「好戦派、恥を知れ」率直に生きた俳人・金子兜太の言葉

https://dot.asahi.com/aera/2018031600028.html?page=1 【「好戦派、恥を知れ」率直に生きた俳人・金子兜太の言葉】より

「私は何が本当なのか、本当でないのか、わからなくなる時がある。お前はいい加減な奴だ、本物じゃないのではと、自分でも思う。戦争の頃からだ」

──ニヒルな感じに。

「どうでもいいや、とね。女性がいてくれて、食い物があればいいや、というくらいの」

 金子兜太が微笑んだ。昨年11月、私にとっては、これが最初で最後のインタビューになった。本誌「現代の肖像」の取材で、せめてあと1、2回は会い、じっくり話を聞くつもりが、この2月20日、急性呼吸促迫症候群で亡くなってしまった。98歳だった。

 すぐれぬ体調が言わせた言葉でなかった保証はない。だが私は感銘を受けた。希代の俳人が、100歳を目前にしてなお悩んでいる。己の力では何も成し遂げたことがないくせに、やたら傲慢な手合いばかりが目立つ現代にあって、なんと謙虚で、正直な人なのか、と。

●大好きな小林一茶に倣い「荒凡夫」を自称する

戦後日本の代表的な」「俳壇の重鎮」「大御所」「闘将」「戦後の俳壇リード」……。金子の訃報を、新聞各紙はこんな形容とともに伝えた。記者たちの苦労が偲ばれる。どれもその通りではあったけれど、紋切り型の慣用句で説明できる人物では到底なかった。

 さりとて蛇笏賞や日本芸術院賞、文化功労者といった受賞・栄典の類いを並べるのもピントが外れている。そもそも文化勲章やノーベル賞を受けていないことのほうが不思議だった。

 遡れば東京帝国大学経済学部卒、元日本銀行勤務の経歴。50歳代の写真を見ると、眼光鋭い、寄らば斬るぞのムードを湛えた男がそこにいた。その頃に旅先で詠まれた代表的な一句──。

 人体冷えて東北白い花盛り

 さまざまな解釈があるそうだが、花や雪の美しさよりも、「人体」の一語にどこかゾッとする怖さを感じたのは私だけだろうか。やがて金子は大好きな小林一茶に倣い、「荒凡夫」を自称した。「荒」は荒々しさというよりは「自由」のイメージ。

 そして2016年1月。学術、芸術などの分野で傑出した個人や団体に贈られる「朝日賞」の授賞式で、彼は宣言した。

「私は存在者というものの魅力を俳句に持ち込み、俳句を支えてきたと自負しています。(中略)私自身、存在者として徹底した生き方をしたい。存在者のために生涯を捧げたい」

 存在者とは、「そのままで生きている人間。いわば生の人間。率直にものを言う人」だと、金子は言った。「荒凡夫」をさらに一歩進めた、悟りの境地のようなものを感じさせる。

「ただね」

 と話してくれたのは黒田杏子(79)である。生前の金子と最も近しかった俳人の一人だ。

「あの挨拶だけだったら、単なる格好つけで終わっていたかもしれません。あの方はやはり特別な存在でしたから。兜太さんが本当の“存在者”たちに出会ったのは、むしろあれ以降ではなかったか。以前は、私の知り合いで、軍隊では人間魚雷を発進させる任務を負っていた新潟の漁師さんに私がまとめた『語る 兜太』という本を見せて、『やっぱり俺らとは違う。これはエリートの言葉だ』と言われちゃったこともあるんです。兜太さんは晩年、あの方自身の理想に近づくことが確かにできたのだと思う。完成したとまでは言いませんけど」

●「平和の俳句」欄の選評に「好戦派、恥を知れ」

 黒田がそう感じることができたのは、朝日賞の挨拶から3カ月ほどを経た同年4月29日。「東京新聞」朝刊1面の「平和の俳句」欄の選評で金子が、「好戦派、恥を知れ」

 と書いているのを読んだのだった。詠み人に向けた非難ではもちろんない。都内在住の74歳が詠んだ「老陛下平和を願い幾旅路」について、「天皇ご夫妻には頭が下がる。戦争責任を御身をもって償おうとして、南方の激戦地への訪問を繰り返しておられる」と綴った後に続けられた、腹の底からの叫び。

