http://hidemichitanaka.net/ 【★田中英道ホームページ | 「美の探究者、歴史と思想を語る」】より抜粋
「日本とユダヤの古代史&世界史 - 縄文・神話から続く日本建国の真実 」出版社: ワニブックス(2023/6/9)
【本の内容】
日本とユダヤの古代史&世界史 - 縄文・神話から続く日本建国の真実 - 単行本 – あなたの歴史観が変わる!謎解き!歴史物語! 教科書にも載らない、縄文・神話の時代から続く、日本とユダヤの壮大なストーリー! ヤハウェ→ヤハタ→八幡神? ユダヤ人埴輪? エデンの園は日本だった!? なぜユダヤ人たちは世界を流浪するのか? なぜ彼らは日本に同化したのか? 天孫降臨にも、巨大古墳にも、神社やお祭りにも、彼らの痕跡が!? ミステリー小説の謎解きのような、画期的に面白い歴史対談! ★日ユ同祖論を超える「日ユ同化論」! ★ユダヤ人渡来は5つの波 ★「出エジプト」が1stタイミングだった!では2回目はいつ? ★縄文時代、「日出ずる国」日本にやってきたユダヤ人 ★ユダヤ旧約聖書に、同化ユダヤ人の証拠あり!? ★太陽信仰のメッカだった高天原は現在の千葉と茨城!? ★スサノオとサルタヒコはユダヤ人だった!? ★「天孫降臨」「神武東征」に関わったユダヤ人とは? ★「ユダヤ人埴輪」を知っていますか? ★巨大古墳や埴輪にみるユダヤ人的テクノロジー ★渡来人が中国人、韓国朝鮮人ではなく、ユダヤ人である理由 ★秦の始皇帝ユダヤ人説!徐福が日本にもたらしたもの。 ★祇園祭は「ノアの方舟」を祝うお祭りだった! ★赤い鳥居と神社の謎! ★渡来人・秦氏がつくった古墳、埴輪、京都、神社 ★蘇我氏はキリスト教を布教したかった!? ★ザビエルとコロンブスは隠れユダヤ教徒だった!? ★アシュケナージ、スファラディ……ユダヤ人は一枚岩ではない! ★樋口季一郎中将が満洲で語った「ユダヤ人へのメッセージ」
https://www.youtube.com/watch?v=7yY9AihDBCc
https://www.youtube.com/watch?v=p12TKxcg8dE&t=303s
https://www.youtube.com/watch?v=c0-icKPlnUI&t=934s
http://m-ac.jp/ainu/ideology/campaign/terrify/yuki_ota_shinya/index_j.phtml 【結城庄司・太田竜・新谷行の宣言 】より
結城庄司「アイヌ独立の魂は、呪いの戦い、怨念と化し、自然を背景に燃え続けて来た」(1972)
太田竜「御用ツキノエアイヌへの挑戦から始めよ」(1973)に「全文引用」
太田竜『アイヌ革命論』(1973), pp.166-188
天皇軍は、原住民アイヌを、北辺に封じ込め、戦いが完全に勝利したかのように、歴史を歪曲しているが、そのごまかしは一九七二年に、原住民精神をつらぬく人々によって粉砕された。
「原住民精神」、それはアイヌ共和国創造への胎動である。
現在もなお、天皇軍の手先共 (日本帝国主義機構の総て) は、アイヌが誇りとする、原始自然を破壊・略奪し、一九七三年に向けて日本列島改造部隊は、日本最後の原始境・アイヌの聖地 (大雪山) をも、解体青写真を製作してしまった。
アイヌ共和国独立の戦いは、歴史に敢然と輝やく、アテルイとコシャマイン、シャクシャインの戦法 (ゲリラ作戦) によって、開始されなければならない。
天皇軍は、常に平和的甘言をもちいて、日本原住民の首をはね、原始共産制への民族の流れを、断ち切ろうとした。 この策略は失敗に終り、再度、日本帝国主義者共、天皇支配にたいし、アイヌ共和国独立の戦い、最前線連帯軍は結集されつつあることを、人民に宣言する。
我々共和国同胞は、腐りきった天皇軍農耕文明を、徹底破壊し、その戦いを世界革命の原点としなければならない。
日本帝国主義者の総てを、自然を喰い荒す「怨獣」と考え、怨獣のたれ流す糞尿は、「公害」といってよいだろう。
