心の原風景

https://ameblo.jp/minamiyoko3734/entry-12829143758.html  【俳句療法】


https://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n315/n315008.html 【心の原風景】より

俳句

岸野千鶴子

1928年生まれ。1986年突発性難聴にて失聴。俳句協会会員。「蘭」「方円」同人。みみより会を経て、聴覚障害者のための通信句会を行う。

夢の世に夫とあそびて手まり唄

囀りを聞きたくて拠る野の大樹

こほろぎと刻を分ちて一人の餉

ベートーベンの散歩道

賞にはおよそ縁のない私が、俳句協会全国大会賞受賞の〈蕗の薹階も小幅に女寺〉に注目したのは、私がよく足を運ぶ鎌倉東慶寺での作であることと、作者である花田春兆氏が脳性マヒの俳人であることに驚きを感じた。「階も小幅」に俳人の眼の確かさを教えられ、初学の私には忘れられない一句である。求めたエッセイ集『ウワちゃんとおはるさん』を読みながら、作句の勉強の参考にした。

昭和46年『鳳蝶』により読売文学賞を受賞の野澤節子はカリエスに冒され、30数年の病床より快復された方、清純無垢な作風と評価された句集『未明音』も手元にある。随想集『耐えひらく心』にはその強靱な精神力に畏敬の念を抱いた。師大野林火の膝下を離れ『蘭』を創刊される。私は夫と共に「蘭」に入会して俳句を学び始めた。昭和46年12月のことである。

私の失聴は全く突然、聞こえの電池が切れたかのように無音界に身を置くようになった。

奈落の底に沈むかのようで、師節子を悲しませた。筆談の日々は言葉が足りないためのトラブルが多く、私の身も心も荒み、身近な友人が一人二人と私から離れていった。

ろう者になってしまった私は、自分を客観的に見つめてみたく、ベートーベンが遺書を書いた家を尋ねることを思い立ち、夫の許しを得てウィーンに旅立った。

ベートーベン自身が難聴を悟り、遺書を書いたハイリゲンシュタットの家は当時のまま残っている。

この遺書の家から続く道を、雨の日も嵐の日も、一日も欠かさず散歩し、散歩することで近隣の人たちに理解され親しまれるようになったと、求めた冊子に解説されている。

小高い丘に登ると、遙かにぶどう畑が拓け豊かな自然に心が癒される。この地を2度私は訪れ、心の風景として想いを刻んだ。自然と向き合うことで謙虚になれる。

最初に出会って感動した俳句は脳性マヒの俳人、そして師と仰いだ方もカリエスの障害のため、坂道を歩かれるのも困難でおられた。しかしその、精神力と純粋な心のありようはお二方に共通する。少しでも近づけたらと、大それた思いを抱いている。

俳句

蘆田禮人

昭和28年6月17日生まれ。54歳。四肢けい直性マヒ。俳人協会会員。「遍照」同人。

緑蔭か非緑蔭か朝の犬

秋深き江戸幕府より四百年

日曜日を働く乙女梅雨晴れ間

私が俳句を作り始めたきっかけは母校(大阪府立堺養護学校)の国語教師で俳人の工藤雄仙先生、その人です。

先生との出会いは母校の中学部に入学した折、先生の不思議な目の光に引き付けられたのが俳句との縁であったと思います。

先生は『飛翔』という俳句雑誌を主宰して居(お)られ、私はその同人になりました。

もう一人は母校のクラスメートで友人の井上雅友氏(現遍照俳句会主宰)で、彼の俳句への情熱は大変なもので、彼は雄仙先生から、俳句の才能を中二の時から認められており俳句を始めたのも早かったのですが、私は堺養護学校の高等部に入学した夏に俳句を始めたと憶えています。雄仙先生と井上雅友氏の二人が居(い)なければ、私は俳句を作っていなかったと思います。

次に作品づくりのこだわりですが、先生がよく言われたのは俳句は「自己を詠む詩」であるということで、それを心掛けておりますが、ともすると評論家的、第三者的な表現に落ち入っていることがしばしばです。

