今、この一瞬一瞬を大切に生きること、それがマインドフルネス

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article 3: 緊張を解くスピリチュアリティ-感じる心とからだを回復する- 樫尾直樹

(鎌田東二編『スピリチュアリティと宗教』(講座スピリチュアル学 第7巻)ビイング・ネット・プレス、2016年、pp.218-241.所収)

はじめに

 本稿は、「スピリチュアリティ」を瞑想という観点から理解するところから出発して、それらの伝統的源泉である宗教の社会的な機能不全という状況の中で現在「スピリチュアリティ」が求められていることを指摘した上で、現代的霊性のあり方と宗教とのありうべきより良い関係性を考察し、「スピリチュアリティ」の現代的可能性について、実践論の立場から明らかにすることを目的としている。

一.「スピリチュアリティ」とは何か

「スピリチュアリティ」という術語で表現される意味内容の射程は、宗教的、実存的、倫理的、社会的など、私たち人間の「生」の有り様に関わるさまざまな領域に広がっており、それゆえその形態は多様である。

 筆者は、そうした人間の営みの沃野のごとき「スピリチュアリティ」を、「自己超越意識」という観点を中心にして、これまで以下のように定義してきた。

「スピリチュアリティとは、固有の身体実践や社会的行為によって形成される自己超越意識(通常意識を超えた魂・霊的次元の諸意識段階で、自己が否定され、絶対的存在となんらかの形で一致した場所的個としての意識)であり、その意識に対応した、生死の意味(生きがい)やホリスティックな世界観、共生的社会(環境)として段階アスペクト的に体験・表出されるものである。」(1)

 この定義のメリットは、全体論的な世界観というスピリチュアリティの文化的次元や共生社会・環境というその社会的次元が、スピリチュアリティを生成させる諸実践とそれによる自己超越という意識変容という事態に同時に相即する、同じスピリチュアリティに共時している局面=アスペクトであるということにもしっかりと過不足無く配慮しようとしている点にある。

 多様な「スピリチュアリティ」現象をよりよく理解するために、この定義をもとにして、「スピリチュアリティ」を大別すると、個人意識性と社会倫理性の二類型に分類することができる。前者、「スピリチュアリティ」が発現する個人意識的なアプローチとは、瞑想や行や祈り、あるいは武道や芸道のように固有の型の中に身体運動を落とし込んで行くような様々な身体実践である。それに対して、後者、社会倫理的なアプローチは、スピリチュアルケアやエコロジーのように、見かけ上自己の外部にあるとされる他者や環境へと自己を開いて行くような形で展開される、ある種のコミュニケーション的な実践であり、それは集団で行なわれる儀礼や他者への奉仕の場面にも観察されうるものである。

 前者、「スピリチュアリティ」の個人意識性の典型は「瞑想」、後者、社会倫理性の典型は「臨床」として、それぞれ統括的、象徴的に理解することができる(2)。

「瞑想」と「臨床」を実践という観点から見ると、両者は「スピリチュアリティ」の生成に関する二つの軸であると言えるが、両者の相補性を十分理解しつつも、利他的精神の涵養の容易ならざる点に着目すれば、前者、「瞑想」の実践上の先行性を指摘せざるをえない(3)。

二.「瞑想」の本質

 スピリチュアリティを醸成する中核的実践である「瞑想」を、筆者は以下のように理解している。

「瞑想とは、深くゆっくりとした呼吸と特定の坐法および意識の集中/留意を初期的基本的技法とし、心の働きの活用(単純化/活性化)、あるいは身体を媒介としたエネルギー操作という固有の諸身心技術によって、日常的身心状態を停止させ、心の系(意識の単純化→中心化→新しいより深い意識への脱構築)と、からだの系(エネルギー蓄積→循環・上昇→脱体)という、複数の意識階梯を経る身心一体の超出変容過程を螺旋的に反復しながら、定力強化/智慧発現と現象的実現(人格化・社会化)を共時的に伴って、最終的に自己が全一性(原理、一者等)と不二(非二元的合一)であるという状態に留まろうとする、身心実践複合である。」(4)

 ヨーガ、坐禅、ヴィパッサナー瞑想、聖句反復、マンダラ観想法、阿字観、月輪観、アティヨーガ、内丹法、太極法、アクティブ瞑想、グルジェフ・ムーブメンツ、霊操・・・・・・(5)。

 旧石器時代のヒーリングダンス(6)、シャーマニック・トランスから現在に至る一万年の間、人類は「瞑想」を実践してきた。その形態は多彩を極めるも、「瞑想」には上記定義のような共通点があり、その一般性を同時に指摘することができる。

 「瞑想」とは何か。

 上記定義を平たく開くと、一言で言えば、あらゆる緊張から解かれてリラックスすることである。私は、瞑想のこの本質を、チベット仏教のリンポチェ(優れた師僧への尊称)、ナムカイ・ノルブ・リンポチェから学んだ(7)。

