しかたなかったと言うてはいかんのです

Facebook辻 信行さん投稿記事  戦争で死ぬとはどういうことか

① しかたなかったと言うてはいかんのです

国葬にされた連合艦隊司令長官・山本五十六(1884~1943)。その死の前後から、巷ではこんな替え歌が口ずさまれるようになりました。

 負けて来るぞと 勇ましく

 誓つて故郷(くに)を 出たからは

 手柄たてずに 生きようや

 退却ラッパ 聴くたびに

 スタコラサッサと 逃げてくる

オリジナル曲である「露営の歌」と正反対の厭戦的な歌詞になっています。すでに庶民たちの間には、口には出さずとも、勇ましい大本営発表の内容を疑う心情が芽生えていました。山本五十六の国葬から79年。元首相の安倍晋三(1954~2022)の国葬が強行されようとしているいま、当時の静かな厭世感には、共感できるものがあります。

これまで、日本人の他界観や死生観を研究してきた私が、戦争のことを調べてみようと思い立ったのは、昨年(2021年)夏のことでした。ウクライナも台湾周辺も、いまほどきな臭くなかった昨夏、『しかたなかったと言うてはいかんのです』(NHK名古屋放送局・大阪放送局制作)という一本のテレビドラマが放送されました。アジア・太平洋戦争末の1945年、九州大学で実際に起きた米軍捕虜8名の生体解剖事件をもとにしたドラマです。興味深い内容でしたが、私には内容以上にタイトルがやたらと胸に響きました。『しかたなかったと言うてはいかんのです』。

私は子どもの頃、戦死した身内がいると祖父母から聞きました。それは私にとって、祖母の叔父、正確に言えば母方の曾祖母の弟(曾祖叔父/そうそしゅくふ)にあたります。彼がどのような人物で、どのような戦争体験をしたのか、詳しいことを聞いた覚えはありません。現在、私の祖父は90歳を超え、祖母は認知症の症状が少しずつ進行しています。このままではそう遠くない将来、聞いておけば良かったと後悔する日がやってくることでしょう。「しかたなかったと言うてはいかんのです」という言葉に背中を押され、私は戦死した身内について、調べてみることにしました。

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https://www.toibito.com/column/humanities/folklore/3570

(辻信行「戦争で死ぬとはどういうことか」『トイビト』)

戦争で死ぬとはどういうことか

辻 信行

「しかたなかったと言うてはいかんのです」

 国葬にされた連合艦隊司令長官・山本五十六(1884~1943)。その死の前後から、巷ではこんな替え歌が口ずさまれるようになりました。

 負けて来るぞと 勇ましく

 誓つて故郷(くに)を 出たからは

 手柄たてずに 生きようや

 退却ラッパ 聴くたびに

 スタコラサッサと 逃げてくる

 オリジナル曲である「露営の歌」と正反対の厭戦的な歌詞になっています。すでに庶民たちの間には、口には出さずとも、勇ましい大本営発表の内容を疑う心情が芽生えていました。山本五十六の国葬から79年。元首相の安倍晋三(1954~2022)の国葬が強行されようとしているいま、当時の静かな厭世感には、共感できるものがあります。

 これまで、日本人の他界観や死生観を研究してきた私が、戦争のことを調べてみようと思い立ったのは、昨年(2021年)夏のことでした。ウクライナも台湾周辺も、いまほどきな臭くなかった昨夏、『しかたなかったと言うてはいかんのです』(NHK名古屋放送局・大阪放送局制作)という一本のテレビドラマが放送されました。アジア・太平洋戦争末の1945年、九州大学で実際に起きた米軍捕虜8名の生体解剖事件をもとにしたドラマです。興味深い内容でしたが、私には内容以上にタイトルがやたらと胸に響きました。『しかたなかったと言うてはいかんのです』。

 私は子どもの頃、戦死した身内がいると祖父母から聞きました。それは私にとって、祖母の叔父、正確に言えば母方の曾祖母の弟(曾祖叔父/そうそしゅくふ)にあたります。彼がどのような人物で、どのような戦争体験をしたのか、詳しいことを聞いた覚えはありません。現在、私の祖父は90歳を超え、祖母は認知症の症状が少しずつ進行しています。このままではそう遠くない将来、聞いておけば良かったと後悔する日がやってくることでしょう。「しかたなかったと言うてはいかんのです」という言葉に背中を押され、私は戦死した身内について、調べてみることにしました。

親類による話

 まず祖父母の暮らす家に電話をかけました。酷暑にしては元気な声の祖父・雨池勇(1931~)は、戦死した身内の名前が、木下市郎(以下、市郎)であると教えてくれました。勇にとって義理の叔父にあたる人物です。富山に生まれた市郎は、慶応義塾大学入学に伴って上京し、在学中に学徒出陣します。しかし戦争反対の立場で軍部に反抗的だったため、激戦地のビルマ戦線へ送られました。敗戦後、送られてきた骨壺の中には、白い砂が少しだけ入っていたといいます。勇は自分が知っている情報は不確かだということで(実際にそうでした)、祖母に受話器を渡しました。

 市郎の姪にあたる祖母・雨池昌子(1933~)の記憶は曖昧で、客観的な事実よりも、自身の体験にもとづく断片的な記憶に終始していました。市郎は当時昌子たちが暮らしていた家にやって来たことはなく、市郎の兄・木下友治(1915~1999)のように、家の中庭で一緒に池の鯉を見たという記憶もありません。昌子の母・木下梅子(1913~2010)からは、市郎がまじめでおとなしい人だったと聞いています。その一方、兄の友治は社交的でよく喋り、無事に戦争から復員したので、そちらとの思い出はいろいろあると語ります。

 祖父母への電話から、市郎についてほんの少しだけ情報を得ることができました。しかし、これだけではよく分かりません。祖父の勇の証言が事実なら、なぜ市郎はそこまで戦争に反対したのでしょう。なぜ自らの命の危険を顧みず、軍部に反抗したのでしょう。

