https://hugkum.sho.jp/460986 【毒親文学『にんじん』は大人こそ読みたい! ルナールの名作小説を徹底研究【5分で名作】】より
『にんじん』は作者の子ども時代の、親や家族から実際に受けた虐待をつづった日記小説。存在感がなく、何をやっても文句を言われ、みんながやりたくない仕事を押し付けられる末っ子の少年の屈折と成長を赤裸々につづった本です。本の作者やあらすじ、登場人物などをまとめました。
『にんじん』ってどんなお話?
『にんじん』は、フランスの作家ピエール=ジュール・ルナールの幼少期の実体験をもとに書かれた、家族から受けた虐待を赤裸々に綴った日記小説です。
国:フランス
原題:”Poil de Carotte”、英語表記 ”Carrot Head” または ”Carrot Top”
作家:ピエール=ジュール・ルナール(Pierre-Jules Renard)
発表年:1894年
おすすめの年齢:小学3年生ごろ~
作者のジュール・ルナールってどんな人?
フランスの小説家、劇作家、ジャーナリスト、詩人、日記小説家。
代表的作は「博物誌」「別れも愉し」「日々のパン」。これらの作品は、ルナールの繊細で皮肉な観察力、感受性、人間性を反映しており、彼の作風を象徴しています。
『にんじん』は作者の子ども時代の体験
家族から、赤毛でそばかす顔を「にんじん」と差別され、孤独や虐待に苦しんでいる姿が描かれています。
特に母親からの虐待がひどく、常に「にんじん」に対し否定的で、意地悪で、悪態をついて彼を毛嫌いします。母の言葉の暴力は「にんじん」の心を壊していきます。父親は彼に無関心、兄姉も同情を示してくれません。
そんな厳しく辛い状況下でも、いじめを跳ね飛ばし、自分は自分らしく前向きに生きようとする姿を描写しています。
『にんじん』のあらすじ・感想
『にんじん』は、ルナールの代表作の一つであり、フランスの教育現場で広く読まれています。また、多くの映画・テレビドラマにもなっています。
では、あらすじを見ていきましょう。
※以下では、物語の核心にも触れています。ネタバレを避けたい方はご注意ください。
あらすじ
主人公のフランソワ・ルピックは、赤毛でそばかす顔であることで「にんじん」と家族から呼ばれ、いじめられ、孤独な日々を過ごしています。
父親は仕事が忙しく、彼に対しては徹底的に無関心で、時には罵しることがあり、愛情を一切示しません。母親は常に難癖をつけては自分は被害者だと嘆き、にんじんを残酷なまでに虐め通します。薄情な兄はにんじんの失敗を常に喜んで笑い、姉は少し擁護するも保身のためほとんど手助けしません。
「にんじん」が最も好きな場所は、誰にもいじめられない納屋の中です。納屋の掃除をすると言っては、そこにいる鳥やうさぎと一緒に引きこもることが多くなります。
家じゅうで誰もやりたくない仕事は、すべて「にんじん」に押し付けられ、さらにたちが悪いことに、母親は、「にんじん」がわざと失敗するように画策し、噓をつきます。
「にんじん」は孤独で辛く自殺してしまおうと考えますが、失敗してなかなかできません。自殺が無理なら、革命を起こそうと考えます。
ある日、母親に頼まれたお使いを、勇気を振り絞って断ります。今まで一度だって、拒否したことがなかった「にんじん」の態度に母親は怒り狂います。
それを見た兄は最高だと面白がり、姉は怒る母親を怖がるばかり。見ていた父親は、ばかばかしいと肩をすくめて立ち去り、関与しようとしません。
しかしそのあと、父親が「にんじん」を散歩に誘い、久しぶりにゆっくり二人で話す時間ができます。
「にんじん」は勇気を振り絞って、お母さんがどれだけ今まで自分を虐めてきて、自分が母親をどれだけ嫌っているかを伝えます。そうすると、驚くことにお父さんが「母親を嫌っているのはにんじん、お前だけではない。私もあの女を好きだと思うか?」と言い、にんじんは耳を疑います。お父さんは、夫婦仲は不幸な結婚生活だったと打ち明けます。
