https://www.samonkai.com/library/sakichi_library03.html 【佐吉コレクション 三味線三昧】
帰ってきたお化け三味線
昭和12年頃 伊藤鉄之助作(推定)
この三味線も作り方や材質、また四世佐吉の見立てであることも含め、「白龍」と同じグレードであり同じ作者に間違いないと思う。現代では手に入らない貴重で贅沢な材料で作られている。
なぜ「おばけ三味線」か。
私の母方の祖母は四世の門弟、佐々珠といって四世の見立てたこの三味線を我が子のように大切にし、戦時中も肌身離さず持っていたそうである。没後は私の母が使っていたが、その後私の姉と共に嫁いで行く。あまり三味線を弾かなかった姉は、どうしても欲しいという方に譲ってしまったのだが、その人が三味線を弾くと必ず「縞の着物を着た女の人が現れる、何かいわくがあるのでは。」と言って返してきた。父五世佐吉の稽古場に落ち着いたものの、他人が触ると「パシッ!」と火花が出ることが幾度かあった。
父の没後は私のところへ来たので、祖母に逢えるかと思い、暗い部屋に一人で籠り何度も弾いてみたのだが、とうとう縞の着物の人は現れてくれなかった。少し残念だったが、きっと安心してくれたのだろうと思っている。とてもやさしい音色だが大音がするので、時々舞台で使っていることも喜んでくれているだろうか。楽器は生き物だとつくづく思う。
FacebookYoshihito Hashimotoさん投稿記事
https://www.youtube.com/watch?v=zMVluJoSk4g
映画『瞽女GOZE』「新潟のしょ みんなして、がんばろて!」ロングバージョン
良い人と歩けば祭り、悪い人と歩けば修行
生後3ヶ月で失明したハルは2歳のとき父と死別。盲目の為に七歳で瞽女になる、それまでは優しい母であったトメは、瞽女になった時から心を鬼にしてハルを厳しく躾ける。それは、母親が子を思う愛情の深さだった。その母親の優しさを気がつかないまま八歳でフジ親方と共に初めて巡業の旅に出る。その年、病が悪化してトメはこの世を去る。死別の際、ハルは自分を虐めた鬼である母親に涙一つ流さなかった。
苛酷な瞽女人生の中でハルは意地悪なフジ親方からは瞽女として生き抜く力を、サワ親方からは瞽女の心を授かるのである。ハルは言う「いい人と歩けば祭り、悪い人と歩けば修行」と・・・・
こうして様々な困難を経て親方になったハルは初めて幼い弟子ハナヨを向かい入れる、何も知らないハナヨを瞽女として生きていける様にとハルは厳しく躾をした時、自分が幼い頃母から鬼の様に厳しく躾けられる姿が走馬灯のように浮かび上がる。
その時、ハルは自分を愛してくれた母親トメの慈愛の深さを知る「カカさ・・・あり~がと・・・」
ハルは母に感謝の涙を流すのであった。
瞽ご女ぜとは
What’s “GOZE”
親しく瞽女さんと呼ばれ、三味線を奏で語り物などを唄いながら、各地を門付けして歩く「盲目の女旅芸人」のことです。幼い頃から親方と呼ばれる師匠に預けられ、瞽女として生きてゆくために厳しく芸を仕込まれました。
瞽女が訪れた村にとっては、その日はハレの日です。彼女たちが持ち込む芸によって日々の疲れを癒し、やすらぎと娯楽を得ました。瞽女たちは、期待し待ち望んでいる村人たちのために、視力の残った手引きを先頭に、3~4人が一組となって師匠から弟子の順に前の人の肩の荷に左手を触れて動きを知り、右手に持った杖で足元を確認して歩きました。目の見えない女性が峠を越え、谷川の一本橋を渡り、この村にまで来てくれたのは、神のご加護によるものという畏敬の念で迎えられました。
庄屋は、宿を提供し村人をあつめて瞽女唄を聞かせます。瞽女たちは力いっぱい演じました。村人たちもお初穂を差し、わずかなおひねりを布施としました。お互いに自分が持っている気持ちが通った豊かなひとときをつくりだしました。
瞽女たちが聞かせてくれる三味線芸は、物語性のある古浄瑠璃などの段物を中心に、流行り歌、民謡などです。そのほか都会の出来事や地震災害などを読み込んだ口説き節で遠く離れた地方の動きを知りました。この主役になったのが瞽女たちです。
彼女たちは、雪原を行き峠を越えるつらい旅を杖を頼りにつづけても、村人の喜んでもらえる芸を披露することに生きがいを見出していました。そこに、瞽女という独特な芸能が生まれ独自の文化を形成しました。幼い時から師匠の下で、厳しく三味線芸の修行を続け、独自の掟としきたりの中で,強固な絆で結ばれ、世間の差別・偏見に対して身を寄せ合いながら盲目という障害を克服して生きてきました。
江戸時代まで全国各地に瞽女が存在したといわれ、瞽女たちの手によって津軽三味線の素地が伝えられ、信濃追分の馬子唄が順次伝播されて江差や松前追分に転化するなど民謡の伝播者としても大きな役割を残しました。明治期に越後・新潟にだけ残り長岡地区と上越高田地区の二つの集団が生まれました。
長岡地区には小林ハル 1900年(明治33年)~2005年(平成17年)高田地区には杉本キクイ1898年(明治31年)~1983年(昭和58年)が代表とされ、富山、長野、関東一円から福島、山形の各地を巡って旅の仕事を続けていました。両者とも国の無形文化財保持者として選択され、黄綬褒章を受けています。瞽女は女性だけの禁欲の世界です。しかし旅する中で、喜びがあり、愛があり、恋が生まれます。冷たい雪に身を埋めても燃える心を鎮めることのできない人間としての葛藤もあります。
画家、斎藤真一は油彩画に、作家、水上勉は文芸作品に、そして映画や舞台で瞽女の終末の美が描かれ、一大ブームとなりましたが昭和50年代に入ると近代化の波の中で瞽女は感傷の彼方に消えました。
しかし今、視覚障害者が担ってきた伝統文化を顕彰しようという動きが静かに起こり改めて瞽女の存在が注目されています。瞽女唄を受け継いだ健常者による演奏会、瞽女の足跡をたどるツアー。そして雪の下での瞽女宿体験など各地で瞽女関連のイベントが開催されその都度大勢の人たちが集まり、往時をしのんでいます。
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