死は人生の終末ではない。生涯の完成である。

https://shins2m.hatenablog.com/entry/2020/10/26/180000 【死を乗り越えるルターの言葉】

死は人生の終末ではない。生涯の完成である。(ルター)

一条真也です。言葉は、人生をも変えうる力を持っています。

今回の名言は、マルティン・ルター(1483年~1546年)の言葉です。ルターはドイツの神学者、聖職者です。カトリック教会からプロテスタントの分離へと発展した宗教改革の中心人物として知られます。

宗教改革三大文書 付「九五箇条の提題」 (講談社学術文庫) 作者:マルティン・ルター

宗教は心を豊かにし、死の恐怖を取り去る文化装置だと、わたしは考えています。ところがルターが生きていた時代には、キリスト教は免罪符という打ち出の小づちを使って、未成熟だった貨幣経済を介した救済に手を染めてしまいました。「免罪符を手に入れればすべての罪はなくなる」として、寄進集めの道具になってしまったのです。

キリスト者の自由・聖書への序言 (岩波文庫) 作者:マルティン・ルター

そうした教会のあり方に異を唱えたのがルターです。当時、グーテンベルグが発明した活版印刷によって、民衆でも『新約聖書』が容易に手に入れられるようになっていました。こうした背景のもと、ルターはイエスの本当の教えに戻ろうという活動を展開しました。これが、やがて全ヨーロッパを巻き込む「宗教改革」へと発展していくのです。

マルティン・ルター-ことばに生きた改革者 (岩波新書) 作者:徳善 義和

「聖書に書かれていないことは認めることができない」というルターの言葉は、重税を負わされて苦しい生活を送っていた農民に希望を与えることになりました。生涯、聖書の翻訳に尽くしたルター。この「死は人生の終末ではない。生涯の完成である」であるという言葉は、使命を人生で見つけることができた、力強い言葉だといえます。

人生の修め方 作者:一条 真也

それから、現在、「終活」という言葉がよく使われます。これは、人生の「終末活動」の略語です。正直に言って、わたしは「終末」という言葉には違和感を覚えます。そこで、「終末」の代わりに「修生」、「終活」の代わりに「修活」という言葉を提案しました。「修生」とは文字通り、「人生を修める」という意味です。「人生を修める」は、ルターのいう「生涯の完成」に通じるのではないでしょうか。なお、この言葉は『死を乗り越える名言ガイド』(現代書林)に掲載されています。

死を乗り越える名言ガイド 言葉は人生を変えうる力をもっている

作者:一条 真也


https://note.com/deepredtea/n/n9db2bbb677e4 【【死は人生の終末ではない。生涯の完成である】雑談2:あなたは強くあれますか?】より

はじめましての人は、はじめまして。そうでない人は、こんにちは。どうも、紅茶です。今回は、悲しい話をします。読んでいただけるとありがたいです。少しでも多くの人に伝わると嬉しいです。

今回の言葉は、マルティン・ルターというドイツの神学者、聖職者の言葉です。宗教という観点から見れば、死んでも救われる人生を送りなさいという言葉なのでしょう。しかし、私たち日本人はあまり宗教に強い信念を抱いていません。(もちろん、そうである人もいますが...)私も日本人のそういった部類の人間で、この言葉を解釈するとごく当たり前のことを言っているように感じます。しかし、それでもこの言葉が刺さるのは、この言い換えにあると私は考えています。受験や就職活動、目標などをゴールではなくスタートであるという考え方があるように、ルターも死は「終わり」ではなく、新たな「始まり」であることを伝えているのだと感じます。そう考えると悲しいことも死への悲しさではなく、別れの悲しさになり、前へ向く為の糧になるのかもしれません。ただ、私たち人間はそう強く、前を見て歩ける生物ではありません。私自身、幼い頃に大好きだった祖父を亡くした時は訳も分からないままに泣いていました。「お疲れ様でした」と言えるほど、強くも、大人でもありませんでした。急に愛する人を失った人も、覚悟を持って死んでいった人も、その時に強くあれたでしょうか?

