人生と実存

https://jspp.gr.jp/book/39/ 【人生の意味の心理学―― 実存的な問いを生むこころ】より

人生とは何なのか,そこには一体どのような意味があるのだろうか,そしてそもそもそこに意味などあるのだろうか。このような「問い」は,何気なく暮らす日常生活の中では,もしかしたらあまり目を向けることはない類のものかもしれない。しかし誰もが様々なライフイベントを通して,特に生老病死に直面した際などに,多かれ少なかれこういった「問い」を意識した経験があるのではないだろうか。本書はそういった「人生の意味への問い」に対しての心理学的研究をまとめた専門書である。

 このような「人生の意味への問い」は,狭義の「心理学」だけでなく,非常に哲学的であるとともに,文学的,宗教的な性質をもち,さまざまな分野と密接に関連している。実際,本書もトルストイの言葉から始まり,1章で哲学的な知見を整理し,2章で心理学のさまざまな研究についてまとめるところから議論を進めている。そして3章以降は,具体的な七つの調査結果を基に,「実存的空虚」(3章)や,人生の意味への問いがどのように問われるのかについて(4章),人が人生の意味にいかに答えているかについて(5章)といった問題が,それぞれ論じられている。青年期を対象とした調査が中心であるが,量的な手法も質的な手法も用いてアプローチされており,興味深い知見が紹介されている。

 また,6章ではそれらの実証的な調査の結果も踏まえつつ,これまでの哲学や心理学の理論的枠組みを統合することを目指して,人生の意味を入れ子上の「場所(トポス)モデル」を用いて説明することを試みている。このモデルは,7章において様々な事例をもとにした検討がなされており,一定の可能性が示されている。さらに終章では,得られた知見とその意義を整理し,展開についても触れられている。このような問いを探求することが,単に知的な好奇心を満たすだけでなく,著者も指摘するように「生き方や人生観の様々な可能性と,幸福や意味の(再)発見につながる道を提示していくこと」にうまく繋がって行けば,本書で行われているような研究が持つ位置づけもさらに変わっていくのではないだろうか。そういう意味でも,本書は人生の意味や生・死といったキーワードに関心を持つ研究者だけでなく,自己やアイデンティティ,ポジティブ心理学など,さまざまな領域・キーワードに関心を持つ人にとって,非常に有益な示唆を与えてくれる。

 また,本編とは別に,五つの話題がトピックとして挿入されており,著名人が人生の意味について語った言葉や,「無常観」という日本の思想・文化と密接に関わる概念などが扱われている。短いトピックとは言え,いろいろなことを考えさせられる内容となっており,こちらも非常に興味深い。(文責:並川 努)


https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/7699584/ 【現代俳句協会から離脱・統合/日本俳句協会】

https://www.let.osaka-u.ac.jp/chutetsu/fang/sheng/ob.html 【阪大中哲…卒業生の声 - 大阪大学文学部】より抜粋

◆「中国哲学は人間理解の最適アプローチ」 堺谷真人

(昭和62年卒業・電通)

中国哲学研究室で学んだ後、私は広告会社に就職しました。外資系広告主を含む様々な企業の広告戦略づくり、CM制作などを担当するかたわら、私は折にふれて中国の古典を読み、恩師の著作に眼を通してきました。日々めまぐるしく変転するビジネスの世界に身を置く私にとって、「論語」や「荘子」など中国の古典との対話は豊かな知的養分、そして勇気と自信を与えてくれたのです。

文学部を志望するあなた。あなたは実利・実用一辺倒の技術競争から一旦距離をとることを選びました。しかし、忘れないでください。人間そのものに対する哲学的洞察は、今後あらゆる分野で不可欠な知のバックボーンとなることを。そして二千年以上の生命を持つ中国古典を学ぶことこそ、その最高のアプローチのひとつだということを。

研究者志望の人も、そうでない人も、いちど中国哲学研究室のドアを叩いてみてください。あなたの未来はそこから始まります。


http://kangempai.jp/essay/2013/02sakaidani.html 【密教系の思い出 堺谷 真人】より

 二十代の頃、縁あって真言密教に傾倒していた時期がある。 ある年の初夏、三重県の山中で滝行をした。

 杉林の急斜面を流れ落ちるせせらぎが懸崖に至って高さ2メートル半、幅1メートル半ばかりの小さな滝となり、深さ70~80センチほどの澄んだ滝壺を従えていた。白装束の老師がまず滝壺に入る。水しぶきを浴びて般若心経や慈救の呪(じくのしゅ)を朗々と唱える老師を眺めていた私は、その光景にひそかに落胆した。滝行といえば、『平家物語』で荒法師・文覚上人が行じたごとく、真冬の那智の滝壺に幾日も浸かるような壮絶なシーンを想像していたのに、眼前のそれはただ巨大な打たせ湯にしか見えなかったからである。

