ワニの船

https://mintun.exblog.jp/239370765/ 【ワニの船】より

つい先日、日本人の祖先が台湾からどう渡来したかを探っている、国立科学博物館のチームの丸木舟が、与那国島への航海に成功したというニュースを見た。

古代船を造ってから3年がかりのプロジェクト。葦舟や竹船で航海に挑んたものの、失敗したという。

ニュースを見た頃、語り部も古代船を霊視していた。「マナシカタマというのは、葦船のことですか?」という電話が入る。そして、立て続けに言う。

「海幸山幸の神話で、塩土老翁が造って山幸を乗せた小船は、マナシカタマと呼ばれていましたか?」「浦島太郎の乗った亀も、マナシカタマでしたか?」 

「はい、そのようです」と、私は調べてから言った。

マナシカタマ。

日本書紀に「目無籠」「無目堅間」などとある。

文字通り、目が無いほど固く編んだ竹籠製の古代船。底に自然タールを塗って海水の浸水を防いだらしい。それは、カタマランと同じ意味だと考えている。

南太平洋ポリネシアの原住民が造った双胴船。

竹船や葦船を繋げた双胴船もあったらしい。南洋渡来の海人族だった私たちの遥かなる祖先が、そのマナシカタマで大海を渡ってきたという記憶が、海幸山幸のヤマト神話につながったのだとも…。

アマミキヨの渡来したヤハラヅカサとその周辺の仲村渠(南城市玉城)にも、こんな伝説がある。

「昔々、アマミキヨは竹で造った船でやって来た。そのため、子孫にあたる旧家では屋根に竹を使った」どれぐらい古い伝説なのかは定かではないが、アマミキヨと伝わるからには、島立ての頃からの話。

また、琉球の稲作の地と伝わる海岸近くの受水走水

(ウキンジュハインジュ)には、御嶽上部に磐座があり、その名は、「タカマシカマノ」と呼ばれる。それは、「マナシカタマ」の変化したものだろうとの説もある。

電話の後、私は語り部に、あの東殿塚古墳の埴輪に描かれていた古代船の写真を送った。

卑弥呼と同時代、3世紀後半の古墳から出土した埴輪に描かれていた古代船である。奈良県天理市の龍王山一帯は古代豪族・和邇氏の本拠地で、私はあの5月末、和爾赤坂比古神社に参拝していた。

「写真がちょっと不鮮明なのですが、私が視た竹籠の船と似ていますね。卑弥呼一族の船だと思います」そのときだった。和邇氏の祖とも言われる、和爾赤坂比古神社の祭神について、閃いたものだ。

祭神は、吾田賀田須命(アタカタスノミコト)。アタ・カタ・ス。(薩摩)の阿多から籠(カタマ)でやって来た祖先という意味じゃないだろうか…!?

和爾赤坂比古神社に参拝したときから、脳裏に引っかかっていたそのご祭神・吾田賀田須命の名前。朱産地を表していたのであろう「赤坂」を治めたヒコ。

相祀されるヒメは、市杵島姫と毛筆の説明板があった。

語り部の意見を聞くと、こんな反応があった。

「和邇の祖でしょうが、元々の海神というよりは、和邇氏系図に入り、この地を治めた海人のようです。阿多は、(鹿児島県)薩摩半島の南西部ですね」

そうなのだった。ヤマト神話で、天孫ニニギが山の神の娘であるコノハナサクヤ姫と結ばれたのが阿多の笠沙。また阿多隼人の本拠地でもある。

吾田賀田須命は、阿多隼人の祖か、和邇氏の祖か。

あるいは、阿多隼人の祖は、和邇氏の祖なのか。また新たに難しい課題が浮上してきた。


https://gejirin.com/src/Wa/wani.html 【ワニ】より 

鰐。 鮫(さめ)類の古名。

ワニ船。帆ワニ。 帆船のこと。 船の中で最も高速。

(対馬では今でも大型の舟をワニ、小型のをカモと言う) 