 私たちは、ふだんの生活ではたいてい、ときに漠然と、あるいはときに明確に、ある物事や人物、出来事などに意識が向いていて、常に気が散っている。特に何か心配事や不安なことがあると、今すべきことを放ったらかしにして、そのことにマインドが支配され、その事実を忘れてどんどん巻き込まれていってしまう。強度の差や、ネガティブなことと、嬉しさや喜びといったポジティブなこととの違いこそあれ、そんな気散じの中に我を忘れて、右往左往して一生を終えるのである。

 こうした事態は別の言い方をすれば、自分と自分以外の物事や人との間にいつも緊張関係を作り上げて、心もからだもリラックスすることなく、こわばって、つまりは不自由な中で生きるということにほかならない。

 では、こうした緊張したリラックスできない事態を作り出している根源は何だろうか。

 それは、世界のあらゆる物事を、自分と自分以外のものに分ける二元論的思考(志向)性である。私たちは、この二元論によって、物事を、いい悪い、好き嫌い、自分と他人、味方と敵といった二つの項に分けて世界を見て、それに基づいて行動しようとする。こうした二元論は、最終的には、他者への暴力、差別、戦争へと直結する。容易に解けない緊張を一気に解消しようとして、私たち人間は攻撃的な手段を取るのである。

 世界の諸問題の根本的原因は、以上からすれば、究極的には二元論にあると言える。だから、二元論、つまり自他を分けてその間に緊張関係を創出するという行動様式を緩ませることが諸問題の解決に結びつくのである。

 もちろん、私たち人間は、その言語作用によって、人間主体から意識が滑り出して対象を把握するという半ば本能的な性向を持っているから、主客二元論を乗り越えることは口で言うほど容易なことではないことは言うまでもない。

 だからこそ、瞑想が重要になってくるのである。

 どの瞑想も、現在の自分の知覚や認識を停止させ、自己の外部へと向かう意識のベクトルを切り、自己の内部へとその意識を振り向け、自分自身の有り様としっかりと観察することを通して、気を散らすことなしに自己の中に留まり、ゆったりとリラックスできるよう、実践者を導いていく。意識を統御することを入り口とする(心の系)か、あるいは身体を意図的に活用してエネルギーを蓄積、循環させることを入り口とする(からだの系)かの違いはあれ、ゆっくりした深い呼吸を媒介にして、心をからだはその本来の表裏一体の状態を回復しつつ、瞑想は深まっていく(8)。

 「悟り」や神との「合一」といった宗教神秘主義における原理や唯一神との「非二元的合一」(9)もしくは「不二」とは、自己と世界/宇宙とが二つならぬものであることが実感される(生きられる)という事態だが、それは上で説明したような緊張のないリラックスした状態の究極のものであると位置づけることができる。

 自分の右手と左手は身体の両側についた二肢だが、それらは同じひとつの身体であるという点において二つではないのと同じような感覚で、自己と他者、自分と世界とは同じひとつのものであるということが心身魂全体でまるごと、あるがままに実感されるという事態が、「悟り」である。

 私たちは皆、宇宙の展開の人類的次元の一現象である、という意味で元ひとつなのである。

 だから、瞑想においては、それがもたらす軽いリラックスの気分と、不二における究極のリラックスとは、まったくもって同じグラデーションの地つづきなのだ。

 そして、このことこそまさに、スピリチュアリティの真髄である。

三.宗教の困難な現状とスピリチュアリティの希求

 宗教は、スピリチュアリティの真髄の生成装置として人類史において中心的な役割を果たしてきたことは、誰しもが認めるところだろう。この意味で、宗教はスピリチュアリティの本家本元であった(10)。

 しかしながら、宗教、特に教団形態をとる組織宗教は、近代以降、とりわけ一九六、七〇年代以降、その役割を相対化させてきた。狭義の宗教に代わって、スピリチュアリティの発現を担ってきたのが、現代霊性文化、新霊性運動=文化である(11)。

 たとえば我が国では、仏教や神道などの伝統宗教や新宗教のほとんどは、現代の霊性文化を対抗勢力として捉え、自らの教勢拡大の障害として位置づけているか、あるいは無視するか、という態度を取っている。管見によれば、そうした近現代宗教は、一言で言えば、できれば従来の伝統的な布教方法で教勢を伸張させたいという、現状を考慮しない、いわばぬるい墨守的考え方を依然として保持しており、現代社会における意識とライフスタイルの大きな変容についてはさほど関心を見せない身振りをしている。