「普通はあり得ない選評でしょう? あれには私もビックリした。平和の俳句では他にも、兜太さんと同い年の方の、自分は体を壊して兵役に就かず、この年まで生きている、死者たちにすまないという内容の句に、なんと謙虚な、と返したり。

 朝日とか読売とか、私が選者になっている日本経済新聞とかの俳句欄には、いわば俳句に慣れた人たちが投句してくるのに対して、東京新聞はそうじゃなかった。それまで俳句と縁がなかった人たちが、無我夢中で、句だけでは収めきれない思いの丈まで、ハガキに書き込んでこられる。兜太さんはそういう人たちと、紙面を通した対話を真剣に重ねていらした」

「平和の俳句」は15年の元日から1年間の予定でスタートし、2年も延びて昨年末に終了した、東京新聞の名物企画だった。14年に、作家でクリエイターのいとうせいこう(56)と対談し、時代に対する危機意識を確認し合ったのがキッカケだ。やはり15年に作家・澤地久枝(87)の頼みに筆を執り、反戦運動のシンボルとなる「アベ政治を許さない」の揮毫も、この延長線上に位置づけられた行動だ。

「父は戦争を憎む句は以前から詠んでいましたが、俳句以外の場にも積極的に出向き、反戦や平和を強く、広く訴えるようになったのは、いとうさんとの対談あたりからです。歴史にも鑑みて、戦時における文化人の生き方というものを考えたのだと思います」

 金子眞土(69)の回想だ。亡きみな子との一人息子。考古学を学び、埼玉県で学芸員などを務めて、定年後は妻の知佳子と、父親のサポートに徹した。

●戦場のトラック諸島で句会を開く

 金子兜太は1919年9月23日、埼玉県小川町に生まれた。父元春は医師で、「伊昔紅(いせきこう)」を名乗る俳人でもあった。

 翌年から2年間は父の仕事の関係で中国・上海へ。帰国後は秩父郡皆野町で暮らした。明治期における自由民権運動の拠点で、秩父困民党を組織し政府の横暴に抗った土地柄を愛し抜いた。

 晩年の一句。

 われは秩父の皆野に育ち猪(しし)が好き

 猪だけでなく、肉は何でも好きだった。その話が出ると、「人肉じゃないよ~」と、笑えぬブラックジョークを飛ばさずにはいられないサービス精神もまた、金子の金子たるゆえんだった。

 俳句を本格的に詠み始めたのは旧制水戸高校(現茨城大学)時代だったか。先輩の誘いで句会に参加。全国規模の学生俳句誌「成層圏」の常連となり、たちまち頭角を現す。

 人間探求派と呼ばれた加藤楸邨(しゅうそん)の門下で活動した。東京帝大卒業後の日本銀行勤務はわずか3日間。戦局の悪化に伴い、海軍主計中尉として西太平洋における日本軍の拠点・トラック諸島(現ミクロネシア連邦チューク諸島)に送られた。

「秩父の人たちに、戦争に負けたら俺らは食えなくなる。兜太さん勝ってきてくれと頼まれてね。まあ英雄気取りで、南方第一線を志願しました」

 だが戦場とはこの世の地獄だ。トラック諸島は米軍の空襲で航空機270機、艦船43隻を失い、拠点としての基地機能をほぼ壊滅させられたばかり。

 米軍の戦闘機が毎日機銃掃射にやってくる。爆撃機は爆弾を落としていく。ややあってサイパン島の日本軍が全滅すると、食糧や武器弾薬の補給路も断たれた。

 餓死者が続出した。畑を耕し、芋を育てても虫に食われる。毒フグや野草、トカゲを食べて死ぬ者も出た。金子はコウモリを焼いて食べて生き延びた。ヤキトリの味がするそうだ。

 現地の娘を暴行して報復されたり、男色のもつれで殺し合う事件が相次いだ。誰もが生きる意味を失いかけた時、金子は、句会を開いた。季語や季題、五七五の定型にこだわらない「前衛俳句」と呼ばれた彼の作風は、生か死かの緊張を強いられ続けた戦場で培われたものか。金子がかの地で詠み、いつまでも覚えていた一句。