俳句とは「自己を詠む詩であり、自己が主人公である詩」だと思います。

そしてもう少し教わったことを書けば、俳句は「美」としてだけでは不十分で俳句を作ることがその人の生き方に直結していかなければ嘘だよと言われていました。

形式と内容の一致ということでしょうか。

そして、最後の障害が作品にどのようにかかわってくるかですが、障害とは自己の身体、精神そのものであるとしますと、当たり前の話ですが、作品に非常に深くかかわってくると思います。私の拙句を掲げて恐縮なのですが、

真昼日のこほろぎは地を這ひにけり 禮人

この句などは家での移動が這って居りますので、それが作品に投影されたと思います。

雄仙先生の師、石田波郷は一生の大半を結核という宿痾(しゅくあ)によって病床に過ごした俳人です。

波郷の俳句の多くが自己と自己の病いを詠んでいるのに、私の俳句はまだまだ他者的作品の多いところが多く、課題であると思います。

自己と作品が一つに重なり合いたいと思っています。

俳句

中原徳子

1958年香川県生まれ。脳性マヒ。「からまつ」同人、俳人協会会員。

術後ひらいた掌が極月の顔撫でる

腹筋背筋欲しや尺取虫ほどの

太箸やずっと不幸者でゐよう

振り向けば五七五

私の所属する俳誌「からまつ」の主宰は由利雪二先生。雪二先生との出会いは38年前に遡(さかのぼ)る。都立光明養護学校小学部5、6年時のクラス担任。私立中学の教師から障害児教育を志して赴任したばかりの熱意溢れる先生だった。

授業そっちのけで多摩川で魚を追いかけたり蓬(よもぎ)を摘んだり。外で思い切り遊んだり自然に触れたりする体験の少ない障害児にそういう機会を少しでも与えてやろうという教育的配慮と今にして思う。

難読漢字調べという夏休みの宿題で漢字の面白さにも開眼した。ちなみに俳句の季語には難読漢字が多い。光明の大先輩に花田春兆氏、土居伸哉氏がいた。

雪二先生に入門を請い「からまつ」に入会したのは26歳の時。臼田亜浪師系の有季定型ながら自由な句風の結社で、養護学校関係者も多く、私でも気後れすることなくのんびりぬくぬく俳句を作っていた。

転機は俳句を始めて十年目に訪れた。手足が痺(しび)れ動きが鈍くなり転びやすくなっていた。秋になり、丈夫が取りえだった母が癌で急逝。その後私の身体変調も急速に進み、ついに首から下が完全にマヒした。脳性マヒの二次障害、頸髄症である。打ちのめされた。支えてくれたのは家族と友人たち、そして俳句。

幸い頸椎手術が成功、身体機能も驚くほど回復したが、外出は車いす頼みとなった。筋肉が落ちて指がくっつきフニャフニャになっていた手が、手術直後にふわーっと開いたのには心底驚き、人体の不思議、神経の神秘を実感した。

第二の転機はネット句会との出会い。言語障害の重い私にとって、キーボードを叩けば自在に発言できるネット空間は実に快適でかつ刺戟(しげき)に満ちていた。掲示板で歌仙を巻いたりもした。歌人で本誌編集同人でもあった中島虎彦氏も連句仲間だった。今春の突然の逝去は痛惜の極みである。

俳句を始めて22年。いつしか俳句は私の杖となり如意棒となった。長年作り散らかしてきた句をまとめた初めての句集『不孤』、この11月に角川書店より上梓予定。



http://www.arsvi.com/2010/20160301ot.htm?fbclid=IwAR337GU04DAl4mAQ67zvfSv2H1WDqleYmTpBatKAm4BTt4Qn89SCruhCtVE 【「魂の詩 障害者と短歌」】より

