Facebook横山 航宜さん投稿記事
かつてサンカやマタギと呼ばれた山の民の聖地。
この御神体の鍾乳石から発する人智を超えたエネルギーは、凄すぎる。
【秩父の「聖神社」は貨幣発祥の地】
https://blog.goo.ne.jp/inehapo/e/dd532891d737bc7abe958b33b34e0818 【多治比氏と山窩(サンカ)】より
山窩(サンカ)は、山人だが、マタギでも木地師でもない。山窩は聞いたことがあったけど、何も知らなかった。しかし、その山窩が、タジヒと呼ばれ多治比となっているそうだ。
また、サンカはエミシやクマソ、ツチグモなどのように、差別用語でもある。
サンカというより、「ナデシ」といわなければ、サンカにはわからないそうだ。
ナデシは、漢字にすると、「撫師」と書き、これが本当のサンカの自称だという。
その由来は不明だが、撫でる神様がいる。テナツチ、アシナツチ。
山窩も、まつろわぬ民である。ただ、山窩用語が犯罪用語に使われていることもある。
でも、ここでは、純粋に民俗学からの山窩を考えてみたくなった。
ということで、漠然とですが、サンカは実は誇り高い山民だったと思われる話を。
サンカは「傘下」などともいうように、集団のある組織の中で庇護されるような意味合いでとられますが、「山窩は生きている」「山窩奇談」などの著で、山窩研究をされていた三角寛の本を読んで頂くと興味が湧きます。
ある事件により、犯罪集団のことをいわれる場合もありますが、県境に住むことが多い為、犯罪を犯した者が逃れて住む人々ともいわれていた。警察も県境までは追ってこないという理由らしい。まあ、それが誤解や山窩を遠ざけている一因にはなっているだろう。
確かに、怖い一面もある。しかし、実際は違うようだ。
民俗学の説では、移住生活をし、自然洞窟、遺跡跡付近に住み、戸籍はもたない人々。
あるいは、古代史では追われた山人として、縄文時代から続く先住民、大和朝廷から追われて山生活を強いられた人との説もある。生活は少しマタギに似ているが主に川漁をする。
日本のジプシーのように自然の中で暮らす人々のことも含まれる。
山窩は九州の隼人説、近畿、関東地方特に山梨県では山窩のための捜査まであったそうだ。
そして武蔵七党の中に、サンカがいた可能性大という妄想。
その前に久々に秩父ネタ。まず、横瀬の歴史を復習。
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横瀬町歴史民俗資料館より、
横瀬町は、平安時代から南北朝時代に活躍した同族的な武士団、武蔵七党のひとつ、丹党の一族が居住し、在名を名字として名のった土地として知られています。
古文書に「横瀬」の文字が初見されるのは、南北朝時代になってからで、「安保文書」の中の1340年安保光泰(6代目)の譲状に「秩父郡内横瀬郷」とあり、横瀬はこれ以前、丹党安保氏の所領であったことがわかります。
ということは、横瀬は丹党安保氏だったのだ。安保姓は秋田県にたくさんいる。
埼玉県児玉郡神川町大字元阿保に居城していたが、鎌倉幕府が崩壊し、北条氏と共に滅んだ氏族といわれる。
1189年初代安保実光が、奥州合戦に参加。奥州藤原氏との対戦。
6代目の光泰が足利尊氏の先陣であった分家で、旧領地を与えられたとされる。
安保氏は阿保という同じ一族もいて、出羽の安保氏もいる。
秋田の鹿角盆地の中央あたりに安保氏の居城があり、武蔵から陸奥へ渡り、秋田に落ち着いた安保氏もいた。
秋田では「あんぽ」とよみ、出羽の安保氏は武蔵の安保氏の支流。山形県余目城を居住。
鹿角四頭は、関東武士団の成田氏、奈良氏、安保氏、秋元氏の四氏のことをいった。
ところで、児玉郡の出身といえば、長瀞に白鳥氏がいましたが、多治比彦王の系譜の子が土着して、武蔵に配流したと言われた人が桑名峯信。
この人が丹党首になり、一大勢力となる。ここから、武峯→経房が秩父中村郷に住んだ。
白鳥氏を名乗ったのも、この系譜で元をたどれば、多治比彦の安保氏に繋がる。
その系統に桓武天皇がおり、桓武平氏として武蔵は強大な平家集団となっていく。
秩父平氏もその中から派生している。根古屋から見る武甲山
