http://www.marino.ne.jp/~rendaico/gengogakuin/mojikakutokuhico/katakamunagoco/narazakisatukico.htm 【カタカムナ文献研究者・楢崎皐月考】より
【カタカムナ文献研究者・楢崎皐月の生涯履歴】
1899(明治32).5.9日、山口県東萩で生まれる。本名はさつき。生後まもなく父が住む北海道札幌市二向かい、この地で育つ。母の実家で出産し、嫁ぎ先に戻ったのではないかと推測されている。父は旧仙台(伊達)藩士の丹野軍治。 母方の祖父は楢崎(ならざき)寛直。松下村塾出身。高杉晋作と共に上京した。明治6年から14年まで長野県令の要職にあり、その後も大阪控訴院の院長、大審院の判事を歴任している。この寛直の娘を母とする。楢崎家に男子がなかった為、後に養子となり楢崎姓を継ぐことになる。
1916(大正5)年、17歳の時、札幌の中学校卒業。当時の旧制中学は5年制で、17歳で卒業するのが普通だった。仙台二高に進学する予定であったが、試験を受けた翌日、誘われて松島に遊びに行って船の事故に遭い、身体検査の時刻に間に合わず不合格となる。
1917(大正6)年、18歳の時、進学を断念し上京。志願兵に応募し陸軍に入隊する。約1年間、軍隊生活をする。(少尉任官ともある)。その後、レントゲン研究家の河喜多氏の知遇により日本電子工業に入社し、働きながら電気専門学校に学ぶ。独学で物理や化学を勉強する。卒業後、その稀に見る才能で様々な発明をし、若くして産業界や軍部の一部に能力を評価される。
1919(大正8)年、20歳の時、日本石油と契約し、絶縁油の研究に着手する。昭和10年前後の頃、当時輸入に頼るしかなかった特殊絶縁油の開発に成功し、事業化する。各方面から注目を浴びる。この間、楢崎の兄が田無の逓信省電気試験所の電気技術技師としてイオン交換などの研究に取り組んでいたことにより、これを手伝ったりアドバイスしている。
1940(昭和15)年、41歳の時、石原莞爾に注目され、研究内容を軍の特許登録するよう助言があり、陸軍省の依頼を受け福島県相馬郡原町で藤本榮次郎と共に「大日本炭油日工業㈱」を興して亜炭を原材料とする人造石油を精製する研究を始める。
楢崎皐月 著「炭油」(大日本炭油工業株式會社、1940年5月31日 発行)より
序 石炭液化は極めて新しい工業であり、且つ頗るむづかしい事業であります。然しながら如何に至難なりといへども、吾國としては是非とも成功させねばならないことは、今更論を俟ちません。私はこの見地に立つて、石炭液化の新方式を獨創せる楢崎皐月君の着想は、定性的に非常に興味があり且つ有望と考へました。そこで同志と相謀り數年來同君を援助して今日に至つたのであります。
楢崎君は專門の學歴がないことや、敬神行爲の多いといふことで兎角一般から誤解せられる傾があるようです。然しながら私の觀處では同君は愛國的熱情家であつても、感情を以つて道理に代へるような人でもなく、信仰を以つて知識に代へるような人でもありません。(略)
昭和15年5月 大日本炭油工業株式會社 取締役 藤本榮次郎
1941(昭和16)年、 42歳の時、陸軍省からの要請を受け満州の吉林(きーりん)製鉄所の陸軍製鉄技術研究所所長として渡満する。貧鉄から品質の高い鋼の製造に成功する。その後、軍の特務研究に従事。次のような娘の証言がある。
「軍の内密の命令により、今で云う原子力(父は質量勢力といっていた)の基礎研究のようなことをやるためであった。もっとも表向きは製鉄試験場ということで、貧鉄鉱から良質の鉄を精錬する研究なども行っていた」。
この時、満州の吉林の老子教道院の娘々廟(ニャンニャンビョウ)で、その地でもっとも人々の尊敬を集めていた道士の蘆有三(らうさん)道士に会う。これは、老子経第41章の次の記述に対応している。
