事した「ソ連抑留俳句」は天川、井筒の俳句と同じ位置にあるが再検討はこれからである。
軍人俳句の再検討もすべて未着手であるが、ここで楠本憲吉が紹介した職業軍人、元泉馨(西庵)について簡単に触れておきたい。元泉馨は陸軍士官学校、陸軍大学卒業陸軍少将、累兵団長、満州国軍最高軍事顧問として軍人のエリートの道を歩んだ。師団を率い中国戦線を戦ったが、終戦になるとそれまでの義理あいから兵団を率いて国共内戦下の中国に残り内戦の渦中に引き込まれる。国民政府軍として日本兵を率い中国共産党軍と各地で戦った。昭和二十三年に戦況不利に陥り傷つき自決する(五十六才)数奇な生涯であった。かれは一貫して独学ながら戦場で俳句を作り、さらに俳句史研究を重ねた。俳句史は上下巻、句集にまとめた。戦いのなか資料もない陣中で古典から始まる俳句研究を執筆しつづけたのは驚異である。彼の句集と俳句史研究は彼の部下により出版され、没後に日本に持ち帰られた。この句集と研究書は幻の書である。
楠本憲吉の書より抄出する
茜庵句集
大行山兵団抱き眠りけり .
弾幕を抜け春聯の廟に拠る
五月闇妻ありと答へ兵死ねり
黄塵や月より淡き日をかかかげ
彷彿と駱駝来たりぬ胡地の霧
馬の尾が丘の陽炎崩しけり
風呂焚が刺客なりしか年守る
囀も軍の電話も途絶えたる
十四、モダニズム俳句の終焉
この稿は前拙稿「キメラの国の俳句」「戦争俳句と大陸俳句」と相互に補完するものであり、一応、本稿で中国東北部(旧満州国)俳句史の概論として年表も作成の予定であった。しかし新しい資料の分析処理に手こずり略史完稿は次に譲らねばならない。
先にも記したが植民地統治、傀儡政権支配の形態は二度と繰り返すことはないであろうし、また繰り返してはならない。ブラジルのような短期間に大量の移民による日本人社会の形成もまずは起こり得ないだろう。過去の植民地支配形態から青年達を母胎とし満州国の俳句が作り出された。短い期間ながら新しい季語やロケーションに触発されて内地とは異るモダニズム俳句の萌芽が生みだされた。満州で新しい素材、季語によって新鮮な俳句の可能性が拓かれたことは問違いない。天川、井筒や戦争俳句もまた新しい環境のなから生まれたモダニズムの俳句である。かって西東三鬼は日中戦争が始まると全く不謹慎に「新興俳句にとって戦争の題材は千載一遇のチャンスである」と言い放った。行詰りつつあった新興俳句に戦争は鮮烈な題材を与えたと言うことである。近代文学が絶えず異郷を求めてきたように俳句でも北方に新しい環境と季題を求めていた。根無し草の様な傀儡国家満州国の支配階級としての日本人が内地とは異なる鮮烈なモダニズム俳句の萌芽は仇花だったのか、モダニズム俳句の評価の行方は混沌としている。
終
参考文献
『キメラ―満州国の肖像』山室信一著 中公新書
『銃鍬とともに』赤星昌編―満州開拓青年義勇隊満鉄訓練生合同句集
満鉄附業局拓殖課 (満鉄総局拓殖課「拓友」文芸欄)昭和一七年
『満州女塾』杉村春著 新潮社
『三昧句帖』アカシヤ俳句会編
『娘々廟』アカシヤ俳句会編
『韃靼―大陸俳句の青春と軌跡』小沼正俊編 噂
『平原』・『鶉』(関東州俳句協会統合誌)
『俳句満州』(満州俳句協会統合誌)
『満州歳時記』 金丸精哉著
「思い出に残る二つの俳誌の人々」桂樟蹊子(一九九三年「俳句研究」三月号)
『満州文芸年鑑』第一輯~第三輯・別冊 復刻版一九九三年葦書房
『戦争詩歌集事典』高崎隆治編 日本図書センター一九八七年
『遠きふるさと』天川悦子句文集 自鳴鐘叢書
『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波現代文庫
『満州国 ―「民族協和」の実像』塚瀬暹著 吉川弘文館
『近代文学の傷跡―旧植民地論』 尾崎秀樹著 岩波書店
『植民地と文学』 日本社会文学会オリオン出版センター
『ある俳句戦記』 阿部誠文 花書院
『戦場に投げ出せし』 阿部誠文 有楽書房
『ソ連抑留俳句』 阿部誠文 花書院
『俳句の指定席』楠本憲吉著 広論社
『茜庵句集』元泉茜庵(馨) 今泉茜庵「俳句研究」(上・下)
拙塙
「戦争俳句と大陸俳句」 『俳句史研究』六号 大阪俳句史研究会・一九九四年
「キメラの国の俳句」 『俳句文学館紀要』九号 一九九六年
「北の花嫁たち」(未発表)
著者のご好意により「俳句史研究」13号(2005)より転載しました。
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