https://kadobun.jp/reviews/bunko/4h4p6tw1786c.html 【俳句など、日本の伝統文化に強い愛情を表した寺田寅彦。科学者としての生活のなかに文学の世界を見出した名随筆、待望の復刊︕ 『科学と文学』】より
川添 愛
人間というのはどうも、あらゆる人間をカテゴリーに分けたがる生き物であるようだ。科学者なら科学者、文学者なら文学者、母親なら母親、男なら男……というふうに。「科学者なのに、文学に造ぞう詣けいがある」「文系なのに数学ができる」などという偏見に満ちた発言にはうんざりするが、私自身も気がついたら「いやあ、私は文系人間なので数学は苦手で(笑)」とヘラヘラ自己紹介をしたり、「この人、理系なのに文章がうまいな」などと失礼なことを考えたりしている。
そうやって人間を分類してしまうのは、きっと心の負荷を軽くしたいからなのだろう。一人ひとりの人間を全体として理解しようとするのは、たぶん相当しんどいことなのだ。しかし、少なくとも私個人に関して言えば、他人だけでなく自分自身をも何らかのカテゴリーに分類し、安心しきっているようなところがある。あの人はああいう人で、自分はこういう人だ、だからあの人はああいうことをするが、自分はしなくていい、とか。そのせいか、どのカテゴリーにも収まらない異形の才人に出会ったとき、まるで自分の立場が危うくなったような気がして慌てふためいてしまう。
寺田寅彦というのは、多くの人にとってそのような存在ではないかと想像する。私が初めて読んだ寅彦の作品は、「ピタゴラスと豆」という随筆だった。これから読む人のために詳細は語らないが、「ピタゴラスは豆畑で死んだ」という奇妙な説に興味を持ち、あれこれ調べているうちにこの作品に出会い、その洞察の深さに唸うならされたのだった。その後、作者が偉大な研究業績を持つ科学者でもあったということを知り、「どういうこと?」と混乱したのを覚えている。
私がわざわざ言うのもおこがましいが、寅彦は単に「科学ができて、文学もできる人」ではない。それは寅彦の文章に触れた人なら誰もが感じることだろう。寅彦の文章の魅力の一つが「科学者ならではの視点」にあることは言うまでもないが、「珈琲哲学序説」で宗教を酒に、哲学を珈琲コーヒーになぞらえる発想の面白さ、「団栗」や「竜舌蘭」でありありと描かれる還らぬ時間の切なさ、暑さの中で不意に感じる冷気を「味み噌そ汁の中に入れた蓴じゆん菜さいのように、寒天の中に入れた小豆あずき粒つぶのように」とたとえる、独特ながらも読む者に強烈な実感を与える表現の巧みさなどは、「科学者だから」「文学者だから」で説明しきれるものではない。本書においても寅彦は映画や連句についての鋭い分析を次々に繰り出しており、読んでいる側としては、まるで寅彦をガイドとした見所満点の旅に出ているような錯覚に陥り、彼の発見や洞察を一度に消化できない自分をもどかしく思うのである。
寺田寅彦という希け有うな人物は、いったいどのようにして形成されたのだろうか? 田丸卓郎と夏目漱石という二人の偉大な師に巡り会ったことが大きな要因であることは間違いないが、もう少し、科学と文学という営みの本質から答えに迫れないものかと思っていた人は少なくないはずだ。そのような疑問に対し、本書では当の寅彦本人が持論を語ってくれている。この本の裏テーマを「寺田寅彦が語る、寺田寅彦のつくり方」と見るのも、さほど的外れではないと思う。
科学と文学についての寅彦の説明を読んで、これら二つの営みに多くの共通点があることに驚かれた方は多いかもしれない。私自身、科学から文学に近づいていくことが一つの自然な道筋であることを、改めて認識させられた。私の専門分野は広いくくりでは言語学だが、狭いくくりでは「理論言語学」という。これは言葉を科学的に研究する分野であり、物理学のような純粋な自然科学とは多少違うところはあるものの、方法論は科学のそれに則のつとっている。私は数年前にフルタイムの研究者をやめ、今は物語などを書く仕事をしているが、学生時代に科学の方法を学ばなければ文章を書く仕事はできなかっただろうと前々から思っていた。そして今回この本を読んで、寅彦の言うことのほぼすべてに膝ひざを打った次第だ。
適切な喩たとえかどうかは分からないが、科学の道に入るのはけっこう「出家」に近い。なぜかというと、ものの考え方や表現の仕方について、多くの制限を受け入れなくてはならないからだ。それまで好きなことを好きなように考え、何でも言いたい放題に言ってきた人間も、科学を志すとなったらそういった野放図な態度を改めなくてはならない。
科学の世界に入る人の中には、最初からそのあたりをわきまえている人もいる。しかし私はまったく逆で、「(科学者を含め)学者というのは、何でもいいから世間にウケそうな面白いことを頭良さそうに言う仕事なのだろう」と思い込んでいた。そんなことだから、研究においては客観的な事実、つまり「本当のこと」を追求しなければならないと知ったとき、ものすごくショックを受けた(今思うと、どれほどアホだったのかと思うが、本当なので仕方がない)。この、科学の大前提たる「真実を追求し、真実に忠実であろうとする態度」が、寅彦の随筆を含め、優れた文学作品に共通してみられる側面であることは明らかだ。寅彦自身、本書において「文学が芸術であるためには、それは人間に有用な真実その物の記録でなければならない」と述べ、また「雑記帳より」では「随筆はなんでも本当のことを書けばよい」(『科学歳時記』角川ソフィア文庫、43頁)と述べているが、私の経験から言えば真実に目を向けること自体、相当難しいことだ。そういった態度をどこで身につけるかは人それぞれだろうが、私個人に関して言えば、科学の世界に触れなければ不可能だったように思われる。