「上士は、道を聞きて勤めて之を行う。中士は、道を聞きて存するがごと亡するがごとし。下士は、道を聞きて大いに之を笑う。笑わざれば以て道となすに足らずと」。
日本人として初めて寄進したことから、蘆有三に招じられ一服の茶を勧められた。楢崎はこの時、不思議な鉄製の茶釜を見せられている。蘆有三は、庭の泉水を汲んで入れ、4~5枚の木の葉を揉んで火打石で点火した。その場で出されたお茶は舌を焼くほど熱かった。楢崎は、僅かの火で湯を沸かす特殊な鉄に強い興味を持った。その茶釜を貰い受けたいと訪問を重ね懇請したと云う。
この時、次のような遣り取りをしている。楢崎氏は、「中華民国はこれ師の国なり」と持ち上げた。これに対し、蘆有三(らうさん)道士は、「中華不是 他尊弥 過自負慢弥」続いて、「アシア人の創造した八鏡カミツ文字は、実によく整い、その上、自由に変換する機能があるので、物の理を弁じ、様々の技術の便を生じ、物事の仕組み、仕掛けを利く知り、天の命題、即ち天地万物の成り立ちや、経過まで、明らかに示すことができる。これまさに、八鏡の字なり」と告げた。
この時、次のような老子教の古伝の不思議な話しを聞かされる。
「老子経古伝によれば、上古代の日本の地にアシヤ族という高度の文明を持つ種族が存在していた。彼らは、『八鏡の文字(八鏡化美津之文字)』を創り、特殊の鉄をはじめ、さまざまの生活技法を開発していた。それが神農氏らによって伝えられシナの文化のもとになった。後代の哲学、医学(易の思想や素文霊柩、漢方等)は、その文化の流れで展開したものである。我らが教えの源流は古代日本からもたらされたものなのですよ。こういう言い伝えが秘かに伝わっている」。
この時の話しが後にカタカムナ文献の発見につながることになる。次のように記されている。
「直接に, 『老子の古伝』として伝えられている言葉によれば、 我々が シナ民族固有の文化と思っていたもの(易・漢方医術・製錬法・老荘哲学・堯舜(ぎょうしゅん)の理想政治等)は、 日本上古代の文化の流れをくむものであるとのことである」(八号84~101頁)。
「そしてこの慮有三老師の語った日本上古代の文化を示す『八鏡文字』とは、カタカムナの声音図賞であったことが カタカムナの文献解読の結果、確認されたのである」(三号8・51頁, 八号83~89頁)(宇野多美恵著 1982 「相似象学会誌 相似象 第十号」 株式会社現代社 p.8)。
その宇宙観に深い感銘を受ける。この慮有三老師との出会いについて、相似象はこう語っている。
「吉林の山中に獨移(どくい)する老僧の, 思いも及ばぬ, 驚くべき識見と, 人格の高潔さ, 一種の超能力的不思議さ等に打たれた。彼は, 改めて入門を乞い, 敗戦で引き上げるまで, 親交を結ぶに至ったのである」(宇野多美恵著 1982 「相似象学会誌 相似象 第八号」 株式会社現代社 p.86)。
1943(昭和18)年、44歳の時、亜炭から人造石油をつくる日本造石油・炭油株式会社を福島県相馬郡に設立。第2次対戦中、陸軍の指揮下で戦車用の ディーゼル油の合成をやって実際に戦車が走り、この研究は現在も京都大で続けられている。
1944(昭和19)年、45歳の時、「植物波農法」指導開始。地電位によって農作物の生育が変わることを発見し、その技術を使った農法を開発している。
1945(昭和20)年、46歳の時、終戦で帰国。戦時中、軍関係の仕事をしていたことから楢崎グループは解散させられる。星製薬の創設者であり衆議院議員でもあった星一(ほし はじめ、作家の星新一の父)氏が、戦時中、一部の産業界や軍部から天才科学者と評価されていた楢崎の才能が干されるのを惜しみ、スポンサーとなって楢崎グループを再結集させる。星は、当時の食糧難と将来に備えた「新しい農業技術」の開発を委嘱する。
