松尾芭蕉「むざんやな」の句と斎藤別当実盛のこと

http://www.basho.jp/senjin/s1410-1/index.html 【むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす】より

芭蕉 (おくのほそ道)

 小松(石川県)の多太(ただ)神社での句。この神社を訪れた芭蕉は、斎藤実盛の兜に出会う。

幼い木曽義仲の命を救った実盛であったが、年を経て平家方として義仲と戦わざるを得なくなる。白髪を染め若武者と見せ出陣するが討たれてしまう。恩人実盛の首に涙した義仲は、多太神社に兜を奉納したという史実が句の背景にある。また「むざんやな」は謡曲『実盛』の一節「あなむざんやな」を踏まえる。

句意は「意に添わぬ戦いに出なければならなかった実盛は、なんといたわしいことだ。この兜の下のきりぎりす(今のこおろぎ)も、その悲しみを思い鳴いているようだ」

今の私達は博物館やお寺に行き、展示品を見ながら句を作ることがある。芭蕉も同じように兜を見て、句を一生懸命考えていたと思うと微笑ましいではないか。普通対象物を見るとそのまま句にしようとするものだが、芭蕉は違っていた。歴史の事実を踏まえ、義仲や実盛の心境にまで思いをこらし、それを鳴いていたこおろぎに託し句を仕上げたのである。この独自の視点が今も芭蕉の評価が高い理由ではないだろうか。

ただこの句は『おくのほそ道』の本文があってはじめて理解出来ることを付け加えておきたい。

(文) 安居正浩

https://ameblo.jp/seijihys/entry-12735309973.html 【松尾芭蕉「むざんやな」の句と斎藤別当実盛のこと】より

(石川県小松市)

むざんやな甲の下のきりぎりす  松尾芭蕉(むざんやな かぶとのしたの きりぎりす)

今日は西荻窪の「おくのほそ道を読む会」。

前半は、芭蕉の五大紀行文の一つ「笈の小文」について、後半は「おくのほそ道」の「黒羽」「雲巌寺」について話した。会が終わると3人で昼食をとった。

2人で日本酒8合と、私にしてはよく飲んだ。

西荻窪の事務所に戻ると、どうにも眠く、2時間ほどぐっすり眠ってしまった。

先日、「おくのほそ道」の「尾花沢」(山形県)に登場する「鈴木清風」について書いたが、今日は「多太神社」(石川県)に登場する「斎藤別当実盛」(さいとうべっとうさねもり)について書きたい。

【原 文】

この所(ところ)多太(たた)の神社に詣づ。

実盛(さねもり)が甲(かぶと)・錦(にしき)の切れあり。

往昔(そのかみ)源氏に属せし時、義朝(よしとも)公より賜はらせたまふとかや。

げにも平士(ひらさぶらい)のものにあらず。

目庇(まびさし)より吹返(ふきかえ)しまで、菊唐(から)草の彫りもの金(こがね)をちりばめ、龍頭(たつがしら)に鍬形(くわがた)打つたり。

実盛討死の後(のち)、木曽義仲(きそよしなか)願状(がんじょう)に添へて、この社(やしろ)にこめられはべるよし、樋口の次郎が使ひせしことども、まのあたり縁起に見えたり。

   むざんやな甲の下のきりぎりす

【意 訳】

この地、小松の多太神社に参詣する。

斎藤別当実盛の形見である甲と錦の切れがある。

その昔、実盛が源氏に属していた頃、源義朝(みなもとよしとも)公より下賜(かし)されたそうだ。

いかにも並の武士の持ち物ではない。

目庇から吹返しまで、菊唐草模様の彫刻に金をちりばめ、龍頭には鍬形が打ってある。

実盛が討ち死にしたのち、敵方である木曽義仲が戦勝祈願願状に添えて、この神社に奉納したこと、樋口の次郎がその使者を勤めたことなど、今もまざまざと目に見えるように神社縁起に記されている。

