https://kaigen.art/kaigen_terrace/shinko-haiku-anthology-kaigen02/ 【『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』を読む 2 何も新しくなかった 小松敦】より
この本の厚さ約3センチ。分厚い。けれども意外に読みやすい。新興俳句作家四四名別の文章も一三のコラムもそれぞれがコンパクトにまとめられており、色んな味を楽しめるお菓子の詰め合わせみたいで、暇をみてつまみ食いするうちに全部食べてしまった、の感がある。
不勉強な筆者にとって「新興俳句」とは過去一時期の俳句文芸ムーブメント、くらいの理解しかなかったが、高野ムツオによる「序」、神野紗希による「はじめに」に記された明快な解説をもってその概要を知り、すっきりした。神野紗希曰く〈新興俳句とは、俳句は文学であるという意識のもとに、広く他ジャンルの表現に刺激を受けながら、さまざまな俳句表現の可能性を追い求めた昭和初期の文学運動を指す言葉だ。〉
新興俳句運動の契機や終息の経緯および時代背景などの詳細は本を読んでもらうこととして、ここでは、筆者が「食べ慣れないけど」美味しいと感じた好みの俳句を賞味したい。句そのものを味わう方針とし、作句当時の作者の状況がどうであるかなどは一切無視した。その上で「何が新しかったのか」というこの本の傍題について思うところを述べてみたい。
【阿部青鞋】
人間を撲つ音だけが書いてある
〈書いてある〉によって〈撲つ音〉が消音される代わりに〈撲つ〉映像が喚起され、凄惨な事態がより鮮明となる。
半円をかきおそろしくなりぬ
〈半円〉を描いたところで手が止まる。精一杯なのだ。何事かに苛まされる者の切迫した心理、決して閉じない円周。
冬ぞらはすこしへりたるナフタリン
〈ナフタリン〉の昇華した冷たい大気が鼻をつく。〈すこし〉に初冬を感じる。
劇場のごとくしづかに牛蒡あり
〈しづか〉なる〈牛蒡〉に凝縮された濃密なドラマ、生々しく泥臭い人間の。
どきどきと大きくなりしかたつむり
〈どきどきと〉否応なく大きくなってしまった軟弱なる者の不安と高揚。
【神生彩史】
抽斗の國旗しづかにはためける
畳まれて抽斗の中にあっても、国民の脳裏にオートマチックに〈はためける〉國旗。国家が国民に強いる無言の国威発揚を〈しづかに〉弾劾する。
木枯や石觸れあうて水の中
気体、固体、液体、いずれも冷たく無機質な構成要素に〈触れあうて〉の身体感覚を移植することで作り出される魅惑。言葉だからこそ生みだすことのできる美。
貝のゆめわだなかあやにけむる夢
呪文のような古の言葉の連なりに眩み、私は久遠なる夢にけむる貝となった。
【喜多青子】
きざはしのしづかなるときかぎろへる
この句には「夢殿」と前書がある。夢の収まる御堂を思う。そのきざはしに立ち騒ぐいにしえの夢とうつつの夢の静まるときに揺らめく時空。幽玄の美。
地下歩廊ひそかに街の蟬きこゆ
地上の街に残り僅かな命をふりしぼる蝉の声を、こっそりと耳にする受動的で消極的な身体。命から遠ざかるような残響感の中、生きることを羨望している。
秋炎の空が蒼くて塔ありぬ
〈塔ありぬ〉の確固たる物的存在感が、輝度のコントラストをきわだて、さわやかに覚醒した意志を形象する。
【篠原鳳作】
カヌー皆雲の峯より帰りくる
〈カヌー皆〉で大海原の水平な広がりを、〈雲の峯より〉で垂直方向の威容を、〈帰りくる〉で奥行きのある躍動感を描き出す。十七音のスケーラビリティ。
浪のりの白き疲れによこたはる
〈浪のり〉によって喚起されるサーファーと海と太陽と砂浜の光景の中にあって〈白き疲れ〉は抽象的ではなく、ぎらつく太陽光に白飛びした写真のごとき具体的な心理として感知される。
しんしんと肺碧きまで海のたび
海中を〈しんしんと〉旅してもよいし、海上に大海原や空の碧さを〈しんしんと〉吸いこむ旅でもよいだろう。いずれにせよ〈肺〉の内臓感覚によって、海と身体が一体化してゆく恍惚感に導かれる。
【鈴木六林男】
昼寢よりさめて寢ている者を見る
寝ている者に見ているのはさっきまでの自分ではないか。
深山に蕨とりつつ亡びるか