 調査を進めていくうちに、たった一人の戦死した青年から見えてくることの大きさに驚きました。それは市郎が特殊だったからではありません。むしろ普通だったからです。

見えてきた事実

 私は親類への聞き取りと並行して、これまで心理的に避けてきた靖国神社にコンタクトを取ってみることにしました。戦死者を神として祀り、A級戦犯をも合祀する靖国神社のスタンスに私は反感を抱いています。しかし靖国神社には、ここで祀られている戦死者の基本情報を遺族に開示する「御祭神調査」というシステムがあります。市郎の情報を得ることができるならと電話してみました。市郎の名前と本籍の都道府県、遺族代表者の名前(市郎の場合、母の木下むら)などを告げると、祭神として登録されているといいます。3日ほどで、手元に書類が届きました。

靖国神社の「御祭神調査」

 ここに記載されている情報は以下の通りです。

 1、階級・陸軍曹長

 2、所属部隊・戦車第一師団司令部

 3、死歿年月日・昭和19年7月31日(戦死)

 4、死歿場所・バシー海峡

 5、死歿時本籍地・富山県

 6、合祀年月日・昭和32年4月21日

 祖父の勇から聞いた情報と食い違っている項目が散見されます。陸軍曹長とは、旧日本陸軍で下士官の最上位にあたり、軍曹の上、准尉の下に位置します。所属していた部隊は、戦車第一師団の司令部ということです。戦死したのもビルマではなく、台湾とフィリピンの間に位置するバシー海峡になっています。靖国神社によると、上記情報の出典は各都道府県に保管されている「旧陸軍から引き継いだ資料」であるといいます。そこで次に、市郎の本籍地である富山県に問い合わせてみました。

 富山県の厚生部厚生企画課恩給援護・保護係によると、軍歴資料(旧陸軍)の提供を受けるためには、申請者と市郎との続柄が分かる戸籍資料が必要です。そこで申請者を祖母にして、祖母と市郎との関係性が分かる戸籍謄本を取り寄せました。その上で、祖母の身分証明書と一緒に申請書類を送りました。一週間ほどで届いた「戦没者カード」は、以下の通りです。

戦没者カード

 靖国の資料と比較して新しく分かったこととして、死没場所の緯度経度があります。これによって、死没時に乗船していた船が特定できるかもしれません。また、旭日勲7等を叙勲されたことも判明しました。旭日勲7等はしばしば戦死した兵士に叙勲されるものですから、市郎も例に漏れずということでしょう。

 さらに詳しい軍歴を知りたかったのですが、あいにく富山県では軍籍が大量に失われており(これは富山県に限ったことではありません。詳しい経緯は近藤貴明による一連の研究「終戦前後における陸軍兵籍簿滅失の原因とその類型化」『立命館平和研究』(17)、2016年などが明らかにしています)、これ以上のものは富山県には存在せず、そうである以上、厚生労働省にも存在しないということでした。

俺は死なないだろう

 そうこうしているうちに、祖母・昌子の妹である澤田怜子(1935~)が、重要な手紙を送ってくれました。怜子が、市郎の兄・友治から1996年に受け取った手紙です。市郎について、次のように書かれています。

 母が死亡した後(編注:1976年)、遅きに失したが、私は新聞に弟の動静依頼投稿(編注:戦死者の情報提供を呼び掛ける投稿)を、朝日、毎日、読売に出した。九州~山形に亘り、返信が来た。その中に佐賀の人が上京の折、小平(編注:友治の自宅)へ来てくれたり、そして又、小杉町の大沢円定氏が便りをくれたり。(中略)でも、大澤円定氏の便り「19年1月頃の木下軍曹(編注:市郎のこと)はよく知っているが、急に見えなくなった。」すべて頼りない内容ばかり。

(注)戦況の資料によると…。(編注:この(注)は、友治が記しています)

 南方の戦況日増しに悪化、昭和19年2月末第31軍の創設発令。5師団、7ヶ旅団を左の島々へ転進させた。即ち、サイパン、グアム、トラック、パラオ、硫黄島、その他テニアン、ペリリュー島へ。(すべて全滅です)

 弟はその内のどこかへ転出したはず。昭和19年末、私は弟からハガキを貰った。「俺は死なないだろう」とね。別に転出命令を受けたとか何とか一切記入なし。でも読んだ私「南へ出るな…」と解釈したものです。

――友治から怜子への手紙(1996年10月6日消印)

 この手紙によれば、友治は1976年以降、市郎の消息について新聞各紙で尋ねています。全国から返信が寄せられたものの、市郎の最期について直接知る人からの連絡はなかったようです。友治は戦後に刊行された資料を用い、市郎の南方移転を推測しています。戦車第1師団の拠点は満州でしたので、南方の戦局の悪化に伴い、移転の命令を受けたのだと。それにしても「俺は死なないだろう」という一言から、「南へ出るな…」と直感したというのは、どういうことでしょう。比較的安全な満州に留まるという意味ではなく、南方へ行けという命令が下された後で、「俺は死なないだろう」と書いていて、それを友治が感じ取ったのだとしたら…。兄弟ならではの勘の鋭さが働いたということでしょうか。

 だんだんと市郎についての情報が集まってきました。市郎には子どもがおらず、兄弟たちも他界していますが、市郎の消息を懸命になって探した兄・友治の息子が健在です。私は怜子に仲介してもらい、友治の長男の一郎(1948~)に連絡を取ってみることにしました。

 一郎は、かなりの遠縁にあたる私が市郎について調べていることに驚いているようでした。しかし、自身の「一郎」という名前は、「市郎」からとって友治が付けたのだと教えてくれました。友治は、1943年にハルビンで撮影された市郎の写真を拡大コピーして額に飾り、大切に眺めていたといいます。その写真の裏には、市郎の軍歴が書かれているのだそうです。また、数年前にアルバムの整理をしていたところ、市郎の写真が複数枚見つかりました。私はさっそく、そのアルバムを見せてもらうことにしました。

