出会い

http://www.asahi-net.or.jp/~nu3s-mnm//inna-tyairudo_hi-ringu.htm  【インナーチャイルドヒーリング】


「自分を制限する信じ込み」についてお話します。

例えば「跡取り息子」というステレオタイプは 日本の社会に未だ残っていますね。

そんな暗黙の価値観がある大家族の中で 子どもが与えられます。

一人目・女の子(女の子は育てやすいとされ、一姫二太郎など言われるわけですから 歓迎です。)

二人目の女の子(そこそこ受け取れるのが一般的です。 

然し3番目が男の子であった時周囲の愛と関心は 男児に傾き ストレスフルな子ども時代を過ごす傾向が強いです。

三人目の男の子(周囲の期待がかけられ 男の子イメージが 自己イメージとして植えこまれることが多いです。)

三人目の女の子(「男の子だったらよかったのに」 という呟きを聞いてしまうことが多いです。

性を否定されることは生を否定されること!

心理療法をしていると その人の痛みの源泉が 兄弟の布置にあることが多いのに気付きます。

幼い時に 周囲の大人たちが言った何気ない一言を受け取り自己イメージと変え 自分の一生を縛ることがあります。

私たちは関係存在ですから 文化の中で、グループの中で色々な評価を受けてしまいます。

その評価が外からのもの(外的抑圧と呼びます)と感じている場合は評価と自分が一つにはなっていませんが 外からの評価の一部が やがて自己イメージになってしまうのです。(内的抑圧と呼びます)

私たちは自己イメージのように生きていきます。

自己イメージを検証し 色眼鏡を外していく作業は素敵なことです。

昔、スリーインワンのワークショップで 全身のスタックポイントを見ました。

驚くことに正中線と関節の全てがスタックポイントでした。それを省みて 私の口から出た言葉は「邪魔もの」でした。母と兄を殺した デビルチャイルドという信じ込みを持っていたと気づきました。

私は終戦直後(昭和20年)に受胎しました。食糧難の極致です。何度も堕胎の刺激を受けました。それでも命が与えられました。

然し母は 私が1歳になる前に、私をおんぶしたまま、栄養失調で倒れてなくなりました。

私には同じ母から生まれた光義という名の兄がいました。母が亡くなって この兄が私を愛してくれました。私が2歳の時 よちよち歩きで崖っぷちを歩いてしまったようです。 

三輪車で遊んでいた兄が心配して 三輪車ごと駆けつけ 崖から転落しました。

勿論入院し 院内感染で肺炎になり 亡くなりました。

この悲しい出来事故に「私を愛した人を 私が殺した」と 信じ込んでしまったのです。

そんな自己イメージがあれば 愛される資格がないと思いますよね。

生きていて御免なさいの人生を歩むことになりました。

小学低学年は生きる屍でした。新しい母に愛されてはならない子どもであり続けました。

父さえ拒絶することをしました。レイプも引き付けました。

女であることをどれだけ呪ったことか!!

それ故に 愛するものに自分の歪を手渡さないよう自分と向き合い、癒し続けました。

勿論多額のお金も使いました。

この痛みを原風景として描くとナイル河に流されるモーゼのイメージでした。

この原風景を箱庭で表現した時 河に流される幼子は 羽の取れた丸々と太った天使でした。

私がこの箱庭から得たメッセージは「デビルチャイルドという人生を自分の意志で選んで生まれた。生き切れるように 多くの力を神によって供えられた。」という 内容でした。

振り返ってみると 壁は人一倍(以上かも)ありましたが、「多くの恵みを得、社会からも人々からも信頼を得、生かされて来た」ことへの感謝を捧げずにはおれませんでした。

中学生時代 行きつく先が墓場なので 好きなことをしようと心に決め 満足できることを探し求めましたが 得られず、生きる意味を失ったニヒリストになってしまいました。

お金、地位、快楽 得ても仕方がないものでした。

もしそれを得ることを目的とすれば 得れば得るほど「もっと」を望み まるで「勝ち得たことが次の欲望への誘い水になる」かのように、飢えと渇きは身を焦がすほどになると思わずにおれなく、それ以上に 求めたい気力も湧きませんでした。

