https://hotyuweb.blog.fc2.com/blog-entry-884.html 【雑司が谷鬼子母神堂】より
〇雑司が谷鬼子母神堂 豊島区雑司が谷3-15-20 HP
入谷の鬼子母神とともに多くの参詣客を集めていたのが雑司ヶ谷の鬼子母神堂です。
永禄4年(1561)に山村丹右衛門が現在の目白台のあたりで鬼子母神像を井戸から掘り出し、東陽坊(のち法名寺に合併)に祀ったのがはじまりとされています。法明寺の飛地境内に建っています。
鬼子母神堂の「鬼」の漢字にはツノ(「ノ」のこと)が付いていない文字となっています。
<国指定重要文化財>
国指定重要文化財の説明板があります。また、重要文化財指定書が石碑となって建てられています。
(説明板)
「国指定重要文化財 雑司ケ谷鬼子母神堂
雑司が谷の鬼子母神は、永禄4年(1561)に清土(現在の文京区目白台)で掘り出された鬼子母神像を、天正6年(1578)に現在の場所に堂を建てて安置したことにはじまる。寛永2年(1625)には社殿の造営が始まり、正保3年(1646)には宮殿が寄進された。江戸時代前期から将軍の御成りがあるなど、武家から庶民まで、子育て・安産の神として広く信仰され、現在でも多くの参詣者が訪れている。
現在の鬼子母神堂は、手前から「拝殿」・「相の間」・「本殿」の3つの建物で構成される「権現造り」。本殿の開堂供養は寛文6年(1666)に行われたことが記録にあるが、屋根裏の束に書かれた墨書から、寛文4年に上棟されたことが判明している。拝殿と相の間は元禄13年(1700)に建てられた。広島藩2代目藩主浅野光晟の正室満姫の寄進により建てられ、その建築には広島から呼び寄せた大工が従事している。そのため、本殿の三方の妻を飾る梁や組物の彫刻には広島地方の寺社に用いられている建築様式が見られる。拝殿は、江戸時代中期の華やかな建物ではあるものの、装飾を簡素なものに変えるなど、幕府による建築制限令への対応をうかがわせる特徴がみられる。
これらのことから、江戸時代の大名家による寺社造営の実像を示す事例であり、本殿と拝殿とで異なる特徴を持つ建造物であることから、歴史的・意匠的に価値が高いという点が評価され、平成28年7月25日に重要文化財に指定された。
平成28年 豊島区教育委員会」
https://www.gotokyo.org/jp/spot/469/index.html 【雑司ヶ谷鬼子母神堂】より
東京都豊島区雑司が谷3-15-20
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更新日:2022年3月22日
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安産と育児の神様
雑司ヶ谷鬼子母神堂は、安産と育児の神様、鬼子母神を祀る神社。参拝する人々は家内安全、厄払い、学業成就などを祈願するために、この重要文化財を訪れます。
一年にわたって、大小のお祭りが開催されています。 最も大きなものが、10月の御会式大祭。江戸時代から受け継がれているもので、例年、3日間にわたって開かれます。普段は静かな通りが、桜を模した万灯を担ぎ、太鼓を打ちながら練り歩く人々と、屋台でいっぱいになり、活気に満ち溢れます。
※鬼子母神堂の中は撮影禁止です。
※雑司ヶ谷鬼子母神堂の「鬼」の字は一角目の「ノ」がない(角がない)字を使います。
https://www.city.toshima.lg.jp/ike-circle/culture/spot/kishimojin.html 【江戸大名の寺院造営と建築様式を残す鬼子母神堂】より
雑司ヶ谷鬼子母神堂は、人々の祈りの場所であり、地域の心のより所として継承されています。
室町時代に掘り出された鬼子母神像をまつる鬼子母神堂は、江戸時代には、子育て・安産の神として広く信仰され、武家から庶民まで多くの参詣者が訪れました。今でも、参詣者はあとを絶ちません。
鬼子母神堂は、手前から「拝殿(はいでん)」・「相の間(あいのま)」・「本殿(ほんでん)」の3つの建物で構成される「権現造り(ごんげんづくり)」です。本殿は、寛文6年に開堂供養がおこなれ、開堂から350年目の平成28年に、国重要文化財に指定されました。
本殿・装飾
本殿は広島藩主浅野浅野光晟(あさのみつあきら)の正室(せいしつ)満姫(まんひめ)の寄進により、広島地方の大工によって建てられました。そのため、広島地域の寺社と似た装飾が施されている部分がみられます。
本殿・内部
箔押しの天井など、大名家による建築にふさわしい見事な造りになっています。納められている宮殿(厨子)は、正保3年(1646)年の造立ですが部分的に元禄期にも手が入れられています。
拝殿
本殿は広島地方の寺社建築の特徴を備えているのに対し、拝殿は江戸中期の華やかな意匠で構成されています。
相の間も壮麗ですが、装飾を簡易なものに変えています。これは寛文8年の江戸幕府による建築制限令に適応させたことをうかがわせます。
妙見堂
日蓮宗では、法華経の守護神としての鬼子母神信仰とともに、北極星の精を、息災延命を守護する北辰妙見大菩薩としての信仰もあります。鬼子母神堂と密接な関連があることから、妙見堂も附指定(つけたりしてい)とされました。
鬼子母神堂説明板解説文
雑司が谷(ぞうしがや)の鬼子母神(きしもじん)は、永禄(えいろく)4年(1561)に清土(せいど)(現在の文京区目白台)で掘り出された鬼子母神像を、天正6年(1578)に現在の場所に堂を建てて安置したことにはじまる。寛永(かんえい)2年(1625)には社殿の造営が始まり、正保3年(1646)には宮殿(くうでん)が寄進された。江戸時代前期から将軍の御成りがあるなど、武家から庶民まで、子育て・安産の神として広く信仰され、現在でも多くの参詣者が訪れている。
現在の鬼子母神堂は、手前から「拝殿(はいでん)」・「相の間(あいのま)」・「本殿(ほんでん)」の3つの建物で構成される「権現造り(ごんげんづくり)」。本殿の開堂供養(かいどうくよう)は寛文(かんぶん)6年(1666)に行われたことが記録にあるが、屋根裏の束に書かれた墨書から、寛文4年に上棟されたことが判明している。拝殿と相の間は元禄13年(1700)に建てられた。広島藩(ひろしまはん)2代目藩主(はんしゅ)浅野光晟(あさのみつあきら)の正室(せいしつ)満姫(まんひめ)の寄進により建てられ、その建築には広島から呼び寄せた大工が従事している。そのため、本殿の三方の妻(つま)を飾る梁(はり)や組物の彫刻には広島地方の寺社に用いられている建築様式が見られる。拝殿は、江戸時代中期の華やかな建物ではあるものの、装飾を簡素なものに変えるなど、幕府による建築制限令への対応をうかがわせる特徴がみられる。
これらのことから、江戸時代の大名家による寺社造営の実像を示す事例であり、本殿と拝殿とで異なる特徴を持つ建造物であることから、歴史的・意匠(いしょう)的に価値が高いという点が評価され、平成28年7月25日に重要文化財に指定された。
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