 西東京にあるホテルのロビーで、一郎は稲架掛けと農村の絵が施された美しい布張りのアルバムを取り出しました。表紙をめくると、魚津大火についての説明が記されています。1956年9月10日に魚津市で発生した大火事によって、市郎の実家は全焼してしまいます。その際、友治がなんとか持ち出した押し入れの3箱の一つに、このアルバムが入っていたのです。市郎が戦地から家族に送った手紙も、この魚津大火ですべて焼失してしまったということでした。

 アルバムのページをめくっていくと、戦前に市郎が家族と一緒に撮った写真、中学から高校時代にかけての写真、そして戦地で撮った写真が続々と出てきました。これらの写真の周囲には、友治の小さな文字で説明が書かれています。次章ではそこから知り得た情報と、私が文献で調べた情報とを総合化し、市郎に迫ってみることとします。

零下30度での演習

 1919年6月24日、木下市郎は富山県魚津市鴨川町に生まれました。旧制魚津中学卒業後、慶應義塾高等部の入学に伴い、上京します。私が慶應義塾大学に問い合わせて卒業証明書を取り寄せたところ、市郎が卒業したのは、あくまで「慶應義塾高等部」でした。これは現在の高校とも大学とも異なる教育機関で、旧制の「大学専門部」と呼ばれ、実学を中心とした短期課程を設けていました。

 3年間の課程を終えた市郎は、1940年、東邦電力に就職し名古屋勤務となります。しかしそれから丸1年も経たず、1941年2月10日、召集令状によって金沢に向かいます。この時、友治は金沢まで市郎を見送りに行きました。前日までは大雪でしたが、10日は打って変わって快晴であったと友治は記憶しています。

 市郎は金沢東部第52連隊に入隊しました。2週間ほど金沢におり、それから満州へ渡ります。初年兵として配属されたのは、満州第453部隊(樺林453部隊)でした。名取政登編『元満州第453部隊第4中隊戦友会名簿』(津金日出吉、1969-71年)には、市郎と同じ第52部隊から満州第453部隊へ集結した兵士たちの様子が記されています。その記述を参考に、市郎の体験を辿ってみます。

 神戸港を経て当時の朝鮮全羅南道麗水港に上陸した一行は、朝鮮半島を鉄路で縦断、満州の牡丹江省寧安県樺林の西兵舎へとたどり着きます。入営直後に市郎が満州で撮った写真には、戦友と並んで穏やかな表情でこちらを見つめている1枚があります。この後に撮影された初年兵時代の写真は、どれも表情が曇って見えます。それもそのはず。第453部隊では1941年7月の時点で、対ソ戦に備えての猛訓練が始まりました。兵器・物資・食糧のすべてを著しく節約したなかでおこなわれる厳しい演習に、兵士たちは飢餓状態に陥り、ある兵士は馬のエサである赤大根をかじり、またある兵士は草の実や松傘の実を食べて飢えをしのぎました(「空腹演習」という名の訓練さえありました)。

 石炭輸送、木材輸送の訓練を経て夏が終わると、短い秋を挟んで、満州の大荒野が雪と氷に閉ざされる極寒の冬がやってきます。第453部隊は、市郎と同じく寒さに慣れた北陸人や長野県人の集団でしたが、さすがに連日の零下30度を下回る寒さは身に応えました。ペチカが焚かれた室内から一歩外に出ると、吐く息が睫毛や眉毛に真っ白に凍り付き、人糞は排出と同時に凍り、鉾(ほこ)形になりました。その中でおこなわれる耐寒演習は、広大な密林を戦場に仮定して、凍てつく森林を駆け抜けなければなりません。また、夜間湿地通過演習では、軍馬とともに突き刺す冷たさの泥にまみれたといいます。あまりに苛酷な演習が続くことから、兵士たちの中には、「早く実戦になって欲しい」と願う気持ちすら生まれました。こうした演習の日々を送る兵士たちを勇気づけ慰めたのが、連隊記念日の演芸会でした。懐かしい祖国の唄や踊り、芝居などが愉快な芸人たちによって演じられたのです。

 市郎はこの第453部隊で約1年半を過ごし、1942年の秋、戦車第1師団戦車輜重(しちょう)第1中隊(牡丹江119部隊中村隊)に転属します。輜重隊とは、兵站(戦闘部隊の後方)において、物資の輸送を担う部隊のことです。戦車第1師団の師団司令部は寧安に置かれ、勃利に設けられた第2師団と並び、いつでも「満・ソ」国境に出動できる体制が整えられました。戦車第1師団で防空隊副官の任にあたった鈴木博詞は、戦後に刊行した手記で次のように記しています。「この時(1942年)編成された戦車師団は、わが陸軍機械化部隊の精鋭をすぐったもので、海軍の戦艦大和・武蔵に匹敵する強豪な新設兵団であった」(鈴木博詞『戦乱のさなかに』安間仁一郎、1970年、333頁)。市郎が転属したのは、少なくとも軍の内部からは「精鋭」とみなされている師団だったようです。

ハルビンにて

 戦車師団に転属してから半年ほどが経過した1943年3月29日、一枚の写真が撮影されました。

松花江鉄橋に立つ市郎(カラー補正)

 これこそ、生前の友治がもっとも気に入り、拡大コピーして額に飾っていた一枚です。市郎は軍事演習でハルビンへ行き、松花江鉄橋の上で写真を撮りました。「ハルビンに来ており、演習が終われば牡丹江へ帰る」と友治への手紙で綴っています。市郎は同じ写真を、姉にも送っていました。本人もお気に入りの一枚だったのでしょう。柔和に微笑みながらこちらを見つめる市郎の表情が印象的です。横の看板には、この鉄橋や軍関係の建造物、艦船、航空機が撮影禁止である旨が日本語とロシア語で併記[注1]されています。

