Facebook兼井 浩さん投稿記事 『ドクダミ』--- 星野富弘
おまえを大切に 摘んでゆく人がいた 臭いといわれ きらわれ者の おまえだったけれど
道の隅で 歩く人の 足許を見上げ ひっそりと生きていた
いつかおまえを必要とする人が 現れるのを待っていたかのように おまえの花 白い十字架に似ていた
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■星野さんは、この詩について、次のようにコメントされています。
わたしは、ドクダミという草がきらいでした。
へんなにおいがするし、どそ黒い葉っぱに、ミミズのような赤い茎が、じめじめした日陰にはえているのですから、名まえからして、さわれば、指がくさってしまうような気がします。
でもわたしは、車椅子にのるようになって、とってもだいじなことを知ることができました。
わたしが元気だったころ、からだの不自由な人を見れば、かわいそうだとか、気味がわるいとさえ思ったことが、ずいぶんありました。
しかし、自分が車椅子にのるようになって、はじめてわかったことなのですが、からだが不自由な自分を、不幸だとも、いやだとも思わないのです。
けがをして、一、二年は、からだのことでなやんだり、くるしんだりしました。でも、うけた傷は、いつまでも、ひらきっぱなしではなかったのです。
傷をなおすために、そこには新しい力が自然とあたえられ、傷あとはのこりますが、そこには、まえよりつよいものがもりあがって、おおってくれます。
からだには傷をうけ、たしかに不自由ですが、心はいつまでも不自由ではないのです。
不自由と不幸は、むすびつきやすい性質をもっていますが、まったく、べつのものだったのです。
不自由な人を見て、すぐに不幸ときめつけてしまったのは、わたしの心のまずしさでした。
だから、ドクダミを見たとき、わたしは思いました。”自分のまずしい心で、花を見てはいけない・・・・・”と。
そのときから、ドクダミが美しく見えるようになったのです。ミミズのようだと思っていた赤い茎は、銅の針金のようにたくましく、いやだったにおいは、ほのかな香料のようでした。
上をむいて、四つにひらいているまっ白い花は、聖なる十字架のようでした。
いやだと思っていたものが、美しく見えるようなった。
・・・・・・・それは、心のなかに宝物をもったようなよろこびでもありました。
ドクダミの花の前で、わたしは、またひとつ、おとなになれたような気がしました。
星野 富弘 著 「かぎりなくやさしい花々」(偕成社)
星野富弘氏(群馬県生まれ1946年~)は、中学校に体育教師として着任したが、部活の指導中、宙返りの失敗により頸髄損傷の重傷を負い、肩から下の機能が麻痺する。
口にくわえた筆で水彩画、ペン画を描き始め、後に詩を添えるようになった。
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冒険家の「風間深志」さんが、インタビュー記事でコメントしています。障害者でも「心が健康であれば、健常者なんです!」と。風間さんも大怪我をしてから感じたと語っています。
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もったいないばあさん@mottainaibaasan
たとえば虫刺されには、ドクダミの葉っぱの裏側をあぶってペタとはっておくと良い。
あせもの季節はお風呂にいれて。
ドクダミの花を焼酎につけて、ドクダミチンキを作ったりね。
ドクダミのお茶もいただくよ。トイレに飾って消臭効果にも。
https://blog.goo.ne.jp/inehapo/c/0c6a16a3479e60741c2a05b5d43a57e1/5【伊具の古代史 】より
●お斗蔵さん
青い空が映える晩秋。落ち葉歩きをしに軽く斗蔵山へ。ずいぶん久しぶりに行ってきました。私はここの千手観音様が好きで、今日はお寺も開帳しており拝観できました。
御顔が人間的で、親近感がもてるマリア様みたい。
奈良や京都の都からみたら、完成度はちょっと・・・と思うけれど、味があっていい。
前にもちょっと書いていましたが、ここはとても重要な場所であったと思います。
「斗蔵山・野鳥の森」は、とっても良い森です。野鳥の声もよく聞こえます。
ここは、ウラジロガシの北限として林木遺伝資源保存林に指定されており、国内有数の貴重な群生林です。林木遺伝資源保存林なんて言葉を始めて聞いたのですが、ウラジロガシの保存を行っていくという事なのでしょう。
斗蔵観音堂