 そのため、近代以降の宗教の一社会文化領域化とそれに伴う相対的な世俗化と相まって、二重の意味で現代人のニーズに応えられなくなっているのである。

 そうした兆候はたとえば、伝統宗教、新宗教を問わず、常に宗祖・教祖をその崇拝の中心に置くとともに、祈りや瞑想、行などの身体実践を相変わらず旧来と同じように反復し、現代人のメンタリティに対応したイノベーションを遂行することによって自教団の中に新たな「宗教改革」を起こそうというような機運は見られない、というところに明らかに観察される。

 いわば、教義と実践の同時代的なバージョンアップによって、宗教の普遍性、当該教団の普遍宗教性の模索と確立が喫緊の課題であるにもかかわらず、自分たちの「伝統」に固執することによって自己同一性をかろうじて維持しているのである。

 たしかに各教団の布教の現在を見るにつけ、横ばいあるいは右肩下がりの教勢という状況からすれば、まずはとにかく教勢維持が第一の目標となることは理解できないわけではない。とはいえ、各教団の存亡以前に、「宗教」の衰滅こそが問題になっている今日、求められているのは教団ではなく、「宗教」を布教することなのである。

 教団は、その「ユニバーサルモデル」という要請に応えられていないだけではない。現代社会固有の心身の病理という壁をうまく超えられないばかりか、そうした壁があることすら自覚されているように見えるのは私だけであろうか。

 その現代的病理はいろいろ指摘されているが、ここでは特に、失感情(言語化)症(12)と、それらと連動することもある過剰適応を挙げておきたい。

 前者は、症状的に簡単に説明すると、「自分の気持ちがわからない」ということである。自分が今辛いのかどうか、あるいは嬉しいのかどうか、それを自分で感じ、判断することができないのである。現代のネットと技術が発達したコンビニエンスな都市的な消費社会では、生々しい対面的コミュニケーションの頻度が著しく減っており、それに伴ってそうした交感場面が回避される傾向にある。しかし、私たちの情動や意思の表出欲求は減少するわけではないから、必然的にそうした欲動は無意識下に蓄積されていく。それに加えて、テレビやネットや映画などの画像、動画メディアの発達によって、私たちはディスプレイや液晶画面を通して、他人の演じるまったく関係ない架空の人間の感情をネガティブ、ポジティブを問わず浴び、いわば他人の「感情のコミ箱」と化しているという意識されない悲惨な現状がある。しかしそれを自己の外部に何らかの形で発出する機会は相当に減っている。それによって今自分がじっさいどんな気持ちなのかは相対化され、その実態は漠然とした曖昧なものとして自分の内外を浮遊することになるのである。

 こうしたいわば特殊な「不感症」が持続すると、私たちはただ自分が置かれた社会環境、人間関係の中で、自分のリアルな気持ちや意思、思惟を実感することなく、その場の役割をこなす、演じることに終始した人生を送ることとなってしまう。後者の「過剰適応」とはまさにこうした、これまた恐るべき事態である。

 こんな壮絶な現代人の心身状況に対して、宗教はどう向き合っているのだろう。現状はまさに困難な状況だと言わざるをえない。かつての宗教の持つ凄みはすでに多くの人々には感じられなくなっているのである。

 教団宗教ではなく、むしろ宗教的文脈を外したところでスピリチュアリティが求められている訳とはこのあたりにある、と筆者は考えている。スピリチュアルケア、自助団体、ヨーガ、マインドフルネス、エコロジー、いのちの教育、宮崎アニメや江原スピリチュアリズムなどの大衆文化、経営理念といった、現代の霊性文化(13)が興隆してきたのは、以上のような社会・宗教意識や形態の大きな変容を背景としていたのである。

四.現代宗教の終焉=目的-その戦略的可能性としてのマインドフルネス

 組織としての宗教は、以上のようないくつかの根本的な問題を抱えている。しかしそれはとりもなおさず、すぐに「宗教の終焉」を意味するわけではない。

 なぜなら、先に述べたように、スピリチュアリティの中核的実践である瞑想を人類史の中で保存、継承、発展させてきたのはまさに宗教にほかならないからである。この意味で、宗教は、現代においても依然として、スピリチュアリティの有益なリソース、あるいはプラットホームであり続けている。

 とはいうものの、結論を先取りして述べるならば、前節で言及したように、普遍宗教性を企図した、瞑想(行)実践のユニバーサルモデルを構築することによって、人々を救済しようという意志が足りないのだ、と私は思う。

 以下、この点について、「終焉」ではなく、宗教本来の「目的」という観点から考察を加えてみたい。

 宗教が「書かれたもの」としての教理を中心として正統化されたのは近代以降のことであり、その意味でそうした事態はそれほど新しいことではない。この「宗教」にとっての特殊な事態は、その後、二十世紀に入ってからの技術革新によって引き起こされてきた、言語とそれが指示する対象との間の関係性のある意味で不可逆的な変化によって加速されることになる。