『よりて御孫と タチカラヲ ワニ船に乗り 上総の ツクモに着きて カトリ宮 神言 宣れば』20文

『君は鉤を得て 喜びに シガの守して 返さしむ ワニに乗り行き シノ宮で ヤマクイ招き 諸共に ウカワに行けば』25文

『シガ 船問えば ワニが言ふ "オオカメならば 月越えん カモは一月 オオワニは 早々"』26文

『宣給わく "父召す時は 騒かなり 我はオオワニ 姫はカモ 後に遅れ"と』26文

『大ワニを シガの浦より 綱 解きて 早ちに 北の都に着きて イササワケより ミツホまで 御帰りあれば』26文

『釣船よりぞ ミホサキの ワニ得てここに 着くことも 御胤思えば ナギサ・タケ 母の実心 現るる』26文

『告ぐるツクシの ハテスミと オトタマ姫と ワニ 上り 西の宮より 山背に 到りて問えど』26文

『孫のシガ 帆ワニ成す 七代 カナサキは オカメを造る』27文

『ついに因みて ミゾクイの タマクシ姫も 孕む故 ワニ乗り 阿波へ 帰る内』27文

『御子タケヒトと 守タネコ タガより出でて 西の宮 大ワニ乗りて ウドの浜 ミヤサキ宮に 到ります』27文   

ツクシの国守。 

海運を業となすか。これもカナサキの枝姓の一つと思われる。  

『シガ 船問えば ワニが言ふ "オオカメならば 月越えん カモは一月 オオワニは 早々"』26文  

和珥、和爾、和仁。 

アマタラシヒコクニ (春日親君) の三世孫のヒコクニフクがワニクニフクと云われ和邇氏の祖といわれる。  

ワニフネ・ホワニ・オオワニ

鰐船。帆鰐。

ワニは鮫であるから、その姿から想像して帆掛け船だろう。 

ワニ → カモ → カメ の順で速いらしい。 

★『書記』事代主神、八尋鰐になって三嶋溝樴姫、或いは云わく、玉櫛姫のもとに通い給う。そして姫蹈鞴五十鈴姫命を生み給う。

★『旧事』事代主神は八尋のワニとなって、三嶋溝杭(みしまのみぞくい) の娘・活玉依姫(いくたまよりひめ) のもとへ通い、一男一女を生まれました。 

『よりて御孫と タチカラヲ ワニ船に乗り 上総の ツクモに着きて カトリ宮 神言 宣れば』20文

『オオカメならば 月越えん カモは一月 オオワニは 早々』26文

『船はいにしえ シマツヒコ 朽木に乗れる 鵜の鳥の アヅミ川行く 筏乗り  竿差し覚え 船と成す』27文

『子のオキツヒコ 鴨を見て 櫂を作れば 孫のシガ 帆ワニ 成す 七代 カナサキは オカメを造る』27文

『その孫の ハテカミの子の トヨタマと 水侍と船 造る神 六船霊ぞ』27文

『ついに因みて ミゾクイの タマクシ姫も 孕む故 ワニ乗り 阿波へ 帰る内』27文

『生む子の斎名 ワニヒコは クシミカタマぞ 次の子は 斎名ナカヒコ クシナシぞ 青垣殿に 住ましむる』27文

『御子 タケヒトと守 タネコ タガより出でてニシノ宮 大ワニ 乗りてウドの浜 ミヤサキ宮に』27文


https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12315230196.html 【大国魂神社あたりがやはり日ノ本の首都だ!】より

武蔵野国府があった大国魂神社の真北に男体山と二荒山神社があり、真南に江島神社があった。

大国魂神社の祭神は縄文人の神様の大国主命であるのに対し、江島神社は海人族の宗像三女神(江戸時代までは弁財天)を祀り、二荒山神社は大己貴命(大国主命と同一神)と田心姫(宗像三女神の一神、弁財天と同一神)を祀っている。すなわち、縄文時代の山の民と海の民の共存の象徴であった。