斗蔵山の山頂にある斗蔵寺観音堂は、大同2年(807)に坂上田村麻呂が建立し千手観音を安置したと言い伝えられており、同年、弘法大師がこの地を訪れた際に、「紫雲天になびき 奥州無二の霊地なり」と賛美したと言われております。
斗蔵寺には秘仏の銅造千手観音像懸仏(県指定文化財)と木造千手観音立像(市指定文化財)及び眷属の二十八部衆と雷神、風神が安置されています。
秘仏の千手観音懸仏は、千手千眼世音菩薩ともいい、両手のほかに左右二十手あり、それぞれの四十手四十眼二十五の功徳を配して千手千眼とされています。
多くの人々の苦悩を救い諸願成就及び、出産、平穏を司る観音様で、広く信仰されています。
伊具王族は阿部氏----------------------------------
阿武隈川の西と東では異なる。長泉寺古墳群、横倉古墳群、山中古墳群(伊具随一の規模)
台町古墳群、大群古墳などなど古墳群が集中している。
台町古墳群は、男女の埴輪や花文鏡などが出土し、直刀も見つかっている。
隈西(阿武隈川を挟んで西)は6世紀頃、隈東は6~7世紀。各々二大王族が分裂したが、隈東王族に併合した為、多くの古墳が作られたと考えられています。
その王族が阿部氏で併合した力のあった王族と考えられる。
他にも毛町氏、大伴氏などがいたと思いますが、後の繁栄に結びつけたのは阿部氏といわれています。確かに、このあたりは巨石が多い丸森町にあたる。
地名も「羽入」「羽山」など羽のつく地名が多く、イワクラ信仰も阿部氏と繋がりそうです。
大化の改新にはすでに伊具は成立しており、郡山遺跡は隈東にあり、最終的に隈東に落ち着いていったと考えられます。
伊具は最後の阿武隈川の国。
伊具には昔、「伊具郡麻」といって奈良時代すでにあった麻は、麻積郷(おみのごう)の麻で、ムラがあった。
史書にはあまり伊具郡がないのですが、当時は石城国(山側)にも、石背国(川側)でも、どちらにも属していた為、曖昧になってしまったと。
続日本書紀に、丈部が登場し、伊具郡擬大毅陸奥真成らに阿部陸奥臣の姓を賜わる。と書かれている。
丈部は阿部氏服属の部民。「大毅」は、軍団の長のこと。
名取郡には、エミシ征伐の際に送り込まれた上毛野名取朝臣がいる。
この方は、吉弥侯部から姓を賜る。吉弥侯部(はせつかべ)=丈部(はせつかべ)
ここに麻をもたらした麻積郷は、安曇氏や大伴氏のような気もします。
すでに大伴氏や安曇氏の海人は伊具郡にいたと思います。
多賀城の瓦は伊具から納入しており、麻を栽培し紡いで衣服にし、伊具郡は中心的な生産地でした。
市内の麻山(おやま)の名残があり、ひとり麻や芋(からむし)の生産だけではなく、すべての面で郡の中心をなしていました。
静戸郷、倭文部(しずべり)は、古代織物の職業集団で、丸森から移住してきたムラでした。
高蔵寺を建てた人は、岩城氏級の地元豪族で、信夫佐藤氏、名取郡司、熊野別当など
皆、平泉の有力な郎党であった。
※角田歴史読本より参照
海人族の伊具----------------------------------------
伊具の一宮・二宮は、熱日高彦神社と鳥屋嶺神社の二社がある。
東に熱日高彦神社があるが、西は鳥屋嶺神社であるが、角田歴史読本の著者、高橋富雄先生によると、元は西には斗蔵神社だったのでは?という興味深い話。
斗蔵山は、岩山を磐座、磐境に見立てた神体山であり、天神から地上へ降りる神座と考えられた。
平安時代中期から神仏習合、後に観音信仰と広まり、鳥屋嶺は戸座といった。聖なる座には、クラをつける。
鳥屋嶺(トヤミネ)も「戸」で屋は「座」の誤字ではないか、と。
北上川の日高見水神社に対し、北上の河伯(水神)であるから、阿武隈の河伯が、ここの伊具にあり熱日高彦神社は、オチかアチの意味があり、日高見の当て字と考えられると。
つまり、東は渡来系の神、西は先住民(縄文)の神を置いたので、ここが縄文と弥生の融合のあった場所であると考えます。
鳥屋嶺神社の祭神は、ウガヤフキアエズ。
もしこれが神武天皇をさしているのならば、元は斗蔵山だったのをククリヒメにし、鳥屋嶺神社に遷した理由もわかりそうなのですが…。なぜ、そんな面倒くさいことをするのかが、
「天照国照彦 火明櫛玉饒速日命」の名前に関係しているように思えてきた。
もっと深く妄想するならば、二ギハヤヒの「天照国照彦 火明櫛玉饒速日命」と、「天火明(アメノホアカリ)」が違う人物ではないか?という話。難しいね。
元は武蔵国の豪族、阿部氏、大伴氏、物部氏がとくに有力で東北へ開拓にきていました。
そこにはすでに諏訪、出雲、海人族の安曇系と宗像系がおりました。そして意外にも武蔵とも深い関係があった。