 それは、ベンヤミンの指摘した「アウラの消失」(14)やボードリヤールの言う「シミュラークル」(15)に相当する現象であると言える。つまり、複製技術に代表される技術革新によって、物の実在の固有性が複数化することで相対化され、いわば「このもの性」が失われ、その存在を直接的に実感するのではなく、むしろそれを指示する言語表現の「記号」として把握されるようになったのである。これによって、物はその実在を感じられるものではなくなると同時に、現象や事態は体験、体得されるものではないという側面が優越するようになる。

 言語が素朴に観念を表現するというサルトル的な言語道具観が信憑性を持たなくなり、ポストモダニズム的な言語論的転回が生起したという認識論的転倒を、私は「二十世紀における記号空間の成立」とさしあたりここでは呼んでおきたい。ソシュール、ハイデガー、ウィトゲンシュタイン、ローティという思想の横断線が示しているのは、言葉の指示対象との一体性が徐々に稀薄になっていく社会文化的な過程であり、最終的に、両者の関係性は恣意的なものであり、文化的に相対的なものである、という認識に到達したのである。こうした過程の背景には、グローバル化による他文化知識の流入による自文化の相対化という事態や、動力機関による豊かさの出現によって、物のありがたみ、希少性の観念が弱まり、「このもの性」が減縮していったという事態などを仮説的に想定することができるだろう。この百年余の間に、”Anything goes / anyone goes.”とでも表現できるような大きな文化意識の不可逆的な変容があったのである。それは、人類史上、言葉と物との距離が最大化したということであり、それはまた自他へ(として)の「不信」の最大化でもあったと思われる(16)。

 事物や存在者の感受される実体ではなく、記号やそれに基礎を置く概念として指示されるような現実のあり方を批判する立場こそ、近代以前の宗教で会ったのだが、教理としての宗教と、近代的な一領域として相対化されたそのポジションは、逆に「記号空間」を正当化することに加勢し、その本来の「目的」を手放してしまった。

 現代世界は、以上のような宗教の社会的位置づけを継承するものであるが、それゆえかつてのその「目的」をそのままの形で復元することはもちろん不可能である。

 では、現代の宗教には「記号空間」に抗する、いったいどのような戦略が残されているのだろうか。次にこの点について、現代のスピリチュアリティ文化の中から適切な事例を取り上げて具体的に考えてみよう。

 現代における宗教の戦略的可能性について考察するのに最もふさわしい事例は、やはり、「マインドフルネス」ではないだろうか。

「マインドフルネス」とは、上座仏教のヴィパッサナー瞑想から、仏教色を除去して再構成された瞑想法である。

 坐禅の意識の特定対象への滑り出しを止めることを「サマタ」というのに対して、「ヴィパッサナー」は「よく観察する」という意味のパーリ語である。「ヴィパッサナー瞑想」は、自分の呼吸や身体部位や動作を深くじっくりと観察することを基本とする。

 坐禅が坐るだけなのに対して、この瞑想は坐るに加えて、立つ、歩く、臥すという体位でも行なわれる。鼻や下腹部の息の動きを観察するゴエンカ派と、自己の身体やマインドの気づき(サティ)に内語を入れて行くマハーシ派のふたつに大別できる。ウォーキングする場合、ゆっくりとした深い呼吸に合わせながら、前者の場合たとえば足裏の圧に気づいていく。後者の場合、足が床(地面)を離れたとき「離れた」と内語するか、着いたとき「着いた」と内語して自分の現に行なっていることに気づいていく。また立つ場合は、足裏の圧のかかり具合を観察する。歩く場合以外の大半のとき閉眼の状態を保つが、眼を閉じているので視覚による外部からの刺激が入ってこないので、瞑想に専心できるという利点があると言われている。

 呼吸など自分の現在行なっていることや状態を観察することによって、その他の自分の外部の事象へ意識が勝手に滑り出していくことがないようになり、それによって無心、ノーマインドの状態を維持することができる。

「マインドフルネス」は、上座仏教で実修されてきたこうしたヴィパッサナー瞑想から仏教的要素を排除して、心身の健康によい身体実践として再構成されたストレス低減法で、マサチューセッツ医科大学名誉教授のジョン・カバット=ジンが開発した(17)。

「よく気づいている」という意味で「マインドフルネス」と呼ばれ、坐禅と並んで、そして現在坐禅以上に、世界的規模で実践されている。近年、アメリカ合衆国を中心として、インテル、グーグル、IBMといった大手IT関連企業などの社員研修としても、マインドフルネスは取り入れられている(18)。