 空襲よくとがった鉛筆が一本

 試作した手榴弾の実験で軍属が爆死した際、金子は戦争は絶対悪だと確信した。同時に日頃は粗暴な軍属たちが、腕がちぎれ、背中を抉られた仲間をみんなで2キロも離れた医師のところに担いでいく姿を見て、人間が生きるということの素晴らしさを改めて思った。

 トラック諸島での戦争体験が、そのまま戦後の俳人・金子兜太の原動力になった。広く知られた事実には前段がある。まだ学生だった20歳の頃、「土上(どじょう)」を主宰していた嶋田青峰と会う機会があり、ここにも投句した。と、ややあって41年2月、嶋田が治安維持法違反で逮捕されてしまった。

“皇紀2600年”だった前年の「京大俳句」会員一斉検挙に始まり、翌々43年までに合計44人の俳人が捕らえられた新興俳句弾圧事件の暴風だった。

 総動員体制下での表現統制が、世界最短かつ遊戯性を楽しむ定型詩の世界にまで及んだのは、当時の俳壇にあった正岡子規以来の花鳥諷詠を重んじる伝統派と、表現形式の革新や思想性、社会性の探求をも目指す新興俳句運動との対立が、そのまま体制と反体制の関係に重ねられたせいもある。嶋田は温厚な人柄で、明治期には伝統派の牙城「ホトトギス」で高浜虚子の片腕だった男だが、「土上(どじょう)」では新興俳句にも理解を示していた。

 嶋田には胸の病があった。59歳だった彼は留置場で喀血(かっけつ)し、釈放後は生ける屍となって死に至る。自宅療養中はかつての同人たちもほとんど訪れず、非業の最期を遂げたという。

 金子は見舞った。この時期までは特段の反戦思想は持ち合わせていなかったと言うが、件(くだん)のいとうせいこうとの対談では、事件当時と現代の日本社会に共通する特質を論じ合った。この少し前に発覚した、さいたま市の公民館が俳句教室で選ばれた護憲デモを詠んだ句の「公民館だより」への不掲載を一方的に決めた、いわゆる「9条俳句掲載拒否事件」を糸口に、

いとう:こういう自粛という形が連続している。下から自分たちで監視社会みたいにして、お互いを縛っていく。戦前は上から抑え付けられたように戦後語られてきたけど、本当はこうだったんだろうと。(中略)

金子:この人(引用者注・嶋田)がボソボソボソボソ言っていたことも思い出しますけどね。治安維持法が過剰に使われた。何とかこういうことはいろんな形で訴えていかにゃいかんと。

いとう:特定秘密保護法を見たときに治安維持法だと私は思いました。目立つところで言うことを聞かなさそうな人たちを引っ張っていく、ということが既に始まっているんだという実感はすごくある。(東京新聞14年8月15日付朝刊)

 日本はまだトラック諸島のようにはなっていない。9条俳句の事件も新興俳句弾圧事件よりはソフトに映る。だが監視社会化は対談当時よりも格段に進んだ。共謀罪も、そのための盗聴法の拡充も、街中に張り巡らされた監視カメラ網も。私たちは今や、家畜同然に一方的に割り当てられたID番号を、あろうことか“マイナンバー”と呼ばされ、利用を強制されている。

 歴史は繰り返す、という。だから金子は、一般からは俳人というより社会運動家のように見えかねない発言にも踏み込んだ。覚悟の意義は、訃報を伝えた保守系メディア──近年はネトウヨメディアに堕した──でさえ、オーソドックスな報じ方をせざるを得なかった現実だけでも証明されたと考える。

 被曝の人や牛や夏野をただ歩く

 2011年の福島第一原発事故を受けて──ただし現政権が誕生する以前──詠まれた句だ。ではあるけれど、このままでは避けられないかもしれない近い将来の核戦争をも予見しているとは言えまいか。

