井筒俊彦

https://philosophy.hix05.com/izutsu/izutsu22.basho.html 【芭蕉の心象風景:井筒俊彦の松尾芭蕉論】より

芭蕉の句は深層意識に映った光景をそのまま詠んでいる、と指摘したのは井筒俊彦だ。深層意識に映った光景というのは、井筒によれば分節以前の未分節の状態で、したがって混沌としたものだ。その混沌から余韻が生まれる。芭蕉の句の強みはその余韻にある。俳句とはそもそも余韻の芸術なのだ。芭蕉がその余韻を重んじたのか、あるいは余韻が芭蕉によって見出されたのか。どちらとも言えないが、芭蕉の登場によって、余韻の芸術としての俳句が成立したのは間違いないようだ。そこで小生は、芭蕉の句に一々あたり、そこにどのような事情が成立しているのか、考えてみたいと思う。考えてみたいというのは、とりあえずは井筒からもらったヒントをもとに、それがどのくらいの妥当性を主張できるかについて、いささか納得できるものを得たいと思うからだ。

分節とか未分節といった言い方をしたが、分節というのは、ものごとやことがらを理知的に認識することを言う。分別とも言い換えることができる。意識に現われて来る対象に、切れ目を入れて、あるものを別のものから区別し、そのものをそのものとして認識する作用が分節である。この作用があるおかげで、我々は理知的に経験世界を認識することができる。この作用というか、能力が働かないと、対象はそのものとして認識されない。あるものとほかのものとの区別がつかない結果、対象は混沌として輪郭を持たないものとなってしまう。こうした状態を、精神医学の言葉で統合失調症という。あるものを自己同一のものとして、認識できないとう状態を、この言葉で表現しているわけだ。さまざまに異なった現れを通じて、それが同一物の諸様相だと認識するのは、現象を統合する働きがあるからで、その統合がうまく働かない状態を統合失調症というわけだ。昔は分裂症と呼ばれていた。同一のものが同一のものと認識されないことで、同一物のさまざまなあらわれが、違ったものの別々の現われと映り、あたかも同一物が分裂しているような観を呈することから、そう名づけられたワケである。

したがって、分節とか分別というものは、我々が生きていくうえで不可欠のものであり、それが健全に働かないと、我々は統合失調症に似た状態に陥る可能性があるわけである。にもかかわらず、分節以前の状態、つまり未分節なものには、それなりの意義がある。その意義は多義にわたるが、芸術におけるものはその重要なものの一つだ、と井筒は考えていたようである。芸術は、人間における理智的な部分とは違った能力にかかわる。理智的な能力が人間の表層意識を舞台にして展開するのに対して、多くの芸術的な営みは深層意識を舞台に展開する。とりわけ俳句のような、余韻を生命にした芸術の場合、深層意識の働きは、決定的な意義を持つ。俳句は、理屈だっていてはならない、とはよく言われることだが、理屈というのは、まさに表層意識がひねり出すものだ。俳句は、表層意識にとどまっていては、なかなかいいものは出来ない。深層意識まで下りて行って、そこに映った世界を詠むようでないと、いいものは出来ないのである。

そこで、芭蕉の句をいくつかとりあげ、それが果たして深層意識と深いかかわりをもっているのかどうか、たしかめてみたい。

まず、「奥の細道」から次の句

  しずけさや岩にしみいる蝉の声

これは、立石寺で詠んだ句だ。夏のさかりに、あたり一面に蝉が鳴く声が聞こえる。それが山寺全体の静寂とどういうわけか溶け合っている。蝉の声というのは、虚心に聞けばけっこううるさいもので、しかもそれが一斉に鳴いては、耳を弄するばかりの大音量に聞こえるものだが、この句ではなぜか、周囲の静寂に溶け込んでいる。この感覚はどこからくるのか。理智的に説明したのでは、説明にはならない。第一俳句というものは説明には馴染まないものなのだ。結局これは、蝉の声がそのものとして、周りのものから分節されて、蝉の声として理智的に認識される前の状態を詠ったのだととらえられるのではないか。つまり、芭蕉は表層意識で蝉の声を捉えているのではなく、深層意識で捕らえていたのではないか。深層意識でのことだから、山寺の静寂と蝉の声の大音量とは分節されていない。静寂と蝉の声とは、未分節の状態で渾然一体となっている。芭蕉はその渾然一体のものに反応したわけで、それをコトバであらわしたら上のような句になったということではないか。

