「この命を生き切る」

https://ameblo.jp/toru-nishida/entry-12736326816.html?fbclid=IwAR3CrXUWRrd6gqEgx8GXsMjic5oNX8EuLizvzLKb1HQE6MtaKUPa_aF8eaM 【「この命を生き切る」とハラをくくると運命の扉が開く。】より

愛する魂の冒険者たちへさて今日の記事には二本とも沖ヨガのお師匠さんの佐藤松義先生が登場してくださってるんですがたまたま先程、先生からお電話をいただきました。

偶然は何一つなく、これもシンクロニシティなのでしょう。

ご無沙汰している非礼をお詫びしたり近況について会話していましたら嬉しいことに先生の本の御出版が決まり、急ピッチでお話が進んでおられるとのこと。ホント嬉しい😊😂😆

先生は出版のお話があっても今までは辞退されることも多かったそうで、、、

僕も関わって先生メインの「足の裏たたき」のムック本は出たりしたのですが単行本としては最初の一冊になるのだと思います。きっと時代が呼んでいるのですね。

先生の本めちゃ楽しみです。素晴らしい一冊になると思います。今日からちょうど僕も執筆合宿で電車移動しておりましてこの朗報にパワーをいただきました。

さて佐藤先生とはヨガ修行でいろんな場所へご一緒したのですが、、、実は、、、マッターホルンに登ったことがあるんです。「会津のマッターホルン」に(#^^#)。

「会津のマッターホルン」と呼ばれる蒲生岳(がもうだけ)はとても美しい山。

佐藤先生とともに「山行」(やまぎょう)をしたんです。

今日はその時に気づいたことをシェアさせていただきますね。

蒲生岳ってピラミッドのような、すてきな形をしていて、僕が登っている間にも、仙台、埼玉、名古屋からわざわざ来たという登山者に会いました。

僕は今生では登山といえば高尾山、とか、大菩薩峠越えマラソンとか、そのくらいですが、、、どこかの過去生でヒマラヤにいたことがあるようです(;'∀')

今から山に入らせていただきます。よろしくお願いします。と、山の神様や、木々、動物たちに拝んでから入ります。

「ジョギング感覚で登れます。駆け上って、駆け下りたこともありますよ」と、佐藤先生。

へーそうなのですね⁉️

ところが登ってみたら、それは鍛え抜かれたヨガ超人だからできるのだとわかりました(・_・;)途中までは、色づき始めた紅葉や、落ちている栗、ぶなの姿も楽しく、見下ろすと、里が小さく見えて川が輝いています。

ただし途中から、、、どこからどう見ても崖!ロープや鎖がはってあって、それをつかんで登ったり、伝い歩きをしないと、まっさかさまに落ちるだろうという急斜面・・・

それを何か所も越えないと、登れなくなるのです。

足ががくがくぷるぷる!!!

最初は、土があるのですが途中からは岩盤が多くなります。

岩盤が隆起してできた独立峰なのだそうです。「鼻毛通し」というすごい名前の岩の穴。

ここは「風穴」。地元の人が30m下まで潜ったそうです。「それから下はどうなっているかわからない」と書いてありまいた。その下どうなってるんでしょうか。

崖を登っていると足がすべって手は鎖をつかむのに必死。「転んで血まみれになった人もいます。どう注意しても、転ぶ人は転ぶんですよ。カルマなんですかね~」(佐藤先生)

カルマですか、、、転びたくね~!!!!そういうところでは写真を撮っているとアブナイです。ちょっと気を抜いたら冗談抜きで、落っこちて死んでしまいます。

全身全霊で、自分の命を守らないと!というと大げさですが、そういう気持ち、そういう状態になってきて、命のほうでも、自分にそうさせてくれるような感じです。

この命で生き切るんだ!実はいつでもそういう燃えるような命の力が自分のなかにあって

常に自分を生かしてくれている。それが強烈に、体験として身体と心に刻まれます。

さすがヨガの山行です。最初は、世間話したり、山の話をしたりする余裕がありましたが

しだいに無言になって、呼吸の音と、岩や土をふみしめる音だけになります。

自然と、全身で呼吸し、山の生命力が全身にしみわたってくるし、汗がにじみ出てきて

足と腰と肚(はら)に重心がいきます。よけいなことを考える余裕がなくなります。

というか、よけいなことではないんだけど、「ここで考える必要がないことを、たくさん考えている自分」に気が付きます。

仕事のことがけっこう浮かんでくる!!!それはそれでいいけど、山で、仕事に気を取られていると、本気であぶないよ!命が先です。踏みしめろ!枝つかめ!勝手に、目の前に集中する「全集中」「中今」の状態になります。

行者さんたちが山に入る理由が肌身でわかりました。

幸せの秘訣は「今ここ」に集中することと言われていますがそれは、自分の命、「与えられた時間を全活用する」ことなのかもしれません。

本来は日常でも、都会でも同じことですね。

みんなそれぞれ人生の山を登っている。これはある登山家の方のお言葉ですが本当だと思います。

そのころ自分は背中に、現代医学では原因不明というデスモイド腫瘍があったので、一つには、その治療のために、只見でヨガ生活しました。

マッサージを受けたり、食事を変えたり、生活習慣を変えたり滝に打たれたりして

なにより、その前提となるような自分は必ず生き抜くという覚悟と言うか、肚から湧き出るような気力がわきました。そもそも登山中は、コブを意識しているひまがありません。

そういう状態では「病識」(自分は病気があるという意識)が自然と消える。

そして、「病識」が消えるときは、病気が治るときなのだそうです。

(コブ取りじいさんの話と一緒ですね)