 ハルビンは、日本の旧陸軍731部隊が人体実験や細菌戦に使用する生物兵器の実験をおこなった本拠地でもあります。この史実は極めて重要ですが、今回は市郎にとって、より身近であっただろう日本軍の加害の史実に目を向けたいと思います。本筋からはすこし外れますがご容赦ください。

 2013年5月22日(水)、朝日新聞のオピニオン「声」欄に、「慰安婦は多民族蔑視の制度」と題された投稿が掲載されました。投稿主は、トイビトでもインタビューに答えている民俗学者の酒井卯作です。

 日本維新の会の橋下徹共同代表が、旧日本軍慰安婦が「必要だった」とする発言を取り消そうとしない。「世界各国の軍隊が女性の活用を必要としていた、ということを僕は言った」と弁明した。だが、橋下氏は、慰安婦を「活用」した戦時中の日本人の意識の底に、朝鮮人らへの蔑視があったことに、もっと目を向けるべきではないか。

 私は戦時中、旧陸軍の2等兵だった。一番驚いたのは、階級が上の朝鮮人兵士が、我々日本人新兵のふんどし洗いなど、身の回りの世話をしてくれたことだった。そうしないと、日本人の古参兵から殴られるのだ。

 そうした民族差別の究極の表れが、朝鮮人女性や中国人女性を慰安婦にしたことだろう。中国戦線で戦った私の義父は日記をつけていた。そこに「支那(しな)ピー 一円」「朝鮮ピー 一円五十銭」という記述がある。南方戦線にかり出された漫画家の水木しげる氏によると「ピー」は慰安婦を指すという。女性たちは民族ごとに値段がつけられた。まるでレストランのメニューで、女性蔑視もはなはだしい。

 西村真悟衆院議員は「韓国人の売春婦はまだうようよいる」と述べた。政治家たちが過去や現在の他民族への蔑視について無神経な発言を繰り返せば、日本は世界で孤立してしまうのではないか。

――『朝日新聞』(2013年5月22日付朝刊)

 慰安婦の料金の違いが民族の違いに根差していたというのです。この甚だしい民族差別は、政治家たちの愚昧な発言に見られるように、現在でも消えることがありません。そして市郎が所属する戦車第一師団が拠点にしていた牡丹江にも、慰安所は点在していました。この地で初年兵を過ごした兵士の証言を読んでみたいと思います。

 6ヵ月の経験も積み、衛兵の勤務も勤めた。一通りの苦労も経てきたことでもあり、林口街も見たい、饅頭、ゼンザイも、満州支那料理も食べたい。戦友の房野君とともに外出の届をする。許可が下り、…週番下士官の訓辞を受け外出する。「禁止区域には入らぬよう。門限は守ること」。「突撃」と書いた紙袋を一個ずつくれる。「病気だけはもらうなよ」。南門を出るまで先任者の引率で、外出票を提示。

――木和田武司『わが青春の迎春花 山砲と兵隊』(出版記念祝賀の会実行委員会、2000年)

 「突撃」(正確には「突撃一番」)とは、コンドーム(当時の「サック」)のことです。軍は性病予防の名目で配っていますが、これは慰安所で慰安婦と性交することを容認・推奨していたと見ることもできるのではないでしょうか。軍が慰安所の設立や慰安婦の斡旋に関与した史実については、吉見義明の研究(『従軍慰安婦資料集』大月書店、1992年など)が明らかにしています。

 もう少し具体的な兵士の証言を読んでみます。

「遠藤、綏芬河の街は初めてだろう、連れて行ってやるから一緒に来い」と、言われて、兵長の後にくっついて営門を出たが、兵隊が公用でない単独外出となれば、行く先は大体決まっていて、慰安所か食べ物屋であった。…渡辺兵長について行くと、行き先はやはり慰安所(兵隊はぴー「婢?」屋と呼び、満人の慰安婦を満ぴー、朝鮮人の慰安婦は朝鮮ぴーと呼んでいた)であった。慰安所は綏芬河の街に大小合わせて数軒はあるらしいが、行ったのは其の中の1軒で木造2階建てだった。…2階は中央が廊下になっていて、両側には幾つかの部屋が並んでいた。…又待合い室に戻ると、渡辺兵長はまだ仲間と雑談に熱中していた。私は少しそわそわした気分で近くの椅子にそっと腰を降ろして居たが、顔を上げてみると丸顔で小柄な朝鮮服の女が近づいて来た。

――遠藤三衛『兵士たちは何処に 私の太平洋戦争』(私家版、1994年)

 この証言によれば、古参兵に誘われて行く外出先は、慰安所か食べ物屋であったといいます。慰安所では、「満ぴー」「朝鮮ぴー」と呼ばれる慰安婦たちがいました。「声」欄の投稿にあった酒井の義父が赴いたのは中国中部の戦線なので「支那(しな)ピー」ですが、牡丹江は満州国ですので「満ぴー」という呼称です。どちらにも「朝鮮ピー」がおり、慰安所自体は「ぴー屋」と呼ばれていたのです。

 続いて、牡丹江の慰安所に強制連行させられた慰安婦の証言を読んでみます。

 14 歳の時、地主の家に日本人警官と憲兵隊長が来て連行されました。中国黒竜江省に着くと「明月館」という慰安所で、30人位の朝鮮人娘のほかに日本女性もいました。「春山峰山」という日本名で呼ばれました。部隊長が襲い掛かってくるので抵抗したら歯が2 本折れました。翌日には陰部が肛門まで裂けてしまいました。それいらい犬畜生の扱いを受けました。1 年半で48 人中6 人が死にました。チチハル、牡丹江、北京をめぐりました。急に兵士がいなくなり、残された7 人の朝鮮娘は中国人の助けにより、帰国できました。