同じく「奥の細道」から次の一句。

  さみだれを集めてはやし最上川

これは雨の中を船に乗って最上川を下ったときの感慨を詠んだものだ。蝉の句に比べるといくらかわかりやすい。情景としても思い浮かびやすいし、また実際芭蕉は雨の中を船で河を下るサスペンスを感じたのであろう。この句から思い浮かぶのは、降るさみだれ、その雨を集めながら流れる川の速さ、そしてその川がほかならぬ最上川だということだ。最上川に焦点を当てれば、これは五月雨の時期の水量豊富に流れる最上川の状態をスケッチ風に詠んだものということになるし、さみだれに焦点をあてれば、川を増水させ、船を早く運び去る水の勢いを詠んだものということになる。さみだれというのは、土砂降りに降る雨のことだから、勢いがある。その勢いが川を暴れさせる、というふうに受け取れる。だがそれは、やや理屈が勝った解釈だ。実際にこの句を詠んでの印象は、さみだれと最上川とが渾然一体となった風景ではないか。五月雨が最上川に降りかかっているのではない、あるいは最上川が五月雨を集めて早く流れているのではない。五月雨と最上川の水とが渾然一体となっている、そういう光景ではないか。そういう意味合いでこの句も、芭蕉の深層意識に映じた、渾然とした心象を詠んでいると受け取ることができる。

次は、芭蕉の句のなかでも最も有名な一句。

  古池やかわずとびこむ水の音

これは、古池に蛙が飛び込んだ、その水の音が聞えたという具合に、写実的なものとして読んだのでは、何ということのない凡庸な句に聞こえる。これが写実を超えたものとして聞こえるのは、古池と水の音との間に断絶があるためだ。この断絶があるために、古池と水の音との間の因果関係が断ち切られ、古池と水の音とは無関係なものとして、並列的に見えて来る。本来無関係なものが並列され、しかもそこに余韻のようなものが生まれる。その余韻がこの句を味わい深いものにしている。俳句には、かならず断絶を入れろという鉄則があるが、これがないと句が説明調になって、すらすらと理智的に読めてしまう。余韻などは生じる余地がない。余韻を生じさせるにはかならず断絶を入れることが肝要だ。そう言われるわけだが、断絶を入れることによって、俳句に詠んだイメージをいったんごちゃまぜにするという効果が生まれることを、この鉄則は知らせてくれるわけだ。そのごちゃまぜは、深層意識に映った未分節なものに通じるのである。

次は、芭蕉の辞世の句とされる一句。

  旅に病んで夢は枯野をかけめぐる

この味わい深い句は、旅に病んで床に臥せったときの芭蕉の気持を正直に詠んだものだろう。病んで意識が朦朧とした状態で、夢を見ることがあるのか、あるいは思い浮かぶことがことごとく夢のように見えるのか。この句を詠んだ時の芭蕉には、そうした分別はなかったに違いない。自分の意識に映じたものを、理智をまじえずにそのまま詠んだということではないか。その時自分の意識に映じたものは、分節以前の混沌とした世界だった、というふうに芭蕉は感じたのではないか。この句には、死にゆく芭蕉の深層意識に映じた混沌とした世界が、走馬灯のように駆け巡っていたさまが垣間見られるのである。


https://philosophy.hix05.com/izutsu/izutsu23.shiki.html 【子規と蕪村:井筒俊彦の正岡子規論】より

芭蕉が俳句の確立者とすれば、子規は近代俳句の確立者、あるいは俳句の中興者ということになろうか。この二人にはかなりな相違がある。芭蕉が余韻を重んじるのに対して、子規は写生を重んじるということだ。芭蕉の俳句の余韻は、深層意識の光景を詠むところからもたらされるということについては、前稿で指摘したとおりだ。深層意識に映った光景というのは、理智の働きを蒙る以前の、つまり分節される以前の混沌としたものだった。その混沌がかえって、俳句に余韻を生む。これに対して子規の写生は、どのようにして俳句を生むのか。それを考えるために、いくつかの作例に即して、子規の俳句の詠み方を分析してみたいと思う。