自然の滋養を採取している側の自分が、実は自然の土に帰しつつあることに気づき驚く。
暗闇の眼玉濡らさず泳ぐなり
しっかりと見続けていなければならない。泳ぎ切るために、生き抜くために。
花篝一人称の顔ばかり
自分も一人称の顔の一つだろう。
遺品あり岩波文庫「阿部一族」
たったこの一冊だけなのだ、と他人事のように示す自分事の心理。
遠くまで青信号の開戰日
後に、信号機の色は変わった。令和の現在、信号機の色は何色だ。
飄々としている様でいて己の生に対する固執の滲む理知的な句々。そんな句に惹かれてしまう自分を再発見した。
【高屋窓秋】
降る雪が川の中にもふり昏れぬ
私は降りしきる雪とともに川の中に沈下してゆく。するとそこにも雪は降りしきり、私には成す術もなく次第に世界を失ってゆく、という異次元の耽美。
ちるさくら海あをければ海へちる
この句の眼目はラ音のリズムと〈ければ〉だろう。海の青さゆえにそこへ自ら吸い込まれてゆくさくらに命を感じる。
木の家のさて木枯らしを聞きませう
〈木の家〉さんが、同族の〈木〉を枯らすと名乗るこがらしさんに、改まって耳をかたむけようという。冬の日の優しさ。
【東鷹女】
ひるがほに電流かよひゐはせぬか
ただでさえ大胆に繁茂するヒルガオにさらに電流を通わせる心理。激情。
鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし
直情かつ激情。
狂ひても女 茅花を髪に挿し
一字空け、銀色の美しい穂を髪に挿したところで、なお激情。
うつうつと一個のれもん姙れり
抑えきれない激情をついにれもんの塊として姙もってしまう。すごい。
【藤木清子】
身体と世界が交わるときに生まれる詩。
こめかみを機関車くろく突きぬける
頭部を打撃するこめかみへの突入はカ音のリズムと相俟って鋭く劇的な破壊をもたらし、突きぬけてなお惨禍を残す。
虫の音にまみれて脳が落ちてゐる
普段は身体と接続して日常のあれこれを世話しているあの〈脳〉が単独で落ちている。もう何者にも煩わされないはずだったが、虫の音にまみれてやや困っているようだ。おや。私の脳じゃないか。
針葉樹ひかりわが四肢あたゝかき
〈ひかり〉〈あたたかき〉の言葉の斡旋が絶妙。針葉樹のきらめきや独特の芳香に手足の末端までリラックスしている。
厭世の柔かき軀をうらがへす
こんな世の中でも生きていかねばならない。せめてうらがえしてみる〈軀〉は柔らかく重たい。倦怠感が匂い立つ。
以上、あくまでも筆者の味覚で鑑賞してみたが、他の読者にとってはどうであろう。筆者にとっては、太平洋戦争に触れた素材には時代を感じるものの、これらが今日の俳句であると言われても違和感はない。いずれの作品も、十七音の言葉を介して筆者に突き刺さり、筆者の世界を豊かにひろげてくれる愉悦であった。
では、「何が新しかったのか」。議論を深耕すべく敢えて言う、「何も新しくなかった」。あるいは、色々新しかっただろうが、これまでだってそうだった。
新興俳句運動は、当時たまたま目立った人々が花鳥諷詠や客観写生などに不自由を共鳴して盛り上がった「記録」にすぎない。従来とは異なる俳句表現の工夫は古今東西、俳人=アーティストなら誰もがいつもやっていることだと確信する。
〈彼らは用意されていた俳句らしさ(花鳥諷詠、客観写生など)の枠にとらわれず、詩や短歌や映画など広い文学の沃野に刺激を受けながら、自らの主題と方法を探し求めた。〉と「はじめに」にあるが、既存の俳句らしさの〈枠〉に「捕らわれる」のはほかでもない作者あるいは読者自身である。〈枠〉とは、誰かに押しつけられた制約などではなく、作者あるいは読者自身が自ら学び育んできたものの見方や観念などの総体であって、無意識な思い込みやバイアス、無自覚な不自由(または自由という錯覚)である。しかしそんなことはだいたいどの俳人も皆体験的に知っていて、日々、新しい俳句を詠もう(読もう)と、自分自身の既存の俳句らしさの〈枠〉=無自覚な不自由に向き合っているではないか。その点で、何も新しくはなかった。
