いま私の感じている、一番の痛み

Facebookさん船木 威徳投稿記事  【 いま私の感じている、一番の痛み 】

私も先月50歳になり、老眼も強くなってきましたし、すこしパソコンに向かうだけで腰や背中に痛みを覚えます。

若いときは、徹夜で仕事しても、そのまま翌日の当直勤務に当たれていたのに少し酒を飲み過ぎるだけで、朝起きるのさえつらくなります。たくさんの痛みを抱えています。

職員10名そこそこのクリニックを経営するだけでも、開業以来の11年半、患者さんたちのこと、スタッフへの一言まであとからそれでよかったのかと悩み、しばしば痛みを感じるばかりの毎日です。

何日も続けて、心の底から喜んで過ごしたそんな記憶はほとんどありません。

そこにきて、昨年初めからの、新型感染症の問題が続くなかで、私が、特に痛み、なかでも心の底にたびたび感じる一番の痛みがあります。

ここ半年くらい、特にその痛みは強くなり、もしかすると、これまでに味わったなかでも

一番つらく、さびしいものかも知れません。

私の感じる一番の「痛み」。

それは、「助けたくても、その人を助けられない」という痛みです。

1年以上連日のテレビ報道で語られる目に見えない感染症に怯え、自宅から出ることをやめてしまい、驚くような速さで身体の各機能が落ちて、亡くなってしまった人たちがいます。

・人間は、他者との絶え間ないコミュニケーション、手と手を触れあうスキンシップがなければ生きていけないことなど分かっているのに周囲からそれも禁じられ、人が変わったように

寝たきりになってしまった人たちがいます。

・おいしい料理を作り、お客さんと毎日話し合えることに一番の喜びを感じていたのに、それさえ奪われてしまい、「お金がほしいんじゃない。お客さんにうまいものを食べて欲しいんだ。」と背中をまるめて話すだけになってしまった患者さんがいます。

・修学旅行も、部活も、夢見てきた競技の試合もすべてがなくなってしまい、泣くことすらできずに、楽しみや目標を失ったままの子どもたちがいます。

・不安だし、どうなるか怖くてしょうがないと話していたのに「でも、接種を受けないとクビだと言われて、もうあきらめるしかありません」と予防接種を受けた腕を私に見せる人もいました。

すべて、私が直接見てきた現実です。もちろん、私の意見が客観的にすべて適切だとか私の言うとおりにすればうまくいったのに、などと言うつもりもないし、そんな考えはありません。

ただ、多くの人たちが、できる限り、考えに考えて、ご自身で決断をくだし、なんらかの選択を行なったにもかかわらず、その後も、その人たちの痛みは少なくなるどころかむしろ、ますます強くなっているように私には思えるのです。

私が普段から患者さんたちに伝えているのはなにがなんでも「生きるのだ」という想いを捨てず あきらめないことです。

私に充分な力、能力がないことなど百万も承知していますが、それでも、なにか方法はなかったのか、目の前の方が、ご自身の選択の結果、余計に痛みを感じることがないよう、もっと、話を聞けたのではないか?

もっと、その人の抱えている不安や恐怖を聞き出してあげるべきではなかったのか?

そんな想いが、日々、大きな痛みとなり、私のなかに沈んでいくのを感じます。

それでも、わずかでも、なにかできるはずだと、ギリギリのところで、私自身に言い聞かせる毎日です。

※引用の記事はちょうど4年前のものです。

~王子北口内科クリニック院長・ふなきたけのり

4年前 この日の思い出を見る 船木 威徳 2017年8月18日 ·

【 痛みを感じるということ 】

けがをしたときの痛み 慢性的な頭の痛み がんがまわりの臓器をおかす痛み

肉親が病気だと知るときの痛み 子どもが抱える問題を知る痛み 自分が仕事を失ったときに感じる痛み 恋人と別れたときの痛み 親を亡くしたときの痛み 経済的な不安からくる痛み

私たちは、生きている限り、さまざまな痛みを感じています。痛みと共に生活しているといっても過言ではないくらいです。誰もが納得できることでしょう。

私の仕事は、その「痛み」、それは肉体的なものであっても精神的なものであっても

それを薬でごまかすことではなく その痛みを「よいもの」として 受け入れ、原因を知ったり、 痛みをさらに強くしている習慣や ものの考え方を見つけたりしながら 『自分を変える行動をとる』のを助けることにあります。

薬を出して、仮にそのときに 一時的に痛みから解放されても その人の行動が変わることはないし、身体が、その人自身に発している メッセージを理解して、 生活習慣を変えたり、

自分のためによい行動をとることもないでしょう。

私は、「痛み」そのものは、人間にとって「よい」ものだと考えています。

もちろん、痛みは避けたいです。つらいです。早く楽になりたいです。

ですが、もし、痛みがなかったら、どうなるでしょうか?

傷にばい菌が入り込んだことにも気づかない。内臓が詰まったり、腐ったりと、

異変を早いうちに感じ取ることもできない。

誤った判断、ふさわしくない行動から招いた結果をよく吟味することもできず

自分の今後の行動をよいものにも変えてゆくことはできません。

私は、決して、「みんな、痛みなんて我慢しろ、乗り越えろ、薬なんて飲むな」

と言っているのではありません。

また、痛みを感じる理由が、いつもすべて明確に説明できるわけでもないことは充分承知しています。

ただ、身体に感じる痛みにせよ、心が感じる耐え難い痛みにせよ、いったんは「私を守るため、私によいものを得させるための、『行動を変えさせる』きっかけとなりうるものなんだ」と、受け止めて欲しいと考えています。

・大事な私の身体に長い間、こんな無理をさせてしまっていた。

・大切なひとたちのことを考えることもなくあまりに自分本位に、ことを進めていた。

・本当に大切にしなくてはならないことを取り違えていた。

などと、現に、いま気づくべきこと、そして、今、変えるべき行動や習慣に気づかせてくれるのは、誰もが、それぞれに感じる「痛み」です。

次に、「痛み」と混同されやすいものに「苦しみ」がありますが、

「痛み」と「苦しみ」はまったく別です。

「痛み」はしっかりと自分自身で受け止めよいものとして、しっかり自分を見直す

きっかけを与えてくれますが、「苦しみ」はそうではありません。

「苦しみ」は、実際のところ、経験しなくてよいもので、避けられるものです。

長くなってしまったので、「苦しみ」については、またあした、お話しします。

~王子北口内科クリニック院長・ふなきたけのり

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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