――証言者:崔奉仙/出典:西野瑠美子「朝鮮民主主義人民居和国 元「慰安婦」の被害報告」(『季刊戦争責任研究』(5)日本の戦争責任資料センター、1994年)

 朝鮮中部に住んでいた崔は、日本人警官と憲兵隊長によって強制連行されます。鉄路で中国黒竜江省に連れてこられ、牡丹江市に存在した「明月館」と呼ばれる慰安所で強制的に慰安婦にさせられます。そして強姦されて重傷を負うのです。1 年半で慰安婦の48 人中6 人が亡くなったというのですから、あまりにも酷烈な環境です。

 牡丹江で軍隊生活を送った以上、市郎も慰安所の存在を知っていたことでしょう。外出するときに「突撃」を渡されたり、古参兵から慰安所へ誘われることがあったとしても不思議ではありません。容姿が色白の初年兵は、古参兵から「慰安婦の代わり」として強制性交させられたという証言も存在します。市郎の周囲にそのような被害にあった仲間はいなかったでしょうか。

 日本軍が犯した多種多様な戦争犯罪のうち、一般の兵士たちに身近でありながら、非常に語られにくかったのが、「性」をめぐる問題ではないでしょうか。女性たちを強制連行し、「慰安所」で強姦・暴行した史実について、私たちはさまざまな立場からの証言を聞き、読みながら、絶えず問題を見つめ続ける必要があります。そうしなければこれと似た出来事は、これから先、何度でも繰り返し起こり続けることでしょう。

フィリピンへの途上

 1950年、市郎の母・木下むら(1892~1976)の元に、厚生省未帰還調査部から「特別審査による死亡認定所見」と呼ばれる文書が届きました。これによると、市郎は満州で無線通信の技術を修得していたことを理由に、戦局が悪化するフィリピン方面へ、航空部隊の補充要員として移転されることになりました。

 市郎は1944年6月に満州を出発、7月3日、釜山から「吉野丸」に乗船します。この吉野丸には市郎と同じく、フィリピン方面に派遣される通信技術修得者たちが乗り込みました。一旦、北九州の門司へと戻った吉野丸は、ここで内地から直接フィリピン方面へ向かう兵士たちを乗せました。そのなかに、軍医の井上悠紀男がいました。井上は戦争体験を綴った自伝的著作『海没部隊:駆け出し軍医のネグロス戦記』(井上悠紀男、1987年)において、吉野丸における一連の出来事を綴っています。

 1944年7月12日、吉野丸は軍人5,063名、船員153名を載せて門司港を出港します。11隻の輸送船団が6隻の護衛艦艇に守られ、台湾の高雄へ向けて南下するのです。吉野丸は1906年にドイツで客船として建造され、第一次世界大戦でドイツが敗戦すると、賠償として日本に引き渡されました。1937年、日中戦争が勃発すると陸軍が徴用し、軍隊輸送船としての運用が始まります。吉野丸のように客船が軍隊に徴用されるのは、ごく普通のことでした。

 市郎や井上を乗せた吉野丸は内地を離れ、7月21日、台湾の高雄に到着します。ここで燃料や水の補給を済ませ、兵隊たちは10日ぶりに水浴びをして生気を取り戻しました。待望のバナナや氷砂糖に舌鼓を打ち、7月29日、吉野丸は高雄を出港します。ここからは7隻の油槽船(石油類を輸送する船)と合流し、合計18隻の輸送船団が6隻の護衛艦艇に守られ、「ミ11船団」(日本本土とボルネオ島ミリとの間で運航した護送船団「ミ船団」の一つ)としての航海が始まります。

 しばらくすると、輸送総指揮官から命令伝達がありました。「本船団は明朝バシー海峡に入る予定。各員一層厳戒態勢の万全を期すべし」。台湾とフィリピンの間に位置するバシー海峡は、「魔の海峡」と呼ばれていました。ここで米軍によって次々と日本軍の輸送船が沈められ、のちに「輸送船の墓場」として名高い海域になるのです。31日午前3時40分、フィリピンのルソン島の北方、ダルビリ島の西方20kmを通過していたときのことです。吉野丸で当直中の航海士が、黎明の薄明りのなかに間近に迫る2本の雷跡を発見します。次の瞬間、ズシーン、ズシーンという大きな衝撃が2度走ります。魚雷が2本とも船倉に命中したのです。

 命中箇所の船倉内は、兵員の居住区域に改造されており、そこには木製のカイコ棚がギッシリと組み上げられていました。当時の輸送船は「昭和の奴隷船」と呼ばれ、すべてのカイコ棚の上で、船員たちが寝返りも打てないほどの状態で就寝中だったのです。魚雷の衝撃でカイコ棚は木端微塵に飛散し、そこで寝ていた兵員のほとんどは吹き飛ばされて絶命してしまいました。吉野丸は直ちに救難信号を発信、同時に僚船や護衛艦隊に救援を求める汽笛を鳴らしました。隊長らしき人物の声がして、「大丈夫だ!落ち着け!本船は沈まんぞ!」と怒鳴りましたが、その声が終わるか終わらないうちに、ものすごい噴流が足首を洗います。井上が「送水管でも破裂したのでは?」と思っていると、数秒もしないうちに両ひざまで水が上がってきました。

 このとき吉野丸は、魚雷によってできた巨大な穴から大量の海水が一気に流れ込み、二番・三番船倉をあふれ出し、破壊された隔壁からボイラー室や機関室に流れ込み、船首方向から急速に沈み始めていました。「船尾へ行け!」と叫ぶ誰かの声に従い、押し合いながら船尾に向かいかけた井上は、白い波頭が目に入りました。自分の目の高さに、浮き沈みする兵隊の頭が点々と見えることから、「間違いなく船首から沈んでいる」と判断し、早く飛び込まねばと思ったのです。

