エドワード・バッチ@edwardbach924
人生の一番重要な課題は、おそらく自由を学ぶことでしょう。周囲の状況や生活環境、他の人から自由になること、そして、ほとんどの人は自分自身からも自由になることを学ばなければなりません。それは、自らが自由になって初めて仲間の力になれるからです。
https://yamabiko.ciao.jp/30_kotoba/2003_03/323_kouun.html 【【 行雲流水 】(こううんりゅうすい)】より
字義は平易で、「雲は行き、水は流れる」ということです 雲も水も、絶えず流れてとどまることがありません この停滞のない状態、無心無相で自由自在の境地 これが「行雲流水」です 禅の修行僧のことを「雲水」といいますが それは、修行僧はこの雲や水のごとくに、何ものにもとらわれない自由な心でなければならないというところからきています
禅語便利帳(主婦の友社)
私たちは いえ、私は、よく物事に執着します、こだわってしまいます これが、なくなったら困る これは、こうあるべきだ、こうでなければならない など、など・・・・
執着することによって、大局を見失い企画が失敗に終ったり、人間関係を悪くしたり 事物を失ったりしてしまうことが、よくあります
たとえば陶器のお茶碗がここにあります 大変、高価で貴重なものです われてしまいました
あなたは、どうしますか 大半の方は:いえ、私は「形あるものはこわれる、お茶碗は割れるものだ」と、頭で考えて、壊した人を慰めます
しかし、心の内では、「残念なことをしてしまった」と、別の気持(思い)が行き交います『普勧坐禅儀』禅僧のように修行のできていない者にとって「何ものにもとらわれない」、
「捨て去る」ことなどできるものではありません
ただ、無心になることはできるかもしれません無心:一生懸命になる、と言われるごとく
雑念をはらい、そのことだけに心を向けているといい結果がでることもあります
スポーツ選手がよく行う「イメージト・レーニング」もその考え方の一つだと思います
(ただ、その他のものは、目に入らなくなる弊害がありますが)
私は、山野をよく歩きます先日、山行スタイルで、林道を歩いていました
道路工事中の人と言葉を交わしたときに「山歩きて、おもしろいかネ!」て、問われました
とっさのことで、言葉を見失いつい、「しんどいですよ!」と、言ってしまいました
「おもしろいです、楽しいですヨ」とは、言えませんでした 事実、山行は、「つらくて、苦しいものです」歩きつづけていると、やがて体力の限界がやってきます
「何故、こんなことをしているのだろう」「もう、なにもいらない、歩くのをやめたい」
ついには「・・・・」、なにも考えられなくなってしまいます
肩書きや学歴など何の役にも立ちません(大事だと思いつづける人は、こんなことはしないかもネ)(学力は大事ですケド)
何も求めない、ただ、歩くだけの自分がそこにあるだけです
只管に歩きつづけます(気力が歩かせてくれる)ただ、ひたすらに・・・・
そのとき、目の前に、一筋の雲が流れていくのが見えてきます
山頂です、オアシスです 歩きつづけたその先に 最初は求めていたが、途中で求めるのを止め(こだわりを捨て)無心に:一生懸命に続けることの結果として ありのままの「自分」が見つけられます
私は、山野によく行きます
帰宅してから、達成感、充実感、満足感がふつふつと、湧いてきます
明日への活力がみなぎってきます しばらくすると、執着心、物欲、こだわりの心が戻ってきます そこでまた、「無心」を探しにでかけます
すこしずつ、成長しながら(経験を積みながら)・・・・
行く雲は雨を呼び、雨は川となって、大海に流れ出る 流れる水は雲となり、雨となって、また川になる 人生テ、不思議なものですネ
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