 ヴィパッサナー瞑想/マインドフルネスは、第二節で言及したような瞑想の本質を説明する際、心の系列瞑想の側からの最も適した事例となる。

 瞑想とは、二元論的志向性によってもたらされる緊張を解くことであることをそこで確認したが、マインドフルネスの実践者は、自己の外部へと向かう意識の気散じを断ち、まずは鼻の呼吸を観察することを通して意識を自己の内側へと向け返すことによって、自己と他者とを分けることによって生じるあらゆる緊張関係に巻き込まれないようになる。自分の心の鏡に生じくるもの、生じてこないものすべてに意識が固執することなく、その消滅のなすがままの流れをただ眺めている。すると、その心のプロセスは自然と消え去り、その明滅のインターバルが徐々に短くなっていくことで、寂静かなる穏やかな心を持続することができるようになる。これによって、その実践者は、ストレスから少しずつ解放されていくのだ。

 上座仏教という特定の宗派に所属していなくても、それ以前に仏教徒でなくても、あるいは他の瞑想の実践者であっても、宗教、宗派、イデオロギー、ジェンダー、民族を問わず、あらゆる人々がこのマインドフルネスを実修することができる。これこそがまさに、特定瞑想のユニバーサルモデル化である。

「非二元的合一」や「不二」という術語で表現されるような「悟り」や神との「合一」へと向かうかどうかは、実践者本人に委ねられている。

 マインドフルネスとしては、さしあたりストレスが低減し、その結果、集中力ややる気、チームワークが向上し、幸福感が増大すれば事足りるのである。不安や恐怖、イライラや嫉妬のネガティブな感情に巻き込まれて、不毛な辛い人生を送るよりは、過不足なく多くを求めないでも満ち足りた「心のデフォルト状態」(19)という真の幸福の時空を生きられれば、お釣りがくるくらい十分ではないだろうか。

 私の私淑する師匠のひとりは、マインドフルネスを称して「サラリーマンの瞑想」と呼んだが、その広まりという点からすればたしかに適切なネーミングだが、そのように否定的に捉える必要はないのではないかと、私は思う。ヴィパッサナー瞑想という宗教瞑想から脱宗教文脈化させたマインドフルネスは、それによってある種の普遍性を獲得した。そしてそれによって世界のたくさんの地域で実践されるようになり、多くの実践者に心の平安をもたらして、実社会の中で生き生きと生活し働ける術を提供したのである。この瞑想の普遍性には、先に言及したようにマインドフルネス自体の瞑想としての実践的普遍性がすでにあることはあるのだが、それを割り引いてもこうした見解は妥当性を持っているのではないかと思う。

 もちろん、瞑想の脱宗教化による問題性がないわけではない。

 実践者の個人史やメンタリティ、人格などによって異なるが、瞑想は通常意識を停止させるので、その下に眠っている深層意識に長年降り積もり堆積していた怒りや恨み、嫉妬や悲しみ、貪欲といったネガティブな感情や欲望が一気に噴出してくる。これは瞑想の自己意識拡張作用によって、自己肥大、自己膨満が起こってくることとパラレルである。禅宗では、こうした状態を、神霊の体験などと同様に「魔境」と呼んでいる。瞑想を始めるといつの時点でか、必ずこの魔境に出会うことになる。だから、瞑想にはそうした状況に対処できるように、ちゃんとした師に付き指導してもらうことが必須である。

 マインドフルネスは、あらゆる瞑想の中で独りで行っても、心身上最も危険性の少ない瞑想である。とはいえ、脱宗教化したとはいえ、瞑想は瞑想である。通常の身体、意識、呼吸がもたらすエネルギーの流れとは異質な流れを喚起する。だから、そうした異質なエネルギーの流れに対して自覚的であり、何らかの障害が生じたときに適切な対応ができないと、心身に取り返しのつかない問題が起こることがある。

 また、瞑想を通じて利他に目覚めたとき、深い謙虚さがないとまさに自己肥大、自己膨満という「魔境」に計らずも陥入してしまうことになるだろう。ここに、瞑想を保持、継承、発展させてきた偉大なる宗教伝統における不可視の力に対する統御の正統性の重要性を感得できる。

五.自己決定から自己否定へ-感じる心とからだの回復

 さて、これまで本稿では、スピリチュアリティとその中心的実践としての瞑想とは何かを示すことから出発して、スピリチュアリティ生成の真髄的場としての瞑想を開発してきた宗教が現代において孕む諸問題を確認することを通して、なぜ近年スピリチュアリティや霊性文化が興隆し注目されてきたのか、そして宗教はその価値ある瞑想実践のリソースをどのような形で普遍化し現代社会のニーズに応えることができるのかについて、マインドフルネスをその典型的な参照例として考察してきた。

 最後に、以上の諸考察を、広く思想史的文脈の中に位置づけることによって、宗教とスピリチュアリティとの、望まれるより良い関係性とはどのようなものなのかについて、私たち人間主体のあり方と生き方を参照軸としながら私見を述べておきたい。