生きる意味を求め続けた思春期の問いは一旦棚上げすることで私は生き残りましたが 今ではそれは「自分が創造するもの」ということができます。

魂と一つになって意味を創造するために 力になるのが「カウンセリング・セラピー・ヒーリング」です。意味の創造の為には 色眼鏡が拭い去られなければなりません。

心の浄化が必要だとも言えます。

私はそのために人生で得た財を注ぎこめる人を 幸せだと思います。

(私は優の字が好きです。人が憂うと書いて優れている、優しいと読みます。)そして私が創造した意味とは「愛する者の幸せ」でした。


インナーチャイルドの癒しの瞑想をご紹介します。 瞑想誘導

目の前に部屋をイメージすることができるでしょうか

森の中でもいいし、海辺でも構いません。 

あなたの安全な場所に部屋をイメージしてください。

その部屋に半円形に椅子を並べることができるでしょうか。

親をそこに座らせてもいいでしょうか? 

椅子のひとつに、あなたの中の子どもの自己を座らせることができますか?

幾つの子どもでも構いません。

ふと目の前に浮かんだ子どもでいいのです。

残りの椅子には 今まであなたを苦しめてきた人たちを座らせて……。

十分座らすことができるまで…

何を見ても何を聞いても何を感じても良いのです。

身体の知恵にゆだねて……

まず誰に伝えたいですか?

十分伝えられたら 目の前の人の答えを聞くことができますか?

あなたのペースでしばらくの間 対話をしてください。

あなたを苦しめてきた他の人達とも対話を続けてください。

彼らの振る舞いは許し難く受け入れがたいものでしょうか?

今もあなたに対して影響を与え続けているのでしょうか?

自分のためにこういう人たちに 結び付けられているエネルギーを解き放ち、その人を手放す意欲はありますか?

彼らの振る舞いを許すことはできないにしても、その人を完全に手放し、あなたも相手もそれぞれが自由になって、自分の行きたい道を歩むことを求める願いはあるのでしょうか?

そのような願いが起こるまで 自分のペースで対話を続けてください。

では両親や、自分を苦しめてきた人たちに出ていってもらってください。

椅子のひとつに座っている小さな自分に話しかけましょう。

小さな自分はどんな顔をしていますか?

どんな話をしたいですか?

抱きしめてあげることはできますか?

https://www.marubeni-shayukai.com/letter/hobby/entry-425.html  【俳句との出会い】より

渡邊 盛雄 (1953年入社)

 1999年、長年の商社マン生活とその後の関係先への再就職など、営業担当として日本経済の高度成長の一翼を担ったとの誇りを胸に、65歳で第一線から完全に職を退き、しばらくの間、悠々とゴルフ、海外旅行を楽しんだ日々。その後人間ドックで前立腺癌が見つかり、手術、時に68歳。そして翌年、かねて念願であった四国八十八ヵ寺遍路に出掛け貴重な体験をした。お遍路に対する四国の人びとは優しく別世界に入った心地だった。一方、山寺に残る無縁仏のあまりの多さに驚き、少なからず人生観に変化が生じたものだった。旅の途中に寄った道後温泉の入り口近くの「正岡子規記念館」。その玄関横の大きな垂れ幕に、「毎年よ彼岸の入りに寒いのは」。 これを見て、ああ、これだったら俺でも出来るぞと思い、半日を遍路休みに費やし、子規俳諧のいくつかに触れることができた。四国路の古寺の境内に、街角に句碑が目立って多かったのも印象に残った。

きさらぎ俳句会 長寿蔵2Fにて

 その後、伊丹市中央公民館の生涯学習教室俳句同好会にて、小泉八重子氏(関西現代俳句協会副会長)から俳句の手解きを受け、約1年間辛抱の結果、少し興味も出て来た頃、師から、「あと3年、頑張って続けられたら如何ですか」と言われた。月2回の「きさらぎ俳句会」、俳誌(季流)へ年4回の出句を通し約10年間、言葉は優しいが鋭い指摘に満ちた指導を受け、作品を無視されたこともあり、それがどれだけ勉強になったことか計り知れない。現在病気療養中の師に、深い敬意を表するとともに、拝謝する次第。

 先人諸氏の言葉に、

俳句とは「心の内外を表現する芸術」。

作句することで大脳が活性化され、心身が若返る(呆け防止?)とか。

 毎日新聞の兵庫文芸俳句は晩学の私にとり俳句の道場であった、選者である和田悟朗氏、若森京子氏の厳しい眼に鍛えられながら入選250回を数え、その記念として未熟さを省みず、自分史の後半を生きて来た証しの句集、「帰り道」を上梓した。