一方、この〈枠〉は、あまりにも当たり前に隣に居座っていてそれと気づかないことが多い。卑近な例で言えば、この本の冒頭から登場する「主観と客観」という考え方がそうだ。『自然の真』と『文芸上の真』、ロマン主義とリアリズム、などといった考え方そのものが既に〈枠〉だろう。〈枠〉を超えようとして〈枠〉に嵌まってはいないだろうか。
阪西敦子のコラム「新興俳句のゆりかご 虚子と素十と客観写生」によると、虚子の認識は〈客観句といふと雖も矢張り主観の領域のものであり(中略)客観写生といふべきものは厳密に言って一句も無いと言ひ得るのである〉というものである。また、『自然の真』と『文芸上の真』の違いを主張した秋櫻子に対して素十は、そんなものどちらも〈知らない〉と述べ、〈私はただ自然の種々なる相を見ただけである。私の俳句といふものはただそれを写そうと試みただけである。〉と返答したという。虚子も素十も極めて真っ当な見解を述べていると筆者は思う。「客観写生」は「無意識な思い込みやバイアス、無自覚な不自由(または自由という錯覚)」に陥りやすい人間の性を承知の上で、この不自由から自らを解放してゆくための方法論として教育的に宣伝したものであり、むしろ主客二元論を克服するための戦略であったと考える方が素直に理解できる。虚子も素十も、秋櫻子が『文芸上の真』を言い立て「文学」とはかくあるべしという「不自由」に自ら収まってゆく姿を見て、残念に思ったことだろう。漱石や子規も浮かばれない。
ちなみにこの観点で金子兜太は〈作る自分が一元化されなければいけない。自分のなかに客観と主観があって、それを一緒にするか別々に扱うかガタガタして、おれは客観を中心に書くんだと言ってみたり、おれは主観が中心だという……。そういう客観だ、主観だという人間的な考え方は近代的な考え方で、古い。〉(『海程』500号記念座談会)と喝破している。「人間中心主義」ではダメだと。「生きもの感覚」である。人間の精神や人間的な意味の体系を超えた世界の中で俳句を捉える方が豊かであると筆者も思う。
閑話休題、新興俳句運動の記録を今改めて一冊の本にまとめて吟味し、〈つまり、広義の新興俳句とは、現代俳句に他ならない(神野)〉という正鵠を得た認識の下に、自分自身の〈枠〉にどう向き合うかのヒントを探ることが、この本の意義の一つだろう。「何が新しかったのか」を知るよりも、お菓子の詰め合わせ一粒一粒を、それぞれに己の〈枠〉へ向き合った俳句そのものをこそ味わいたい。
俳句を作るとは自分自身を作ることであり、俳句を読むとは自分自身を読むことではないだろうか。わずか十七音の言葉を介した、作者と世界と読者の交感。そこに生まれる豊かさを求めて、俳人は自分自身を更新してゆく。人によって更新のやり方も歩調もまちまちだろうが、そのみちのりは「いつも常に新しい」ものではないだろうか。
最後に、各作家とその作品やコラムをこれほどまでに凝縮して論じた執筆者各位に敬意を表す。〈現代に生きる人々が、新興俳句運動やその作家について知り、考える手引きとなるような本を作りたい〉という現代俳句協会青年部の熱い思いが煌めいている本である。
http://www1.odn.ne.jp/~cas67510/haiku/syuoshoi.html 【 秋桜子の「文芸上の真」の軽薄さ】
https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/35159485 【対話】
https://rekisiru.com/2489/3 【高浜虚子とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や俳句、代表作品も紹介】】より
1892年 – 18歳「京都第三高等中学校入学」
虚桐庵時代
1892年、伊予尋常中学校を卒業した虚子は、京都第三高等中学校に入学し、京都市吉田町に下宿しました。やがて碧梧桐も加わり、下宿は「虚桐庵」と呼ばれました。
この頃の虚子は文学に傾倒しており、俳句という小さな文芸よりも、将来は小説家となることを考えていました。文通をしていた東京の子規には、森鴎外や幸田露伴の弟子になれるよう斡旋してほしい旨を書き送っています。これに対し、子規は「学問をやめてしまって、どう身を立てるつもりか」と諭したといわれています。