   むざんやな甲の下のきりぎりす

斎藤別当実盛は平安時代末期の武将。

「別当」とは役職名で「長官」のことだが、何の長官かはわからない。

今の埼玉県熊谷市を根城にしていた武将で、源義朝(みなもとのよしとも)に仕え、その後、義朝の弟の義賢(よしかね)に仕えた。

1155年、義朝・義賢兄弟の間で争いが起こり、義賢が討たれた。

実盛は、義賢の遺児「駒王丸」を密かに匿い、木曽へと逃がした。

この「駒王丸」がのちに「木曽義仲」になる。

のち、義朝の遺児・源頼朝が伊豆で、義賢の遺児・木曽義仲が木曽で「反平家」を掲げて挙兵するが、平家方の武将となっていた実盛は、平家からの恩を捨てがたく、平家方に属した。

1183年、石川県の篠原で、木曽義仲軍と平家軍が激突。

すでに老将となっていた実盛だが、平家軍として戦い、「最後こそ若々しく戦いたい」と願い、白髪に墨を塗って突撃し、討死した。

その首は木曽義仲の元に届き、池の水で首を洗うと、墨が落ち、それが命の恩人である実盛と知った義仲は涙をこぼして悲しみ、その「兜」を多太神社に奉納した、というのだ。

「実盛」の伝承はたくさんある。

「実盛」という謡曲にもなっているし、「虫送り」のことを「実盛送り」とも言う。

「虫送り」は夏の季語で、農作物につく害虫を駆除し、豊作を祝う農村行事だが、古来より、虫による害は不幸な死を遂げた人の恨みがそうさせるのだと信じられていた。

実盛は篠原の戦いの際、乗っていた馬が田んぼの稲株につまづき、落馬したところを討ち取られたそうで、その恨み故、実盛の魂が虫と化し、稲を食い荒らすようになった、とも言われている。

もう一つ、実盛は『平家物語』にも登場する。

1180年、源平合戦の「富士川の戦い」に平家軍として参陣していた。

西国の平家は坂東武者のことをよく知らない為、坂東武者である実盛に「坂東武者とはどういうものか?」と平家方の総大将・平維盛(たいらのこれもり)が尋ねたところ、実盛は、

西国の軍と申すは、親討たれぬれば孝養し、忌みあけてよせ、子討たれぬれば、その思ひ歎きに寄せ候はず。

馬に乗ッつれば落つる道を知らず、悪所を馳すれども馬を倒さず。

軍は又、親も討たれよ、子も討たれよ、死ぬれば乗り越え乗り越え戦ふ候ふ。

と答えて、平家軍は恐れおののいた、という。

西国の軍は、親が討たれれば戦を止めて供養し、子が討たれれば嘆き悲しむでしょう。

坂東武者は騎馬に長け、どんな道でも落馬をすることもせず、悪路を駆けても馬を倒しません。

親が討たれようと、子が討たれようと、その屍を踏み越え、踏み越え戦います。

と言ったのだ。

「富士川の戦い」は深夜の、水鳥の大群の羽音を「夜襲」と勘違いした平家軍が、一戦もせず、逃げ出したという、平家の衰亡を象徴したような戦だが、実盛にこういうことを言われて、平家軍が恐怖に駆られてしまったから、という説もある。

(ただ、資料などで実盛が富士川の戦いに参陣したという証拠はなく、これは創作だったという説もある。)

しかし、実盛はなぜ、味方の士気を下げるようなことを言ったのだろう?

まず、坂東武者として誇りがそう言わせたのだと思うし、平家方の甘い戦術や行軍にイラついていたのかもしれない。

もう一つ考えられることは、実盛は苦悩していた、ということだ。

もともとは源氏の恩を受けていたが、生き抜くために、その後、平家に属した。

実盛としては、どちらにも恩があり、どちらも敵にしたくはなかっただろう。

心の中では源氏を応援していたのかもしれない。

実盛は不器用なのである。

篠原の戦いでも、形勢不利と見れば、木曽義仲に寝返ることも出来たはずである。

実際、義仲はそれを望んだであろう。

しかし、それを潔しとしなかった。

芭蕉の「むざんやな」は謡曲「実盛」の一節であるが、芭蕉もその不器用な生き方を憐れに思ったのだろう。

しかし、「むさんやな」には実盛への憐憫であると、同時に、その誠実な生き方を讃えている、とも考えられる。

兜の下に押しつぶされているように鳴いているきりぎりすは、実盛の苦悩を象徴しているのだ。

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