 しかし、直後、交代で滝壺に踏み込んだ私は、自己の認識の甘さを痛感した。初夏とはいえ、深山の湧き水を集めた滝の水は冷たい。下肢から急速に熱を奪ってゆく。いざ滝を頭上まともに浴びると、存外強い水圧に負けそうになる。身体がぐらついた。すかさず老師がいう。「心経でも何でも結構です。声に出して唱えて」

 無茶な命令である。私は経文や真言のたぐいをまだ何ひとつ暗誦できない初心者なのだ。だが、足腰は冷えるし、水はとめどなく落ちてくる。とにかく何か大声で唱えてでもいない限り、この滝に抗う術はないのだと遅蒔きながら得心した。このとき、咄嗟の窮地を救ってくれたのは歴代天皇の漢風諡号であった。「神武、綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊・・・」第82代・後鳥羽天皇あたりまで唱えたように記憶するが、口からも鼻からも遠慮なく水が流れ込むのには閉口した。

 別の年の一月、滝の近くで護摩法を修したこともある。不動明王を奉祀する小堂に籠もり、宵の口、深夜、早朝と三座の護摩を焚く。私も白装束で老師に侍坐し、念珠を爪繰りながら般若心経や不動明王ほか諸仏諸尊の真言を誦するのである。厳冬期、夜間の気温は氷点下数度まで下がる。護摩壇の火中に投ずる目的で用意した樒を桶の水に漬けておくのだが、夜が更けると、枝ごと凍りついてしまう。氷を砕き水を替えても、1時間ほどでまた凍りつく。凜冽たる底冷えは骨身にこたえた。

 それでも、私は護摩が好きであった。木製の柄の先端に真鍮の匙がついた特大の耳掻きのような法具がある。これで胡麻油を掬って火の中に灌ぎかけると香ばしい匂いが四隣にぱっとひろがり、一瞬、中華料理屋に入った気がする。なんだか美味そうなのである。杉林の深い闇の中、護摩木の燃える匂いや爆ぜる音、オレンジ色にゆらめく焔も捨てがたかった。

 深夜、堂内にまでしんしんと迫る寒気の中で、不動明王の真言を一心不乱に唱えていると、ふと妙な感覚に襲われた。自分が真言を唱えているのではなく、あたかも真言が自分を唱えているかのように感じたのだ。自分は虚空に浮かぶ一本の笛であり、劫初以来、広大無辺の虚空に遍満している真理を受けとめて音声化する装置である、というイメージがこのとき鮮明に脳裏に結ばれた。

 ここまでが真言密教にまつわる私の思い出話の一端である。神秘体験や悟りとは無縁ながら、水や火、山川草木などの自然との印象的な出会いの数々は、私が俳句を詠むときの構えや感じ方になにがしかの影響を与えているかもしれない。以下、この当時の作品を含めて旧作を掲げ、エッセーの結びとしたい。

    行者瀧散りそびれたる花にあふ   顕密の宗論ほろび花むくげ

    若楓沙門こはぜをかけ直し    慈恩忌や論議の僧の喉佛

    鶯やとざして広き写経場    被甲護身とけ楤の芽は雨このむ

    五鈷鈴や蟷螂余命すきとほる   山つゝじ韓の僧衣は灰染めと

    踏めさうな冬凪僧はふだらくへ   有漏の身の諸根そばだつ白露かな


https://weekly-haiku.blogspot.com/2021/06/4_0680508226.html 【人生と実存と

堺谷真人】より

姫子松一樹「上顎にまんぢゆう」には、幾重にも記憶を塗り重ねた人生の手触りがある。

卒業や粉いつぱいのチョーク受け  姫子松一樹

黒板の溝がチョークの粉でいっぱいになっている。卒業式目前の某日。掃除当番の一人がそれに気づき、黒板消しと雑巾でチョーク受けを清掃しようとしている。立つ鳥跡を濁さず。お世話になった黒板への感謝の気持ちが素直に現れている。

伊賀焼のみどりひとすぢ春の雨  姫子松一樹

川端康成はノーベル賞受賞記念講演「美しい日本の私」の中で、わび、さびを代表する焼き物として古伊賀を採りあげ絶賛した。古伊賀の茶陶の肌に走る一筋の緑のビードロ(ガラス質)には、遠い春の日の雨の記憶が凝結している。