1894年に京都三高の学科改変が行われたため、虚子と碧梧桐は仙台の第二高等中学校に編入学をしています。しかし、文学への思い冷めやらず、ふたりは仙台二高を辞め、東京へと向かいました。
虚子・碧梧桐のふたりが足繁く通うことになる、東京・根岸の子規庵
1895年 – 21歳「道灌山事件おこる」
子規の後継者となることを辞退した虚子
1895年、正岡子規は新聞日本の記者として日清戦争に従軍します。その帰路の船中にて喀血した子規は神戸、須磨を経由した後、故郷松山で保養します。なお、神戸へは虚子、碧梧桐ともに駆けつけ病床の子規を見舞っています。
子規が小康を得て帰京したのは12月。ほどなく虚子を道灌山へ誘い、後継者となってほしいと意思を伝えました。この申し出に対し、虚子は辞退します。これが世にいう「道灌山事件」です。
1897年 – 23歳「「ほとゝぎす」創刊と結婚」
「ホトトギス」創刊
1897年、柳原極堂が松山において「ホトトギス」(※ )を創刊し、子規、内藤鳴雪とともに虚子と碧梧桐もこれに協力しました。
※ 当初の表記は「ほとゝぎす」とひらがな表記でしたが、本稿では便宜上「ホトトギス」と表記します。
同年、虚子は大畠糸子と結婚します。
翌1898年、「ホトトギス」発行所は東京(神田錦町)に移転され、俳句・和歌・写生文などの散文を加えた文芸誌というつくりになりました。また、この東京移転を機に、虚子が編集主宰を務めることになりました。
1902年 – 28歳「子規の死」
子規逝くや
1902年9月19日、正岡子規が病没します。子規庵に泊まり込んでいた虚子は、師である子規の死にふれて次の俳句を詠んでいます。
子規逝くや十七日の月明に
子規の遺した大きな仕事のうち、新聞「日本」の俳句欄は碧梧桐に継承されます。残る「ホトトギス」は虚子が継承しました。子規という大きな中心点を欠いた結果、その後の俳句界は「日本派」「ホトトギス派」に分かれることになったと言われています。
そうした中にあって、虚子は、子規の死を境に俳句と距離を置くようになりました。写生文、小説と虚子は新しい世界を模索するかのように、これらを「ホトトギス」に掲載してゆきました。
晩年の正岡子規
1905年 – 31歳「「吾輩は猫である」連載はじまる」
「ホトトギス」の多彩な執筆陣
1905年は「ホトトギス」が活況を呈します。その人気を支えたのは、なんといっても夏目漱石の「吾輩は猫である」の連載でしたが、他にも伊藤左千夫、寺田寅彦などが執筆陣として名を連ねていました。
1908年 – 34歳「国民新聞社入社と「ホトトギス」経営難に」
国民新聞に入社
1908年、虚子は国民新聞社に入社して、文芸部長となります。
一方「ホトトギス」は漱石の連載が終わると売上を落としていきます。経営難解消の一策として俳句雑詠欄を復活しますが、一年ほどで途切れてしまいます。
1910年 – 36歳「国民新聞社退社と鎌倉転居」
国民新聞社を退社
1910年、虚子は国民新聞社を退社します。「ホトトギス」の立て直しを図るためでした。発行所も移転(芝区南佐久間町)しています。
鎌倉への転居
同年、虚子は住まいを鎌倉・由比ヶ浜に移しています。
由比ガ浜の夕日を臨み、故郷・松山の海を思い出したかもしれない。
1928年 – 54歳「花鳥諷詠を唱える」
虚子の俳句に対する根本理念
1928年、虚子は俳句の講演会で、俳句の根本理念として「花鳥諷詠」を唱えました。虚子曰く「春夏秋冬四時の移り変りに依って起る自然界の現象、並にそれに伴ふ人事界の現象を諷詠するの謂(いい)であります」(「虚子句集」)というように、人間をも自然の一部とし、そうした自然を詠うのが俳句であると定義づけています。
俳人の育成・輩出
この頃、盛んだったホトトギスの機能の一つが俳人の育成と輩出でした。昭和初年でみても、所謂4S(水原秋桜子、阿波野青畝、山口誓子、高野素十)がホトトギス輩出の俳句作家として知られています。
1931年 – 57歳「秋櫻子の離反」
新傾向俳句運動