イタドリと蝮---------------------------------------------------
多治比彦の名前の由来が不思議。
多治比彦の「たじひ」が、イタドリからきているから。(イタドリの花)
タジヒは古名であり、日本書紀には、「天皇初め淡路宮に生まれる。
生まれつき歯ひとつ骨の如し、容姿美麗、ここに井戸あり端井(みずのい)と日う。
すなわちこれをみて太子を洗う。時に多遅花(たじひのはな)落ちて井戸の中にあり
因りて太子の名となすなり、多遅花は今の虎杖花(いたどりのはな)なり。
故に多遅比端歯別天皇(たじひみずはわけ)という。
産湯の井戸の中に、イタドリの花が落ちてきたので、その花の名をつけた話になっているのですが、
古事記では、水歯別の名代を蝮(たじひ)部を設けたとなっているが、マムシとなっている。
蝮は、ヘビの「真虫」と解釈されるが、この場合、蝮一族のことを指す。
これは、蝮を生活の中で使用する独特な職業のこと、それが山窩のことだといわれ、
多治比彦のタジヒとは、山窩の出であるという。蝮のタジヒは、「這う虫」「咬む虫」の意味がある。ちなみに、古事記を編纂した太安万侶も、多治比氏の多、らしい。
なので、秩父にも関係しているらしく、女性だった説も。巫女?だから、古事記にはちゃんと蝮と記す。
三角氏の「山窩奇談」に「蝮天皇の史実」がある。山窩の「田地火(たじべ)」という人がいる。田地火の火を「ヒ」と言わず、「ベ」という。なぜ、ベというのか?「ハンゼイさんの田地火だ」と、地元の人がいう。ハンゼイさんとは、18代目の反正天皇(はんぜいてんのう)のこと。「オオサザキと申しあげるのは、つまり仁徳さまですわ。
このお子様がイザホワケ17代、の履中さまでしょう。
その次が弟王で、マムシ天皇の蝮端歯別天皇です。この18代のマムシ天皇が反正天皇でしょう」
田地火とは、蛇捕りのことで、縄文以前からの職業であるから、「ツチカミのタチゴモ」といって火明命の一族だという。
※火明命は、(日本書記では)天火明命、
(先代旧事本紀では)天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(ニギハヤヒ)、
穂積臣、物部連の祖である饒速日命(ニギハヤヒノミコト)と同一神としている。
一方、『播磨国風土記』ではオホナムチの子とする。
ツチカミは、漢字以前の言葉で蝮のこと。
タチゴモは、断ちごもで、蝮を捕る者の掛け小屋のことで「瀬降(せぶり)」という。
※「瀬降り」は、河川敷のテント集落のことの意味や、眠る、寝るの意味。
また、セニフルという隠語もある。瀬に降るで、雨とも飛沫とも解らぬよう行動すること。
この語源は、900年前からあるそうだ。
ちなみに、三角氏の「山窩は生きている」で
取材をしていた山窩の場所は、所沢(埼玉県)だった。
「田地火から聞いたところを申しますと、蝮のことを太古にはタチヒといったんですね。
これも漢字の来ない縄文時代を八千年以上の昔としても、それ以前ですから、
漢字では書けません。太古には、いえ、歴代はじめ頃でも赤土の野や山を歩いていると、
あの逆歯でグシリと噛まれる。それが焼けた刃物で刺される痛さを増してくるから、
タチヒというのだと言ってますから、太刀火とも書きますか。
ですから昔は、蝮を捕る役目の人間(かみがみ)が大勢いたんです。
火明命は、その首の神です。
竪穴の上に薦屋根をふいて住みながら、転住生活をしていた縄文時代や
その以前には、この国土には余程蝮が多かったと見えて、後の古書にもカマゴモ(防壁)
で蝮を防いだとありますが、田地火はその蝮の防人ですわ」
丹比という村は、日本中に河内(大阪)と因幡にしかなく、
この丹比が蝮を丹治比と書いた名残だという。
しかし、蝮(タジヒ)に、丹と比の当て字にした理由は定かではなく、
日本書紀など、天皇制について蝮という漢字を当てる(意味)のは無礼だという
ことで、なぜか、蝮をつけないようになったという話などが記されている。
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天皇についてはここでは述べませんが、実は、山窩は誇り高い山民だったのでは~?