まず、子規の俳句のうちもっとも有名な一句。

  柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺

これは、松山から東京へ戻る途中、奈良に立ち寄った際に詠んだ句で、子規の実際の体験を詠んだものだとされる。非常に素直な句で、法隆寺の鐘をきいた時の子規の気持が、ストレートに伝わってくるようである。このわかりやすさが、写生から来ていることは見やすい。写生であるから、その場の光景がありありと浮かんでくるわけだ。この句はしかも、時間意識も感じさせる。というのも、音の響きというものは、一定の時間の流れというか、時間の幅を前提としているからだ。一定の時間の流れに乗って、鐘の音が聞こえていた、その時自分は法隆寺の近くの茶屋のようなところで柿を食っていた。そういう旅の一コマが、ほほえましく伝わって来る。つまりこの句は、誰もが感情移入できるような単純な光景を詠っているわけで、その点では、読者の表層意識にとって理解しやすい句なのである。読者の表層意識に訴えるだけではない、この句を詠んだ子規自身が、その時の自分の表層意識を占めていたものを、そのまま文字にしたといえるのではないか。

写生を旨とする子規の俳句の作例をもうひとつ

  鶏頭の十四五本もありぬべし

これは、庭に咲いている鶏頭の花を見て、十四五本もあるかしらといぶかる様子を詠んだもの。なんということもない句で、駄作だという評価もある一方、秀作だという者もある。駄作だという者は、この句が理屈に堕ちていることを指摘する。数を云々するのは理窟を重んじるからで、鶏頭を純粋に楽しむためには数は問題ではない。なのに数にわざわざこだわるのは、写生の厳密さに気をとられているからだ、という批判が生まれる。これに対してこれを秀作というものは、その写生が単純でわかりやすく、人の理解にすとんと落ちるところがよいという。小生としては、これはやはり駄作と思わざるをえない。鶏頭が何本であっても、それが鶏頭の花の美しさにいかほどの影響をもたらすか。あまり影響はないし、また人を動かすものでもないと思う。

子規の写生がすなおに人を動かすのは、たとえば次のような句である。

  痰一斗ヘチマの水もまにあはず

これは子規辞世の句三句のうちの一つで、子規の代表作というにふさわしいものだ。痰が喉にからんだ、その量は半端ではない、このままでは苦しくて死んでしまうだろう、ヘチマの水が間に合ってくれればよいが、間に合う見込みはなさそうなので、ワシはこのまま死ぬことになるよ、という子規の気持が素直に伝わって来る。こういう素直な気持ちは誰にでも感情移入できるので、それをストレートに歌うことは、つまり感情を写生することは、人を感動させるのである。

子規の句は、膨大な数に上るが、そのわりに傑作は少ない。子規自身、傑作というべき俳句は、生涯に三つも作れればよいほうだと言っている。たしかに、写生を旨とする俳句では、傑作は生まれにくいのだと思う。俳句のように極端に短い詩形には、写生はなじまないのではないか。写生というものは、現実をそのまま、なるべく現実に近いような形で表現するもので、そこにはなにかしら理屈が介入してくる。現実をコトバで再現するためには、一定程度の理屈が必要だからだ。しかし理屈からは、なかなか余韻は生まれてこない。余韻ばかりが俳句の命ではないという見方もないではないが、わずか十七文字の詩形で、人々の想像力に訴えようとすれば、勢い余韻の力に頼らざるを得ない。

子規の写生は、その後の、いわゆる近代俳句を指導する理念になった。高浜虚子とか飯田蛇笏といった俳人たちは皆、写生を旨とした俳句作りをしたものだ。その作例を上げると、

  遠山に日のあたりたる枯野かな  虚子

  芋の露連山影を正しうす  蛇笏

どちらも近代俳句を代表する傑作といわれるものだ。国語の教科書にも載ったことがある。虚子の句は、枯野の先に日のあたった山が見えるという光景を写実的に読んだもの。蛇笏の句は、芋の葉っぱに映った山々がくっきりと見えるという光景を、やはり写実的に歌ったもので、写生そのままといってよい。こういう句に感心する人もいるのではあろうが、そういう人でも、こうした句から写生以上のもの、つまり深い余韻を感じることはないのではないか。