大津留 直 20160301 『ノーマライゼーション 障害者の福祉』36(3)

last update: 20160406

人間の魂には、身体的な痛みや社会的な差別・偏見によって挫かれれば挫かれるほど、輝いてくる部分があり、その輝きが言葉によってはぐくまれ、研ぎ澄まされることがあるらしい。歌人の上田三四二がかつて言ったように、短歌・俳句は「日本語の底荷」 i であり、日本語という船の甲板に近い表舞台で華々しく活躍するのではなく、むしろ、その華々しさを底辺から支え、バランスをとる役割を果たしているのだろう。日本語の底辺にあって、陽のあたることの少ない短歌や俳句であるがゆえに、むしろ、そこにおいて魂の芯のような部分がどんなに挫かれても、まさに、そのように挫かれることによって、輝きを増し、研ぎ澄まされるのを経験することが多いのは、長年短歌や俳句を作ってきた者としての実感である。それはまた、多くの障害者による作品がそれを証明していることでもあるように思われる。ここでその例証として取り上げ、鑑賞することができる短歌は、もちろん、そのうちのほんの幾首かでしかない。ここで一口に障害者と言っても、その障害の様相も、それぞれの歌風も千差万別であることは言を俟たない。

くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる 正岡子規 ii

ここで、ほとんど無造作に使われているようにみえる「針」という一語が決定的な役割を果たしている。この薔薇の芽は針のように尖ってはいても、丁度、そこに降っている春雨のように、柔らかいのである。この歌を詠んだとき、子規はすでに重症の脊椎カリエスで寝たきりの状態であった。その傷口のあまりの痛さに呻吟しながら、ガラス戸越しに庭の薔薇に降る春雨を見ているのである。この薔薇の芽の針は、その痛みに挫けそうになりながら、しかも決して挫けることのない彼の魂の芯の部分でなくて何であろうと私は思う。これは子規自身が唱えた写生の論に反対するものでは決してない。そうではなくて、真の写生においては、すべての写生の対象は、そのまま、それを写生する人の魂になる、ということである。物を見るとは、もともと、その物になりきることを意味したからである。この歌は、実は、魂の芯の部分がこの上なく柔らかいがゆえにこそ、どんなに挫かれても挫けないのだということを示唆していると言ったら、言い過ぎであろうか。

照る月の冷えさだかなるあかり戸に眼凝らしつつ盲(し)ひてゆくなり 北原白秋 iii

自分の視覚障害が進んでゆくことを、これ以上ないほど客観視することによって、その不安や絶望が目には見えない、冷ややかな月光の美しさへと昇華されている。眼は、その月光によって照らされている戸を見ようと凝らされているのだが、それも定かには見えないほどに障害は進んでいる。しかし、それが見えないことによって、却って、月光の冷たい光が心に沁みこんでくるのである。そこでは安易な慰めは一切断ち切られている。あるのは、ある種の諦観における、自分を突き放した明るさであり、肉眼が見えなくなることによって逆に得られた心の視野の開放感である。

萎え身もてば吾に向けらるる記事かとも邪魔者は殺せの新聞の文字 前田ヤス子

仁木悦子が夫 後藤安彦とともに編集した『もうひとつの太平洋戦争』 iv に掲載された前田ヤス子の短歌である。戦争が障害者をいかに厳しい状況に追い込むかを、この一首だけで言い当てているように思われる秀歌である。平時ならば、障害者のような社会的弱者を擁護する役割を担っているはずの新聞でさえ、戦時には「邪魔者は殺せ」と書くのである。作者は、自分が障害者であるがゆえに、その言葉が自分に向けられていると感じざるを得ない。実際、ドイツにおいては、十万とも二十万とも言われる障害者が「生きるに価しない」と刻印を押されて、ナチ政権により安楽死の名のもとに殺されたことを思えば、この脅迫が戦時においてはいかに差し迫ったものであったか、想像に難くない。