また科学の理論は、もし間違っていたら「これは間違っている」と客観的に示せるようなものでなければならない。これは科学的を疑似科学から区別する上できわめて重要な条件だが、科学者としてこれを受け入れることは、「自分が間違っている可能性をつねに頭のどこかに置いておかなくてはならないこと」、また「実際に自分が間違っていれば、素直に認めなければならないこと」を意味する。つまり科学者にとって必要なのは、たとえ自分にとって都合が悪かろうが事実を受け入れようとする態度であり、「確実に言えることがいかに少ないか」という実感を持つことである。寅彦の文章に漂う謙虚さは、優れた科学者が持つ慎重さと誠意の表れだろう。
私が科学において最も難しいと感じたのは、自分のエゴを殺しつつもオリジナリティを追求しなくてはならないという側面である。科学における種々の制約を受け入れるとき、「手っ取り早く自己実現したい」という思いは非常に邪魔になる。少なくとも、科学における実験は(環境さえ整えば)誰にでも再現できるものでなくてはならないし、科学における記述と説明は(前提知識を共有している人なら)誰にでも理解できるようなものでなければならない。寅彦も「問題が能知者との関係にわたる場合には科学の範囲を脱」すると書いているように、「自分」が関わった時点でそれは科学の営みではなくなる。さらには、使う言葉までが「普通日常の国語とはちがった、精密科学の国に特有の国語」に制限されるため、私などは科学の世界に入ってから長い間、ろくにものが言えなくなったくらいだ。
しかし同時に、研究テーマの選び方や観察の切り口などについてはオリジナリティが求められるし、現象を説明するための仮説や理論を立てるときには柔軟で自由な発想ができなくてはならない。まさに、寅彦が本書で「科学者と芸術家の生命とするところは創作である」と述べているとおりだ。つまり科学者には、厳密さの中で自由を体現できるバランス感覚が不可欠だが、これを身につけて実践するのは容易なことではない。
寅彦はそのバランス感覚を随筆や批評に生かしているし、科学における「制約の中の自由」に通じる営みとして俳句や連句に興味を持ったのは自然なことだったのかもしれない。そういった観点で本書を読んでいくと、「連句の心理と夢の心理」はとくに興味深い。連句を創り出す際の心理について書かれた一節だが、詩的な発想を際限なく自由に広げていくプロセスと、季題や前句・前々句との関係を考慮し、繰り返し制約を課しながら句を淘とう汰たしていくという、あたかもコンピュータプログラムのようなアルゴリズミックなプロセスが述べられている。寅彦は科学者であり文学者であることを実践しつつ、同時にそのような自身を内省的に観察し、分析していたのだということがよく分かる。
内省的であることもまた、寅彦が自身の中で科学と文学を融合させる上での必要条件であったと思われる。寅彦のように、人間が自然の一部であることを認識しながらも、科学が解明するメカニズムの中だけに収まりきれない存在でもあることに対して完全に自覚的でなければ、科学者の目で物事の本質を見据えつつ、文学において許される「非論理的な論理」を駆使して真実を突くことはできなかったように思うのだ。ただし、内省的な人間であるというのは、科学者であることとは直接には関係がない気がする。優れた業績を持つ科学者がみな内省的であるとは限らないからだ。寅彦はもともと内省的な人だったのかもしれないが、漱石との交流、また彼によって教えられた文学が少なからず影響していると考えるのは自然なことだろう。実際、寅彦は「夏目漱石先生の追憶」で、漱石に「自然の美しさを自分自身の目で発見すること」、「人間の心の中の真なるものと偽なるものとを見分け、そうして真なるものを愛し偽なるものを憎むべき事」を教わったと書いている。
科学の力は強力で、世界の運命を大きく変えてしまう。科学の発達によって引き起こされた種々の悲劇を思うと、「人間の心の中の真なるものと偽なるものとを見分け、そうして真なるものを愛し偽なるものを憎む」ことが、科学の成果を利用する私たちの中で十分に達成されていないことに思いを馳はせざるを得ない。寅彦は本書で、科学の進化が人間の不幸を生む原因について「物質科学の方面だけが先駆けをして」、「人間の心に関する知識の科学的系統化とその応用が進んでいないために起る齟そ齬ごの結果ではないか」と分析し、「そういう系統化への資料を供するのが未来の文学の使命ではないか」と説いている。このように、文学の役割に多大な期待を寄せていた寅彦が、文学や文学研究が軽視されがちな現在の状況を見たら何と言うだろうか。
文学は時空を超えて人間に訴えかける存在であると同時に、書かれた時代や場所と強く結びついたものでもあり、読み解くためには優れた導き手が不可欠だ。そういった導き手は、連綿と受け継がれる学究の流れがなければ生まれてこない。漱石や寅彦の文学を未来に伝えることができるか、また寅彦の望んだ仕方で科学技術を正しい方向へと導いていけるかどうかは、今の私たちにかかっている。
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