上顎にまんぢゆうの皮朧月  姫子松一樹

山の芋を練り込んだ上用饅頭。餡から分離した薄皮の一部が上顎に付着している。(まれに海苔でも同様のことが起きる)夜空に貼り付いた朧月と饅頭の皮との不思議な相似形。月との連想でいえば、この饅頭は黄色い葬式饅頭なのかもしれない。故人への断ち切れない思いも一緒になって上顎に付着している。

しばらくを地にくつついて石鹸玉  姫子松一樹

石鹸玉にも一生がある。ストローの尖端に生まれ出たばかりの幼少期。青雲の志を抱いて上昇する少壮の頃。風に流されて空中に浮遊する中年時代。そして下降して遂に地上に擱座する余生。滅するまでのたまゆら表面に七色の彩文のゆらめくのは、恍惚として往時を回顧する最晩年か。この句は最晩年の石鹸玉を詠じてまことに秀逸。

春ショール鉄棒に掛け逆上がり  姫子松一樹

早春。ショールを巻いた妙齢の女性が鉄棒の前に立っている。小学生の頃に得意だった逆上がりをふとやってみる気になる。鉄棒を握り地面を蹴ろうとした刹那、ショールを巻いたままであることに気づき、頸から外して二つ折りにし、鉄棒に掛ける。花柄のプリント地か、それとも落ち着いたアースカラーか。鉄棒の前にもどって来るまでの人生の軌跡が、一枚のショールによって鮮明に視覚化されるのだ。

以下の句からも人生の香りがする。境涯俳句の類いで

はない。名優が一分間の演技の中で登場人物の人生の

来し方、行く末を濃縮するあの手ぶりが見えるのだ。

身の内に海光満ちて若布干す  姫子松一樹

諸子釣る婚姻色のひかりかな  同

田の水の泡の纏はる春の鮒  同

蟻穴を出づれば荷物届きけり  同

義士祭帰りに友の家に寄る  同

横井来季「吐き気」には、実存の軋みのようなある種

の疼き、酩酊感がある。

母校燃やす煙よ凧と軋みつつ  横井来季

作中主体は母校に対し愛憎相半ばする両義的な感情を引きずっているのであろうか。凧を軋ませるほどに熱く濃い煙。それはどこか焚書の愉悦すら連想させる光景である。母校とは、過去の自己を呪縛してきた知識体系のシンボルであり、子の独り立ちを阻むグレート・マザーそのものなのだ。母校との決別は人が成長してゆくうえで必要不可避なイニシエーションなのかもしれない。

火酒叩くなづきの部屋を一つづつ  横井来季

宿酲(ふつかよい)のひどい頭痛。脳の中に並ぶ小部屋のドアを順番に激しくノックされているように痛む。だが、このような肉体的苦痛も、火酒を擬人化した途端、なぜか奇妙にユーモラスな景へと転ずるのだ。正岡子規の絶筆を例に出すまでもなく、俳句という詩形には自己を客体視させる薬効成分が含まれている。

ボートレースまんぢゆうの濡れ朽ちてをり 横井来季

競艇場の観客席で雨に打たれている饅頭。あと一歩のところで大当たりを外してしまった甘党のギャンブラーが、食べさしの饅頭を投げ捨てて去ったあとなのか。姫子松作品の饅頭が断ち切れない思いの表象であるとすれば、横井作品の饅頭は断ち切りたい思いの残影である。

ハンドルに脚かけて寝る花見かな  横井来季

外回りの営業マンが、堤防にクルマを停めてつかのまの仮眠を貪っている。桜が満開の花見時。シートを倒し、両脚をハンドルにかけた寝相はいかにも行儀が悪い。彼は知る由もない。昼休み、花見の場所取りに来た得意先の女子社員に寝姿を目撃されたことを。

春暑し吐き気は眼窩へと集ふ  横井来季

サルトルの代表作『嘔吐』の原題「La Nausée」の直訳は「吐き気」。吐き気は本人が受容し難い何かに直面していることの身体的発現である場合がある。それが眼窩へと集まり、ゲシュタルト崩壊を起こしかけているとすれば、容易ならざる事態である。

以下の句からも実存のゆらぎが垣間見える。菫や付箋などささやかなものを媒介として、荘周と同様に胡蝶の夢の世界へとワープする没入感がここにはある。

眠りかたを毎夜忘れてしまふよ菫  横井来季

付箋剝がれかけゐる陽炎の出口  同

夕焼の模様に渇く春田かな  同

小銭入れて自販機光る春の泥  同

アイマスク越しに障子の蝶がうごく  同

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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