 現代世界では、徐々に弱い自己のあり方が、強い自己のあり方を凌駕してきている。「強い自己」とはモダニズムの前提とする主体の存在様式であるのに対して、「弱い自己」とはポストモダニズムのそれである。心理学的言説や技術が伝統的規範に取って代わり、すべての社会現象が心理学や精神医学の言葉で説明される「心理学化する社会」(20)をその社会文化的背景としながら、現代のスピリチュアリティ文化、特にトラウマサバイバーとその癒しなどのセラピー文化に、弱い自己の像は顕著に観察される(21)。

 同じセラピー文化におけるネットワークビジネスや自己啓発セミナーで求められる主体像は、自己責任が要求されるモダニズム的な強い自己であるが、そうした主体のあり方が、ポストモダニズムの思潮の傾向の中では、主体的判断としての自己責任から解放されていく。こうした「自己」への求心性から遠心性へという社会的評価の大転換は一方で同時に、現代の自己決定論ともきわめて鮮やかな対照を描いている。

 以上のような思想史的変化に対して、脱宗教化されることで同時に個人化される現代的なスピリチュアリティの顕現の場としてのマインドフルネスのような「瞑想」が、その背後に埋蔵されている宗教的伝統を暗黙のリソースとして、私たちに指し示すのは、自己責任や自己決定といった自己のあり方とはまったく異なった古くて新しい自己像である。

 「不二」や「非二元的合一」といった、気散じ=緊張状態の究極的な、その意味で「宗教的な」解決としての至高の意識=存在のあり方に到達する以前の段階で、瞑想で感得されるのは、現在の自己のあり方がより高次の自己の出現によって観察されることで相対化されるという事態である。自分にしっかりと気づき(マインドフル)、自分の中でリラックスしているという心身の状態を、自己の二重化という認知から説明するとこのようになる。通常意識の自己にあるズレや破れが生ずるこうした事態は、伝統的に「自己否定」と呼ばれてきた。

 もちろん「自己否定」と言っても、それは自分のことをダメだと否定するのではない。そうではなくてむしろ、個人史の中で形成されてきた自分の嗜好性や志向性、判断の基準やその背景となっている社会的規範や慣習などによってがんじがらめにされて(形成されて)いる不自由な「自己」という檻、自分を取り囲む「鳥籠」(22)から自由になって飛び立つという意味である。

 したがって、この意味での「自己否定」という自己のあり方においては、その実現後には自己の主体的意識によって獲得され実施される「決定」という意味での「自己決定」というモメントはない。とはいえ、生きていく自分に責任が伴わないというわけではない。常に自己に留まって、よく自分の言動を眺めそれに気づいている、そしてそのことが自他を二元論的に分けないという意味で自分と世界とは不二であるという点からすれば、自分に対する責任はむしろ、モダニズム的な強い自己における「自己責任」という個人に矮小化されたそれとは異なって、無限に及ぶと言うこともできる。

 「矮小化」という表現をより敷衍すると、強い自己にしても弱い自己にしても、「自己」に固執し囚われているという点では大同小異である。そうした(ポスト)モダニズム的な主体に対して、この「自己否定」という実践は、そのような限定された「自己」を投げ捨てるのだ。この意味において、「自己否定」とは「自己放棄」「自己犠牲」という崇高な供犠的行為に等しく、ここにその起源としての宗教的伝統を垣間見ることができる(23)。

 スピリチュアリティを最も効果的に創出する(あるいはそれに気づかせる)瞑想が私たちに与える果実とは、シンプルに言えば、モダニズムもポストモダニズムも超出した「新しいライフスタイル」ではないだろうか。

 ただし、この「新しいライフスタイル」を社会の中に浸透させていくのはそれほど容易ではない。

 たとえば、たしかにマインドフルネスは、先進諸国を中心に広く実践者を生み出しているものの、あくまでも個人的実践であり、心の平安ややる気、集中力の向上という個人の現世利益の獲得に、そして研修としてそれを導入している企業は会社の利益増大にその目標が置かれている点に、社会的現象化の実現という観点からは限界性を感じざるをえない。もちろん、シュタイナーの言うように、仕事はすべて人のためにするものであるから、会社が儲かること自体は悪いことではないが、その半面、たしかに前節で言及した「サラリーマンの瞑想」という批判を全面的に否定することはできないとも思う。

 加えて、第三節で触れたように、現代人の「不感症」というメンタリティの疾患傾向を考慮すると、マインドフルネスなどの瞑想の効果がじっさいどの程度深まるのかについては疑問や懸念が残るという批判には真摯に耳を傾けなければならないだろう。

 この点からすると、まずは私たちの心の鏡に降り積もった情動や感情や思惟のゴミの山を少しずつかき出し、素直に感じるからだと心の健全で清浄な状態を作っていくことが最初の課題ではないだろうか。