楢崎グループは、戦後復興の一手段として工業用原材料の生産を主とした農業を拡大する為の「植物波農法」の研究に向かい、五反田の星製薬の研究所で重畳波の研究にたずさわる。旧海軍技術研究所の軍関係者や技術者と「化成会」を創設する。
星製薬内に重量波研究所を設置し、農業において土地の善し悪しは、大地の電気分布で判断出来るのではないかという仮説の下、大地電位の分布実測調査を開始すると共に重畳波の研究にたずさわる。(この研究は後に「植物波農法」として完成する。 「静電三法」発刊。静電研究会を創設し、化成主義文化の活動を本格化する。
1948(昭和23)年、47歳の時、星製薬を離れ、全国の大地電位の分布実測調査を始める。3年間で1万7千ケ所を回る。農業において土地の善し悪しは、大地の電気分布で判断出来るのではないかという仮説の下、全国の測定調査を行っていた。この研究は後に「植物波農法」として完成する。調査中、兵庫県六甲山系金鳥山の大きな岩の上に松が茂っていることを聞き、その調査のために、助手数人と向かう。
1949(昭和24).12月、50歳の時、助手の青年数名と一緒に兵庫県の六甲山系・金鳥山(標高500m)の俗称狐塚付近で穴居生活をしながら実測調査に入る。この山の中腹には保久良(ほくら)神社がある。延喜式神名帳に記載されている由緒ある神社で、社殿を取り巻いて巨石を環状に配置した磐境(いわさか)遺跡が鎮座している。
1950(昭和25).1月、この時、平十字(ひらとうじ)氏と出会う。平十字氏は、「父がカタカムナ神社の宮司で、この巻物は父祖代々『カタカムナの神のご神体』として伝わったものである」と巻物を見せた。そこには江戸時代の和紙に筆写したと見られる渦巻き状に丸と十字を基本とした図が80種類描かれていた。楢崎氏は、かって満州にいた頃、老子教の道士から聞かされていた「八鏡文字」であると直感し、その巻物を筆写した。
楢崎氏は、研究用に持っていた大学ノートにその文字を全て写し取り始めた。但し、その文章量は一日で写し終わるようなものではなく、それから20日間、皐月のところへ巻物を手に平十字が毎日通ったという。皐月はそれまで度々実家に葉書を送って安否を知らせていたが、このときは一ヶ月間葉書をよこさなかったと皐月の娘が次のように述懐している。
「父は全国を大地調査していましたが、行く先々で手紙を寄越して必ず居場所を知らせてくれていました。それが、金鳥山の事件のころ1ヶ月以上も音信不通になって、家族が大変心配したことがあります。そのとき『今神戸の近くにいる、あと1週間したら帰る』と書かれたよれよれになったハガキが届き、家族一同ひと安心したことがありました」。
相似象は、この顛末を次のように記している。
意訳概要「12月から3月にかけての寒中の64日間, 金鳥山の付近に穴居していた楢崎たちのもとに、初めて訪れた時の平十字氏は、 初老の猟師の姿で、 鉄砲を持ち、 腰に兎を一匹ぶらさげていた。そして、鉄砲をガチャつかせて威嚇しながら、『お前さんたち何の為にやってきた?泉に妙なものをしかけるから、森の動物達が 水飲みにいけなくて困っている。すぐに除けてやってくれ。あそこは動物たちの水飲み場なんじゃ』と怖い顔で命じ、『決して狐をうつな、 兎ならくれてやる』と腰に下げたのを投げ出して言ったという。楢崎皐月たちは、泉に電線を張り巡らせて水の成分を分析していた。翌朝、楢崎たちが言われた通りに取りはずしておいたところ、 次の夜再び現れた平十字氏は機嫌よく労をねぎらい、『お前さんたちは感心な人たちじゃ、穴居しなければ本当のことは分からんものじゃ。これは、すぐに外してくれたお礼じゃ』と褒め、 お礼にと古い巻物をとり出し、自分は平十字(ヒラトウジ)、父はカタカムナ神社の宮司、 この巻物は、『父祖代々伝わる御神体である。俺たちなんかが見たら目が潰れる』と云われて 厳しく秘匿されて来たものであることを告げ、江戸時代と思われる古い和紙に書かれた巻物を開いた。円と十の字を基本とした図形を渦巻き状に配列したもので、暗号のようなものに見えた。