スミレと薺(なづな)

https://amanokakeru.hatenablog.jp/entry/20181005 【スミレと薺(なづな)(6/10)】より

俗語や口語、漢語(和製音韻)の使用も俳諧の大きな特徴であり、芭蕉も盛んに用いた。時代の違いはあるが、展宏の句にも大変多い。なお、漢語とは別の外来語については、芭蕉には、鎖国の時代でもあり、少ない。一方、展宏の場合は現代俳句らしく、西洋語(和製音韻)の使用が急増している。例は多いが、ここではそれぞれ二句ずつにとどめる。

A 俗語や口語使用の例

        あら何(なん)ともなやきのふは過(す)ぎてふくと汁(じる)

                                芭蕉

        飯(めし)あふぐかかが馳走(ちそう)や夕涼(ゆふすずみ)

        聴いてごらん朝ひぐらしが鳴いているよ      展宏

        いろいろとあらーな夏の終りの蝉の声

B 漢語使用の例

        寝(ね)たる萩(はぎ)や容顔無礼(ようがんぶれい)花(はな)の顔(かほ)

                                芭蕉

        秋海棠(しうかいだう)西瓜(すいくわ)の色(いろ)に咲(さ)きにけり

        「不許葷酒入山門」秋薊             展宏

        炎天を百骸九竅(ひやくがいきうけう)運ぶなり

「百骸九竅」は人体のことで、芭蕉の『笈の小文』に「百骸九竅の中に物有。かりに名付て風羅坊といふ」がある。

C 西洋語使用の例

        かぴたんもつくばはせけり君(きみ)が春(はる)   芭蕉

        阿蘭陀(おらんだ)も花(はな)に来(き)にけり馬(うま)に鞍(くら)

        エンゼル・フィッシュ床屋で眠る常識家      展宏

        ゴルファーらヘアピンのごと枯芝に

擬人法も展宏俳句の特徴の一つだが、俳諧でも盛んに用いられた。三句ずつ例をあげる。

        さみだれをあつめて早(はや)し最上川(もがみがは) 芭蕉

        六月(ろくぐわつ)や峰(みね)に雲(くも)置(お)くあらし山(やま)

        秋(あき)の夜(よ)を打崩(うちくづ)したる咄(はなし)かな

        膝揃へたる前山の薄紅葉             展宏

        いつのまに海はやつれて青蜜柑

        鍋釜やころがりまはる春の雷

また見立て・比喩もよく使用している。ここでも三句ずつ例をあげる。

        梅柳(うめやなぎ)さぞ若衆(わかしゆ)哉(かな)女(をんな)哉(かな)

                                芭蕉

        霰(あられ)まじる帷子(かたびら)雪(ゆき)はこもんかな 

        前髪(まへがみ)もまだ若艸(わかくさ)の匂(にほ)ひかな

        両頬に墨つけふくら雀かな            展宏

        襟巻や毛皮ぞろぞろ念仏寺 

        露地露地を出る足三月十日朝 

展宏作品では、見立てが巧みであり分り易い。ちなみに、「襟巻や」の句の「毛皮」は人の換喩、「露地」の句の「足」は人の提喩である。

展宏は固有名詞の言葉の響きとそのものの形態とをうまく組み合せて本質を詠んでいるが、いかにも俳諧らしい。芭蕉にはあまり例を見ないので、展宏独自の工夫である。

        鶏頭に鶏頭ごつと触れゐたる

        煩悩とも忘恩とも除夜の鐘 

        破れ傘ですよですよと葉をもたげ

        山茶花のさざんくわと咲きこぼれたる

        てつせんと名を響かせて咲きにけり

        うれしさのくわゐくわゐと出てくるわ

「除夜の鐘」の句では、「煩悩」「忘恩」の響きが、鐘の音に通じている。他の句は、説明が難しいが、いかにも雰囲気が現れていて納得がいく。

なお、掛詞(懸詞)や縁語は、和歌でよく使用され、俳諧でも主要な修辞法のひとつなのだが、展宏の句には多くない。また芭蕉の発句には主客応答の連句を想定してか呼びかけ表現が多いが、展宏の俳句には少ない。