現身にヨブの終りの倖せはあらずともよししぬびてゆかな 津田治子 v

作者はハンセン病を患い、一生を熊本の菊池恵楓園で送らねばならなかったが、カトリックの洗礼を受け、アララギの歌人として活躍した。ヨブは旧約聖書ヨブ記の主人公であり、義しい生活を送っていたが、悪魔と神の賭けにかけられ、それまでの幸せな人生を奪われ、訪ねてきた友人たちとの壮絶な対話の末、物語の最後には神によって、元の幸せな人生へと戻される。自分もハンセン病によってかつての幸福をすべて奪われたが、しかし、人生の最期においてその幸福が取り戻されるようにとは祈るまい。共に苦しんでくれるキリストを得た今は、そのキリストに倣って、最期までハンセン病というこの苦しみを忍んで生きてゆこう、というのである。共に苦しんでくれるキリストと会い得た歓びがいかに大きいかが言外に表わされているのであり、まさに、そこにどんなに挫かれても、挫けない彼女自身の魂の芯を発見したということであろう。

わが感覚すすき野のへにありしかどこのかろさ死後のごとく気づけり 渡辺松男 vi

渡辺松男の歌集『蝶』の代表作である。作者は筋萎縮性側索硬化症と統合失調症を病んでいる。そんな作者にとって死は、常に自分と背中合わせにあるものであり、彼はそこから、死が必ずしも生に敵対するものではなく、生がそこから独自の輝きと自由さを得ることができるものであることを学んできたのであろう。この歌は、生きている自分の日常の感覚のあたりまえの自明性が、不図したことで崩れて、まるで死後の自分がすすき野を感覚しているかのようであることに気付かされる出来事を詠っている。「このかろさ」は、すすきの穂群の軽さであると同時に、生そのものの軽さを示唆している。しかし、決して、日常的に感じたり測ったりすることができる軽さではなく、死と接していることによって不意に気付かされる生そのものの透過性を意味している。この透過性は、日常のあれやこれやに拘束されることなく、例えば、この「すすき野」に成りきってしまう自由である。

手も足も動かぬ身にていまさらに何をせむとや恋の告白 遠藤滋 vii

作者は脳性麻痺の二次障害の重症化によって寝たきりの生活をすでに三十年近く余儀なくされており、しかも六十代後半を迎えている。しかし、その身に湧きあがる恋心には、青年のような初々しささえ感じられる。障害者にとって、異性との関係は、特に若いころは、しばしばそこにおいてはじめて、自分が障害者であることを激しい苦しみをもって思い知らされる事件である。おそらく、この作者もそのような経験を経て、今ようやく、その身に湧き上がる恋心には、世間体や生活に属するもろもろのしがらみを言わば一旦打ち払い、素直になるほかないことを悟ったのであろう。それは、この身がやがて滅びることを身に沁みて知っているからである。このような魂の根底からの素直さこそが、万葉集以来、日本の詩歌を支えてきたのであり、日本の詩歌を未来に引き継ぐためには、このような素直さこそが必要であることをわれわれは忘れてはならない。

これまで幾つかの近代と現代における障害者による短歌作品を取り上げてきたわけであるが、私自身、その豊かな多様性に驚かされている。これらの短歌は同時に、どんなに挫かれても決して挫けない魂の芯のようなものを一様に示しており、まさにそのことによって、「日本語の底荷」の確固たる一部をなしているように思われる。それは、現代の日本語において、表面的に目立った華々しい役割を果たしているわけではない。しかし、荒れ狂う情報化の嵐の中で、生き生きした実感のある言葉との関係がますます失われてゆく危機的な状況において、日本語という船が転覆しないために緊要なバランス を保つという役割の一部をこれらの短歌が担っていることは確かであろう。われわれがこの短詩形の「底荷」という性格に耐えて、細々とでもコツコツと短歌を作り続けるならば、日本語の言霊はそれに応えて、思いがけない稔りをもたらしてくれるのかもしれない。

最後に自歌を三首。

戦争は否とし叫ぶ人の輪の一人となりて歩行器を押す

歩行器に縋りつつ行く阿蘇の野の真上さやけく大銀河あり

わが負へる麻痺こそ天の贈り物六十八年生き来て思ふ

(おおつる ただし あけび短歌会)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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