 ところが、すし詰めで身動きが取れず、僅か2メートル先の舷側の手すりまでなかなか近づけません。やっと順番がきて手すりをつかみ、いざ飛び込もうと桟に足をかけた途端、上から襲い掛かる荒波に頭から吞まれてしまいます。しばらく渦潮に翻弄されて気を失い、サロンデッキの天井裏に頭を支えた状態でいると、吉野丸はどんどん沈んでいきました。

 すんでのところで意識が戻った井上は、自分がまだ船内にいると把握、手に触れた配管らしきものを反射的につかみ、力いっぱい水平方向に押してみます。途端に渦流に乗せられ、猛烈な勢いで船外に吐き出されました。すると偶然、長い丸太が身体に当たります。反射的にしがみつくと、グングン浮力を増して海面にぽっかりと浮かび上がりました。このとき吸った空気のおいしさを、井上はハッキリと記憶しています。それから12時間以上にわたって海面を漂い、翌日の夕闇が迫るなか、井上はようやく救助艦に引き上げられます。

 結局吉野丸は、魚雷の命中から7分間で全没しました。乗船していた部隊将兵は5063名、搭載されていた軍需品は4000立方メートルでしたが、このうち兵員2,460名、乗員35名が死亡しました。そしてこの船団の犠牲は吉野丸だけではありませんでした。吉野丸を攻撃した米潜水艦群は、立て続けに船団の4隻を撃沈し、2隻を大破航行不能にしました。吉野丸以外の撃沈によって、将兵3,980名と乗組員83名が命を失っています。

 市郎はこのときの攻撃によって生死不明になり、その後フィリピンに到達した記録もないことから、吉野丸と運命をともにしたと考えられます。魚雷の爆破によって死んだのか、脱出できずに溺死したのか、脱出したあとに溺れたり衰弱したりして死んだのかは分かりません。吉野丸の沈没による2,495名という犠牲者数は、アジア・太平洋戦争中の日本の輸送船の撃沈時の人的被害として、10番目に位置づけられています。

市郎が乗船した吉野丸

「戦争=戦闘」ではない

 バシー海峡でアジア・太平洋戦争中に亡くなった日本人は、10万人以上[注2]と推定されています。長崎原爆で亡くなったのは約7万4千人と推定されていますから、この数が示すことの重大さに改めて気が付きます。アジア・太平洋戦争の後半、バシー海峡にアメリカ軍の潜水艦が多数配備され、南方の戦線に送られる日本軍の輸送船団を魚雷で次々攻撃し、それがことごとく成功しました。この史実は、果たしてどれほど広く知られているのでしょう。

 日本人論や『「空気」の研究』で知られる山本七平は、フィリピンで米軍捕虜となった小松真一の指摘する「敗因21ヵ条」を紹介していますが[注3]、その第15条には、「バアーシー(著者注:バシー)海峡の損害と、戦意喪失」が挙げられています。小松はミッドウェーやレイテ島、硫黄島など、日本の敗戦に直結した戦場の地名は一つも挙げず、バシー海峡を挙げているのです。この姿勢に山本は強く共感しています。

 「戦争=戦闘」ではないと山本は強調します。食糧と石油だけによる戦争もあり得るのだと(物価上昇が止まらない今日の経済状況が思わず想起されます)。

 日本軍は人と物資を輸送する航路の安全性を確立する努力を怠りました。その上で、やみくもに大量の兵士を「死へのベルトコンベアー」に送り続けました。50万人送ってダメなら100万人、100万人送ってダメなら200万人というように、米艦隊が魚雷を携えて待ち構えるバシー海峡に、徴用した非軍用艦に兵士と物資をすし詰めにして、やみくもに送り続けたのです。それによって甚大な損害を被り、戦意喪失につながったのは言うまでもありません。兵站を軽視し、兵士と物資が不足すれば、「戦闘」を続けることはできません。

 山本はバシー海峡における日本軍の精神を、「機械的な拡大再生産的繰り返し」と指摘し、これによって目先の危機を乗り越えるメンタリティーは、戦後も続いていると論じています。山本は具体的な例を挙げていませんが、たとえば2021年、コロナ禍で追加予算をつぎ込んで強行された東京オリンピックを思い出せば一目瞭然でしょう。2025年に開催が決まっている大阪万博も、同じ発想に立ってはいないでしょうか。前世紀には経済復興をもたらしたものの、いまでは環境も経済も著しく破壊する巨大なイベントを「機械的な拡大再生産的繰り返し」の発想で強行することは、負の遺産の増大をもたらします。バシー海峡における日本軍のメンタリティーは、今日においても踏襲されてはいないでしょうか。

戦死者としてではなく

 市郎の乗船していた吉野丸が沈没してから約一か月後、バシー海峡で12日間漂流した末、奇跡的に助けられた通信兵がいます。中嶋秀次(1921~2013)です。彼は戦後、バシー海峡で死んでいった多くの仲間たちを慰霊するため、この海が見渡せる台湾南部の猫鼻頭に、慰霊施設を建設しようと尽力しました。戦時中、近くの海岸には大量の日本兵の遺体が打ちあげられていました。中嶋の純粋な熱意は、当時のことを記憶する地元の人々から支持されます。そして1981年、中嶋の私財と日本各地からの寄付により、「潮音寺」が建設されました。落慶法要では曹洞宗の総本山である永平寺から副貫主の丹羽廉芳が訪れ、導師を務めます。現在は地元台湾の人々の善意によって支えられており、日本人の参加者を募って毎年慰霊祭もおこなわれています。

 私の母は、市郎の姉・梅子から聞いた手紙にまつわる話を記憶しています。市郎は戦地から母・むらへ送った手紙に、「もし私が助からなかったとしても、遺族年金が支給されるので安心してください」と書いていました。姉・梅子への手紙には、「どうか私の分も生きてください」と書いていたといいます。梅子はその言葉を守るように97歳の生涯を全うし、2010年に逝去しました。