丈部は、阿部氏の管理、大伴部は大伴氏の管理、武蔵では入間が物部氏の管理。入間に毛呂町がありこのあたりはアイヌ語地名が多く出雲系の社も多い。この付近に物部天神社があり、二ギハヤヒを祀る。毛呂町にも出雲伊波比神社があり、「天穂火命:アメノホヒ」を祀る。アメノホヒの稲は、火でもあり、ここが鉄に由来している説もあります。
でもこの頃は、平和な融合です。
先住民たちは武蔵の豪族と融合して、後に大和朝廷が来た時に譲歩したのだと思います。
その契約は、鉄だと思います。鉄の古語は、「銕」と書いた。蝦夷は、金の夷のこと。
七ツ森でもクラの名前をつける山名がある。
角田にも高蔵寺や斗蔵があるように、クラをつける地名が何か所かある。
これは、「高倉下」という人がいますが、高い倉の主の意味があり、フツヌシの霊剣を奉る物部氏の石上神社の事。高倉神社が三重県伊賀にあり、伊具郡の麻とつながる。
また、その霊剣が、神武天皇の霊剣であるという説もある。
伊賀と伊具も似ている。伊賀氏という豪族もいて、阿部氏の系統だといわれる。
また、長野県(信濃国)にも麻績郷があり、平安時代から京都と東を結ぶ街道があった。
この本田善光という人物が、推古十年(603)に、信濃国司の従者として都に行った折り、難波(大阪)の堀江でありがたい仏像(如来様)を見つける。
この仏像は、「欽明天皇十三年(552年)、インドを経て、仏教伝来の折り、百済からわが国へ伝えられた日本最古の仏像といわれる。」
しかし、元はこの尊像を信奉すべきか否かの評議が開かれた時に、反対したのが物部尾輿
と中臣鎌子で、異国の蕃神として退けることを主張。
しかし、蘇我稲目は生身の如来様であるこの尊像を信受することを奏上。
それから疫病などが流行し、本尊を受けれいたせいだとされ、難波に放置されていたものだったそう。
本田善光は、この仏像を長野の飯田に持ち帰えり、寺を建立し現在に至る。(善光寺縁起より)ちなみに、オチは、阿智や恩智と書く。安曇氏の阿智、アマツミ、海人の転訛といわれます。
安曇の阿と阿部の阿は同じ。元は別の氏族だったのが同族となったこともあり得ます。
熱日高彦神社を奉納したのは、物部氏だと思います。香取神社と同じ祭日で、フツヌシを祀る。
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さて、ここからまだ続くのですが、長くなるので次回に。
ところで、ククリヒメのククリはククルともいった。私は、ククルカンに似ていると思うのです。マヤ文明のククルカンは、(白い)羽をもった竜で、マヤのピラミッドも9段で、マヤでは9が地下の黄泉をあらわす。
ピラミッドの地下は、9、地上は10。
日本では10や100は神の領域なので、人間界は9や99で留まる。天と地の仲介をしていた人が、ククリヒメというシャーマンだった。
神話では、イザナミとイザナギの仲介にあたり、死と生の間をとりもつ存在。
ピラミッドが魂の再生と思われているのは、六角形にあると思います。
妄想するに、世界の話に99段の階段や建物の建築の際に、鶏が鳴いて朝になってしまったから最後まで完成できなかった話は、ピラミッドの未完成のことだと思うのです。蘇ったら困るという話。
「蘇る」は、「黄泉から帰る」のだから、黄泉から目覚めたら困るのを阻止しているのは、
日本では、ククリヒメの役目なんでしょうか?
黄泉国が地上の人にとって都合が悪いのは、人間は何度も生まれ変わりをしているのだから、その人生の集大成に今はきています。
それに気付かれたら、世の中が「ひっくり返る」。地球の磁場がひっくり返るくらいの大きな転換。
要するに、黄泉国とは、地下にあるが天上にあった美しい世界だった。
今の世の中が、中ツ国?で落ちてきた世界であると私は思います。
(白山信仰の斗蔵神社)
(斗蔵神社:えんころ節の発祥)
宇宙の記憶があると、ロケットができる。
角田はそういう土地。
角田には宇宙開発センターなるものがあり、JAXAがある。
私は、このようなモノも、古代と繋がっている気がするんですよね。
角田が宇宙開発の地になっているところ、鹿島と似ている。
鹿島にも宇宙通信研究センターなるものがあり、そういうのが似ている。
ということで、ついでにコスモハウスへ。
(衛星の心臓部:エンジン)
ここは展望もあるので、360度、伊具の古代史が妄想できます。
角田は何かと面白い場所だな~と思いました。
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