「にんじん」は驚きつつも納得します。父親に、お母さんは僕を虐めることで自分のうっ憤を晴らしをしている、僕は一刻も早く家を出たい、と伝えます。しかし父親には、おまえはまだ学校に行かないといけないと、家を出ることは反対されます。
結局、そのまま状況は変わらず、最後まで家族の虐待はおさまらないのですが、その中からも「にんじん」はたんだんいじめられること自体を楽しむようになり、また、自分は自分らしく生きるんだと、不屈の精神でいじめから身をかわしていきます。
物語は「にんじん」がいじめを通して成長する姿が描かれていますが、最後までそら恐ろしい母親の残虐さと、言葉の暴力は続きます。
あらすじを簡単にまとめると…
裕福な家庭ではあるものの、夫婦仲が悪く、家族みんなが末っ子のフランソワの容姿を差別して「にんじん」と呼び、いじめ続ける物語。「にんじん」はそんな過酷な環境の中、自分を見失いそうに何度もなりながらも自己肯定し、ひたすら前向きに生きていくお話です。
感想
この物語について、ただ文字通りの「残酷物語」なのか「ゆがんだ愛情表現」なのか、はたまた「にんじんの妄想」なのか、どう捉えるか解釈が分かれるところです。
第三者の目からみれば、誰しもが子どものころに感じたことがある親からの理不尽な要求と、それに対する不満、孤独感、反発心など、成長過程で見られる現象とも言えます。
母親の立場で見れば、愛情表現が下手なだけで十分に「にんじん」を愛していたのではないかとも思えます。仕事が忙しくほとんど家にいない夫に対していら立ち、それが母親を追い詰めていたようにも感じます。
父親の目線では、疲れて家に帰れば、ヒステリックになって子どもを怒鳴っている妻に辟易。もしも怒鳴られている子どもの肩をもとうものなら、妻の感情に油を注ぐだけ。ならば「無関心」という形で関わらないのが最善策、と考えてたのかもしれません。虐待というわけではなく、父親として事態を悪化させない策だったのかもしれませんが、実際には、その無関心が「にんじん」を落胆させ、また妻のイライラを助長してしまいました。
兄や姉から見れば、「にんじん」が母親のヒステリーの対象にさえなっていれば、その矛先が自分たちに向けられることがないので、擁護せずにむしろ加担して喜んだり、自分に火の粉がかからないよう立ち回ってしまったのだろうと推測できます。
『にんじん』を子どもに薦めるなら
名作児童文学として扱われていますが、場合によってはお子さんがショックを受ける可能性もあるストーリーですので、先にあらすじの概要を耳打ちしておくとよいかもしれません。
もし、お子さんが読むとしたら、以下の点について考えながら読むようアドバイスしてはいかがでしょうか。
観点①
加害者にならないことを伝える。いじめや差別はダメ、自分がされて嫌なことを相手にしてはいけない。
観点②
「にんじん」のような状況に身を置くことになったら、どうすれば自分を守れるか。自分を保つためにはどうすべきか。
親こそ読みたい
そして、むしろ子育て中の親こそが読むべき本ともいえるでしょう。作中で「にんじん」はお父さんに「家族という定義って何? 僕の中で家族は無理の集まり。互いに同情のない人間の集まり」と言います。「家族の定義とは」そして「親の愛情とは」を考えさせられます。
また「自分は子どもを、自分自身の問題の吐け口にしていないだろうか」と親としての自分を振り返るきっかけにもなるのではないでしょうか。
主な登場人物
家族内のお話なので、登場人物は比較的少なめです。
にんじん
主人公の少年。本名はフランソワ・ルピックだが、もじゃもじゃの赤毛のため家族から「にんじん」と呼ばれ、いじめられ、からかわれ、孤独な日々を過ごす。自己肯定感を高めようと努力し、自分自身を受け入れることを学んでいく。
ルピック夫人
にんじんの母親。フェリックス(兄)、エルネスチーヌ(姉)を溺愛するが、「にんじん」には2人と正反対の態度をとる。「にんじん」には無関心で彼が苦しんでいることにすら気づかない。
ルピック氏
にんじんの父親。「にんじん」に怒鳴ったり、からかったり、暴力を振るったりする。ふだんは「にんじん」に無関心。
フェリックス
にんじんの兄。ものぐさで冷淡。学校での成績は悪い。「にんじん」をいじめたり、からかったりする。