二荒山神社は男体山の山頂と南麓、江島神社は江ノ島にあり、信じられないくらい正確な南北線にあった。この神聖ライン上に大国魂神社があることになる。

黄丸: 男体山と二荒山神社、赤丸: 大国魂神社、緑丸: 江島神社

その他、黒丸: 名草巨石群と名草厳島神社、青丸: さきたま古墳群、白丸: 川越市街と古墳群なども直線上にある。

大国魂神社の鳥瞰(南方向、3D)、二荒山神社から真南に大国魂神社の参道があり、さらに江島神社がある。

参考

①-1 二荒山神社

祭神は大己貴命(大国主命と同一神、男体山)と田心姫命(宗像三女神の一神、女峰山)、味耜高彦根命(太郎山)

勝道上人が開祖と説明されるが、実際には太郎山神社周辺で古代の祭祀の痕跡を示す遺跡が見つかっており、相当古くから聖地として信仰対象であったことがわかっている(wikiより)。

男体山

二荒山神社中宮祠の拝殿

二荒山神社中宮祠

男体山頂の奥宮と南麓の中宮祠、左下が中禅寺湖

男体山、女峰山、太郎山

①-2 二荒山の由来(参考)、、、補陀洛山は南方にあり紀伊半島の熊野では船に僧侶を乗せて南の海に流したが、この地から真南にある江ノ島が、やはり弘法大師ゆかりの信仰の地であった。

この日光という地名の由来についてはいろいろな説があります。観音菩薩の浄土【かんのんぼさつのじょうど】を補陀洛山【ふだらくさん】といいますが、その補陀洛山からフタラ山(二荒山)の名がついたという説、日光の山には熊笹【クマザサ】が多いので、アイヌ語のフトラ=熊笹がフタラになりフタラが二荒になったという説、男体山【なんたいさん】、女峰山【にょほうさん】に男女の二神が現れたのでフタアラワレの山になったとか、いろは坂の入口付近に屏風岩【びょうぶいわ】があります。そこに大きな洞穴があり、「風穴」とか「雷神窟【らいじんくつ】」などと呼ばれており、この穴に風の神と雷獣【らいじゅう】が住んでいて、カミナリをおこし豪雨を降らせ、春と秋に暴風が吹いて土地を荒したので二荒山という名ができたとか、二荒が日光になったのは、弘法大師空海が二荒山(男体山)に登られたとき、二荒の文字が感心しないといって、フタラをニコウと音読し、良い字をあてて日光にしたと伝えられております。

② 大国魂神社

祭神は大国主命(大己貴命と同一神)

武蔵国府跡に一致している。

大国魂神社の拝殿

大国魂神社の境内と武蔵国府跡

府中市内の遺跡一覧の抜粋(参考)、武蔵国府跡周辺と武蔵国分寺跡周辺が最も遺物の出土が多く、旧石器時代、縄文時代の遺物から中世、近世までの遺物が出土する。

(略)

③-1 江島神社

祭神は田心姫命を含む宗像三女神江戸時代までは弁財天を祀る。

本土から南の江ノ島を望む

江ノ島と江島神社

③-2 江ノ島南端の岩屋(参考)

長い歳月を経て波の浸食でできた岩屋は、第一岩屋(奥行152m)と第二岩屋(奥行56m)から成ります。昭和46年以来、長期閉鎖されていましたが、周辺施設を一新し、平成5年4月から再開されています。

古くから信仰の対象にもされてきた岩屋。弘法大師が訪れた際には弁財天がその姿を現し、また源頼朝が戦勝祈願に訪れたとも言われています。照明や音響で演出された洞内では、様々な展示物から江の島が歩んできた歴史と文化の一端をご覧いただけます。

また、全長128mのオープンスペースからは相模湾とその向こうに広がる富士・箱根・伊豆方面の景観が一望でき、開放感をご満悦いただけるでしょう。

④ 男体山の南、足利市に空海ゆかりの名草巨石群と名草厳島神社があった(参考)

