https://books.google.co.jp/books/about/%E8%8A%AD%E8%95%89%E7%99%BE%E5%8F%A5.html?id=3UvgzgEACAAJ&redir_esc=y 【芭蕉百句】より
俳句の原点、芭蕉が求めた「風雅の誠」とは―。テレビ番組「プレバト!!」や「俳句甲子園」などの影響もあり、俳句に親しむ人は多い。しかし、独りよがりの主観的表現、単なる言語遊戯の歪んだ俳句が増産され続け、真に伝統的な俳諧精神が危機的状況にある―。芭蕉の百句を通して、俳句本来の詩的創造性に迫る著者渾身の試み。芭蕉百句に英訳も併記!
https://www.banraisha.co.jp/humi/eda/eda29.html 【短歌の「伝統」について、その6。】より
>「古人の跡をもとめず、古人の求めたる所をもとめよ」という言葉は、空海の言葉として芭蕉が「許六離別詞」に記しているものである。この言葉は、芭蕉が古典の模倣による伝統継承ではなく、常に「新しみ」を求めることに真の伝統継承があると考えていたことの証左として引用されることが多い。
>また、芭蕉は俳諧や俳諧の精神、その趣味を「風雅」という言葉によって言い表している 。芭蕉の言う「風雅」とは、人間性の真実の発露であり、伝統の根源には「風雅の誠」が内包されていると考えている。つまり芭蕉は、伝統の根源に目を向けることによって、「風雅の誠」に触れ、新しい俳諧の創造の糧としているのである。言うまでもなくこの伝統の根源には、和歌の「伝統」が重要な位置を占めているだろう。
>芭蕉は歌人の中で西行を最も尊重し敬愛している。また、定家の歌を高く評価し、その句法を深く学んで、表現の可能性を広げたことも広く知られている。それについては、「和歌は定家・西行に風情あらたまり」(『忘梅』序)という芭蕉の言葉からも伺うことができる。
>また、近世の歌人では、木下長嘯子の影響も俳諧、俳文に渡って指摘されている。長嘯子は豊臣秀吉の正妻、北政所の兄の嫡男にあたる人物で、武将から隠者になった歌人である。二条派流の細川幽斎に師事したが、京極為兼や正徹らの歌風にも私淑し、自由で革新的な詠風を示した人として知られている。そのような、長嘯子からの影響は、芭蕉に西行や定家とは異質な和歌のあり方に目を開かせ、その作品に内包された「風雅の誠」を感受させたことだろう。
>もちろん、それらのことは、和歌の「伝統」を芭蕉がそのまま継承したということを意味しているわけではない。和歌の抒情性や句法に関して、俳諧の固有性に基づくデフォルメがあったことは言うまでもない。
>ただし和歌の「伝統」が、芭蕉により俳諧という詩器によって継承される過程で、新し味を加えた新たな「詩」として結実したことは確かである。芭蕉の有名な言葉に「不易流行」があるが、この言葉は、和歌の「伝統」の継承の問題にも深く関わっている。
>芭蕉は北村季吟に師事した初学の頃から、和歌に対する素養を身に付けていたとされる。また、芭蕉が確実に作った和歌が現在二首残っていることが知られている。参考のために、次に引用してみる。
宵々は釜たぎるらん寝所の三つの枕も恋ひしかりけり
逃れ住む美濃のお山の哀れさを松の嵐に吹きも伝へよ
>一首目は、凡兆の妻、羽紅に送ったもので、二首目は、大垣逗留中の詠歌と伝えられるものである。どちらの歌も芭蕉の句とは比較にならない拙劣なものであるだろう。しかし、芭蕉が俳諧と同時に和歌の実作を試みていたことは、念頭に置いておく必要がある。
>近代の歌人、例えば長塚節が芭蕉に傾倒したのは、芭蕉が西行や定家に傾倒したのとは性質を異にしている。また、節の場合には、子規の存在が俳句に目を向けさせる契機になっていたことは動かし難い。
>ただ、自己の俳句革新に基づいて、戦略的に芭蕉よりも蕪村を称揚した子規から、節が直接芭蕉を学んだ とするのは当たらないだろう。むしろ節の試行には、短歌創作上の必要に迫られた独学的な側面が強く作用していたように思われる。
>俳句の「写生」の方法を短歌に活かすために試行を繰り返した節は、その方法の享受を通して、芭蕉の俳諧の本質にも触れているのではないだろうか。それは、言葉を変えれば、芭蕉を通過した和歌の「伝統」にも触れることを意味しており、そのことと不可分な「風雅の誠」にも思いを致すことを意味している。
>先にも書いたように芭蕉は定家から句法を深く学んでいる。「芭蕉が句の途中に切字をおくことで、相互規定的な取り合わせによる表現の可能性を追求したのは、定家の疏句流体の方法に示唆されたところが多いと思われる」(『総合芭蕉事典』項目執筆、伊藤博之 雄山閣刊)というのが研究者の一つの見解である。(また、「疏句」に関して言えば、正徹や、「疏句」を深遠な文学理念とし、連歌の付合論へと深化発展させた心敬の影響も逸することはできない。)