実は、今回このような話をするつもりはありませんでした。なので雑談とさせてもらったのですが、雑談にできるような話なのか、するべきでなかったのかはわかりません。ですが、言わずにはいられませんでした。友人のお父さんが亡くなったと聞いたのです。前々からステージ4のガンだということは知っていました。しかし、ゴールデンウィークがあけて、初日。私は、しばらく戸惑った後、友人を思うと胸が締め付けられました。私ができることはないか、いや今はそっとしておくべきか、でも何かを言ってあげるべきなのか。そんな葛藤の中、結局言えたのはLINEでの「大丈夫?何かできることがあったら言ってよ」の一言でした。なんと無責任な言葉なんでしょうか。けど、私の友人は「ありがとう。いい友達を持った」と言ってくれたのです。

そんなことを言う余裕などないはずなのに。

泣きたいのは友人のはずなのに、目頭が熱くなったのは私の方でした。その時、私は友人の「強さ」を感じました。決して、余裕なわけでも冷たいわけでもなく、ただ強い。電車に揺られながら受け取ったそのメッセージには、感動がありました。正直、友人の今の感情なんて私には理解できません。本当は眠れもしないくらい泣いているかもしれないし、泣き疲れて寝ているのかもしれない。私の言葉に、励まされたのかもわかりません。それでも友人がくれた、「いい友達を持った」という強い言葉は一生忘れないでしょう。ただ私が言えるのは、次会うときは友人の元気な姿が見たい、それだけです。

さて、今回は私ごとの吐露に付き合っていただきありがとうござます。今回ばかりは、ゆっくり紅茶でも飲んで、などとは言えません。ですが、いつか私も読んでくださった方も友人のように強くなれるように、ここで締めたいと思います。

最後に、福岡にいる友人に遠い地からご冥福をお祈りいたします。

はじめましての人も、そうでない人も次回も元気で会えると嬉しいです。それでは。


https://iyashitour.com/archives/26227 【マルティン・ルターの名言・格言】より

マルティン・ルターの名言には「たとえ明日世界が滅亡しようとも、今日私はリンゴの木を植える」、「希望は強い勇気であり、新たな意志である」などがあります。

ローマ・カトリック教会から分離し、プロテスタントが誕生した宗教改革の中心人物であるマルティン・ルター(1483~1546)の名言をご紹介します。


名言 たとえ明日世界が滅亡しようとも、今日私はリンゴの木を植える。

1483年11月10日、ドイツのザクセン地方アイスレーベンに生まれる。鉱山業に従事していた父は上昇志向が強く、子どもたちにも上を目指すよう要求していた。

ルターは父の期待に応えるべく勉学に励み、1501年に法律家を志して大学へ入学。

1505年、21歳のルターは学校に向かう途中の草原で激しい雷雨にあう。落雷の恐怖に死すら予感したルターは「聖アンナ、助けてください。修道士になりますから!」と叫んだという。両親は反対したが、父の同意も得ずに聖アウグスチノ修道会に入る。

1506年に司祭の叙階を受けたが、ルターはどれだけ熱心に修道生活を送り、祈りを捧げても心の平安が得られないと感じていた。また、大学で哲学と神学の講座を受け持っていたが、神を理性で捉えることは困難であるという理解に達することになる。

ルターは禁欲的な生活をして罪を犯さないよう努力し、できうる限りの善業を行ったとしても、神の前で自分は義(正しいもの)であると確実に言うことはできないという現実に苦しみ続けた。そして、人間は善行でなく「信仰によってのみ義とされる」(すべて神の恵みである)という理解に達し、ようやく心の平安を得ることができた。

大学で教える傍ら、司祭として信徒の告解を聞いていたルターは、信徒たちも罪と義化の苦悩を抱えていることを知っていた。そんなルターにとって、ドイツ国内で盛んに販売されていた贖宥状(カトリック教会が発行した罪の償いを軽減する証明書)の問題を見過ごすことはできなかった。義化の問題に悩みぬいたルターにとって、贖宥状によって罪の償いが軽減されるという文句は「人間が善行によって義となる」という発想そのものであった。

1517年、当時のマインツ大司教アルブレヒトの「指導要綱」には贖宥行為の濫用がみられるとして書簡『95ヶ条の論題』を送った。『95ヶ条の論題』はドイツ国内で広く出回り、カトリック教会の体制への不満がくすぶっていた国内の空気に火をつけることになった。