⑤ さきたま古墳群と前玉神社も大国魂神社の真北にあった(参考)

⑥ 大国魂神社の真北の川越市街周辺は古墳群だった(参考)

⑦ 下呂市金山町の岩屋岩蔭遺跡の太陽観測施設と筑波山を結ぶ線が約10度傾いていることから、6000年前くらいの縄文時代に首都となった(参考)?!

https://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/honbu/hisho/jaja/08_yamato.html 【ヤマトとハヤトが共存した西都原】より

二つの文化の接点として

今より気候が冷涼だった縄文時代、日本列島でもっとも温暖な地方だった南九州には、早くから人が住み着き、やがて彼らは他に類例のない独自の文化を形成していった。そうした南九州の文化を示すものとして、西都原には現在分かっているだけでも30基ほどの地下式横穴墓がある。土をうず高く盛り上げて、その土盛りの中に被葬者を埋葬する大和式の古墳は、人を天なる神々の国に近づけるものであるのに対して、地面の下に広々とした玄室を掘る地下式横穴墓は、死後の世界は地下に存在するという思想を象徴している。宮崎中央平野は、この地下式横穴墓の北限にあたる地域だ。

西都原考古博物館に展示されている隼人の楯(復元)

西都原考古博物館に展示されている隼人の楯(復元)。南九州には独自の文化と生活をもつ人々がいた。

死生観という、人間の基本的な認識の違いは、文化の源流がまったく異なることを表すもので、大和の政権にとって南九州は、「取り込むべき、異文化のクニ」だった。しかし、それは記紀にある天皇と南九州の女性との婚姻にも示されるように、征服というよりも、むしろ懐柔や友好といった穏やかな道筋で進められていったようだ。西都原に古墳が盛んに築造された同じ時代に、地下式横穴墓も作られており、また、地下式横穴墓の上に古墳を作る、両者の折衷案のようなものもあって、この最大規模のものの一つが西都原にある。西都原は、二つの文化の融合を図る大和の前線基地のような役割を果たしていたのだろう。8世紀に反乱を起こして鎮圧されたハヤトと先祖を同じくする人々が、ヤマト文化と共存しながら暮らしていたイメージが、西都原には浮かんでくる。

地下式横穴墓が発掘時そのままに保存展示

坂元ノ上横穴墓群には、6基の地下式横穴墓が発掘時そのままに保存展示されている。

海洋民族のシンボルとしての舟形はにわ

黒潮ルートによる南方との交易

西都原の代表的な遺品のひとつに、男狭穂塚・女狭穂塚の※1陪塚である170号墳から出土した舟形はにわがある。丸木舟の両舷に波よけと思われる板を立てた準構造船で、船首と船尾が大きく反り上がっている形から、外洋を航海する舟であったことが推測されている。西都原の人々が、主に南方との交流のある海の民でもあったらしいことは、権力を示す貴重な装飾品であった貝輪の出土からも示唆される。

舟形はにわ

170号墳から出土した(※2)舟形はにわは、外洋を航行する準構造船だったと考えられている。西都原の人々は、海の民でもあったのだろうか。

素材となるゴホウラ、イモガイ、スイジガイといった貝は、奄美大島以南から赤道付近に分布するもので、この交易が本土最南端に位置する日向=南九州を拠点に行われたと考えるのは自然だろう。逆に九州の土器が沖縄でも発見されている。また、南方文化は、神話にも反映されている。天孫降臨や山岳信仰のように、神は天上界におわし、天により近い山の頂きに宿るという思想は、東北アジアを源流にするといわれる。

古代、貴重な装飾品だった貝輪は、南の島々の貝で作られた。

一方、南方の島々では、ニライカナイ伝説のように、神は海の向こうからやってくる。日向神話にある海幸彦・山幸彦の物語は、後者の色彩が強い。西都原は、その意味でも二つの文化の接点だったのだろう。前述の日高正晴氏は、海幸彦・山幸彦と同様の伝承が、セレベス、パラオなど東南アジアから太平洋の島々に広く伝わっていること、西都原独自の出土品である子持ち家形はにわの母屋部分が、ニューギニアの祖先をまつる祠(ほこら)に類似していることを指摘している。こうした外洋を航海する技術をもつ人々を味方につけることは、海から遠い大和政権にとっても重要で、7世紀初頭、推古天皇の時代に百済救援の出兵を行った際にも日向へ援軍の派遣が要請されたとされている。