エルネスチーヌ
「にんじん」の姉。彼女は「にんじん」を理解し少し同情してくれるが、母親が怖いので表立ってかばうことができないでいる。
オノリーヌ
ルピック家の女中。「にんじん」にやさしく接してくれる。
マチルド
「にんじん」の女友達。
『にんじん』の結末はどうなる?(ネタバレ)
自殺を図ろうとした主人公「にんじん」、その後どうなるか結末もご紹介します。
※以下では、物語の核心にも触れています。ネタバレを避けたい方はご注意ください。
結末
姉が婚約者と人目もはばからず、「にんじん」の前でキスをします。
「にんじん」はイライラして、村のキリストの銅像の前で帽子を地面にたたきつけ「僕なんか誰からも愛されやしない、僕なんか!」と叫びます。すると「にんじん」のお母さんが塀の後ろから顔を出し、恐ろしい形相で薄笑いします。それを見た「にんじん」は慌てて、「ママは別だけどね」と言、この一言で物語は終わります。
誰からも愛されていない、と苦しむ「にんじん」を見て、薄ら笑いを浮かべる母親の狂気。そして、その狂気からやっぱりまだ逃れられないでいる「にんじん」の最後の一言が読者に深く刺さることでしょう。
作品の背景エピソード「ルナール家のその後」
体験談『にんじん』を出版したとき、ジュールの父親も母親も存命でした。
ジュールは良き妻に出会い、結婚1年後に初産を迎える妻と共にシトリー(実家)に帰省。そのときに母親が今度は妻に意地悪をし、虐待するのです。怒りが頂点に達したルナールは、『にんじん』を出版することで、家族へ向けて、特に母親へ向けて復讐します。
ルナール家の不幸は続きます。『にんじん』の出版3年後に父親は銃で自殺。その後、母親は井戸に落ちて溺れ死にます。これには自殺という説もありますが、真偽は分かりません。
母の死後、ジュールは『信心狂いの女』を発表、母親をモデルとして狂気的な女の物語を書いています。これも復讐の一つだったのかもしれません。母の死後、自身が動脈硬化や高血圧などの成人病を複数発症し、46歳という若さでルナールはこの世を去ります。
ルナールにとって最大の幸せは、極貧な文筆家時代から彼を支え、理解してくれた妻に出会えたこと、幸せな家族生活を送れたことだったのではないでしょうか。
『にんじん』を読むなら
下記にページ数の少ない順にまとめました。絵本や児童書のような低学年向きのものは小学館以外には少なく、多くは読みがなのない中学生~向けになります。
翻訳者によって文体や雰囲気が変わりますので、ご自分に合ったものを選ばれると良いでしょう。
カラー名作 少年少女世界の文学 にんじん(小学館)
ルナール (著), 奈街三郎 (著), 梁川剛一 (著), 山田珠樹 (翻訳) Kindle版 154ページ 2017/9/15
https://www.mori-atsushi.jp/i-107.html 【107 わが“男の顔”論】より
年が当てられる顔は一番幸福な生涯を送っている
鏡の顔は自分ではない
「顔」というものは自分だけには見えないものである。人間の顔以外の体というものは、どこでも見ることができるのに、その肝心の「顔」だけは自分で見えない。
ある人が、「そのために鏡というものがあるじゃないですか」というが、それは鏡に映った顔で、自分の顔といったら、えらいことになるであろう。
鏡に映った顔は自分の顔とは違う。それは色も違うし、左右も反対である。
世の中の人が、いい気になっていられるのは、鏡に映った顔を見ているからである。であるから、顔というものは、人が見た顔でなければ顔ではないわけである。自分がいい顔をしているとか、悪い顔をしているとかは、人の顔を見て判断する以外に仕方ないわけである。
そして、顔にも流行があり、一定不変のものではない。黒田清輝や伊東深水という立派な絵かきの描く明治時代の美人が、今でも残っていて、その顔をいいと思う人がいれば、現在、流行している今様の顔でない。つまり芸術そのものの顔である。
この頃は、あまり悪い顔というのもなくなった。みんなどの人も、いい顔にする術を持っている。そしてみんな同じような顔になっている。
