わたしには トンネルという機能が実存的アイディンティティ、壁が社会的アイディンティティのように感じるのですが?社会的アイディンティティは変容し続けますが 実存的アイディンティティが崩れ去るとアイディンティティ拡散、心の病と言われます。また 心はころころ変わるといわれますが 心の連続体が説かれています。これらのことは 想念を思いつく限り消してゆき 魂イメージまでも消したとき 胸からエネルギーが立ち昇った経験と重なります。
Facebook上田 誠さん投稿記事 · 「智恵子抄。」
以前、自閉症の子どもに庭先に咲いている花を指してこれが「アヤメ」だよと説明したことがありました。
その子どもと一緒に近くの公園に遊びにいったとき、そこにもたくさんのアヤメが咲いていたので、「ここにもアヤメが咲いているね」と話しました。
でもその子は、これはアヤメではない、ウエダさん、何という名前の花なの?と
何度も何度も私に聞いてきます。
その理由は私にはよくわかっているので、決して違うとは言いません。確かに違うね。。
こんなときいつも思い出すのが智恵子抄。有名な「あどけない話」です。
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~あどけない話~ 高村 光太郎
智恵子は東京に空が無いといふ、ほんとの空が見たいといふ。私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、切つても切れないむかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしはうすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。阿多多羅山の山の上に毎日出てゐる青い空が智恵子のほんとの空だといふ。あどけない空の話である。
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あどけないと言ってしまえばそうですが、同じような場面をよく経験する私にとっては、
あどけないというより私たちとは違うモノの見方をする自閉症児(者)の、その特異で繊細な認知の仕方を切に感じます。
私がある憧れをもっていつも回顧するのがこの智恵子抄、そしてその繊細な認知の仕方。
例えば、目の前の赤いリンゴは紛れもないリンゴですが、細かく見ていけば 他のリンゴとは大きさはもちろん、色も形も匂いも少しずつ違います。
少しずつ、でも、やはり全部違う。。また、ちょっとした凹みがあったり、少し硬さが違っていたり・・・これがリンゴだよと説明するとリンゴのあらゆる微細な部分をも吸収してしまう彼らにとっては他のリンゴを指してこれもリンゴだよといっても決して納得しない。
つまり、智恵子が見た空は「阿多多羅山の山の上に毎日出てゐる青い空」の空であり、決して
東京の空を指したものではありません。明らかに違うのです。
自閉症の方は「場面」とともにあるモノの細部を認知するのですが、だから、智恵子にとっての空は「阿多多羅山の山の上」になければいけない、、。
さらに智恵子には、その空の、その空気の微細な光の粒なども見えていたに違いない、、そう思います。
感覚・認知・認識の違いから 周囲との、多くの摩擦・軋轢を経験したであろう智恵子は
やがて統合失調症を発症します。
現在に於いても 多くのASD(自閉症スペクトラム)の方が その二次障害としての精神障害を発症する様子に、その類似形に、やはりため息が出るのです。
繊細な精神をもつ智恵子はあなたのそばにいるのですから。。
https://ujikenorio.hatenablog.com/entry/20150829/p2 【覚え書:「今週の本棚:養老孟司・評 『エゴ・トンネル−心の科学と「わたし」という謎』=トーマス・メッツィンガー著」、『毎日新聞』2015年08月16日(日)付。】より
◇自己など存在しない、あるのは壁だけ
自己とはなにか。現に世間で忙しく働いている人には、これは青臭い疑問であろう。このクソ忙しいのに、いまさらそんなこと、考えている暇はないわ。
他方、若者は「自分探し」などという。「自分に合った仕事を探している」。バブル崩壊後の時期には、いわゆるフリーターがそう主張するのが常だった。いまは就職難ではないから、そんなことはいわなくなったかもしれない。
エゴ・トンネルとは奇妙な表題である。その意味は文字通りであって、自分とは要するにトンネルみたいなものだ、と著者はいう。トンネルはさまざまなものが通行するかもしれないが、実体はない。空虚である。中が空でなければ、そもそもトンネルとして使えない。存在するのはなにかというなら、壁だけ。
著者はドイツ系の哲学者で、神経科学、認知科学の専門家と組んで仕事をしている。欧米では近年こういう人が多い。日本でも若い世代にそういう人たちが出始めてきた。一読して思う。欧米人もやっと仏教的な「無我」をまともに思考するようになったなあ、と。思えば明治以降、日本の知識階級は「西欧近代的自我」に翻弄(ほんろう)されてきた。そんなものはもう忘れたほうがいい。肝心の本家がそんなものはない、という時代なのである。
