FacebookOSHO Japanese投稿記事
人類の歴史全体のなかで、マハヴィーラただひとりが、心に留められるべき区別というものを設けている。
真理に至るにはふたつの道がある、と彼は言う。ひとつはシュラヴァカの道だ。
シュラヴァカというのは、聞くことができる人、ハートで聞くことができる人という意味だ。そうであれば彼はなにもする必要がない。ただ聞くだけで充分だ、それで彼は変容させられるだろう。
もうひとつは修道僧の道だ、その人は懸命に真理に至ろうとしなければならないだろう。
私の努力は、修道僧を生みだすためのものではなかった。だからこそ私は話すことを選んだのだーー
ただ私の言っていることを聞くだけで、あなたは生まれ変わることができるからだ。
ハートのドアを進んで開こうとする気持ちのほかには、あなたのほうではなにも必要とされない。ただ私をなかに入れさせてくれるだけでいい、
そうすればあなたは二度と同じではありえないだろう。 Osho
Facebook小森 圭太さん投稿記事 【本当の望みは『体感』にある】
先日「リュウ博士」こと八木龍平さんとオンラインで対談させて頂きました。
八木さんは、「成功している人は、なぜ神社に行くのか?(サンマーク出版)」など多くの書籍を出されているベストセラー作家であり、知識科学の博士でもあります。
現在は大学講師を務めながら講演会や神社参拝ガイドなどもされているそう。
対談内容は多岐に渡りましたが、「重要ポイント」と感じているところはお互いかなり共通しており、興味深かったし面白かったです。
なお、実際の対談動画はオンラインサロン「量子論的生き方研究会」のみでのシェアとなりますのでご了承下さい。(*^.^*)
八木さんは博士でもあることから色んな研究事例もご存知で、中でも興味深かったのがカウンセリングの研究事例。
どんな研究かというと、カウンセリングが上手くいった場合と、上手くいかなかった場合の、カウンセラーとクライアントの対話を比較した研究。
そしてその研究で明らかになったことが興味深いんです。(*゚ー゚*)
上手くいかなかったカウンセリングは、クライアントが滑らかに、ロジカルに話している。
その一方、上手くいったカウンセリングは、クライアントがたどたどしく、ゆっくり話しているそう。
上手くいかなかったカウンセリングは、クライアントが、常識や社会通念的なものが元になった知識で話をしているので、滑らかでロジカル。
反対に上手くいったカウンセリングは、元々言語になっていない感覚をなんとか言語にしようとしているので、たどたどしくゆっくりになる。
つまり、クライアントが体の感覚にアクセスし、それを何とか言語にしながら対話しているカウンセリングは上手くいっているそうなのです。(((o(*゚▽゚*)o)))
私たちは子供の頃からこんな体験を多く積んでいます。
子供「こんな事やってみたいんだけど〜」親「危ないからダメ、こっちにしときないさい」
もちろん「子供のため」の忠告です。ただ、こういう経験が積み重なっていくと、「本当の望みは叶わないんだ」、「本当にやりたいことは辛くて大変なんだ」という刷り込みが潜在意識に入っていきます。
そうすると「あー、あれいいな〜」、「やってみたいなー」などと感じてもすぐに蓋をしてしまう。
本当に欲しい状態や、本当にやってみたいことなどを「なかったこと」にしてしまっている可能性があるんです。(>_<)
本当のあなたがどんなことを求めているのか、というヒントは、あなたが無条件に「楽しい」、「嬉しい」、「やってみたい」と感じることの中に隠れています。
つまり、あなたの『体感』に隠れているのです。
本当のあなたは『体感』であり、知識ではないからです。
あなたの周りでも、自然と上手くいっている人だったり、想定外の成功を収めたりしている人は、自分の感覚に忠実だったりしませんか?
実際、八木さんもそうですし、私もそういう部類だったりします。(・∀・)
そして、これも量子力学の観点から説明可能なんです。
常に、本当の「喜びと楽しさ」の意識でいれば、エネルギー状態の素粒子すべてが「喜びと楽しさ」で物質化、つまり量子状態が確定します。
波動関数的に言えば、通常では特定することができない素粒子の位置と時間が、「喜びと楽しさ」を意識することで、「喜びと楽しさ」の位置と時間に偏る、となるんです。
つまり、それが現実化する、ということです。
何しろ、この世は全て「素粒子」で出来ているわけですから。(^∇^)
上手くいったカウンセリングも体感にアクセスしたからであって、それはつまり『本当の自分』にアクセスしたから。
つまり本当の自分が感じていることに素直になれば、誰でも上手く行くのです。
脅すつもりはないんですが、「もうちょっと危機感持った方が良いよなー」、と思うことがあります。
それは、「本当に望んでいる事をせずに、この世を去る事になるかもしれない」という事にです。
誰でもいずれ死ぬのは確実です。
私も、あなたも、いずれ必ずこの世を去ることになります。(^_^)
その時に「あー、あれをやっておけば良かった〜」(TωT)と後悔するのか。
それとも、「あー、やりたいことは全てやりきったー」(´∀`)と満足するのか。
少しのお金も失いたくない、人から馬鹿にされたくない、変な目で見られたくない、との恐れから、本当の望みを封印しちゃっていませんか?