糞尿を喰わされるのは、常に「人民」であり新鮮な「自然」を喰うのは、常に怪獣 (日本帝国主義者) である。
天皇が支配して来た、農耕文明はいつわりの神を祭り、仏教をとりいれ、日本原住民を、大和化し皇民化することに専念して来た。 現在も、アイヌを同化政策により、自らの罪悪の責任を回避しようとして失敗した。
アイヌは、「自然─神秘─人間」を、自然主義とし、自然の神秘を神々とし、原始共産世界を自由の天地と考え、日本原住民の狩猟文化を護りぬいたのであり、北辺に強く生きているし、これが日本原住民の原点である。
日本原住民の原点を、アイヌ共和国独立の同志は、常に忘れてはいなかった。 それは、生命への連帯であり、人間が自然 (大地) に戻る原則なのだ。 独立の魂は、永遠に燃え続けるのである。
日本帝国主義者は、現代文明の中に喘ぐ人民を救おうとしない。 それどころか、人民の共有する自然をも、取りあげて、人間の精神の衰弱を図り、世界支配の野望に燃え、兵隊化しようと企らんでいるのである。
アイヌ共和国独立の同志は、人間の原点に戻り、世界支配 (帝国主義) を、完全に粉砕しなければならない。
一九七三年は、世界に同志を求めながら、画期的な革命戦争への日本原住民戦法により、日本歴史は、ぬりかえられて行く時となるであろう。
アイヌ解放同盟 結城庄司
(略)
詩人新谷行と私によって起草されたこの北方民族研究所宣言は、必ず、着実に実行に移される、ということを。
https://urespa21.exblog.jp/28963717/【もっと知ろう‼アイヌのことーその2(アテルイを継ぐ者ー②)】より
アテルイを継ぐ者(コシャマインとシャクシャイン)ーその2
「阿弖流為」や「母礼」という名が、親から付けられた名なのではなくて、実は、彼らを盟主として闘った蝦夷たちが、戦いの中で二人の英雄の優れた統率力を讃え、畏敬の念を込めて呼んだ一種の渾名(あだな)だったと言うことは、ご理解頂けただろう。
しかし、この名付け方に見られる思考の枠組み、換言すれば人間観の特徴が、蝦夷だけのものではなく、実は闘いの相手である大和政権軍側にも同じように働いていたと言えば、多くの方が意外に感じられるに違いない。
前に、「道嶋大楯(みちしまの・おおだて)」という武将や「蘇我蝦夷(そがの・えみし)」の名を挙げて、この名は子どもの頃に
親から付けられた名ではなく、のちに仕事との関連で付けられたのではないかと述べたことを覚えておられると思う。
だが、この二人は共に言わば「武門の出」であって、子どもの頃から強い漢(おとこ)になるべく、願いを込めて親がつけた名であると見ることも可能なことは事実である。「蝦夷(えみし)」という名は、もう一つの「毛人(えみし)」という名と共に、武人の美称としても少なからず用いられた名であった。『蘇我蝦夷』といえば、古(いにしえ)に天皇の権威にも迫る程の権勢を誇示した一門の出で、権力の中枢部に身を置いた人物である。勿論、朝鮮半島から渡来した家系の末裔であり、権力の中枢部にあったとは言え、「蝦夷 = 異邦人」という見方からすれば、正に自身が「蝦夷中の蝦夷」である訳である。注目して頂く必要があるのは、「蝦夷」という語を美称として用いるのであれ、差別的に呼ぶのであれ、片や大和政権側にも、もう一方の阿弖流為など原住民の側にも、共通して流れる重奏音のようなものが有ることである。
民族の垣根を超えて、名付けにおける共通の価値観が存在したということを私は主張しているのである。こうした見方にたって英雄コシャマインの登場を迎えて頂きたい。英雄の登場を、その名付けの必然性の点からアプローチして、人物像の正確な理解に至るというのも、余り例は見ないが、有効な方法だと私は思う。
この方法に拘(こだわ)るのは、「コシャマイン」という名が、後に「シャクシャイン」という名の、「シャクシャイン」という英雄の登場を必然とするからである。この二つの名は、互いに呼応して、セットになって初めて意味を醸(かも)しだすものなのである。