 復員後に復職した日銀で、「トラック諸島で死んだ人たちのためにも、平和の実現に体を張ろう」と組合活動に熱中。勤め人にとってはそれが唯一の方法論だったからだが、はたして地方を転々とする“窓際族”どころか窓の奥、要するに“窓奥族”にされたと苦笑する。それでも金子は、その怒りさえもエネルギーに変えて、句を詠んだ。

 新興俳句の流れを汲む“前衛俳句の旗手”として、伝統俳句派との論争にも情熱を注いだ。現代俳句協会の会長(後に名誉会長)にも就任した。87年に朝日俳壇の選者となった際は、朝日新聞社の社長が、「そんなことをしたら不買運動だ」という手紙を伝統派一部勢力に送りつけられた経緯もある。

だからといって晩年の言動と俳人としてのアイデンティティーは矛盾しない。思うに、ああすることができたからこそ、金子は「存在者」になり得た。

●今どきの新自由主義なんて信用しません

 インタビューは金子の書斎の隣にある応接室で行った。仮眠から覚めて出てきてくれた彼は、こんな話もした。

「俺の部屋に飾ってある、亡くなった女房の写真がね、こっちを見ている気がするんだよ。苦労させたからね」

──今の社会をどうご覧になりますか。

「非常に危険だと感じています。できそこないの奇術師みたいな連中が政治の先頭に立っているからね。アメリカのスランプ、トランプか、あの人も危ないと思いますよ、私は」

──戦後72年。かつてない状況だと。

「イエス。まったくその通り。機が熟したな、というぐらいに感じています」

──私ももう40年近く記者の仕事をしていますが、近頃はわけがわかりません。自分のいる世界が不気味です。

「私みたいなチンピラ俳人も同じです。戦争反対なんて偉そうにしていても、みなさんうわべは真顔で聞いてくれるようでいて、実は笑っていたりして。金子兜太自身も笑っているんじゃないか、なんて思いに陥ることがある。いつも何かしら、ごちょごちょごちょごちょ、地球上を動いてますなあ。そういう情勢を見て、経団連とかが、一番いい状況に乗っかろうと一生懸命なんじゃないですか。資本主義は本来、“自由”が前提なんです。自由主義を忘れた資本主義というか、独占段階に入ったというか。今どきの新自由主義だなんてのは、ぜんぜん信用しません」

 さる2月25日、戦没した画学生らの作品を展示している長野県上田市の「無言館」の敷地内で、「俳句弾圧不忘の碑」の除幕式が行われた。筆頭呼びかけ人だった金子は、最後まで出席すると言い張っていたのだが。

 15年11月の「秩父俳句道場」で金子と対談し、碑のアイデアを持ち掛けて事務局長となり、その建立に寝食を忘れて打ち込んだフランス出身の俳人で比較文学者のマブソン青眼(49、本名ローラン・マブソン)が、除幕式の司会を務めた。金子に碑とともに贈るサプライズにしようと完成させた、弾圧された俳人たちの句や似顔絵に鉄格子をかけて展示する「檻の俳句館」をも見据えて彼は、

「弾圧事件の関係で亡くなった俳人は、少なくとも3人。この碑にしても、いろいろな抵抗はありましたが、何よりも彼らの名誉回復を、という思いによって、ここに除幕するものです」

 とする趣旨の言葉を述べて、やはり呼びかけ人である無言館館長の窪島誠一郎(76)と除幕の紐を引いた。金子が鬼籍に入ってしまう前に会ったマブソンの「兜太先生の俳句はGAFA(Google、Apple、Facebook、Amazonに代表されるプラットフォーマー)にも支配されない、レジスタンスなんだ。AI(人工知能)には不可能な、時間やイメージの飛躍を恐れない凄み、感性と知性がひとつになった人だけにできること」という言葉が忘れられない。

 金子は、そのような存在者だった。

(文中敬称略)

(ジャーナリスト・斎藤貴男)

※AERA 2018年3月19日号


https://miho.opera-noel.net/archives/1327 【第二百三十二夜 黒田杏子の「花巡る」の句】より

 黒田杏子先生は、山口青邨の弟子。昭和63年に青邨が亡くなられた後、「夏草」会員は、「天為」「藍生」「屋根」「花鳥来」の4つの結社に分かれた。しかし兄妹結社という思いを、私の所属する深見けん二の「花鳥来」の誰もがそうした思いを持っている。

