Facebook山地 弘純さん投稿記事 【新年法話6「般若心経セラピー 1人ワーク編」(再投稿)】
「手を出すなって!」僕はかなりの怒りを込めておばあちゃんに言った。
長女がよそ見をしてコップを倒して、中の紅茶をテーブルの上にこぼしてしまった時のことだった。
長女は「あ〜」と悲しそうな顔をして固まっているのとは対照的に、条件反射かのように素早く布巾を取りに行き拭こうとするおばあちゃん。
その姿を見て、瞬間的に怒りが湧き上がったってわけ。
自分のやったことなのに人任せにしてる姿に腹が立った。「自分がこぼしたのに人任せにしないで!」
本人のやる機会を奪ってる姿に腹が立った。「本人にやらせて!」
僕の怒りのエネルギーに触れて、おばあちゃんはその部屋から退散させられ、長女は泣き出してしまった。
そうやって拭きもせずに泣いている姿に、ますます怒りが増した。
フーッと深呼吸して、意識を外側から内側に切り替える。
「人任せにせずに、自分のことは自分でするべきだ」
「すぐに手出しして、自分のことを自分でできるようになる機会を奪うべきではない」
そんな僕の執着が浮かびあがる。
なんで?人任せにしていいじゃん。すぐに手出しして機会奪ったっていいじゃん。
だめだよ。なんにもできないダメな人になっちゃうよ。親として見守れないなんて最悪の親だよ。それが許せない自分がそこにはいた。
そっか。過去の傷つきが呼んでるんだね。すぐに思い当たった。
長女はまさに僕の姿にそっくりだ。いつも鈍臭くて、不器用な自分。
いつも「なにをするのも遅い」とヒステリックに怒られ、手出しをされてしまう自分。
そうだ、それでいて、「なんでも人任せにしとったらあかん」とか「なんにも自分でできん」と愚痴愚痴言われながら成長を促されていた自分。
ほんとは傷ついていた。
それをずっと許せずにきていたんだね。特におばあちゃんに対してね。
大人になって違う価値観を手に入れてからは、あなたが成長を妨げてたんだろ!
そういう反論も用意できたけれど、ほんとに伝えたかったことは、「それでもいいよ」「それでもなんとかなるよ」って言って欲しかったんじゃないかな。
親の気持ちを想像してみる。
あの頃のおばあちゃんもお母さんも、誰かの視線に怯えてたのかもしれないね。
さっさとなんでも一人でできる、他人の見本になれるような子育てをしなきゃなんて背負いこんでたのかもしれないね。
それを思うと共感してなんだか切なくなっちゃう。
でもね、もう大丈夫だよ。誰の見本にもならなくてもいい。お寺の子だからって等身大でいい。それでいいんだよ。
僕は、鈍臭いのを認めてくれる人ができたよ。わかった上で手助けしてくれる人ができたよ。
行動に移すのはゆっくりかもしれないけれど、その前の感じたことや思ったことは丁寧に味わえているよ。
そのイメージワークは、傷ついたマイナスを癒していくプラス治療法。
般若心経に出てくる「空」。つまり「ゼロ」のこと。
マイナスの分だけ必ずプラスは見つかるから。それが見つかったら、ゼロになって空に還っていく。どうかな。僕の執着は空に還ったかな。
あ、そういえば拭きもせずにただ止まっているように見えたあの時って、もしかしたらこぼしてしまった「あ〜」っていうショックを感じきっていた時間なのかもって、今気づけたよ。
感情を感じきることが大切とか言ってる父ちゃんが、それを邪魔しちゃったとしたら、ほんとに悪いことしちゃったな。
泣いている長女に「ごめんね」って伝えた。そして僕の思いを語った。
長女は「わかった」と泣き止んだ。
でもね、「もし誰かがこぼしたりしても、絶対に手伝いませんから!」だってさ。
あははは。そうなるよな〜。そりゃそうだわ。
親の偏りを正したかったのに、子には対極の偏りを伝えてることに苦笑い。
多分未来の彼女の感情からこの時の体験が呼び戻されることもあるのだろう。とはいえ僕はスッキリ。
これからこんな場面に遭遇してもさ、きっともっと軽やかな感情で自分の思いを言葉にできそうな気がするんだ〜。
怒りはいつだって自分の本当の想いを教えてくれるありがたいものだね。
許せた分だけ、世界は広がる。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
《般若心経カウンセリング ゆるゆる一人ワーク》
①怒りをしっかりと感じる
②怒りの原因となる自分の信念への執着(あ~せねば、こうするべき、こうするのがあたりまえ)を浮かび上がらせる
③その信念に強く執着してしまう過去の傷つき体験を見つめ、傷ついた感情を癒してみる
④当時の相手の立場を想像し共感してみる
⑤執着(べき、ねば、あたりまえ)をはずしてみる
⑥自分の心の執着を弛め、相手を許す(ゆるめばゆるせる)
https://www.youtube.com/watch?v=Esn7QvTlSpw
Facebook星野 義幸さん投稿記事
いつも空を見上げていた。 いつしか太陽をじっと見つめていた。瞳を閉じず凝視してると
その眩い光は収束しただの丸い物体になった。なぜ空を見上げ太陽を見続けたのか。
見上げていた太陽は僕の父親だったのだ。ずっと父親はいなかった。いてもいなかった。
その大きな偉大な存在は不在だったのだ。そしてもうひとり。母親もいなかった。
優しく包み込むようなその存在も不在だったのだ。
ずっとずっと眩く輝く太陽が父親で大きな大きな海が母親だったのだ。
やがて父親と母親は現れた。たくさんの父と母。生みの父と母。紙切れ一枚で繋がった父。
魂で繋かっていた父と母。たくさんの父と母の子でありながら誰の子でも無い。
みんなの子だった。そしてみんなの子は誰の子でも無かった。誰かの価値観に従うと誰かに否定される。決して未来永劫認められること無く存在するのに存在しない存在だった。
でも、すべての価値観を受け容れすべての愛を受け容れ育まれたと知った僕は無条件、無制限の愛の中に在ったことに気付いた。
その中に在りそれは自分の内にも在ることを知った
僕は気付いた。やはり僕は地球で僕は宇宙だったのだ。
花は咲き花は枯れ陽は昇り陽は沈み星は生まれ星は消滅し人は生まれ人は死にそして転生を
重ねた人はいつしか星になる。それでも存在し続けたもの。僕は宇宙だった。
そして星はイマ地球で僕はこの曼珠沙華のような赤い血の流れる小さな小さなひとりの人間だった。
宇宙を全て包み込み宇宙のセンターでその何も無いゼロな場所に在りひとりの人間の
ハートのセンターに在る時まさに個で在りながら僕は全てだった。
何度も何度も号泣し嗚咽しその涙で洗われてそこに現れたものはまさしくそれだった。
それが何かはもう言わない。みんな知っていてみんなそれなのだから。ただ全てが
愛しくて ただ全てが 大好きでたまらない。そう言えばずっとずっと毎日そんなこと
ばかり叫び続けてきたのだった。でももう何も言わなくてもいい時が来た。
もうただここに在るだけで。そして今日もイマココに僕は在る。ただそれだけ。
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