子規は和歌も作った。子規は俳人としての評価のほうが高いが、歌詠みとしての能力の方が格段に高かった。近代日本では俳句のほうが羽振りがよかったので、どうしても俳人子規の偉大さがクローズアップされるが、先ほども言及したように、子規には俳句の傑作といえるほどの作品はそう多くはない。子規が人気があるのは、写生なら素人でも手軽にできるので、そのお手本としての役割を期待されたからだろう。一方、和歌のほうは、俳句ほど羽振りがよくなかったので、注目度は落ちるが、子規の和歌はなかなか人をうならせる力をもっている。子規は和歌にも写生を取り入れたが、和歌は俳句より文字数が多いだけ、写生に耐えられるものを持っている。そこが子規に、自由度を与えたのだと思う。その子規の和歌のなかでも、もっとも人をうならせるものは、十首連作といった連作ものである。ある一つのモチーフをめぐって、連続的に詠んでいく。一首だけでも味わい深いものはあるが、連作として読むことで味わいは数倍される。そこに物語が生まれるからで、読者は物語を追いながら、個々の歌を詠むという趣向だ。その例を一つあげよう。

  瓶にさす藤の花ぶさ短かければたたみの上にとどかざりけり

これは、藤の花を詠った十首連作の冒頭の歌だ。病床で体の自由の利かない子規が、自分の目に映った藤の花の様子を、ありのままに写実的に歌っていく。一首一首が何という事もない眺めだが、それが十首連続すると、そこに一つの物語が生まれる。その物語が、一首一首に重なると、そこに独特の余韻が生まれる。その余韻が、写実を超えて、人の感動を呼び起こすのだと思う。

子規には歌の手本として万葉集があった。それまで歌の手本といえば、古今集に始まる勅撰集が重んじられていたのを、子規は万葉集の素朴な写実を手本とした。そうした子規の和歌の作風は、茂吉以下に引き継がれて、近代和歌の主流になっていった。和歌は俳句に比べればずっと自由度が高く、写生にもなじみやすいので、俳句に比べれば秀作の数も多い。

和歌の万葉集にあたるものとして、俳句について子規は何を選んだのか。よく言われるように蕪村である。蕪村は徳川時代を通じて画家としての名声は高かったが、俳句にも味わいの深いものを作っていた。それを子規が見出して、芭蕉と並ぶ巨匠と位置付けたわけだが、果たして蕪村の句は、子規が言うように写実的なのだろうか。作例をみてみよう。

  春の海ひねもすのたりのたりかな

これは春の海ののどかな風景を写実的にうたったものだと解釈されている。春の海ののどかな眺めを、ひねもすのたりのたりかな、という言い方で表現している。のたりのたり、という表現そのものが面白いので、これだけでも絵になりそうなところに、ひねもす、という言葉が加わることで、時間の流れの要素も入って来て、イメージが豊かになっている。単なる写生とは異なった、重層的なイメージを感じさせる句である。

  菜の花や月は東に日は西に

これは菜の花畑で見えた光景を詠んだものだ。夕方なのだろう。太陽が西に沈む一方、東の空からは月が上って来る。よく見られる光景だ。それを菜の花畑を背景にして眺めている。この句には時間の流れの要素はあまり強く感じられないが、月と太陽が一度に見られる時間を意識させるもので、たんなる写生にはとどまっていない。

  さみだれや大河を前に家二軒

これは、五月雨の降る中から浮かび上がった眺めを詠んだもの。五月雨の土砂降り雨が大河に降り注いでいる。その大河のほとりに家が二軒、心細そうにたっている。その心細さが伝わって来るように、この句は工夫されているわけだが、その工夫とは文字の間から余韻を醸し出すというものだろうと思う。この句もだから、単純な写生句とはいえない。

こうして見ると、なぜ子規の句に傑作が多くないのか、その理由がわかるような気がする。傑作といわれるような句は、写生だけからは生まれてこないのである。


https://note.com/nagarumiyake/n/n3fda2ea8873c 【井筒俊彦『意識と本質』(1)】より

井筒俊彦著『意識と本質』。ただ読んでいるだけでも刺激的ではあるが、より体系的に理解したいと思い、章ごとに自分なりにまとめを書くことでより理解を深めたいと思った。このトピックは個人的な勉強と備忘を兼ねたものなので、語の使い方や解釈に誤りがあるかもしれないが、まずは気楽に書いてみたい。