...阿弖流為の神出鬼没の作戦に翻弄され、幾度となく苦汁を飲まされた征東大将軍「紀古佐美(きの・こさみ)」に、また登場を願おう。今回は、その武力のことでなく、その名の謂(いわ)れを語って頂くことにしたい。
「古佐美(こ・さ・み)」という名は、大和政権軍の兵士の耳にも、蝦夷軍の兵の心にも、その音(おん)を聞けば自ずから浮かぶ
イメージがあった。言葉の、基底での共通する感覚があったのである。 (次回につづく)
https://urespa21.exblog.jp/28988088/ 【もっと知ろう‼アイヌのことーその2(アテルイを継ぐ者ー③)】より
アテルイを継ぐ者(コシャマインとシャクシャイン)ーその3
「古佐美(こ・さ・み)」という名が、それを耳に聞いた音(おん)が、蝦夷(えみし)の脳裏にも、大和人(やまとびと)の心にも、共通の映像を思い浮かべさせたのではないかと述べた。それは、両者が口にしていた言語が、細部に異なる点を持ちつつも、その基底において、その奥底を貫く共通の血の流れがあったと主張するものに他ならない。東北地方の農民文化の中で、冬場に狩猟を生業(なりわい)とした「マタギ」と呼ばれる人々がいた。マタギたちの生活には、狩猟で山入りする時に用いる「マタギ言葉」というものがあったという。この「マタギ言葉」は、狩猟技術の用語に限らず、その他にも宗教的な物の考え方を表す多くの特別な語彙を持っているのである。そして、このマタギ言葉は、その殆ど(ほとんど)がアイヌ語で解釈が可能なのである。
この論考はマタギ言葉が何処から由来したものなのかの探求が目的ではないから、これ以上の追究は控えるが、紀古佐美などが生きた時代の東北地方は、相争う蝦夷と大和の兵士の間に、互いに通じ合う言葉や考え方、感じ方が有ったという主張が、決してとるに足らない馬鹿げたものではないという事を知っていただく上で、特に参考になるし、また参考にして頂きたい事柄だと私は思うのである。
この時代に先行するかなり古い時代から、天皇制国家は、蝦夷をその故郷の地から切り離して遠い異国へ移配し、そこに自らの部民を植民させる政策を採ってきた。また、蝦夷同士を分断し、反抗する蝦夷のグループには親和的グループを対抗させるなど、謂(いわゆる)「夷を以て夷を制する」政策を推進してきたから、日本全国至るところ、和人と蝦夷の斑(まだら)状の雑居状態が進んでいたのである。阿弖流為たちを取り囲んだ軍勢の兵士の中にも、動員されて心ならずも参陣した蝦夷たちが少なからず存在したのである。
あの「呰麻呂」自身が蝦夷であり、呰麻呂と闘った(闘わざるを得なかった)多くの武将(征討将軍の部下たる指揮官)も、蝦夷の族長クラスが多数という実態だったのである。呰麻呂が最初に血祭りに上げた「道嶋大楯」も、和人の武将なのではなく、或いは
蝦夷の出身であったということも考えられない事ではない。史書では、大楯は蝦夷の出の呰麻呂を侮辱したとされるのだが、この記述を鵜呑み(うのみ)にするのは、危険なのかも知れないのだ。大楯は、将軍の部下として忠実に対蝦夷作戦を遂行しようとして
呰麻呂と衝突したに過ぎないのかも知れない。朝廷側から見れば、畏(おそ)れ多くも帝の軍勢に反乱を企てた、大悪人の呰麻呂に
対して、身を挺(てい)して闘い、敗れた忠臣である。諡(おくりな)するに『大楯(おおだて)』の字を充てたのは、正に当然の措置
だった訳である。悪の頭目・呰麻呂の策動から、帝の威光を護らんと『大きな楯となった漢(おとこ)』として諡されたのである。
次回は、いよいよ「きの・こさみ」という語の分析と解釈に取りかかろう。それは、その男の役職と特徴を表す特異な名付けである。意外な展開が有るのかも知れない。「乞うご期待」である。 (次回につづく)
https://bushoojapan.com/jphistory/kodai/2024/03/24/96971/2 【蘇我倉山田石川麻呂の自害~従兄弟の入鹿を殺した乙巳の変では功労者だったが】より