本書は三部に分けられている。第一部では、自己という概念だけに拘(かか)わらず、意識の周辺を巡りながら、世界認識に関わるいくつかの問題を概説する。世界はなぜ単一か、今とはなにか、現実とはなにか、等々。第二部では、近年の神経科学の発見を含めて、身体と心における自己を論じる。著者は体外離脱経験をするという。日本では臨死体験で幽体離脱などと呼ばれた現象である。約一割の人がこういう経験をするといわれる。おそらく睡眠と覚醒に関するスイッチのタイミングが普通の人と少し違うらしい。そういう体質もあって、著者は自己という主題に取り組んだのかもしれない。
第三部は著者のような考え方をとった場合に、社会的な問題がどうなるかを論じる。実体としての自己などない。そういう結論をとると、キリスト教社会の場合、まず自由意志の存在が問題となる。それは刑法の基本的な考え方にも影響するはずである。
さらに一般的には、どのような意識状態が「倫理的」であるか、それを考える必要が生じる。たとえば脳の働きに影響を与える薬物の使用は、どこまで許されるか。最近大会社の役員が薬物問題で辞職することになった。ではどの程度の薬なら使っていいのか。合法ドラッグを麻薬と同じと見なせば、禁止に決まっているという結論になる。しかし脳機能に影響する薬剤は麻薬に限らない。睡眠薬や鎮痛剤はどうか。将来にわたれば、おびただしい種類の中枢神経薬が今後作られるはずである。とくに集中力や思考力を高める「良い薬」なら、競争関係が厳しい職場では当然使われることになろう。オリンピックの筋力増強剤を考えたらわかる。会社で毎日、社員の尿検査でもするのか。どのような意識状態が「よいもの」であるか、われわれはそれを本気で考えなければならない社会に入りつつある。この面における著者の指摘は、社会の将来像を考える上で不可欠な視点である。
哲学者というと、一般に顔をしかめて、机の前で独りで考える、というイメージが湧くかもしれない。その哲学が時代遅れのように感じられるのは、ネット社会の発達もある。独りで考えるというより、多くの人が共通の土俵の上で話し合うことができるようになったからである。だから脳機能でも「社会脳」が重視されるようになった。じつは近年の脳科学では、ヒトの脳のデフォルト設定は社会脳だとわかっている。赤ちゃんだってそうだが、まず母親の顔に反応するので、それ以前に「自分で考える」わけがないであろう。成人でも自分でものを考えるのと、目の前の人を相手にすることは、同時には行えない。「考えているんだから、ちょっと待ってくれ」と目の前の相手にいうしかない。意識は自分で考えるか、相手をするか、どちらかに偏るしかないのだが、脳の初期設定は社会脳、つまり相手をするほうなのである。こちらの面についてはマシュー・リーバーマン『21世紀の脳科学』(江口泰子訳、講談社)が本書の補強として参考になると思う。
意識の最大の不思議は、もちろん脳が自分のことに気付いているのはなぜか、ということである。その問題はまだ解けていない。ただそれを解かなくても、先に考えなければならない問題が山積している。そうした問題を全体として見渡すために、本書は非常に優れた総説となっている。脳科学は社会のあらゆる分野に関わっており、脳科学から全体を俯瞰(ふかん)する書物として、本書をお勧めしたい。大学その他で教科書として使用することも十分に可能であろう。(原塑(はらさく)、鹿野祐介訳)
−−「今週の本棚:養老孟司・評 『エゴ・トンネル−心の科学と「わたし」という謎』=トーマス・メッツィンガー著」、『毎日新聞』2015年08月16日(日)付。
http://yoshi-imajuku.blog.jp/archives/1060932544.html 【自分を超えて】より
本日の午後Eテレの「こころの時代」で養老孟司さんのインタビュー「“自分”を超えて」の再放送があり、非常に重要なお話だったので、備忘録として書き留めておきます。
最初の放送は1月だったようですが、ちょうどその時期は旅行に出ていて見れなかったようです。
番組のリードは、
確かな個性とか独創性などといった言葉が現代を生きる若者たちの息苦しさにつながっているという養老孟司さん。「自分」とは、例えば無限に広がる地図の中で現在位置を示す矢印のようなもので、脳のはたらきがその時々の自分と外界を区別しているにすぎないのではないか、と考える。また、人間の意識は脳の所産であり、そうした考え方は原始仏教の教えにも通じていると気付いたという。「自分」を解放し自由に生きる大切さを聞く。
私が気づいたポイント、
日本でも今、「あらかじめ自分がある」という考え方があるけれどもそれは間違いではないか。
養老さんは、解剖の先生で、臨床だと患者から問題が提起されるが、解剖が相手は死人で何も言わない。自分で問題を立てなければならない。だから自由。そこで社会にも問いが出てくる。
アメリカでは子どもの時から、自分というものがあって、問題に選択することが要求される。社会からの一々の要請は「自分は存在する」というメタ・メッセージになっている。これは、キリスト教の見方から来ているようだが、疑問を持っている人もいる。「エゴ・トンネル」の紹介