【基本的に『意識と本質』(岩波文庫)の本文を引用しつつ纏めています】

〜井筒俊彦「意識と本質」Ⅰ章〜

私たちがこの世界の中でいろいろなものと出会う場合、これは「花」これは「机」として意識の中でとらえていく。それは「花」を見た時にそれを「花」と意識させる「本質」が花の中にあるからであり、もしこの「本質」がなければ私たちはそれを「花」と意識することはできず、また「花」と他のものを区別することはできず、渾沌とした世界のなかで頼りなく漂うのみであろう。そして「花」と名付けているのも、その「花」の本質と結びついているからであろう。だから例えば実際に目の前に「花」がなくても「花」という言葉を聞いたり読んだりすると、意識の中で「花」のイメージを思い浮かべることができる。これが私たちの生きている経験的世界である。

しかしもし眼前の花から「花」の「本質」「名」を失った時、私たちの意識は方向性を失い、ある「ねばねばとした」目も鼻もない不気味な存在の渾沌の泥沼にはまりこんでしまうだろう。井筒はその事態をもっとも見事に描いた例としてサルトルの「嘔吐」をあげている。

「ついさっき私は公園にいた。マロニエの根はちょうどベンチの下のところで深く大地に突き刺さっていた。それが根というものだということは、もはや私の意識には全然なかった。あらゆることばは消え失せていた。そしてそれと同時に、事物の意義も、その使い方も、またそれらの事物の表面に人間が引いた弱いめじるしの線も。背を丸め気味に、頭を垂れ、たった独りで私は、全く生のままのその黒々と節くれだった、恐ろしい塊に面と向かって座っていた。」(井筒俊彦によるサルトルの引用)

「しかしこれは表層意識の立場からの発言であって、深層意識に身を据えた人の見方ではない」と井筒は言う。確かにサルトルがあの瞬間体験したのは深層意識で起きたことだが、あくまでも表層意識の側に立ちそこから垣間見えた事態であり、だからもはやそこでは「嘔吐」するしかないのだ、と。

これに反して東洋の精神的伝統では、深層意識が拓かれ、そこに身をおいているので、このような場合に「嘔吐」に追い込まれない、と井筒は言う。

ここで井筒は主に3つの例を挙げる。1つ目は大乗仏教、2つ目はシャンカラの不二一元論、3つ目はイスラムにおけるイブン・アラビーの存在一性論。

まず1つ目の大乗仏教から。経験的世界において「花」を「花」として名付け、「花」として意識を向かわせる「花」の「本質」は本当は実在せず、実在しないものがあたかも有るもののように見えてくる「妄念」に過ぎない、と言う。深層意識に立ち、絶対的無分節者がそのまま現れてくれば経験的世界においてあらゆる存在者を互いに区別する「本質」はことごとく消え失せてしまう。その絶対的無分節者のことを「真如」というが、それは「空」であり「無」である。(その経験的世界の「本質」を通さずに存在を実践的に捉えなおそうとするのが「禅」であるが、それは後に詳述)

2つ目のシャンカラの不二一元論も経験的世界の「本質」を否定するところから始まり、現実の世界を「名と形」の世界として「妄念」によってもたらされた虚構である、とするところも大乗仏教と共通している。しかしその終着点は大乗仏教と正反対で、大乗仏教では深層意識における頂点、絶対的無分節者を「空」「無」として捉えるのに対し、シャンカラの不二一元論ではその頂点を「ブラフマン(梵)」という絶対的一者、有的充実の極限、最高度にリアルな実在として捉える。経験的世界で私たちが見るものは、私たち自身の意識によって様々に分節されて現れるブラフマンの仮象的形姿にすぎない。