「そがの・くらやまだの・いしかわまろ」と読みます。つまり蘇我氏の一員です。
蘇我氏といえば「むじこの世づくり」こと、大化元年(645年)の乙巳の変~大化の改新で排斥されたはず。縁者である石川麻呂は一体どうしたのか。その生涯を振り返ってみましょう。
蝦夷の甥っ子=つまり入鹿とはイトコ
石川麻呂は蘇我蝦夷の甥で、入鹿とは従兄弟同士です。
つまり、蘇我氏全盛時代には、それなりの高い地位にいたことになります。
実際、乙巳の変の際、皇極天皇の御前で朝鮮使者の手紙を読み上げていたのは石川麻呂でした。むろん石川麻呂は暗殺計画にも関わっており「この手紙を読み上げたら、中大兄皇子と中臣鎌足が入鹿を暗殺する」ということを知っています。しかしなかなか刺客が入ってこないので、石川麻呂は緊張が増すばかり。ついに震え始めたところを、入鹿に見咎められるほどだったといいます。
石川麻呂は「帝の御前ですので」と取り繕いましたが、それだけで入鹿が安心するわけもありません。
そこに思い切った中大兄皇子が、自ら躍り出て入鹿の首をはねた――というわけです。
残念ながら、この「入鹿の首が刎ねられた」場面(TOP画像)を描いた『多武峰縁起絵巻・乙巳の変』に石川麻呂は描かれていません。
まぁ、この絵自体が江戸時代のものですが、こういうものに描かれているかどうかで、知名度はだいぶ変わってきますよね。
では、乙巳の変後の石川麻呂はどうなったか?
改新後はNo.3の右大臣に任命される
中大兄皇子は、蘇我蝦夷・蘇我入鹿の排斥に石川麻呂の功があったとして、改新後は石川麻呂を右大臣に任じました。
右大臣といえば、臣下の地位としてはナンバー3。
おそらくは、石川麻呂の娘・遠智娘(おちのいらつめ)と姪娘(めいのいらつめ)が中大兄皇子の妃だったからという点も大きかったと思われます。
皇后ではないにしろ、次期天皇の妃の父となれば、政治的には絶大な地位です。
しかし、石川麻呂はたった数年でその立場どころか、命まで失うことになります。
異母弟の日向が「大変です! ウチの兄がお上に謀反を企んでいるようです!」(※イメージです)と孝徳天皇(皇極天皇の弟かつ中大兄皇子の叔父で先に即位した人)に讒言したのです。
いくら古代のこととはいえ、これだけではさすがに「なんだと! すぐ石川麻呂を討伐しなければ!」とはなりません。
孝徳天皇は事の真偽を確かめるため、石川麻呂に使者を送りました。
本当に謀反を企んでいたら、それこそまともに答えても答えなくても同じような気がしますがね。
石川麻呂の答えは、どちらでもありませんでした。使者に対し「お返事は帝の御前で、直に申し上げます」と言ったのです。
孝徳天皇は不思議に思い、もう一度使者を送りましたが、石川麻呂の返答は同じ。なんでそこまで「帝の御前」にこだわるのかがひっかかりますよね。
なんせ石川麻呂は、かつて先帝の御前で要人の暗殺に関わった人物なのです。「もしやアイツ……」と思われても仕方がないのに、なぜそんなに意地を張ったのでしょう。
妻子と共に 山田寺へ 自害する
孝徳天皇も怪しみ、石川麻呂に兵を差し向けました。
が、石川麻呂は妻子とともに屋敷から逃げ、 山田寺(現・奈良県桜井市)に籠もり、自害したといわれています。
山田寺仏頭(現在はワケあって 興福寺に)/wikipediaより引用
讒言からの一連の流れは「中大兄皇子と鎌足の陰謀」という説がありますが、それにしたって何だかおかしな話です。
最初から蘇我氏を根絶やしにするつもりなら、乙巳の変の時点でまとめてブッコロしてしまったほうが話が早かったはずですし、一度、右大臣にしてやる意味もわかりません。
というか、乙巳の変そのものが「蘇我氏一族の内部抗争も含んでいた」という指摘もございます。
讒言をした日向はその後、 大宰府の長官に任じられていました。
栄転とも見えますが、当時の 大宰府任官といえば、半分は左遷といっても過言ではありません。
