【敗者の幸せ 】
殺人は真実に悪でしょうか?
森鴎外著の「高瀬舟」には自殺ほう助をした男の話が綴られています。
尊厳死の問題はどうでしょう?それに伴う安楽死の問題をどのように考えればいいのでしょう?
以前 痴呆で寝たきりの老人の 延命装置を外して 殺人罪に問われた医師のことが報道されました。
フィジー島では人肉を食べる習慣が あります。
戦争下においては敵とみなされた相手を殺すことは善とされます。
善悪優劣はまさに比較が作る実態のないものといえます。
然し 和多志たちの今生きている社会は 競争原理が強力な規範となっています。
競争原理に則って生きれば 当然敗者とみなされる人々が生まれるわけです。
敗者が 卑屈な被害者意識に陥らず [まさに失敗は成功の元]とばかりに失敗から学びながら 成長してゆくには どうしたらいいのでしょう?
1.失敗(負)を通して 本来の役割、ライフビジョンを知った人は沢山います。
そんな一人に 知人の戦友 酒井雄哉さん 比叡山の大阿舎利です。
結婚しても2年で妻は自殺、事業も失敗、何もかも失敗で仏門に入り 大成した方です。
食事はお蕎麦と信者さんにいただくお茶 、いつ死を迎えてもいいように 葬儀用のお金を常に身につけ野山を駆け巡り 修行をされるそうです。
知人は毎年 お正月には彼の焚く護摩に預かり続けていたそうですが 阪神大震災のあった年のお正月にはこのゴマが消えたそうです。
酒井さんは「災いが起きても 心を騒がせないように]と言われたそうです。
比叡山1000年余りの歴史の中で3人目の 二度の千日峰行やり遂げた人だそうです。(700日は自利の為 残りは利他の為)
2.宇宙という 全体の意志と目的のために 調和とバランスの為に
宇宙の一部である 和多志たちには役割があり個性があります。
全体の有機的なダイナミズムの中で神仏がよしとした 掛け替えのない 和多志を愛する(足るを知る)とは神仏を愛することといえます。
和多志が痛めば宇宙が痛む 。
小宇宙と言われる人体を見れば一目瞭然です。
小指が痛めば身体全体が痛むとは聖書にも記されていることです。
相互に関連し、相互に循環しあっている 和多志たちは 皆で高め合う以外に幸せになりません。
競争原理の強い社会で「弱肉強食にしないで 皆で高め合う」とは どの様に成り立つのでしょう。
みなさんはトロプスという言葉をご存じでしょうか?トロプスとはスポーツを逆読みした言葉です。不思議なことにスポーツの殆どは勝敗を競いますね。(勝敗を競わないスポーツをご存知ですか?)
トロプスとはダンスや体操 トレーニングのように 「勝敗なしの運動を 皆で楽しみましょう」という主張です。
トロプスは 良いライバルとともに切磋琢磨し、共に楽しみながら、皆で高め合うことを目的とします。
タラントを持った色々な人 (その得意分野での勝者)をサポートしながら敗者も勝者になっていく生き方は敗者の卑屈を払拭してくれます。
競争の対象を他者ではなく自分に置き換え、克己と努力をなすこととも言えます。
みんなで高め合って みんなが勝者になれるといいですよね。
優劣の字を観ると
優は人が憂うと書き 優しい、優れていると読みますよね。
劣は少ない力 :力まない自然体とか 聖書の山上の垂訓にある「心の貧しい人は幸いである」という句を連想します。
更に優の字は大人、劣の字は子どもを連想させます。人生もトロプスのように楽しめるといいですね。
3. 弱さは強さです。
和多志は世知に疎いです。
お金を無くしても 氣づかないことがあるので いきなり出てきて得をした 氣持ちになったことが沢山あります。最高200万円です。(これは預金)
財布やバックは何度もなくしました。クレジットカードやキャッシュカードごとです。
面倒な手続きは夫がしてくれたので あまり凝りなかったようです。
それでも家計は皆和多志が預かっているという不思議もあります。
市役所とか 煩雑なこの世の手続きは 夫がみんなしてくれました。
和多志に来た年賀状も 返信は夫がしてくれました。
方向音痴は堂にいったもので 新しい地に出かけるときは 切符の手配は夫が皆し、道順まで調べ、「こっちの電車に乗ると反対に行くから」と忠告されれば見事に反対の電車に乗ったりもしました。
多くの人から「貴女って しっかりして見えるのに ドジね!!」といわれます。
世知に疎いことで たまには侮蔑の目で見られることもありますが 皆がそれを補ってくれます。
できないで通せば 誰かがしてくれるという 怠惰な得も あるということかもしれません。
聖書に「園の中央にある善悪を知る木から取って食べてはならない。
食べると死ぬから」と書いてあります。
取って食べたアダムとイブは 神を失い、楽園を追放されます。
善悪の区分をすることは自己を神化することであり、絶対的な善悪は 存在しないということではないでしょうか。
「ハートビーイング」というライフスキルプログラムがあります。
その中で人に言われて 嬉しかった言葉を書き出す作業をします。
いつもと言って良いほど トップになる言葉があります。
それは「ありがとう」です。
感謝の言葉が 人を癒し 愛の循環を生む力を持つことが 良く分ります。
若い頃の和多志はモラリストが嫌いでした。偽善者のように思えたからです。
しかし偽とは人(の)為と書くのも面白い。
(無関係かもしれませんが 和多志が優の字が好きなのは 人が憂うと書くからです。
憂いを知る人は優しく優れている、優秀ともいえます。)道徳律を押しつけられるのも嫌でした。
ひところ不登校が話題になりました。
「よい子で頑張ること」が 不適応を生む大きな 要因と言われました。
善い子とは 周りの大人にとって都合のよい子の呼称です。
善い子は自分の意思より 周囲の期待や価値観に応えることを優先します。
成長する中でいつの間にか自分を失っていくのです。
保育士の研修を担当していますが その方々の大多数が 善い人でなければならないという誤った信じ込みを持っています。
研修内容の一つに 「~さん あなたはかけがえのない大事な方ですよ。ありのままでいいですよ。よく頑張ってきましたね」と伝えるプログラムを入れています。皆 大感激を受けます。
しかし「善い人であれ」を自分に課して 生きていくと周りから評価を得 人生を勝ち取る大きな力になります。
このような 自分を縛りながら 一見人生を勝ち取ってきたかに見える厄介な信じ込み(一般的にドラィバーと呼ばれる)は氣づいても手放す(自由になる)のが困難です。
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