Facebook清水 友邦さん投稿記事

いままでたくさんの遮光器土偶を見てきましたが、破損したり小型のものが多く、大型で完全な形のものは殆どありません。

発掘された中では青森県亀ヶ岡遺跡と宮城県大崎市恵比須田遺跡と秋田県星宮遺跡の遮光器土偶が三傑と思います。

遮光器土偶は縄文時代晩期の東北地方で盛んにつくられました。

イヌイットが雪中の光除けに着用した遮光器(スノーゴーグル)に似ていることから「遮光器土偶」と名付けられました。

その形態は時代と地域によって様々です。

大型は中空ですが小型は詰まっています。

土偶に関しては、妊婦、植物の精霊、胎児、死者などの様々な説が出されています。

そして、ほとんどの土偶は完全な形ではなく、故意に割られて、その破片と一緒にていねいに埋葬されています。

人形に体の悪いところを付着させ、その人形を捨てることで病を祓うという儀礼は、世界中にあります。

縄文時代も病や災いを祓う儀礼が行われていたのでしょう。

土偶は乳房を持った女性の姿をしているので女性像のようです。

遮光器土偶のところどころに赤いベンガラ塗料が残っているので、全身が真っ赤に塗られていたようです。

生まれてくるときには赤ちゃんの名前の通り、真っ赤になって生まれてきます。

赤は血の色でもあり生命を象徴していました。

青森県の津軽半島の三厩村宇鉄から出土した遮光器土偶の腹部には、子供の小土偶が入れられていました。

頭部は壊れていましたが、その破片が小さな土偶と一緒に腹の中に収められていました。

縄文の人々は、命が生まれる不思議、死んで行く不思議を感じて、死と再生の祭祀を行ってたのでしょう。

遮光器土偶は、渦巻きのような雲のような磨消縄文手法(すりけしじょうもんしゅほう)の装飾されています。

世界中の先住民に、この渦巻き文様が見られます。

宇宙と生命は螺旋のダンスをしています。

道教は無極から陰陽の渦巻きが発生して太極となり万物が生まれると教えます。

縄文時代のストーンサークルの中心に立ってリラックスすると右回りと左回りのエネルギーが螺旋上に立ちのぼってきます。

身体感覚が開いていた縄文人も身体内部を流れる螺旋のエネルギー感じていたのです。

先日、岡野弘幹さんと純子さんとご一緒して青森の縄文遺跡を巡ってきました。

遮光器土偶が発掘された木造町のJR五能線の木造駅は駅舎が遮光器土偶になっていて列車が駅に近づくと目が光ります。

https://intojapanwaraku.com/culture/38011/ 【縄文時代の土偶がかわいい!1万2000年の歴史を3分で解説!】より

縄文時代のスターといえば、現代の「ゆるかわ」キャラクターとも比較されちゃう土偶ですね。しかし、1万年の間に作られた大量の作品は、「土偶」と一括にはできないほど多種多様。国宝級の土偶があると思えば、粘土遊びのような稚拙なものもあるし、手のひらサイズの小さな土偶があれば、30cmを超える大型のものもあります。しかしこれら土偶は、決してはじめから多種多様だったわけではありません。1万年の歴史の中には、培われた伝統があり、変遷があり、大きな革命があったのです。

そこで今回は、縄文人のクリエイティビティの代名詞とも言える土偶の歩みを振り返ります。時代や地域によって、土偶のスタイルはどのように変わっていったか? あの有名な土偶は、いつ時代のどこで、どんな背景の元に作られたものなのか? 1万2000年の歴史を、さらっと5分でおさらいします!