 そのとき、瞑想や祈りやさまざまな利他行、儀礼などを通じて、人類の叡智の源として機能してきた宗教は、私たちにそのための豊かな方法と手段を望めば手渡してくれるに違いない。脱宗教化する現代のスピリチュアリティ文化が社会関係や制度に埋め込まれていくためには、ぜひとも宗教の培ってきた偉大なる文化の正統性が必要である。

 しかし、その一方で、当の宗教は、本稿でも指摘してきたように、時代の霊性的ニーズにうまく応えきれていないのも残念ながら現状である。そしてそれと同時に宗教学を中心とする宗教研究もその責任の一端を免れることはできない。

 宗教界と宗教研究に潜む根本的な問題性はいろいろあると思うが、その中でも私が一番致命的だと考えるのは、ポストモダニズム以降の言語論的転回がもたらした言説主義と反本質主義、反体験主義(身体性の二義性という主張)である。一言で言えば、ここで中心的に議論してきた瞑想に代表されるような「(身体)実践」に対する着目と関心を放棄しているという点である。

 「実践」を中心に据えた認識論的、存在論的立場の回復とはまさに、学問上の感じるからだと心の回復と言えるが、これを「実践論的転回」(24)と言う。スピリチュアリティ現象が宗教や文化、社会に与えてきたインパクトとは、「実践」の中に人類や世界にとって価値ある大切なことがあるのという点に集約できるだろう。

 この点についてはぜひ宗教界にも自覚的になっていただきたいと願う。感じる心とからだの回復には、瞑想や儀礼の、現代に適合した新たなイノベーションが必要なのだ。この意味において、マインドフルネスなどの現代スピリチュアリティ文化のある部分は、宗教の現代的展開であるとも解釈できる。維持経営に汲々とする教団とは異なって、これこそが真の「宗教」ではないかとも言える。

 宗教の種類や、宗派、イデオロギー、文化伝統、民族をその根底において超えた通奏低音、深層意識の地下水脈としてあるもの、それこそが人類共通の普遍的な「教え」(25)であり、それを本来的には「スピリチュアリティ」と呼ぶのであろう。

 いずれにしても、「先ず隗より始めよ」、である。

 読者の皆さん-宗教関係者であるとか、宗教研究者であるとか、あるいはいずれでもないかは問わず-、マインドフルネスでも、他の瞑想でも、自分がこれだと思った瞑想、たまたまご縁のあった瞑想を、まずは始めてみることが大切ではないだろうか(26)。

 心とからだを開き、一瞬一瞬のあるがままをただ深く味わいながら生きること。人間の生にそのほかの意味などあるのだろうか。「スピリチュアリティ」について語ることに何がしかの意味があるのだとすれば、それはまさにこのことに気づくことができるということだと、私は思う(27)。

(1)樫尾直樹「スピリチュアリティとは何か―現代文化の霊性的諸相」、樫尾直樹編『文化と霊性』、慶應義塾大学出版会、二〇一二年、二七頁。

(2)この「瞑想」と「臨床」という「スピリチュアリティ」の二類型については、すでに、樫尾直樹「瞑想と臨床-不二の道としてのスピリチュアリティ」、樫尾直樹・本山一博編『地球社会の新しいビジョン-心身・霊性・社会』、国書刊行会、二〇一五年、二七-六七頁において論じた。本論文は、紙幅の関係でこの論文では十分に論じなかった点について考察するものであり、その意味で「瞑想と臨床」論文の続編に当たるものである。

(3)この点の詳細については、樫尾同書、五三-五四頁を参照のこと。

(4)樫尾同書、三五-三六頁。

(5)主要な瞑想の基本的説明は、樫尾同書、六〇-六四頁参照。

(6)リチャード・カッツ『<癒し>のダンス-「変容した意識」のフィールドワーク』、永沢哲・田野尻哲郎・稲葉大輔訳、講談社、二〇一二年( Katz, Richard 1982 Boiling Energy: Community Healing among the Kalahari Kung, Harvard University Press.)参照。

(7)特に、ナムカイ・ノルブ『ゾクチェンの教え-チベットが伝承した覚醒の道』、永沢哲訳、地湧社、一九九四年( Norbu, Namkhai 1986 Dzogchen : Lo stato di autoperfezione, Casa Editrice Astrolabio-Ubaldini Editore, Roma.)以下の記述はナムカイ・ノルブに多くを負っている。この意味で、本論文は、ナムカイ・ノルブ氏へのオマージュである。