1931年、ホトトギス4Sの一人である水原秋桜子は「自然の真と文芸上の真」を発表し、虚子の元を去りました。結社「馬酔木」を独立させ、そこには加藤楸邨、石田波郷、山口誓子なども加わっています。
1936年 – 62歳「世界へむけた俳句の敷衍」
欧州を中心に各国を遊説
1936年、虚子は欧州へと旅立ちます。上海、シンガポール、カイロなどを経てフランス、ベルギー、ドイツ、イギリスなどをまわり、俳句に関する講演を行いました。「渡仏日記」に旅の様子をまとめています。
1937年 – 63歳「碧梧桐の死」
たとふれば独楽のはぢける如くなり
1937年、虚子の無二の親友にしてライバルだった河東碧梧桐が病没します。1933年には俳壇から引退をしていましたが、虚子に与えた衝撃は大きく、その死を悼んで見出しの俳句を詠んでいます。
独楽のように、和気藹々とし、時に激しく衝突もした虚子と碧梧桐
1940年 – 66歳「日本俳句作家協会を設立」
会長に就任
1940年、日本俳句作家協会を設立し会長に就任しています。のち日本文学報国会俳句部会へと組織改編があり、引き続き部会長をつとめました。
1944年 – 70歳「疎開」
信州・小諸へ
1944年、大平洋戦争の敗戦色が濃くなる中、虚子は五女の高木春子一家とともに信州(長野県)の小諸へと疎開しています。小諸での生活は、1947年までの3年間に及んでおり、この間に「小諸雑記」「小諸百句」などを著しました。
今では、虚子の旧宅「虚子庵」と、その隣接地に設けられた高浜虚子記念館いずれも一般公開をされています。
1954年 – 80歳「叙勲」
俳人として初の勲章を受章
1954年、虚子は俳人として初めて文化勲章を授与されました。受章に際して、次の句を詠んでいます。
我のみの菊日和とはゆめ思はじ
子規、碧梧桐、漱石、その他多くの俳人や関係者の一人一人を思い返していたことが伺える句です。
1959年 – 85歳「虚子、逝く」
85年の俳句人生に終止符
1959年4月8日、虚子は自宅にて死去しました。墓地は神奈川県鎌倉市の寿福寺にあり、戒名は「虚子庵高吟椿寿居士」とあります。その辞世の句は
春の山屍(かばね)を埋めて空しかり
下五「空しかり」は「むなしかり」「くうしかり」とふた通りの読み方ができますが、後者の方が虚子の生き様に添っているように思われます。
http://knt73.blog.enjoy.jp/blog/2015/01/post-4121.html 【俳句談義(1)虚子辞世句「春の山」の新解釈】より
・春の山屍かばねを埋めて空しかり
(高浜虚子)
掲句の「空しかり」は一般に「むなしかり」と読まれますが、虚子は「空然り(くうしかり)」ということを念頭においてこの句を詠んだのではないでしょうか?
・大寒の埃の如く人死ぬる
「大寒の」の句のように、「戦争による死」には「むなしかり」というのが相応しいでしょうが、「平和裏の大往生」には「くうしかり」を当て嵌めたいと思います。
偶々数日前に、「生きて死ぬ智慧」など「般若心経」に関する本を読んでいたので、ふと次のように思い付きました。
虚子は日頃から「般若心経」の「色即是空」を潜在意識にして「花鳥諷詠」を句にしていたに違いない。掲句の「空しかり」は「むなしかり」ではなく、「くうしかり(空然り)」と読むべきではないか?「屍」とは虚子の「屍」のことではないか?
虚子の句に「春惜しむ輪廻の月日窓にあり」があります。
「『凡てのものの亡びて行く姿を見よう』私はそんな事を考へてぢっと我慢して其子供の死を待受けてゐたのである」と虚子は四女の死に際して記述していますが、「色即是空」を念頭においていたのではないでしょうか?
坊城俊樹氏は「独り句の推敲をして遅き日を」を虚子の辞世の句としてもよいとしています(「高浜虚子の100句を読む」参照)。
この淡々とした句は句仏17回忌(3月31日)に詠んだものですが、虚子の句には、「短夜や夢も現も同じこと」や「明易や花鳥諷詠南無阿弥陀」などがあります。
辞世の句がどれかはともかく、虚子の命日が釈迦の生誕日とされる「4月8日」に当たることも不思議な縁を感じます。
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