アルブレヒトは、自らの収入の道が絶たれてはたまらないとローマに対してルターの問題を報告。ローマ教皇庁は大きな問題とは考えず、穏便に解決するよう命じた。

しかし、1518年の総会でルターが自説を熱く語り、総会後には教皇レオ10世に対して自らの意見を書面にして送付。教皇庁では教皇権に関する部分をとりあげ、教皇の権威を揺るがす危険性があると指摘した。この頃、ルターはザクセン選帝侯フリードリヒ3世(賢公)の庇護を受けることになる。

1518年の審問では、免償の問題に対するルターの疑義の撤回を求めたが、ルターは聖書に明白な根拠がない限りどんなことでも認められないと主張した。カトリック教会との断絶が決定的となったこの頃、ルターの周囲には賛同者たちが集まり始め、その中にはトマス・ミュンツァーなどの姿もあった。

ルターが1520年に発表した文書では、教会の聖職位階制度を否定し、聖書に根拠のない秘跡や慣習を否定し、また、人間が制度や行いによってでなく信仰によってのみ義とされるという彼の持論を主張した。レオ10世は41か条のテーゼを撤回しなければ破門すると警告したが、ルターはこれを拒絶。1521年にルターの破門が正式に通告された。

1521年の神聖ローマ帝国のヴォルムス帝国議会において、著作で述べられていることを撤回するかどうか尋ねられたルターは、自説の撤回を拒絶。「聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない。私はここに立っている。それ以上のことはできない。神よ、助けたまえ」と述べる。議会が処分を決定する前にルターは消息を絶ち、フリードリヒ3世のヴァルトブルク城にかくまわれた。1521年のヴォルムス勅令で、ルターを帝国追放にすると通告。異端者としてルターの著作の所持を禁止した。

ルターはヴァルトブルク城で偽名を用いて一年余りを過ごし、有名な新約聖書のドイツ語訳を行った。ルター不在の状況下、ヴィッテンベルクでは過激派がリーダーシップをとり、教会の破壊など、市内が無法状態の様相を呈するようになった。1522年、見かねたルターが人々の前に再び姿を現し、説教で過激派を糾弾、暴力を伴う改革を否定し、行き過ぎを警告した。

カトリック教会では伝統として聖職者の独身が守られてきた。そのため司祭であったルターも独身生活を続けていたが、徐々にその意義について疑問を持つようになり、結婚によって肉体的欲望は正当化され罪にならなくなると考えるようになった。ルターは数多くの修道者たちに結婚を斡旋するようになり、自身も41歳のときに元修道女と結婚し、三男三女をもうけた。

また、「聖書に書かれていないことは認めることができない」というルターの言葉は、農民にも希望を与えた。農民が領主に仕えることも聖書に根拠を見出せないという考えである。かつてルターの同志であったトマス・ミュンツァーはこういった人々のリーダーとして社会変革を唱えるようになっていた。ルター説を根拠に農民たちが暴力行為に走ると、ルターはミュンツァーと農民たちを批判したが、さらに再洗礼派の過激な教説も農民暴動の火に油を注ぐ結果となり、1524年から1525年にかけてドイツ農民戦争が起こる。

次第にルターは反乱側にではなく、市民・貴族・諸侯の側について、平和な抵抗を訴えるようになる。領主たちは徹底的に農民暴動を鎮圧し、首謀者たちを殺害した。トマス・ミュンツァーも捕らえられて処刑される。ルターはこの苦い経験から教会と信徒に対して、何らかのコントロールが必要であると考え、領邦教会という新しい教会のあり方が生まれていく。

1529年の帝国議会ではカトリック教会の破壊などの行き過ぎを反省し、ルター派支持諸侯たちの立場を認めながら、カトリック教会の立場も保全するという布告が行われた。しかしザクセン選帝侯を初めとするルター派諸侯はこれに対し抗議を行った。このことからルター派諸侯と諸都市は「プロテスタント(抗議者)」と呼ばれるようになり、やがてルター派の総称となる。

ルターは精力的な活動の一方で聖書の翻訳事業も続け、1534年に念願だったドイツ語旧約聖書を出版した。宗教史と思想史、さらには文化史に大きな足跡を残したマルティン・ルターは、1546年2月18日、生まれ故郷のアイスレーベンで62年の生涯を閉じた。

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