 もし市郎がバシー海峡を無事に通過し、南島の激戦を奇跡的にくぐり抜け、生きて敗戦を迎えていたら、どんな心情だったでしょうか。敗戦を内地で迎えた酒井卯作は、その日のことを次のように語っています。

 8月15日は日本晴れでした。焼け跡に僅かに芝生が残っていました。帯剣を外し、鉄砲を捨てて大の字になって空をみました。もう逃げ回らなくていい、もう死ななくてよいのだ、と思いました。戦争が終わって良かったと思いました。実感としてそう思いました。憲法9条をみて涙が出ました。

――講座「戦争の民俗学~無名人の力」での酒井卯作の発言

(2014年12月6日 於:NPO法人東京自由大学)

 平和を愛した市郎も、やはり酒井と同じように、晴れ晴れとした気持ちで、大の字になって空を見上げたかもしれません。

 市郎の戒名は「眞朗院釈善祥」。1950年の戦死公報を受けた後で付けられているため、「烈」や「忠」の字が含まれることの多い戦時戒名ではありません。市郎は靖国神社に祀られていますが、当然のことながら、家族墓でも祀られています。現在は富山から移動して東京西部に存在するその墓には、「やすらぎ」と彫られ、市郎が戦死した翌年に62歳で亡くなった父の源吾、母のむら、兄の友治、兄嫁のきぬと共に埋葬されています。日本各地には戦死者だけを集めた共同墓地が存在し、それらには軍服姿の戦死者像が立てられて戦歴が記されているケースもあります。各地で戦死者の墓の実態を見つめてきた民俗学者の岩田重則は、次のように指摘しています。

 戦死者たちに対しては、その人生のすべてが兵士であったかのような表象が行われていた。戦死者たちも、その個人性を保存しようとする。しかし、そこで表象された戦死者たちの個人性は、戦死の一点に集中され、他は脱落していた。戦争の非人間性とは、人間の死における個人性においても、戦死者たちを兵士であったことに限定し表現するところにあるのではないだろうか。

――岩田重則『日本鎮魂考』(青土社、2018年、193-194頁)

 市郎の場合、国から送られてきた「砂だけが入った骨壺」が埋葬されている家族墓は、市郎を「兵士」に限定するものではありません。しかし靖国神社において、市郎は戦死したゆえに、「神」として祭祀されています。やはりこの祭祀のあり方に、私は強い違和感を抱きます。

 私が忘れたくないことは、市郎が家族想いで気立ての優しい末っ子でありながら、海が好きで、タバコが好きで、友達とはしゃぐのが大好きな青年であったということです。市郎も私たちと同じようにさまざまな面を併せ持つ一個人であり、平和を愛し、戦争には行きたくないと母・むらに漏らしていました。

 社会を構成している私たち一人一人は、それぞれが個人の物語を生きています。それが、国の作り上げる強大な物語に吞み込まれ、犠牲となる最たる例が、「戦争」なのです。読者のみなさんのご家族や親戚・縁戚、身近な方の中にも、戦争を体験された方がいらっしゃることでしょう。戦争でお亡くなりになった方もいらっしゃるかもしれません。その頃のお話を、ぜひお聞きになってみてください。そして、少しでも当時の手がかりをつかめるアルバムや日記、資料などが残されていたら、ぜひ覗いてみてください。当時を生きた一人一人の物語に光を当て、「戦争」という強大な物語に呑み込まれる過程を振り返ることが、バシー海峡に代表される日本の負のメンタリティー、「機械的な拡大再生産的繰り返し」から脱却する一歩につながるのです。

※:今回の調査では、以下の方々のお世話になりました。心より感謝申し上げます。(敬称略・名前順)

雨池勇、雨池昌子、イ・ヒョンナン、大岡聡、木下一郎、木下克彦、澤田怜子、彭浩、屋代宜昭、吉田裕

旧制魚津中学の同級生たちと(左端が市郎)

友達と海にて(中央)

慶應義塾高等学校にて(左)

二子橋にて

東邦電力の同期と

家族写真(右上が市郎。左上は兄の友治)

初年兵時代

満州入営直後

満州にて

※写真はすべてカラー補正しています。

注釈

[注1]

 ロシア語が併記されていたのには地政学的な背景があります。1898年3月、帝政ロシアは清朝と旅順大連租借条約を結び、ハルビンから大連にいたる南満州支線の敷設権を獲得しました。これにより、ハルビンは帝政ロシアが中国東北部で影響力を拡大させるための拠点として急速に発展することとなったのです。1900~01年にかけて建設された松花江鉄橋は、1027mの長さがあります。橋桁の石垣は、この地への進出を狙う日本から、長崎の石工たちが送られて施工しました(現在は歩行者専用橋として整備されています)。1905年、思惑通り日露戦争で勝利した日本は南満洲鉄道株式会社を設立、大連―新京間、安東―奉天間の鉄道を獲得します。その後、満州国が建国されると日本は東支鉄道も買収し、それまで大連―新京間を結んでいた特急列車「あじあ号」は、大連―ハルビン間まで運転区間が延長され、日本人の進出も加速しました。

 このように、帝政ロシアが最後まで鉄道を手放さなかったハルビンには、アジア=太平洋戦争中もロシア人の影響力が残り、松花江鉄橋にもロシア語の表記が見られるのです。異国情緒あふれる街は日本人にとって観光名所となり、当時の絵はがきには「歓楽の都市ハルピンに遊ぶ」といった文言が記されています。

 しかし中国人にとって松花江は、「奪われた地」に他なりません。満州事変に着想を得た「松花江上(松花江のほとり)」という歌は、現在でも有名な抗日歌として知られています。その歌詞を見てみましょう。