非常な美男、美女もいなければ、非常な醜男、醜女もいなくなった。みんなそこそこな顔をしている。
それは国がよくなった、ということではないだろうか。食糧事情もよくなり、栄養分も十分に摂り、今の人は手も足も伸び伸びと引き伸ばされて、誰の顔も同じに見えてしまう。人間の顔が画一化されている時代なのであろう。
戦前の日本人というのは、みんな引き締められていた。体も顔も、みんな伸び伸びとしていない。逆に圧縮されているから、その顔にも特色があった。
トルストイとルナールの顔
話は変わって、ロシアの文豪にトルストイという人がいるが、彼は見るからに『戦争と平和』という大作品を書きそうな顔をしている。ところが、『にんじん』を著したフランスのルナールは、いかにも貧弱な顔である。
それで、どちらが得をしているかといえば、ルナールの方が作家としては得をしている。ルナールみたいな顔だと、人は簡単に自分の弱点をみせてしまう。弱点をみせるということは、その人の本来あるところのもの、つまり、本音をみせてくるということである。
そして、人間はトルストイみたいな顔の人の前に行くと、「こういう立派な人の前で、こんなくだらない話をしたらさぞ馬鹿にされるであろう」と、その顔に合う時は自分を武装してしまうわけである。
ルナールは子どもの頃から、そのつまらない容貌で馬鹿にされていたように思われるし、大人になっても、そう大家のような顔はしていない。しかし彼は意識する、しないにかかわらず、他人の方が特に自分に対して武装しないわけだから、努力しないでも人の気持がつかめる。裸のつきあいができる。
トルストイのように相手が武装してくると、人の心がつかみにくい。この違いが顔にみる損得である。
ここで問題としているのは、トルストイの芸術がいいとか、ルナールの芸術がいいとかいうのは別にして(芸術作品としてはいずれも立派である)、そういうものに到達するということが、ルナールは、あの顔を持っているがために、トルストイよりずっとラクに到達していたということである。
これを現代の日本の政治家に当てはめると、ルナールが渡辺美智雄氏で、トルストイが河本敏夫氏に近いような気がする。渡辺さんはいい顔だと思うが、どこかそこいら辺にいる隣のおじさん、という雰囲気があり、こちらも、あの人のいうことならフッと聞いてしまうところがある。
ところが河本さんに対して、渡辺さんのような応対はしないと思う。ここまでが顔の損得についての話である。
さらに顔の話を進めれば、第一印象であまり美しいと思っていない人の顔が、その人の話を聞いている内に「なかなかのもんだ」ということがわかってきて、その人がきれいに見えることがある。相手の顔が三角なものが、丸くなるわけもないし、四角なものが長くなるわけはないんであって、第一印象であまりよい顔ではないのは、相変らずその通りであるのに……。
しかし、その人の人格にふれ、その人の考え方なり、いい事にふれてくると、こちらの方が周囲を問題にしなくしてしまう。醜美を超越したものを持ってくる。
だから、僕は「いい顔」は誰にもできるものだと思う。自分が一生懸命に立派な考え方を抱いたり、おろそかに物を与えないという生涯を送ってゆく人は、周囲なんかは問題ではないということを相手にさせることができる。そういう意味での顔の魅力は感じる。
最後になったが、私が顔について感じることは、やはり年寄りというのは年寄りの顔をしているのが一番いい。「あなたの年はいくつですか?」と聞かれた時に「私は五十ですよ」といえば、「そういえば五十の顔をしている」と相手に感じさせるのが、一番素晴らしい。他の人が、その年が当てられるような顔がいい。
シワが多いとか、少ないとかは天の恵みであって、年齢は年齢相当にみられる顔というのは、一番幸福な生涯を送った人の顔だと思う。
七十になっていて「わあ、六十ぐらいにしかみえない」というのは、ちっとも自慢にはならない。とにかく人間、自分の顔には甘い。(談)
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