縄文時代の時代区分。一般的に、「草創期」「早期」「前期」「中期」「後期」「晩期」の6つの区分に分けます。草創期のまあ長いこと!

【草創期】土偶の初現は、定住をはじめてから

土偶の初現は今からおよそ1万3000年前、縄文草創期後半にまで遡ります。縄文時代の幕開けからおよそ2000年後、ちょうど定住生活が板についたあたりです。それまでは、一定期間同じ場所に住んだとしても、季節毎に場所を変えるなど、とても緩やかな定住でした。つまり、生涯に渡って住む家が決まり、「ここが私達の属す場所」という帰属意識が生まれてはじめて、土偶は作られはじめたということです。

最古の土偶(滋賀県相谷熊原遺跡出土・草創期)(滋賀県教育委員会提供)「はじめにして完成形」という言葉がふさわしい、シンプルかつ美しいフォルムです。首らしき部分に穴が空いている理由はまだ解明されていませんが、これは伝統としてその後作られる数多くの土偶に引き継がれていく特徴の一つです。

この頃の土偶で現在見つかっているのは、滋賀県の相谷熊原(あいだにくまはら)遺跡と、三重県の粥見井尻(かゆみいじり)遺跡の2体のみ。特筆すべきなのは、この2つの遺跡がどちらも、草創期にしてはかなり大きな集落だったこと。土偶はムラを守る女神的な存在だったのかもしれません。

最古の土偶(三重県粥見井尻遺跡出土・草創期)(三重県埋蔵文化財センター提供)どちらの土偶も女性の胸部を象ったトルソー型で、大きさは手のひらに収まる「お守り」サイズ。

【早期】北は北海道から南は九州まで!みんなで同じ土偶を作る

やがて早期になって、全国的に定住が本格化してくると、土偶も北海道から九州まで、広い範囲で作られるようになります。見た目は草創期のものとほとんど同じ。しかも、全国的にとてもよく似ています。北海道から九州なんて、ずいぶんと離れているのに、全部の土偶が同じ姿というのは不思議ではないですか。顔を描く集落があってもいいし、脚をつける集落があってもいいと思うのです。早期にはすでに、縄文ネットワークでつながった結束力が働いていたのでしょうか?

早期の土偶。左から千葉県小室上台遺跡出土(船橋市飛ノ台史跡公園博物館提供)、青森県根井沼(1)遺跡出土(三沢市教育委員会提供)、鹿児島上野原遺跡出土(重文・鹿児島県立埋蔵文化財センター提供)

【前期】豊かな植生の中でスタートした本格的土偶祭祀

前期になると急に日本列島の気温が暖かくなります。縄文前期の海面は、現在より3mほど高かったと言われています。(これを「縄文海進」といいます)現在、日本人が世界に向かって自慢する「自然豊かな日本」はこの時期に育まれたわけです。

さて、気候が温暖かつ安定してくると、爆発的に人口が増えていきます。それに伴い、東日本を中心に土偶の数も増えます。前期も後半になってくるとプチ革命が起こり、頭部・腕部・脚部の表現が出てきますが、しかしここでもまだ顔表現はありませんでした。

青森県三内丸山遺跡出土・前期(三内丸山遺跡センター提供)

顔など問題ではない!大事なのはエロスの集まる体幹部分!

前期までの土偶には、それがまるでお約束事であるかのように、顔面の表現がありません。その理由は縄文人に聞いてみないとわかりませんが、確実に言えるのは、顔より体幹が大事だったということです。個性を尊ぶ現代においては、顔はその人らしさを表す大事な部分ですが、新たな生命の誕生を最も尊ぶ縄文時代に大切にされたのは、性を象徴する体幹部分であったはずだからです。

縄文時代の遺物には、性を象徴したものが多いという特徴があります。縄文人は確実に「男性性と女性性が交わることで新たな生命を生む」ことを意識していました。これは人間や動物に限ったことではありません。縄文人は「太陽と月」「生と死」「山と海」などこの世のあらゆるものに男性性と女性性の二項対立概念を適用していたとみられています。この考え方でいくと、土偶は「この世のあらゆるものの」女性性、つまり「命を生むもの」の象徴だったのかもしれません。

顔面把手付深鉢形土器(長野県榎垣外遺跡出土・中期)(市立岡谷美術考古館提供)こちらは中期の土器ですが、女性性と男性性が非常に上手く表現されています。文様として施された蛇は男性性の象徴、また土器は子宮のメタファーだと考えられています。

【中期】ゴールデンエイジに起きた大革命!