3つ目、イスラムにおけるイブン・アラビーの存在一性論でも、経験的世界は、絶対的無分節の「存在」が様々な「限界線」によって様々に分節された形で私たちの表層意識に現れたものであり、私たちの側の意識の次元転換によって「限界線」が全部取り払われてしまえば、「存在」が絶対的無分節な存在のまま捉えることができる、という点で先の2つと共通している。逆に大きな違いとしては、経験的世界の目の前の事象は、私たちが絶対的無分節者をいわゆる「妄念」的に捉えたものではなく、その絶対的無分節者が自ら分節的に自己展開していき、多者となって存在として私たちの眼前に現れる、とするところである。そしてこの絶対的一者から多者に至るこの存在展開の過程の途中にイブン・アラビーはひとつの中間領域を置き、それを「有無中道の実在」の領域と呼ぶ。この「ある」とも言えず、「ない」とも言えない中間的な存在範型が「存在」の原形、つまり「本質」の原初的形態である。言い換えると「有無中道の実在」が、もう一段下位の存在領域である日常経験的世界において、「本質」として私たちの意識に映る、というものである。

いずれにしても表層意識でとらえる存在たちは「妄念」や「有無中道の実在」によってもたらされる「本質」によって規定され、上記の思想は、この「本質」を否定するところから始まる。「本質」を否定し、その存在を深層意識によって捉えようとしたときに、大乗仏教で言うところの「空」や「無」としての「真如」あるいは「ブラフマン」、あるいは「絶対的一者」にたどり着く。さらにそれらから経験的世界に向けてどう変質し、あるいはどう展開するか、のメカニズムを明らかにしようとした思考体系と言えるだろう。

否定的な意味合いで使われてきた「本質」だが、井筒は東洋哲学の伝統の中にはこれとは正反対の「本質」の実在性を全面的に肯定する思想家たちがおり、また、それを語るためには、やや漠然として使われてきた「本質」という言葉をよりはっきりと規定し直す必要がある、として次章に向かっていく。


https://note.com/nagarumiyake/n/n0775fb6538a2 【井筒俊彦『意識と本質』(2)】より

〜井筒俊彦「意識と本質」Ⅱ章〜

井筒俊彦は、「本質」には二つあり、この二種類を意識的、方法論的に明確に分けた哲学の例としてイスラーム哲学を挙げている。神を唯一の例外として、あらゆる存在者に二つの「本質」を認め、区別している。ひとつは「マーヒーヤ」(māhīyah)、もうひとつは「フウィーヤ」(huwīyah)である。簡単に言うと「マーヒーヤ」は普遍的リアリティのこと、「フウィーヤ」は個別的リアリティのこと。

「マーヒーヤ」は語源的には「それは・何であるか・ということ」を意味する。例えば目の前に花がある時、「それは・花・である」つまり、目の前の「花」を「花」として成立させている「花」性のことを指す。

「フウィーヤ」は語源的には「これであること」いわば「これ性」を意味する。先の例で言えば、目の前の「花」自体がもたらす存在感、リアリティー、そのものの実感を表す。

井筒はこの二つの「本質」に対する異なる向き合い方をする作家や詩人を例に論を進めていく。

まずは本居宣長の「もののあはれ」。宣長は抽象的・概念的な思考を極度に嫌った。宣長にとって普遍的な「本質」つまり「マーヒーヤ」はひとかけらの生命もない死物に過ぎなかった。目の前の生きた事物を生きるがままにとらえること。自然で素朴な実存的感動を通じて「深く心に感」じることしか道はない。物にじかに触れ、その物の心を、外側からではなく内側からつかむこと、それが「もののあはれ」を知ることであり、そういうことのできる人を宣長は「心ある人」と呼ぶ。

次にリルケ。彼にとって、物をその普遍的「本質」すなわち「マーヒーヤ」を通して見ることは、その物から一回限りの独自性を奪ってしまい、「花」は「花」という個物ではなく、どこにでもある無数の「花」になってしまう。こうしてリルケは「マーヒーヤ」に背を向けて「フウィーヤ」に赴く。

リルケは「意識のピラミッド」について語っている。その頂点の表層意識は言葉の意味分節が支配する次元。そして底辺の深層意識はそのものが言葉以前にものとしてのリアリティーを開示する領域。

言葉の意味分節の力の及ばぬ深層領域に開示される「もの」の「フウィーヤ」を詩人は改めて言語化しなければならない。言語は基本、表層意識に属するものである。深層体験を表層言語によって表現しようとするというこの悩みは、表層言語を内的に変質させることによってしか解消しない。それはある意味、禅における「転語」のような状態。ここに異様な実存的緊張に充ちた詩的言語、一種の高次言語が誕生する。