>長塚節が芭蕉を学ぶことは、実はそのような和歌の「伝統」を学ぶことでもある。それが、たとえ芭蕉ナイズされたものであれ、芭蕉の俳諧に体現されている和歌の「伝統」は、節の短歌の内部に生命を吹き込んだのではないだろうか。それは、節が意識的に行ったことではなく、俳諧を学ぶことにより、独自の「写生」を目指す過程で体現されてゆくものだっただろう。
>しかし、「伝統」の継承とは、実はそのような無意識の内部においても行われていくものではないのか。節が蕉風の本質を理解し、享受したのであれば、それは、取りも直さず、芭蕉から和歌の「伝統」を受け取ったと言うことでもある。
>和歌の「伝統」の継承という問題を和歌の内部、短歌の内部の問題に限定してリニアーに語ることは、むしろ、和歌の「伝統」の継承の本質を見えにくくする。もちろん、そのことは、俳諧に限らず、漢詩や各種の歌謡にも目を向ける必要があるということをも意味しているだろう。
《補足》
>「風雅の誠」については、
蕉風俳論において、俳諧詠作の根底にあるべき純粋な詩情をいう。(中略) 自己胸中の詩情を宇宙の根源的真実に通ずるものとするとらえ方によるものであり、『三冊子』にいう「誠をせめる」とは私意を払い捨て「造化の誠」の輝き出るまで自己の詩情を研ぎすますべきことをいったものにほかならない。(『俳諧文学大辞典』項目執筆、尾形仂 角川学芸出版刊)
>という解説がなされる。それは自己の詩情が伝統の根源にある真実に目を開かれ、また、その詩情に通底することをも意味している。「風雅の誠」は、俳諧によって伝統を継承し、天地自然に融合する詩としての独自な達成を目指す芭蕉の象徴的な言葉の一つである。
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000132500 【レファレンス事例詳細(Detail of reference example)】より
質問(Question)
芭蕉の「古池や~」の句が、俳句の原点・象徴とまで称される理由とは?(ある会の案内状に、謎かけのように書いてあったので、調べたい)
回答(Answer)
※ 高知県立図書館・高知市民図書館合築に伴い、資料に関する情報が現在の情報とは異なる場合があります。 ※
下記資料を紹介。■『芭蕉』(笠間書院 2011年)pp.44-45
「古池や」と上五句を置くことで、「飛ぶ蛙」が古池を含む情景の静寂さを引き立たせる/伝統的に詠まれてきた「鳴く蛙」という束縛を脱し、「飛ぶ蛙」という新しい詩を見出すことができた/「ひいては、この句によって芭蕉俳諧は揺るぎないものとなり、この句こそが俳諧を象徴するような存在になった」 などの解釈。
■『名句に学ぶ俳句の骨法』(角川書店 2001年)p.56,114,237-238
上記とほぼ同様の解釈■『俳句を作る方法・読む方法』(角川学芸出版 2009年)pp.192-225
「古池や~」をめぐって の項で、各時代の解釈などをまとめる■『松尾芭蕉この一句』(平凡社 2009年)pp.212-214
現役俳人による鑑賞
■『現代日本文学全集 11』(改造社 1928年)pp.474-483
正岡子規による解釈『古池の句の弁』を収録■『芭蕉古池伝説』(大修館書店 1988年)
〈古池〉人気の源流/〈古池〉句評価の諸相/〈古池〉人気素描/〈古池〉句の読まれ方 など■『添削・俳句入門』(日東書院本社 2012年)
参考までに紹介。芭蕉の句を読み解くポイント、芭蕉による俳話など
(以下略)
https://sasurau-jun.hatenablog.com/entry/2021/08/19/183344 【私の俳句の原点】より
7月14日のブログで「私の映画の原点」を書いたが、今日は俳句について書いてみたい。
高校2年の時、担任の先生が結婚したので、歳の差のある若い奥さんをみるためにその先生の家に行こうということになった。家と言っても無住法師の「沙石集」のある由緒ある寺(名古屋市東区の長母寺)である。
奥さんを見るのが目的であり、とりあえず寺の中へ入ることにした。奥さんがお茶を出してくださり目的は達成したので、あとは矢田川の河川敷でソフトボールをして帰るつもりが、先生の提案により、折角なので一人一句ずつ俳句を作って発表することになった。
句会?(長母寺にて)
今は小学生でも授業で俳句を作るそうだが、季語も知らずその時は春だったので、春を入れてとにかく五七五になることだけを考え、生まれて初めて一句を作った。
春光に森羅万象輝けり
みんな五十歩百歩なので恥ずかしくもなく、他の人の句は忘れたが楽しい思い出である。これをきっかけに「おくのほそ道」を何度も読み返し、その後も俳句には興味を持ち続けているものの、自分にはとても俳句なんて作れるものではないと思い、還暦を迎えるまで作ったことはなかった。
俳句を作るようになった経緯は、また別の機会に書きたい。
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