土偶にはじめて顔が現れたのは、初現からおよそ6000年後の中期です。中期は、縄文文化が最も創造性と生命力にあふれていた「ゴールデンエイジ」で、土偶にも各地で様々な革命が起きています。顔表現がされるにとどまらず、今まで小さかった土偶が自立できる大きなサイズになったり、土偶の中を空洞にしてみたり、ポーズをとらせてみたり、土器に土偶のような顔をつけてみたりと、表現も技術もぐんと広がります。

山梨県鋳物師屋遺跡出土・中期(山梨県南アルプス市教育委員会提供)こちらは中が空洞のポーズ土偶。腰とお腹に手を当てた妊婦さんです。中には何か内容物(土球など)が入っていたと考えられています。

新潟県長者ヶ原遺跡出土・中期(糸魚川市教育委員会提供)こちらも中空土偶。これだけのフォルムを作るだけで大変なのに、中を空洞にするなんてものすごい技術です。空洞の中には、魂や、なんらかのエネルギーが籠もると考えたのでしょうか。

表現が豊かになると、当然地域的な特色も出てきます。北海道〜東北地方では、早期の伝統を引き継いだ板状の土偶が大流行。青森県三内丸山遺跡では、さすが大集落、ことあるごとに作っていたのか大量に出土しました。

青森県三内丸山遺跡出土・中期(三内丸山遺跡センター提供)

一方、関東から中部にかけては、国宝「縄文のビーナス」に代表されるような腹部がふくよかでお尻が大きい、より女性的な表現が好まれます。

国宝 縄文のビーナス(長野県茅野市棚畑遺跡出土・中期)(尖石縄文考古館保管)

憧れのビーナスは、みんな欲しかった

おもしろいのは、国宝に指定されている「縄文のビーナス」(長野県)や「縄文の女神」(山形県)は、縄文人にとっても、どうやら傑作だったらしいということです。

国宝 縄文の女神(山形県西ノ前遺跡出土・中期)(山形県立博物館提供)

現在見つかっている2万点の土偶のほとんどが、「意図的に」壊されて出土する中、長野県の「縄文のビーナス」はほぼ完全形のまま、破損のない状態で発見されました。これだけでも「特別扱い」のにおいがプンプンしますが、さらに驚きなのは、どうやらこれら「傑作」をマネして作ろうとしたらしい土偶がたくさんあるということです。

山形県西ノ前遺跡出土・中期(山形県立博物館提供)国宝の「縄文の女神」にそっくりです。

たとえば、山形県の「縄文の女神」は、国宝となっている傑作以外にも様々な種類が見つかっています。また長野県の「縄文のビーナス」に顔やフォルムが似ている土偶は、山梨県、東京都、さらに茨城県でも出土しています。おそらく、祭か何かでやってきた人々が、これら傑作に出会って感動し、うちに戻って再現しようとしたけれど、技術が足りなくてあんまりうまくいかなかった、とまあ、そんなところでしょうか。

【後期】何があった!?奇妙奇天烈な土偶が大流行!