次に『古今集』『新古今集』における「ながめ」。

『古今』的和歌世界は一切の事物、事象がそれぞれの普遍的「本質」において定着された世界。春は春、花は花、恋は恋というふうに自然界のあらゆる事物、存在者が普遍的「本質」的に規定され、もしその「本質」の網目から外れたりすれば、その意外性自体がひとつの詩的価値を帯びるほどの強力な規定性がそこにある。

いわゆる「マーヒーヤ」的「本質」が、ぎっしりと隙間なく充満するこうしたマンダラ的存在風景にあきたらぬ詩人たちは、王朝文化の雅びの生活感情的基底であった「ながめ暮らす心」を普遍的「本質」の消去の手段として、ひとつの特殊な詩的意識のあり方にまで昇華させた。「眺め」は『古今集』ではどちらというと淡い性的気分を表すものであったが、『新古今』的幽玄の世界では「眺め」とはむしろ事物の「本質」的規定性を朦朧化し、そこに生まれる情緒空間の中に存在の深みを得ようとするものではないだろうか、と井筒は言う。

「ながむれば我が心さへはてもなく、行へも知らぬ月の影かな」

「帰る雁過ぎぬる空に雲消えていかに詠めん春の行くかた」

(いずれも式子内親王)

月は照り、雲は流れ、飛ぶ雁が視界をかすめる。しかしこの詩人の意識はそれらの事物に鋭く焦点を合わせていない。それらは限りなく遠いところに眺められている。

「眺め」の焦点をぼかした視点の先で事物はその「本質」的限定を超える。そこに存在深層の開陳がある。だから「眺め」は「マーヒーヤ」の否定ではなく、「マーヒーヤ」を肯定するからこそあえてそれをぼかそうという態度が出てくる。

そして最後に松尾芭蕉。

全ての存在を存在たらしめているもの、永遠不易の普遍的「本質」、すなわち「マーヒーヤ」を芭蕉は「本情」と呼んだ。この「本情」を井筒は、花は花、月は月といった『古今』的な、感覚表層に現れる「本質」ではなく、事物の存在深層に現れる「本質」であると言う。

「物と我と二つになりて」つまり主体と客体が二分してその主体が自己に対立するものとして客観的に外から眺める次元を存在表層とよぶとして、ここで存在深層とはこの主客二分以前の根源的存在次元である。

「…の意識」はすでに主体客体が二分された存在表層の次元。これに対して根本的な変質が起こらないといけない。この変質を芭蕉は「私意をはなれる」という言葉で表現する。つまり二極分節的ではない主体として「もの」を見るということ。このような方向に自己を絶えず修練していくことを「風雅の誠」と芭蕉は言う。

しかし、美的修練をつんで存在深層が垣間見えるようになった人たちに、必ずしもあらゆるものの「本情」がつねにあらわれているわけではない。人はつねに「…の意識」で事物に接している。しかし『内をつねに勤めて物に応』じる特別な修練を経た人の実体験として、ものを前に突然「…の意識」が消える瞬間がある。そういう瞬間にだけものの「本情」がちらっと光る。「物の見えたる光」という一瞬のひらめく存在風景「物に入りてその微の顕れ」ること。

人の側では二極分裂の主体が意識の中で消え、ものの側では、普段深部にかくれて見えない「本情」が自らを現す。この時自己を開示するものは「本情」つまりは普遍的「本質」でなければならない。

この永遠不変の「本質」すなわち「マーヒーヤ」が芭蕉の実存体験において突然、瞬間的に生々しい感覚すなわち「フウィーヤ」に変わって現れる。「マーヒーヤ」が突如として「フウィーヤ」に転成する瞬間。この「本質」の次元転換の微妙な瞬間を間髪入れず詩的言語に結晶する。俳句とは芭蕉にとって、実存的緊迫に満ちたこの瞬間のポエジーであった。

いずれにしても普遍的本質である「マーヒーヤ」をそのまま受け入れるのではなく、個体的リアリティー「フウィーヤ」との関係性においていかに手触り感、実体感を得ていくか、という点で共通しているように思える。しかし、一方で「マーヒーヤ」をそのイデア的純粋性において直観しようとする人々がいる、と井筒は言う。詩人であるマラルメ、宋代の儒者による理学「格物窮理」を例に井筒は次に論を進めていく。


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