そもそも、こうして素晴らしい山を登ることができるのですからから、それだけで感謝です。山頂についてホッとひといき。

登山歴50年、沖ヨガの坂本知忠先生、佐藤松義先生と。

少しのことにも、先達はあらまほしきことなりと言いますがお二人がいなければ、無事に登山も下山もできなかったと思います。感謝しきりでした。

秘密の瞑想スポットを教えてもらいました。

切り立った崖に座ると、800メートル下が美しく見えます。自分が鳥になったような景色です。まるでお空の上から見ているような景色です。

地上はとても美しい、生きるに値する場所なんだと、言葉にならない感覚がありました。

それでですね、、、この話にはオチがあり けっきょく別の日に、先生の道場の裏山で、

僕はずどどどど、と転げ落ちたんです♪カルマなんですかね⁉️

そのときの「失敗体験」も参考になるかもしれないので、またあらためて書かせていただきますがこの一連の体験を通じて健康状態と運気が上向いて行った気がします。

あなたの人生の楽しい山登りをいつも応援しています。

今日も命にありがとうございます。西田普にしだあまね


Facebook竹元 久了さん投稿記事  🔵日本人の文化としての呼吸法「丹田呼吸」

呼吸をするということについては一様であり、呼吸は人間の生命活動を維持していくために必要な機能である。しかし、呼吸は単に生物の生命維持だけではなく、それ以上の意味を付与される。一概に呼吸といってもその方法や意味づけなどは社会や文化によって異なる。それは呼吸が身体文化の一つだからである。つまり呼吸の仕方や意味づけは時代や地方、文化によって大きく異なる。呼吸の仕方ひとつとっても、胸式、腹式とあり、息の吸い方も鼻から吸う、口から吸うなどいろいろな方法がある。民族や階級の違いによって、生活習慣や文化、意識が異なるように、呼吸の仕方もおのおの異なるのである。

中略

身体技法は、ある民族・文化・集団で模範的であるとみなされ、それが伝承されているのである。

 また座るという行為について考えてみると、日本では近代に入り西欧化が進み、イスとテーブルの生活が主となった。それに伴い、座るということが、以前は畳を中心に生活していたために、正座を意味していた時代から、イスに腰掛けるという行為を意味するようになった。またトイレについて考えてみても、洋式トイレは座るというスタイル、和式トイレはしゃがむというスタイルである。近年、正座やしゃがむことができなくなった子供が多くなったというのも生活環境が変わったことが大きな原因と言える。山折(1981)は、『坐の文化論』のなかで様々な坐・座り方について考察を行っている。これも、坐るという行為が文化に規定されているこ

とのあらわれである。

中略

これら身体技法は、社会や文化で継承しているものを習得しているといって良いだろう。呼吸についてみると、一般的に東洋人の呼吸のほうが深く長い、西洋人のほうが浅く短いと言われる。東洋と西洋では、呼吸の重点の置き方が異なる

中略

4.1 生活の中の呼吸

 生活のなかでの呼吸とは、歴史や社会の生活スタイルに大きく影響を受けている呼吸法である。 特に日本では呼吸が生活と密着していた。生活の中に重要な要素として溶け込んでいたと考えてもいいだろう。呼吸は息ともいうが、まずは、この息を用いた日本語がどのようなものがあるかみてみよう。「息が合う」「息が掛かる」「息が通う」「息が切れる」「息が続く」「息が詰まる」「息が長い」「息が弾む」「息を入れる」「息を殺す」「息を呑む」「息を潜める」など、息を用いた言葉は、実にたくさん存在する。言語は社会や文化、社会関係、環境など外部に対する人間の認識や状況を表現する。そのため、その社会が重要としているものの度合いが高ければ高いほど、ある言葉は細分化され、微細な相違も表現できるようになる。息に関する言葉が多いというのも、日本語では息を重要なものと位置づけていたことを裏付けられる。また、息は、すなわち「生き」るに繋がるという思考があり、生と非常に結びついている。

 齊藤(2000)は、日本の身体文化の中心には、「腰肚文化」と「息の文化」が重要な要素として存在すると分析した。日本は古くより農耕を営み、多くの日本人は稲作にもとづく農業を中心に生活してきた。農業は大地にしっかり立ち、鍬や鋤で大地を耕す。その際に、足腰の踏ん張りや安定性が必要となり、必然、お腹を意識した腹式呼吸となる。生活のなかでは、かまどに火を入れたり、水を汲んだり、薪を割ったりという行為が日常的に行われていたが、これらはすべて腰や腹に力をこめている必要があり、腹の奥深くまで息を吸い込んでいないと、上手に実行することはできなかった。身体の中心軸となるものが腰や腹であり、腰と腹の構えがしっかりしていると、力強さが生まれ、落ち着いた動きが可能となる。この腰や腹が据わった状態は、深く腹で息をすることによってはじめて可能となる。日本の伝統的な身体観である「腰肚」は、深く腹で呼吸をする丹田呼吸によって支えられていた。

大森 正義 城西大学 現代政策学部

より抜粋

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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