『今までにこれを見て、刀のツバや定紋の絵だろうと言った学者があったが、 そんなものじゃないんだ』と厳然として言い、 又『カタカムナの神を祭り伝える家柄は、 平(ヒラ)家と食(メシ)家の二つしかない(中家を入れて三家という説もある)』とも語った。楢崎は書写を願い出て、平十字は快諾した。皐月は研究用に持っていた大学ノートにその文字を写し取り始めたが、食器を入れておくミカン箱を机代わりにローソクの灯を頼りに筆写するのは容易ではなかった。文章量も一日で写し終わるようなものではなかった。『一夜では到底写しきれぬので翌日お宅に伺いたい』と申し出たところ、『お前さんたちの足で険しい山坂は大変だ。大事な物なので預ける訳にはいかない。毎晩、俺が持って来てやる』と云い、それから20日間、皐月が1巻の巻物の80個の渦巻きを写し終えるまで、皐月のところへ巻物を手に平十字が毎日通った。皐月はそれまで度々実家に葉書を送って安否を知らせていたが、このときは一ヶ月間葉書をよこさなかったと皐月の娘は述懐しているという」(宇野多美恵著 1982 「相似象学会誌 相似象 第八号」 株式会社現代社 p.91) 。
このようにして楢崎が六甲山中で平十字と名乗る不思議な猟師に出会ったことで写 し取った図象がカタカムナ文献だとされている。カタカナのもとになったのがカタカムナ文献であり、平十字なる人物がサンカ(山窩)ではなかったのかとの話もある。
「相似象」誌は次の話も伝えている。平十字は時には昼間、不意に現われ、辺りの地形を説明したり、太古の歴史を語った。興味深い事件として、現在の天皇家の祖先は天孫族であり、国津の方カムナの神を祀る一族の主のアシアトウアンが戦い、アシアトウアンは負けて九州へ落ち延びそこで死んだ云々と告げている。
こうして、楢崎は、古伝(日本の超古代文明)を知る。カタカムナを研究している相似象学会の宇野多美恵女史の著する「相似象第十号」にはこうある。
「電気物理技術研究家, 楢崎皐月が, 昭和二四年, (1949年), 兵庫県六甲山系金鳥山中にて, 平十字(ヒラトウジ)と名のる老人より「カタカムナ神社の御神体」として伝えられた巻物を私共はカタカムナ文献の原本としている」(三号・八号)。(宇野多美恵著 1982 「相似象学会誌 相似象 第十号」 株式会社現代社 p.3)
以降、5年間、カタカムナ文献の解読に向かった。古事記や日本書紀その他の古文書を参考にしつつ血の滲むような努力をして解読に成功する。その内容が自然科学的な実用書であった事を突き止めた。この文字はそれが祀られていたとされる場所の名から「カタカムナ文字」と呼ばれ、その文字を使用していた文明として「カタカムナ文明」が提唱されることになる。
1950(昭和25)年、「植物波農法」指導開始。
1955(昭和30)年、この頃からカタカムナ文献研究の後継者を捜そうと全国各地を回り始める。
1957(昭和32)年、58歳の時、「技術専修養成講座」全国静電研究連合会を発足させる。
1958(昭和33)年、59歳の時、「静電三法技術専修員用テキスト」(植物波農法、物質変成法、人体波健康法)を発行する。
1960(昭和35)年、61歳の時、「宇宙対向式静電圧可用電源装置取扱要項」(特殊静電処理機)発行。
1966(昭和41)年、67歳の時、巻物出現から17年目、「日本の第1次文明期の特徴」を著し、盧有三老師・平十字氏から得たカタカムナ(日本の上古代文明に関する古文献)の知識について語り始める。カタカムナ文献全80首の歌の中から「ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコト アウノスヘシレ カタチサキ (以上第五首)、ソラニモロケセ ユエヌオヲ ハエツイネホン
カタカムナ (以上第六首)」。
1968(昭和43)年、69歳の時、古事記等の古文書の解読に向かう。