 虚子は「客観写生」といい、青邨は「観察(オブザベーション)」といい、杏子さんは「季語の現場に立つ」という。それは作句の行動理念である。

 私の手元に今、『黒田杏子歳時記』がある。『木の椅子』『木の扉』『一木一草』までの30年間を旅を重ね、季語の現場に立つと決め、わが身に季語の「言霊」を浴びたという。

 『黒田杏子歳時記』の序には、「現地へ出かけてゆくことは即ちその場に存在する地霊に出合うこと」であり、「地霊は実際にその地を踏んだ足の裏から全身にのぼってくる」と、あった。

 今宵は、そうした黒田杏子俳句を紹介させていただこう。

  花巡る一生のわれをなつかしみ 『花下草上』

 博報堂での雑誌のインタビューの仕事を続け、主婦業を続け、「藍生」の主宰を続けながら、しかも、桜の花の盛りは5日間ほどの短さである。

 日本中の、沖縄から北海道までの桜の名木を見尽くすには、30年近く要したというが、計画を立て、実行することは大変だったと思う。

 杏子さんは、花を巡り花の下に佇つことを、〈花に問へ奥千本の花に問へ〉の如く、花の地霊との出合いを、生きている間ずっと続けていこうと決めた。

 「一生(ひとよ)のわれをなつかしみ」とは、「われ」を慕わしく思い、手放したくない、という気持ちであろう。

 どこか、己自身を俯瞰して眺めているようでもある。

  身の奥の鈴鳴りいづるさくらかな 『花下草上』

 花の散る樹下に佇んでいると、わが身の奥の鈴が鳴り出すという。桜と相対しているときの杏子さんは、桜の霊(=魂)とも相対しているのだろう。「身の奥の鈴鳴りいづる」とは、桜の魂と杏子さんの魂の、波長が寄り添った不思議な瞬間であるのかもしれない。

  能面のくだけて月の港かな 『一木一草』

 この作品を最初に見たとき、静岡県三保の松原で行われた「三保羽衣薪能」を思い出した。2年続けて通ったが、そこで黒田杏子先生をお見かけした。たしか開会のご挨拶をされていた。

 私にも、薪能や能楽堂に通い詰めていた10年ほどがあったが、時折、杏子さんをお見かけした。おかっぱ頭で、大塚末子デザインの〈もんぺルックス〉、黒いブーツ姿はどこからでも気づくが、ある時は、白洲正子さんの車椅子の押していらした。

 実際は、三保の松原ではなく宮崎県松島へ吟行に出かけた折の当日の句会で生まれた作品だそうである。「能面のくだけて」は、松島で眺めた月が海面に映った姿であろう。紺碧の空の月が海面に届いた瞬間、くだけたのは海面に映った月光であるが、杏子さんは、「能面のくだけて」と叙して、月光のくだける激しさを美と捉えた。

  ガンジスに身を沈めたる初日かな 『一木一草』

 インドの旅も、この時点で既に3回目だ。一回目では〈人を焼くほのほがたたく冬の河〉の如く、ガンジス河畔の火葬場で、井桁に組まれた薪の上で荼毘に付されてゆく人の炎を遠望された。こうした作品を知って、その後に、〈ガンジスに身を沈めたる初日かな〉の作品を知った。ガンジス河がインド人にとっての聖なる河であることが深々と伝わるようであった。

 黒田杏子(くろだ・ももこ)は、昭和13年(1938)東京市本郷生まれ。昭和19年、栃木県に疎開、高校卒業まで栃木県内で過ごす。東京女子大学入学と同時に俳句研究会「白塔会」に入り、山口青邨の指導を受け、青邨主宰の「夏草」に入会。同大学文理学部心理学科卒業後、博報堂に入社。テレビ、ラジオ局プランナー、雑誌『広告』編集長などを務め、瀬戸内寂聴、梅原猛、山口昌男など多数の著名文化人と親交を持つ。この間、10年ほど作句を中断。昭和45年、青邨に再入門。青邨没後、平成2年、俳誌「藍生」(あおい)を創刊主宰。日本経済新聞俳壇選者。

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