しかし、謎多し。
他にもマタギのように、決まりもある。
また、妙に先祖のことを気にし、神社の由来や神社の建築に詳しい山窩もいた。
山刃というウメガイは、他人に見られることはタブーとしている。それは、薙の神剣に似ているそうだ。
が、たまに悪いものに使うから埋めにいく。だから、貝掘りにゆくと言い、埋めた貝=ウメガイだそうだ。
そのような隠語は、百種もあるそうだが、そんな山窩の結束が不思議だ…
奥秩父では、木地師はいました。それも山人ですが、山窩とは違うようです。
ところで、多治比真人という方がいます。真という漢字がつくのは相当認められた人だと思います。和銅がとれた秩父の頃に、丹党が早くに入っていましたが、藤原氏とも関係をもっていました。藤原不比等とか・・・。中臣鎌足との関係も深い。
また、本拠を河内国におき、その子孫が秩父にいて鍛治集団となっている。
河内国の石上神宮と同じ長瀞にも石上神社があります。
境内には、光玉稲荷神社という光の玉?という不思議な名前のお社もある。
多治比真人は、大化の改新の頃にいたらしいので、ここから枝分れして、秩父平家がうまれている。
そして和銅の開発も進めてきた。
また、多治比真人は「霊寿の杖」というのを授かっている。
功績と高齢に与えられる杖らしいが、鳩がついている杖?とも。
当時は鳩だったかわかりませんが、中国の「鳩に三枝の礼あり、鳥に反哺の孝あり」という難しい言葉ですが、
礼を重んじ、孝養を尽くすべきとの意味があることから鳩の杖となった。
多治比真人が、こんなに立派な方とは知りませんでした。
産鉄族のオオ(タカ)氏?----------------------------------------------------------
反正天皇は、淡路宮(不詳、淡路島?)で生まれ、容姿美麗(色白)であったそうだ。
※イタドリの花も白い。
生まれながらにして綺麗な歯並びであったので、瑞歯別の名があるという。
武蔵と考えれば、このミズハの「歯ひとつ」とは、
「目ひとつ」や片足という鍛治のイメージがある。
やはり、産鉄の神と考えるのが武蔵らしいと思うのだが、どこかで、山窩と産鉄族が混じっている気もする。
朝鮮語でオオは「タカ」とよばれており、タカの地名が東北には多い。
武蔵には高麗人の里もある。
それに、丹生都比売を祀る社は秩父にとても多い。
それは丹党氏が祖神としているからでもあるが、湯から生まれる話は、
おそらく刀の誕生といった霊刀を伝えるものと思う。
丹生都比売は奈良県吉野なのですが、「イザナミのゆばりから生まれた神」といわれる。
灌漑用水や治水工事の神といった説もありますが、水銀から金を産出することになった水銀を敬う風習もあり得る。
丹生=水銀。
また、生まれつき他の人の容姿が異なることを伝えているのは、
多治比彦が特別な存在であったことを記し、もしかしたら、ミズハはミズハノメの意味もあるかもしれない。
丹生川上神社(奈良県吉野郡)などで淤加美神とともに祀られているのも、ミズハノメの水神である。
ということは、武甲山が龍神とされているのは、丹党の思想?で、
「ぶこう」が六甲山の「むかつ」から「むこ」となっているルーツには(江戸時代頃)、
武甲山を水神=ミズハノメとしているから、このような思想になることもないだろうか?
