夏目漱石

https://www.president.co.jp/nanaoh/article/column/1589/2133/ 【『虞美人草』夏目漱石】より

 小野は、わがままで美しい藤尾と奥ゆか しい小夜子との間で……。職業作家・漱 石の第1作。

 格調高い漢文調の文体が時々挿入され、緊張感を与えていて、小説の会話部分とのめりはりが利いています。とにかく文体の威圧感が半端なく、主人公・小野清三が惹(ひ)かれている藤尾という女性についての記述も……「紅を弥生に包む昼酣(たけなわ)なるに、春を抽(ぬき)んずる紫の濃き一点を、天地の眠れるなかに、鮮やかに滴たらしたるが如(ごと)き女である」と、よくわからないながらも、美女ということは伝わってきます。

 藤尾は紫の着物が似合います。ある時、小野と藤尾は、シェイクスピアの書いたクレオパトラの物語について話をしています(明治時代の男女の会話のレベル高すぎです)。クレオパトラに紫色を連想するという小野さんに、「じゃ、こんな色ですか」と紫の着物の袖を彼の鼻先でひるがえす藤尾。「恋々と遠のく後を追うて、小野さんの心は杳窕(ようちょう ※)の境に誘われて、二千年のかなたに引き寄せらるる」。杳窕の境……藤尾の袖テクニックで小野さんは骨抜きになってしまったようです。小説の中のクレオパトラは三十歳だったという話で、「それじゃ私に似て大分御お婆(ばあ)さんね」と笑う藤尾が二十四歳というのに軽くショックを受けましたが、明治時代にしては晩婚だったのでしょう。

 藤尾には宗近 一という、家同士の関係でフィアンセっぽい男性がいましたが、宗近のことはつまらない男だと思い、文学的な(そして多分イケメンの)小野清三の方に気があります。でも、小野にもかつて世話になった恩師の娘の小夜子というなんとなく許嫁(いいなずけ)のような存在がいました。小夜子は従順な女性ですが、小野は魔性系の藤尾に惹かれていました。藤尾には甲野欽吾というストイックな異母兄がいて、甲野と宗近は親友同士。さらに宗近の妹、糸子は欽吾に恋心を抱いていて、狭い中で相関図の線が交錯しています。ちなみに糸子についての説明は「丸顔に愁少し、颯(さっ)と映る襟地の中から薄鶯(うすうぐいす)の蘭(らん)の花が、幽(かすか)なる香を肌に吐いて、着けたる人の胸の上にこぼれかかる。糸子はこんな女である」……多分彼女も美女なのだと拝察。藤尾と糸子は表面上は仲良さそうに見えて、派手で遊び好きの藤尾は大人しい糸子を内心バカにしています。二人の女子の牽制(けんせい)しあう会話もスリリング。

 藤尾よりもさらに上手で、周りの人をコントロールしようとする藤尾の母は、小説の中で「謎の女」と称されています。「謎の女は近づく人を鍋の中へ入れて、方寸の杉箸に交ぜ繰り返す。芋を以もって自から居(お)るものでなければ、謎の女に近づいてはならぬ」。魔女っぽい記述ですが、虚栄心が強く計算高い、そんな女の業を集約したような存在が「謎の女」なのでしょう。

 明治時代は男尊女卑で、この小説の中にも「(娘を)差し上げる」とか「御前(妹)を甲野に遣(や)ろう」「糸公を貰もらってやってくれ」と、まるで女性を物のように上げるとか遣るとか貰ってくれとか、一体何なのだろうと平成人として引っかかるところがあります。そんな男性に支配された社会で、自分の思うままに巧妙に周りを動かそうとする、藤尾や藤尾の母のような女性に対し、作者は危機感を抱いていたのかもしれません。女性が強い現代につながる萌芽(ほうが)がここにあります。

 作者は女性の魔力を封じ込めようとするかのように、後半、藤尾と藤尾の母に過酷な試練を与えます。いっぽう優柔不断な小野さんは、小夜子と上野で開催された東京勧業博覧会を見に行ったところを、藤尾や糸子、宗近と甲野ご一行に目撃されたり、その後小夜子との縁談を断った上に藤尾とのデートもすっぽかしたり、彼の方がよほどひどい人間な気もしますが、学問の道を究めているだけで許されてしまうのでしょうか。荘厳で難解な漢文に、男の業が覆い隠されているのを、女として見逃せない小説です。

※「杳窕」=はるかに遠いさま。


https://serai.jp/hobby/91521 【夏目漱石、寺田寅彦から俳句の本質について質問される。】より

今から118 年前の今日、すなわち明治31年(1898)10月2日、漱石は熊本・内坪井町の自邸に同好の士を集め、運座を開いた。漱石は当時31歳。英語教師として松山から熊本五高に転任して、3年目を迎えていた。

この日、漱石邸に集ったのは11人。寺田寅彦をはじめ、厨川肇、蒲生栄、平川草江といった面々。熊本五高における漱石の教え子たちであった。

寅彦が初めて漱石の私邸を訪ねたのは、これより1年前の7月。同郷(高知出身)の同級生を含む数人が学年末試験に失敗して落第しそうになっており、寅彦は「点をもらうための運動委員」に選出されて漱石にお願いにいったのである。同郷のその学生は家が貧しく人から学資を援助してもらっていたため、万が一落第するとそのまま学資の支給を断たれてしまう恐れがあったのだ。

漱石が熊本五高の教え子を集めて俳句の運座を開いた内坪井の家。写真/神奈川近代文学館所蔵

それにしても、学生同士互いに連帯して先生の家へ請願に行き、先生の側もその学生と面談して相談にのっているあたりが、当時の旧制高校生の気質と師弟の密接な関係を映し出していて、微笑ましい。

役目としての嘆願を終えたあと、寅彦は漱石に質問した。

「先生、俳句とは一体どんなものですか?」

漱石は答えた。

「俳句はレトリックの煎じ詰めたものである。扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである」

また、こんなことも言った。

「花が散って雪のようだといったような常套な描写を月並みという。秋風や白木の弓に張らんといったような句は佳い句である。こればっかりは、いくらやっても出来ない性質の人があるし、はじめからうまい人もいる」

漱石とのこの対話をきっかけに、寅彦は俳句をはじめた。10句、20句と書きとどめては漱石のもとに持参した。

漱石はいつも、黒い羽織を着て、端然と正座してこれを迎えた。鏡子夫人が決まって生菓子で歓待してくれた。中でも、美しくみずみずしい紅白の葛餅は、いつまでも寅彦の眼の底に焼きつくこととなった。後年、寅彦はこんな短歌もつくっている。

《俳句とはかかるものぞと説かれしより天地開けて我が眼に新》

そのうち漱石は、寅彦以外の他の五高の生徒たちにも俳句の指導をはじめ、運座を開くようになっていったのである。これはと思う句は漱石が拾い上げ、親友の正岡子規が関係する雑誌『ホトトギス』や新聞『日本』へ送り発表の機会を得られるよう働きかけた。

漱石先生、この頃、紫溟吟社という結社もつくり、俳人として活躍しはじめていたのである。

■今日の漱石「心の言葉」

普通の人の気のつかぬ所を、俳句の趣味を養ったお陰で見出すことがある(談話『文話』より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

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