さほど重要でないことはどんどん手放して、本当に必要としている体験、つまり本当のあなたが望んでいることに集中していく。
そこで感じる「充実」、「幸せ」、「喜び」などの感情、意識が、ますますその様な状況を引き寄せることになりますよ。
早いとこ、本当の自分を解放しちゃった方がいいですよ〜。(^O^)/
次期『量子論と脳科学ベースの引き寄せ理論講座【基礎】』が10月30日に開講します。詳細は以下ホームページへ。(^▽^)
Facebook清水 友邦さん投稿記事
悟りを表した禅の言葉に「山は山であり、川は川であった」があります。
「最初、修行に入る前の山は山であり、川は川であった」
瞑想を続けて悟りに入ると「山は山でなくなり、川は川でなくなった」になり、
さらに悟りが深まると再び、「山は山になり、川は川になった」
(『続伝燈』二十二、『五燈会元』十七)
世界を認識しているのは、言語が結ぶマインドです。
私たちは絶え間のない頭のおしゃべりによって作り出されている偽りの世界を現実と思い込んでいます。
おしゃべりをしないで沈黙することを「世界を止める」ともいいます。
「山は山でなくなり、川は川でなくなった」は日常意識と異なる言語を超えた世界を見ている状態です。山も川も消えて一つになっています。空です。無境界です。もはや思考で区別して山や川を見ていません。世界はわかれてはいなくて一つに見える状態です。
そして再び「山は山であり、川は川であった」に戻ります。
今ここにあるがままに見ている山や川は悟りの境地そのままだと道元はいいました。
実は瞑想修行をしなくとも最初から「山は山であり、川は川であった」なのですが、
一度「山は山でなくなり、川は川でなくなった」を経験しないと、それがわからないのです。
唐代の禅僧、石頭禅師(せきとうきせん700-790年)は禅の六祖慧能の弟子である青原山の行思和尚(せいげんぎょうし671年- 740年)のもとを訪れました。
行思和尚 「どこから来た」
石頭禅師 「慧能禅師の所からです」
行思和尚 「慧能禅師から何を学びとった」
石頭禅師 「慧能禅師に行く前、私には何も欠ける所はありませんでした」
行思和尚 「それなら何も慧能禅師に行く事はなかっただろうに」
石頭禅師 「慧能禅師の所に行なかったら私には何も欠けるところはなにもなかったということがわからなかったでしょう」
自分が本当に欲しかったもの、探している大切なものは探求の旅に出る前から最初から持っていました。ですから、探求の旅に出る必要はなかったのです。
しかし旅に出なければ最初から持っていることが解らなかったのです。
健康な人に入院、投薬の必要がないように自己の本質を一度つかんでしまえば、あらゆる瞑想や修行は目的を失います。瞑想はその事がはっきり分からない人の為にあるのです。
悟りの道の終点は何処にもありません。方法もありません。探求者は何処かへ到達しようとしたり、悟りをつかまえようとしたり、悟りや覚醒を手に入れようとしますが、それらの努力をすること、あれこれと、あらゆる企てをする以前にすでに手に入れているのです。
本当の所、そのことが腑に落ちるには瞑想やワークを重ねて実際にその行程を歩んでみないとわからないのです。
そのような意味では、瞑想が必要でない事を知る為の方便として瞑想が必要と言えます。
門の無い門をくぐらなければならないのです。
矛盾していますが、これが探求の道のパラドックスと呼ばれています。
わからない人はわからなくとも大丈夫です。
探求の道を歩いているうちに自然に理解するでしょう。
道を歩いていること自体が答えなのですから
********************************
人はあるがままに観照している本当の自分(セルフ)と刺激を受けると機械的に反応してしまう自我(エゴ)の両方を持っています。
呼吸道の真の目的は自分自身を知るということです。
身体、感情、思考、時間、空間、あらゆる概念、知識、これらは全て私ではありません。
今まで自分だと思っていた私は私ではないということです。
それにはまず自分のマインド、思考を観照できるようにならなくてはなりません。
苦しみを取り去る方法は思考と一体化している偽りの自己に気がついて、今ここに在る純粋な意識と繋がることです。
しかし、物心が付いてからずっと思考と一体化しているので思考を見守るのが難しいのです。
それには体の感覚に注意を向け常に変化している呼吸と身体感覚から始めるのがやさしいのです。
0コメント