また、石川麻呂の遺品や屋敷の様子からも、謀反の証拠となるものはまったく見つからなかったといいます。
石川麻呂の謀反がデタラメだったとすれば、彼を討つことによって得をする人がいたはずです。が、現実にはそうではありません。
全くの誤解であったにしては、日向への処罰が軽すぎるようにも思えます。
古代のことという点を差し引いても、パズルのピースが二つ三つは欠けているような、そんな印象を持つのはワタクシだけでしょうか。
石川麻呂の墓と言い伝えられているところや、推定されているところが数カ所ありますので、調査が進むことを期待したいところです。
https://xn--adeac-uj7hh75mlcw.jp/tondabayashi-city/text-list/d000010/ht000531 【石川麻呂と茅渟道】より
大化五年(六四九)三月二四日、蘇我日向(石川麻呂の弟)が中大兄に密告し、「僕(やつかれ)が異母兄(ことはらのいろね)麻呂、皇太子の海濱に遊びませるを伺(うかが)ひて、害(そこな)はむとす。反(そむ)きまつらんこと、其れ久しからず」(中大兄の海遊びの時に暗殺する計画だ)といった。中大兄は即刻孝徳天皇に報告し、孝徳は大伴狛らを派遣して石川麻呂を詰問した。石川麻呂は天皇と対面して弁明すると述べたが、孝徳は許さず再び使者を派遣した。石川麻呂はまた同じ答をする。孝徳は今度は兵を派遣し、石川麻呂の宅を包囲しようとした。彼は完全に罪人扱いであった。
彼は宅を捨てて逃走する。「大臣、乃(すなわ)ち二の子、法師(ほうし)と赤猪更の名は秦とを将(い)て、茅渟道(ちぬのみち)より逃げて倭国(やまとのくに)の境に向(ゆ)く。大臣の長子の興志(こごし)、是より先に倭に在りて山田の家に在るを謂ふ、其の寺を営造(つく)る」と『書紀』は記す。興志は彼を迎えて、ともに戦おうとするが、彼は許さない。一族の者をなだめ、仏殿の扉を開いて「生生世世(よよ)に、君王(きみ)を怨みじ」と誓い、自殺した。殉死する妻子は八名であった。
同日、朝廷の軍勢が大伴狛と蘇我日向を将として、難波宮を出発した。「将軍大伴連ら、黒山に到るに及びて、土師連身(はじのむらじむ)・采女臣使主麻呂(うねめのおみおみまろ)、山田寺より馳せ来りて告げて曰く『蘇我大臣、既に三(みたり)の男・一(ひとり)の女と倶(とも)に自ら経(わな)きて死せぬ』と。是に由りて将軍ら、丹比坂(たぢひのさか)より帰る」。自殺を聞いて、途中で引きかえしたのである。しかし一隊はそのまま山田寺へ直行したらしい。「木臣(きのおみ)麻呂・蘇我臣日向・穂積臣噛(くい)、軍を以て寺を囲む。物部二田造鹽(ふつたのみやつこしお)を喚(め)して、大臣の頭を斬らしむ」とある。二六日のことであった。同日、難波宮の石川麻呂の宅では、残された妻子や随身の者たちが自殺した。三〇日には石川麻呂に加担した罪で一四人が斬首、九人が絞殺、一五人が流罪に処せられた。一族を含めると少なくとも四七名が処分され、当時としては最大規模の粛正であった。しかも『書紀』はこの月のこととして、「皇太子(中大兄)、始(いま)し大臣(石川麻呂)の心の猶し貞(ただ)しく浄きことを知りて、追いて悔い恥づることを生(な)して、哀び歎くこと休(や)み難し」と、石川麻呂が無実であったことを記している。
この事件は中大兄による蘇我氏一派の粛正事件ともいえるが、石川麻呂の大和への道中に「茅渟道」がみえ、追討軍の経路に「黒山」「丹比坂」がみえる。これらと本地域との関係をみておきたい。
https://ameblo.jp/minako4425/entry-12813912561.html 【アイヌは先住民族ではない訳】
地政学の茂木先生の分かりやすい講義
https://www.youtube.com/watch?v=BUE2ClUIM8A
https://www.youtube.com/watch?v=HVJyi9ca5BU
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