エゴ・トンネル――心の科学と「わたし」という謎
エゴ・トンネル――心の科学と「わたし」という謎 [単行本]
トーマス・メッツィンガー
岩波書店
日本では、やはり仏教の影響が大きい。日本人の根本の思想は、「無」ではないか(「自分」を信じていないということへの疑い)。
諸行無常と言うが、「平家物語」のテキストは変わらない。テキスト=情報は変わらない。
意識は言葉によって圧縮され情報になる。実際の現実は常に変化していて感覚はすべてを捕えているが、すぐに情報に変換されていく。
子どもはまだ意識が発達していないので、すべての状況を見ている。大人は変化する状況をただちに情報に変換して状況を無視する。都市生活は状況を見えないようにしている。
「赤で書いた青」というパラドックス。
鈴木大拙の「人間はモノをフォーカスして見ているが、そのモノの後には無限が存在している」という意味(金光寿郎)。 また、信仰は思い込みを外すということ。
回向は日本にのみあるのだそうだ。ケンタッキー・フライドチキンのチェーンで鶏の回向をしているのは日本だけだそうだ。日本人は負けた側、死んだ側を回向する(そういえば国つ神の鎮魂のために出雲大社や三輪神社がありましたね)。
左脳が意識を司っているのではないか。
奇跡の脳―脳科学者の脳が壊れたとき (新潮文庫)
奇跡の脳―脳科学者の脳が壊れたとき (新潮文庫) [文庫]
ジル・ボルト テイラー
新潮社
若い人たちが「自分」に悩んでいるとき、「あらかじめの自分はない」と老人がキッパリと言えるようになったらいい。
全体として、今、連続で書いている「盤珪の不生禅」と同じ消息なのだが、盤珪の考えを支えるたくさんのヒントがあった。
https://www.youtube.com/watch?v=5C6ywqOwUgc&t=47s
「建学の精神」である禅仏教による人格の陶冶をテーマに、「禅・仏教講座」として開設しています。
禅の世界をあらゆる角度から捉え感得するため総長、学長、仏教学科教員を中心に授業を展開し、その他、いす坐禅・読経など実践を行います。
「知識としての禅」から「感じとる禅」への転換をテーマとし、「自分だけにしかないいのちを生きる」ことを目標とした講義です。
※新型コロナウイルスの感染の拡大にともない、花園大学は、ご来場の皆さまの健康と安全の確保、また感染拡大防止の観点から、今年度(2022年度)の「禅とこころ」は、公開講座として一般の方の聴講は、ご遠慮いただく事にいたしました。
なお、学生向けに配信している総長講義のみ、順次公開させていただきます。
■講座動画の補足情報
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中村 元、紀野 一義『般若心経・金剛般若経』 (岩波文庫)
舍利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。
舎利子よ、色は空に異ならず。空は色に異ならず。
色はすなわちこれ空、空はすなわちこれ色なり。受想行識もまたまたかくのごとし。
シャーリプトラよ、この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象であり得るのである。
実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。
(このようにして、) およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。
これと同じように、感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである。
盤珪禅師 『心経抄』
舎利弗、空と云ふは、色をけして空じゃと云ふてはなきなり。一切の法色、ありとあらゆる色体の上、さまたげずして相を見ず、故にありありとありながら空なり。山は山の如く、川は川の如く、人は人の如く、十界の境界、ありの儘で一つもきらふこともなく、にくむこともなく、あいすることもなく、鏡に影の移るが如く、善は善の如く、悪しきことは悪しきとしり、一つも覚ちがえもなく、さはりなき時は、十方世界、一時に見開いて、色の上有りの儘なり。
般若心経意 小笠原秀実(『小笠原秀実・登』八木康敝(リブロポート))
形あるものは すべてこわれてゆく 花のように 人のように 楼閣のように
されど形なきものは 虚空のように 大空のように いつまでもこわれることを 知らない
形ある すべてを棄てた心 変りゆく すべてを離れたそれが 空の心である
碧の大空のように 空の心は限りもなく 涯もなく 増えることもなく 減ることもない
こわれゆくこの世のすべてを離れるが故に 生きることにも 迷わず つまずくことにも惑わず 唯すべての畏れを離れる 若葉にしたたる 日の滴が すべてを包み すべてを はぐくむように 空の心は 何物をも許し 何物をも 育ててゆく それは限りなき楽しみであり
無我の明さである 朗らかな空の心よ 暖かく 滴たる空の光よ
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