1969(昭和44).12.4日、70歳の時、後継者を見出す願いも込めて、公然と毎月、虎ノ門にある文部省の国立教育会館で考古物理学連続講演会を開催し始める。この時の講演で、カタカムナの後継者となる宇野多美恵女史と出会う。相似象学会として引き継がれる。
1970(昭和45).6.11日、文部省教育会館に於ける考古物理学連続講演会第6回目のこの日、企画された単位ごとの「天然会」、八部会を発足させる。1・考古物理(カタカムナ文献)研究、2・生医学(人体波健康法)研究、3・天然農法(植物波農法)研究、4・天然食研究、5・情報整序作業、6・特殊技術研究ストック、7・図書整理・機関誌発行、8・婦人部会(宇野天然会)、相似象発刊。宇野天然会は、第2号の発刊を機に「相似象学会」と改称。『静電三法』に基づく各々の研究。
この頃、長年、極秘に研究を続けてきた原子力に対する反電磁場の出力研究、東海村原資炉関係の仕事を中止して(数百万円の私財を秘書に持ち逃げされたため)、直弟子の宇野へのカタカムナ伝授に傾倒する。
1974(昭和49).7.31日 75歳の時、生涯を閉じる。
宇野多美恵女史が後継者となる。2006.10.22日、軽井沢の別荘で息子さんと二人でいたところ火事になり二人とも死亡。享年89歳。カタカムナの大事な文献もほとんどが消失したと云われている。
【静電三法】
「静電三法」の発刊にあたって
(略)楢崎先生がこの書を初めて世に問われたのは、三十数年前、日本がまだ敗戦後の混乱をひきずっていた時代でした。(略) 楢崎先生はこの「人体波健康法」を取り入れることによって、「対症医学」でも「予防医学」でもなく、積極的に健康な体を建設するという「建設医学」を提唱されました。当時、こうした先生の説を理解する人は学界にもただの一人もいませんでした。いまも限られた人たちの間でしか関心を持たれていません。(略) 日本電子物性中央研究会会長 井戸勝富
第一部 静電三法に共通する基本となる知識
(2)宇宙対向の静電気
(略)日本の上代人はかかる超極微の粒子を「いさ」と表現し、「いさ」の静の状態を「いさなぎ(凪)」、動の状態を「いさなみ(波)」と言っている。また、この2種類の結合で客観できる物が生成されるという観念をいさなぎ・いさなみの両神が結婚せられて万物を創造し給うた、或いは拡張して我が国土を創造し給うたという如く、神話に託して上述の観念を表現している。(略)以上、要するに宇宙対向の静電気は、科学を基礎に技術化するに当って、東洋的考え方を加えることによってまだまだ発展を図る余地のあることを識って欲しいという考慮から、あえて静電気に対し哲学的表現を行う所以である。
(3)相似象学
第1章 概説
1.相似象の諸問題
地球の表層に賦存する自然物は、その形態容相が重深的に相似する。(略)この現象は単に自然物体の形が似るだけでなく、動植物の生理現象に関連し、人の精神作用と交渉をもつもので、また、多くの宗教的神秘性の物語はこの現象の二次元的所産といえるのである。(略)
4.相似象の実際
相似象の実際例を写真1-1~写真1-5に示す。(略)
写真1-5 相似象の実際例(5)
手前の土手と池の向うに見える遠景は相似象を現わしている。初歩のうちは判別しにくいが、土手にある局部的に大きな破損個所の現われは、遠景の林の低味から破損個所を通る線に電位変遷の不安定な劣勢線が存在するものである。
あとがき
楢崎先生は、終戦後の食糧難という国情の中で、植物波農法を全国的に指導・普及活動を行われました。この『静電三法』の原著は、その当時、普及活動のテキストとして楢崎先生によってまとめ上げられたものです。(略)
楢崎皐月著「炭油」(大日本炭油工業株式會社、1940年5月31日発行)より
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