https://amanokakeru.hatenablog.jp/entry/20181006 【スミレと薺(なづな)(7/10)】より

二 古典を踏まえる

次に俳諧の大きな特徴として、古典文学を踏まえる(本歌取りをする)ことがある。

貞門派の俳諧では、連歌で必要とされた源氏物語、伊勢物語などの知識は必須であった。その後に庶民の間に広まった談林派の俳諧では、古典文学に代って能楽の詞章である謡が、「謡は俳諧の源氏」といわれるほどに中心の教養になった。貞門派や談林派の時代の芭蕉は、物語文学、随筆(枕草子、徒然草など)和歌集、漢詩集、能などを踏まえた数多くの発句を作った。川崎展宏も同様な方法をとった。彼の場合には、日本の神話を踏まえたり枕詞を組み入れたりすることも多い。両者からそれぞれ五例をあげよう。

        けふの今宵(こよひ)寝(ね)る時(とき)もなき月見(つきみ)哉(かな)

                              芭蕉

『伊勢物語』二十九段の歌「花に飽かぬ歎きはいつもせしかども今日のこよひに似る時はなし」に拠る。「似る」と「寝る」の言い掛け。

        蓑虫(みのむし)の音(ね)を聞(きき)に来(こ)よ艸(くさ)の庵(いほ)

                              芭蕉

『枕草子』の「蓑虫、いとあはれなり。鬼の生みたりければ、親に似てこれも恐しき心あらんとて、…八月ばかりになれば、「ちちよ、ちちよ」と、はかなげに鳴く、いみじうあはれなり」に拠る。ちなみに、高浜虚子「蓑虫の父よと鳴きて母もなし」の句も同様である。

        秋風(あきかぜ)や藪(やぶ)も畠(はたけ)も不破(ふは)の関(せき) 

                              芭蕉

『新古今集』藤原良経(関路ノ秋風)の歌「人住まぬ不破の関屋の板廂荒れにしのちはただ秋の風」を踏む。

        わた弓(ゆみ)や琵琶(びは)になぐさむ竹(たけ)のおく

                               芭蕉

王維「竹里館」(独り坐す、幽篁の裏、琴を弾じ復た長嘯す。深森、人知らず。明月来たりて、相照らす。)に拠る。

        月(つき)ぞしるべこなたへ入(いら)せ旅(たび)の宿(やど)

                               芭蕉

これは、「鞍馬天狗」の謡の文句「奥は鞍馬の山道の花ぞしるべなる、こなたへ入らせ給べ」を踏んだもの。

以下には国文学を専攻した川崎展宏の俳句をあげるが、神話や古典文学、歌枕などを踏まえた作品が多い。

        わすれては夢かとぞ思ふ真桑瓜   

この句の本歌は、伊勢物語・第八十三段(小野の雪)に出て来る歌「わすれては夢かとぞ思ふおもひきや雪ふみわけて君を見むとは」である。

        遠近(をちこち)や妻争ひの山笑ふ       

大和三山(香具山、耳成山、畝傍山)について、香具山と耳成山が、畝傍山を妻にしようと争ったという伝説を踏まえている。この伝説は、万葉集にも詠まれている。句は、あちこちに見える大和三山の明るい春の情景を詠んでいる。

        防人の多摩の横山冬霞       

万葉の時代、北九州防衛のために、防人として召集された東国の男たちは、武蔵国府に集結し、多摩の横山を越えて行った。万葉集に「赤駒を山野に放(はか)し捕りかにて多磨の横山徒(かし)ゆか遣らむ」という歌がある。展宏には、多摩の横山を詠んだ句が他にいくつもあるが、特別の思い入れがあったのだろう。

        せりなづな御形といひて声の止む  

歌道師範の冷泉家に「せり なずな ごぎょう はこべら ほとけのざ すずな すずしろ 春の七草 」という和歌が伝わっているが、作者は不詳。なお万葉集には、秋の七草を詠んだ山上憶良の有名な和歌があるが、春の七草は未だ決まっていなかったため、詠み込んだ歌はない。それらが決まったのは、南北朝時代に四辻善成が『河海抄』で七種の草を選んだのが最初という。句は、近所の子どもが七草を唱えていて、途中でやめた情景。