「松花江のほとり」

作詞・作曲:張寒暉 

わが家は東北、松花江のほとり

そこには森林と鉱山

さらに山野に満ちる大豆と高粱がある

わが家は東北、松花江のほとり

彼の地にはわが同胞、そして年老いた父と母がいる。

ああ、9・18、9・18

あの悲惨な時から、わが故郷を脱出し、

ああ、9・18、9・18

あの悲惨な時から、わが故郷を脱出し、

無限の宝庫も捨て去って、流浪、また流浪、

関内をさすらいつづけている。

いつの年、いつの月、

私の愛する故里へ帰れるのだろうか。

いつの年、いつの月、

いつ、私のあの無尽の宝庫をとり戻せるのだろうか。

父よ、母よ、喜んで一堂に会するのはいつだろうか 

(日本語訳・澤地久枝)

 9・18とは、満州事変の引き金である柳条湖事件が発生した日付です。この日を境に故郷を追い出された主人公の悲哀が歌われています。日本人にとっての8・6や8・9に匹敵する日付と言えるでしょう。

 このように、中国・ロシア・日本それぞれの思惑が交錯する松花江を背にして、市郎は一体、何を思ったのでしょうか。

[注2]

 バシー海峡の犠牲者への想いは、広く知られている作品にもなっています。市郎が戦死した年の暮れ、1944年12月30日にバシー海峡で沈没した駆逐艦・呉竹には、海軍少尉の柳瀬千尋(1921~1944)が乗船していました。誰よりも心根が優しく、軍服とイメージの合わなかった千尋。その兄こそ、漫画家のやなせたかし(1919~2013)です。やなせがまだヒット作を生み出す前、「自分を励ます歌」として1961年に作詞し、空前のヒットになったのがこの曲でした。

「手のひらを太陽に」

作詞:やなせたかし

作曲:いずみたく

ぼくらはみんな 生きている

生きているから 歌うんだ

ぼくらはみんな 生きている

生きているから かなしいんだ

手のひらを太陽に すかしてみれば

まっかに流れる ぼくの血潮

ミミズだって オケラだって アメンボだって

みんな みんな生きているんだ

友だちなんだ

 「生きているから かなしいんだ」という歌詞が印象的です。戦争で弟を亡くした経験を持つやなせならではの「生きる」ことへの賛歌と言えるでしょう。この歌はNHK『みんなのうた』で紹介されてレコードが発売され、やなせは詩人としてヒット作に恵まれるようになります。そして1973年、弟の千尋をモデルにした一冊の絵本が出版されました。それが、『あんぱんまん』です。お腹の空いた子どもたちに、自分の顔を食べさせる主人公・あんぱんは、最初のうちは気味悪がられましたが、75年に続編の絵本『それいけ!アンパンマン』が刊行されると、静かなブームを巻き起こします。そして1988年、日本テレビでアニメ番組『それいけ!アンパンマン』が放送され、人気に火が付きます。アニメ版で放送された主題歌を見てみましょう。

「アンパンマンのマーチ」

作詞:やなせたかし

作曲:三木たかし

そうだ うれしいんだ 生きるよろこび

たとえ 胸の傷がいたんでも

なんのために生まれて なにをして 生きるのか

こたえられないなんて そんなのは いやだ!

今を生きることで 熱い こころ 燃える

だから 君は いくんだ ほほえんで

そうだ うれしいんだ 生きるよろこび

たとえ 胸の傷がいたんでも

ああ アンパンマン やさしい 君は

いけ! みんなの夢 まもるため

 ここでも「生きる」ことが高らかな喜びとともに歌い上げられています。「胸の傷がいたんでも」生きることはうれしく、喜びであるのです。「アンパンマンのマーチ」は、哲学的な問いが畳みかけられるようにして続出し、この歌詞を仏教やキリスト教の教えに通じると指摘することもできるでしょう。

 やなせは語っています。「アンパンマンをかきはじめたとき なにか不思議ななつかしさをおぼえた どこかぼくの弟に似ている」「アンパンマンについて話すことは あるいは自分史と重なるかもしれない お恥ずかしいがしかたがない」(『やなせたかし全詩集 てのひらを太陽に』北溟社、2007年)。初期の絵本に登場するアンパンマンは復員兵のような格好をしていましたが、それが段々と現在のような親しみやすい姿になり、いまや海外でも知られる作品になっています。バシー海峡で戦死した千尋への想いは、このように普遍的な作品へと昇華されていったのです。

[注3]

「敗因21ヵ条」

1、精兵主義の軍隊に精兵がいなかった事。然るに作戦その他で兵に要求される事は、総て精兵でなければできない仕事ばかりだった。武器も与えずに。米国は物量に物言わせ、未訓練兵でもできる作戦をやってきた

2、物量、物資、資源、総て米国に比べ問題にならなかった

3、日本の不合理性、米国の合理性

4、将兵の素質低下(精兵は満州、支那事変と緒戦で大部分は死んでしまった)

5、精神的に弱かった(一枚看板の大和魂も戦い不利となるとさっぱり威力なし)

6、日本の学問は実用化せず、米国の学問は実用化する

7、基礎科学の研究をしなかったこと

8、電波兵器の劣等(物理学貧弱)

9、克己心の欠如

10、反省力無き事

11、個人としての修養をしていないこと

12、陸海軍の不協力

13、一人よがりで同情心がないこと

14、兵器の劣悪を自覚し、負け癖がついたこと

15、バアーシー海峡の損害と、戦意喪失

16、思想的に徹底したものがなかった事

17、国民が戦いに飽きていた

18、日本文化の確立なき為

19、日本は人命を粗末にし、米国は大切にした

20、日本文化に普遍性なき為

21、指導者に生物学的常識がなかった事

(山本七平『日本はなぜ敗れるのか:敗因21ヵ条』角川書店、2004年)


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