縄文文化の黄金時代とも言える中期ですが、中期終末になると、どういうわけか東北地方南部を除き、いったん土偶が日本列島から消滅します。この時期に何があったのかはわかりませんが、本当に、全く、消えてしまうのです。次に東日本で土偶が出現するのは後期の前半ですが、やっぱり間が空いているからか、この時期の土偶は中期までの伝統からちょっぴり逸脱しています。後期に流行ったスタイルは、ずばり、「奇妙な土偶」です。仮面をかぶっていたり、顔の輪郭が変だったり、目が大きすぎたり、なんだかアニメキャラのようなのです。現代人に大人気の「みみずく土偶」「ハート型土偶」などは、この時期に流行ったスタイルです。

国宝 仮面の女神(長野県茅野市中ッ原遺跡出土・後期)(尖石縄文考古館保管)

左:みみずく土偶(千葉県遺跡出土・後期)(佐倉市教育委員会提供) 右:ハート型土偶(福島県荒小路遺跡出土・後期)(福島県文化財センター白河館提供)

さらに後期には、動物型の土偶も登場します。縄文人の命綱、イノシシはもちろん、クマ、ムササビ、鳥、カメ、そして大切なビジネスパートナーかつ家族の一員であった犬たちも。

イヌ形土製品(栃木県藤岡神社遺跡出土・後期)(栃木県教育委員会提供)縄文人は犬を家族として特別扱いしていました。縄文遺跡では、人間と同じように大事に埋葬された犬の墓が見つかることがあります。

【晩期】縄文を途絶えさせてはならない!各地に広がる遮光器土偶ムーブメント

そして水田稲作が日本列島へ到達する晩期になると、東北地方で「遮光器土偶」が登場します。歴史の教科書に登場する、おそらく日本でもっとも有名な土偶です。遮光器土偶の大きなゴーグルを着けたような目は突然現れたものではなく、後期の「奇妙な土偶」たちが変化したものと見られています。

遮光器土偶(青森県野口貝塚出土・晩期)(小川忠博撮影・三沢市教育委員会提供)

遮光器土偶を有す東北地方の文化を「亀ケ岡文化」といいますが、どうやらこれは縄文最後の大きなムーブメントだったようで、その影響を受けていると思われる土偶のスタイルは、北は北海道から南は近畿地方まで広がりを見せています。

遮光器土偶(秋田県星宮遺跡出土・晩期)(秋田県大仙市教育委員会提供)

その後、遮光器土偶は北海道〜東北地方にて、「結髪(けっぱつ)土偶」と呼ばれる髪を結んだようなスタイルへと変化していきます。また関東・中部・東海エリアでは、顔に入れ墨を施した「黥面(げいめん)土偶」といわれる土偶が現れます。

結髪土偶(山形県釜淵C遺跡出土・晩期)(山形県立博物館提供)

土偶は、縄文時代が終わってもしばらく作られていたようですが、数は圧倒的に減少し、祭祀における役割も変化していきます。九州を玄関口に押し寄せた水田稲作という文化は、人々の生活を変えるだけでなく、1万年続いた信仰の形もガラリと変えてしまったわけです。

黥面土偶形容器(長野県下境沢遺跡出土・弥生時代前半)(塩尻市立平出博物館提供)弥生時代に入ると、土偶形の容器が出てきます。映画「千と千尋の神隠し」に出てくるカオナシみたいでかわいい!

土偶って、結局なんなんだ?

以上、1万年の土偶の歴史を駆け足で追ってきました。地域や時代ごとに、実に多種多様な変化を遂げた土偶ですが、よくよく考えてみると、全ての時代、全ての地域におしなべて共通する特徴もあります。たとえば、意図的に体の一部を壊してから埋めるということ、女性を象ったと思われる土偶が圧倒的に多いこと、などなど、縄文土偶が地域や時代を超えて守り続けた「ルール」はたくさんあるのです。これは列島を縦横無尽に行き来する「縄文ネットワーク」の凄まじい結束力を語るだけでなく、土偶が1万年という途方もない時間の中、ある共通の意義・目的を持って作られ続けていた可能性をも示唆します。

さて、縄文人が1万年もの間作り続けた土偶には、いったいどんな意味があったのでしょうか? 次回は、土偶とは結局何だったのか、縄文人は、土偶にどんな祈りを込めたのか、その謎と仮説をご紹介します。お楽しみに!

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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