 現代俳句の片隅で、型にはまらない自由俳句を自負し、多くの仲間と楽しんでいる昨今である。体力維持と憧れていた農人生活を楽しむために、友人のAさんから数十坪の畑を借り、教えてもらいながら始めた農園は早や20年となり、農薬を使用しない有機栽培が自慢で、かなりの腕前にもなった。早寝早起き、深酒しない生活のリズムが整い、四季の野菜作りを楽しむ中、農人俳句にも入り込むことができた。

句集 帰り道の表紙

 本音では小沢昭一さんの「俳句で綴る変哲半世記」の4千句を読み、これほど面白い句集は無いと思った。まさに俳諧自由、わが道を行く痛快句集である。黒田杏子氏は、「この句集は素晴らしい、国民栄誉賞に値する」と評価された。

 私もメンバーである俳句の同好会「青葉会」の仲間たちは多士済々、レベルの高い句会で、394回の歴史は大したもの。会の世話役(幹事)を40年近くされている今井紀久男氏の献身的な情熱には頭が下がる。

 人生百年の高齢化社会を「笑って生きる」。

 新しい友人を作るのに句会は格好の場所であること間違い無い。


https://style.nikkei.com/article/DGXBZO11357530Q0A720C1000000/ 【出会いの詩一口俳句講座 藍浴衣】より

(たかだ・まさこ)1959年岐阜県生まれ。東京大文学部卒。主婦で2女の母。俳句結社「藍生」所属

7月24日付夕刊引用句の作者、西村和子さんは昭和23年(1948年)生まれの団塊の世代。横浜に生まれ育った生粋の浜っ子です。ご夫君の転勤に伴い、昭和62年(87年)からの14年を大阪で過ごされました。「藍浴衣」の句はその折に出来た句です。

私は平成2年(90年)に大阪へ移りましたが、西村さんとはその年の夏、初めてお会いしました。私の転居を聞きつけた知人が、それならば西村さんに連絡をとりなさい、と親切に電話番号まで教えてくれたのです。

なにしろ人見知りで引っ込み思案な(?)私のこと、お目にかかることは無かろうと思っていましたが、勇気をふるって電話をし、次の吟行のときにご一緒させていただく約束までとりつけたのには、我ながらびっくり。まだ子どものいない身軽さもあったと思います。

知る人のいない関西へ来た当初の心細さ、それでもたちまち俳句の縁で仲間のできてしまうありがたさ。私自身が身をもって知ったそれらを、西村さんも経験なさったに違いありません。

  大阪の灯の生き生きと春ショール  「かりそめならず」

  この町に生くべく日傘購ひにけり

  大阪の暑に試さるる思ひかな

  大阪に慣れて淋(さび)しき冬帽子

第1句は、JR大阪駅から阪急梅田駅へ行く歩道橋から見た灯の印象。今もそこを歩くと、初めて大阪に着いた夜を思い出されるそうです。

第2、3句。大阪の暑さには、心底往生されていたようです。私は暑いと元気になるタイプのようで、この暑いのに元気ねえ、とよく言われました。

第4句は平成2年作。初めてお目にかかったときの西村さんは、大阪弁を使わない大阪人のようでした。すっかりなじんで楽しそうになさっていましたが、同時に慣れたがゆえの淋しさを感じていらしたのです。

「藍浴衣」の句も同じく平成2年作。「藍浴衣という季題によって、女盛りの感慨だということが察せられる」と師・清崎敏郎が評しています。

西村さんは、新しい土地、人との出会いを通して、ご自身の感性を深めていかれたのでした。

私もまた、西村さんにお目にかかったことで、子どもを育てながら俳句を続けてゆくヒントを得ました。西村さんはご自身の経験から、子どもが生まれたら子どもの句を詠みなさい、吟行会へも子どもを連れていらっしゃい、とおっしゃるだけでなく誘ってくださったのです。

  これほどの日除(ひよけ)で足りてベビーカー

平成4年(92年)夏、折りたたみのできるベビーカーで出られるようになったので、思い切って吟行に参加しました。この句は句集に収められていません。ご本人のほかには、私だけが空で言える宝の1句です。

(高田 正子)






コズミックホリステック医療・現代靈氣

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吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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