(8)このような瞑想の類型と一般過程についての詳細は、現時点での筆者の瞑想の一般理論を提起した、樫尾前掲書、三六-四二頁、特に四一頁の図3を参照のこと。

(9)ケン・ウィルバー『進化の構造I・II』、松永太郎訳、春秋社、一九九八年(Wilber, Ken 1995 Sex, Ecology, Spirituality, Shambhala Publications,Boston)の第八章を参照。

(10)この点から出発して、現代宗教のスピリチュアリティ的可能性については、樫尾直樹『スピリチュアリティ革命―現代霊性文化と開かれた宗教の可能性』、春秋社、二〇一〇年で論じたので参照されたい。

(11)島薗進『精神世界のゆくえ―現代世界と新霊性運動』、東京堂出版、一九九六年参照。

(12)この現代的病理については、熊井三治・藤井真一『失感情症の時代を生きる』、朝日新聞社、一九九三年参照。

(13)現代のスピリチュアリティ文化の諸相については、樫尾前掲書(二〇一二年)、一-三二頁参照。

(14)ヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術』、佐々木基一訳、晶文社、一九九九年( Benjamin,Walter 1936 Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit, Zeitschrift für Sozialforschung. )参照。

(15)ジャン・ボードリヤール『シミュラークルとシミュレーション』、竹原あき子訳、法政大学出版会( Baudrillard, Jean 1981 Simulacres et simulation, éditions Galilée, Paris.)参照。

(16)ミシェル・フーコー『言葉と物』、渡辺一民・佐々木明訳、新潮社、一九七四年( Foucault, Michel 1966 Les mots et les choses : une archéologie des sciences humaines, Gallimard, Paris. )

(17)ジョン・カバットジン『マインドフルネスストレス低減法』、春木豊訳、北大路書房、二〇〇七年( Kabat-Zinn, Jon 1990 Full Catastrophe Living: Using the Wisdom of Your Body and Mind to Face Stress, Pain, and Illness, Delacorte Press, New York.)参照。

(18)たとえば、サンガ編集部編『グーグルのマインドフルネス革命』、サンガ参照。

(19)この点については、グーグルのマインドフルネス研修のテキストである、Tan, Chade-Meng 2012 Search Inside Yourself, HaperOneを参照。本書は、日本も含め、世界中で広く研修に活用されている。

(20)この点については、樫村愛子『「心理学化する社会」の臨床心理学』、世織書房、二〇〇三年参照。

(21)セラピー文化における強い自己から弱い自己への傾向的遷移については、小池靖『セラピー文化の社会学-ネットワークビジネス・自己啓発・トラウマ』、勁草書房、二〇〇七年を参照。

(22)ノルブ前掲書、二七-三〇頁参照。

(23)こうした「自己否定」は、瞑想と臨床の共通点である。この点については樫尾前掲書(二〇一五年)、五〇-五一頁を参照のこと。

(24)スピリチュアリティを以上のような実践論的視座から捉え語ろうとすることには、宗教研究上きわめて重要な意義がある。筆者は、樫尾直樹「比較瞑想論と宗教間対話―宗教研修の実践論的転回へ」、樫尾直樹・本山一博編『人間に魂はあるか?―本山博の学問と実践』、国書刊行会、二〇一三年、八三―一一八頁において、人文社会科学を席巻したポストモダニズムを批判的に検討することを通して、言語論的転回から実践論的転回への転換とその重要性をすでに指摘したのでぜひ参照されたい。私の次なる課題は、宗教学における本格的な実践論的転回の意義の提起と実現である。

(25)この「教え」という言葉の含意については、ノルブ前掲書参照。

(26)宗教者であれば、自教団では行わない瞑想をやってみることを勧めたい。複数の瞑想行を行うことで初めて自分の実践していることの真の内容が理解されるものだからである。理想的には、すべての瞑想実践者は比較瞑想研究者であることが求められる、と私は考えている。

(27)筆者はこの約二十年の間、「スピリチュアリティ」を鍵概念として研究を継続し、これまで上記の注で参照した著作以外に以下の著作を上梓した。樫尾直樹編『スピリチュアリティを生きる』、せりか書房、二〇〇二年、伊藤雅之・樫尾直樹・弓山達也編『スピリチュアリティの社会学』、世界思想社、二〇〇四年、樫尾直樹編『アジアのスピリチュアリティ』、勉誠出版、二〇〇六年、樫尾直樹『スピリチュアル・ライフのすすめ』、文藝春秋、二〇一〇年、樫尾直樹・本山一博編『宗教間対話のフロンティア』、国書刊行会、二〇一五年。他人事のようだが、そのほとんどの著作に「スピリチュアリティ」「霊性」という言葉が使われている。これらの語彙の日本語における定着に何がしかの貢献をしてきたという自負はあるが、正直言って、本稿を最後にしたいと思っている。これからはこれまでとは逆に「スピリチュアリティ」という言葉を使わないで、大切なことを語り実践する所存であることをここに明記させていただきたい。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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