ミズハノメは龍神でもあり、水神、瀧神でもある。
亀に乗ってやってくる妙見様も、ミズハノメの姿としてみえるかもしれない。
武甲山と妙見宮の昔の写真があります。(横瀬町資料館より)
大正12年、灯篭と神使の亀の子石。
秩父夜祭になると、亀の子石に妙見様が降りてきます。
鎌倉時代から秩父の武士たちは武甲山を観音様や龍神、水神、いろいろな姿でみてきました。
観音霊場、熊野信仰が秩父霊場として今でも武蔵の聖地としてあり続けるのは、
多治比真人の系譜を受ける武士たちの信仰が秩父の景観や風土に合ったのでしょう。
(横瀬町:昭和初期の根古屋城跡:右側の山が武甲山)
ここが秩父の東にあたる辺境地。ここから先へ行くことを留めるための、御嶽講が残っている。
荒川から上流へ向かってやってきた平家は、ここから先は山の峯でふさがっているため、
ここから先へ行くことをためらう。こうして横瀬に住むことになった武士が多いという。
そしてこのすぐ隣の山名は、三角山。
三角山下には飯能までセメントを運ぶ地下トンネルができている。
多治比氏がいなくなった訳------------------------------------------------------------------
山窩は山人とは異なる点から、差別されがあったことも指摘されている。
例えば、エミシの話しで多賀城を焼き打ちした呰麻呂(アザマロ)という人は、同じエミシの中でも差別的に見られていた。
お互いエミシで豪族の出なのに、位の低い豪族から成り上がったとして、自分の方が上だと主張する者がいた。
その恨みから呰麻呂は反乱を起こす。同じエミシ同志の仲間打ちがあったわけだ。
これらの差別とは、同族でも階級があったことを示している。
その呰麻呂は、アテルイといわれた人たちと関係をもっていたと言われる。
ということは、本当は、呰麻呂の方が身分は上(天皇の血筋をひいている)だったけど、
熟エミシの朝廷側から排除されそうになったから、その政権を正そうとしたこともあり得ます。
多治比氏がマムシの山窩であったから、差別され朝廷からは排除の対象になる。
その恨みから、「平」を名乗り新たな国家を取り戻すことを考えていた人だと思うのです。
それを受け継いでいるのは平将門なんじゃないかな?という妄想。
出羽三山に五重塔を建てたという話にも、何か意味がありそうです。
それに言霊の霊力は刀の先端に込める。
刀の先は、非常に強い霊力が宿るから触れてはならない、という夢をみたことがある。
それは2本の直刀でした。
二本なのは、陰陽で一つに合体した形が不動尊が持っているような剣になる。
昔は、木で結界を置いてました。
鉄ができると、陰鉄(隕石に鉄が含まれている)といって宇宙の力が宿ることを知った産鉄族は、鉄で剣をつくり、山頂に剣をかざします。
山窩は、神社などのお堂に住むことはなかったという。
山窩ではない人は、お堂などに住んでいたようで、それは単なる山人というだけで、
山窩は他の人たちとは違うと区別していた。
山窩は理由があって逃れ、山奥へ住んでいた人のことも言うのだから、
村人との暮らしから完全に孤立して暮らしていた人が多い。
なので、自らを明かすことはない。また、言語も特有のものを使用する。
山窩文字は、神代文字といわれるがよくわからない。
今はすでにない廃墟な家が山奥にあるならば、もしかしたら、それは山窩の形跡かもしれない?
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