        上路越(あげろごえ)青い団栗何になる      

「山姥の里」と言われる青海町上路集落は、「越後と越中の境にある」と世阿弥の謡曲「山姥」にうたわれる通り、新潟県と富山県との県境にある。句の座五は、謡の台詞「これがおそろしき山姥になると申す」を導く。謡曲「山姥」は、展宏がとりわけ好んだ曲目で何度も読んだという。「姥ひとり色なき風の中に栖む」という句も作っている。

展宏俳句には、枕詞を組み入れたものが多い。これは、芭蕉にはほとんど見られない。枕詞として、以下のように「あら玉の」「鶏が鳴く」「ともしびの」「玉くしげ」「むらぎもの」「たたみこも」などを使用している。万葉の風味を出す効果がある。

        あら玉の年立つて足袋大きかり

        鶏が鳴く吾妻に欅もみぢあり

        ともしびの明石の宿で更衣

        玉くしげ箱根のあげし夏の月

        むらぎもの心くだけし牡丹かな

        畳薦(たたみこも)平群(へぐり)の丈夫(ますらお)より賀状


https://amanokakeru.hatenablog.jp/entry/20181007 【スミレと薺(なづな)(8/10)】より

三 挨拶句

近代以降の挨拶句については、高浜虚子の「慶弔贈答句」が有名であるが、展宏も負けず劣らず数多く詠んでいる。一般に挨拶句という場合、挨拶の対象は、人物のみならず土地にたいしても詠まれる。また人物が対象である場合もお互いが相見知っているとは限らない。つまり作品などを通して一方的に尊敬している人に捧げる句もある。

 挨拶句の鑑賞が難しくなるのは、作者と相手との関係が読者によく分らない場合であり、表面的な解釈になりがちである。

           夜昼(よるひる)峠

        天の川息をしづかに峠越え

どこか不気味な名前の峠への挨拶となっている。その峠を夜分に歩いて越えたので、「息をしづかに」となったのであろう。詞書が句の理解を助けている。

           加藤楸邨先生

        夏座敷棺は怒濤を蓋ひたる

川崎展宏は加藤楸邨に師事した。その楸邨が亡くなったのは、平成五年七月三日であった。夏季の楸邨の代表句は「隠岐やいま木の芽をかこむ怒濤かな」。この怒濤によって楸邨を偉大な俳人として比喩し、それを柩が蓋っているとすることで、悲しみを表現した。なお、句集『怒濤』も納棺されていた。基底部(棺は怒濤を蓋ひたる)の矛盾誇張表現と干渉部(夏座敷)のイメージ付与&鮮明化とで典型的な俳句の詩形になっている。

        塗椀が都へのぼる雪を出て

展宏のエッセイによると、漆工芸の大益牧雄氏と日本画の高田泉氏との二人展開催に当たって、「貂」の仲間の大益牧雄氏に出した祝福の葉書の末尾に書かれた挨拶句であった。展示会に出品する塗椀を送りだす様を想像して、擬人法で表現したのである。

           悼 井上靖氏

        磨きあげし猟銃置かれ白い河床

展宏は、昭和五十九年三月十二日、二月堂の修二会に参籠した際に、井上靖を間近に見た。面識はなかったが、井上靖の小説や随筆に親しんでいて、「利休の死」や「猟銃」に感銘を受けていた。句は無季、「猟銃」の内容を踏まえているのだろう。

           長谷川櫂氏「古志」創刊

        俳諧史いま桔梗の志

俳諧史上、現代に桔梗の志を見る、ということだが、「古志」という名称に表明された長谷川櫂氏の現代俳句に向う志(「古典によく学び、時代の空気をたっぷり吸って、俳句の大道をゆく」)を、「気品」「誠実」を花言葉とする桔梗の志と讃えた祝辞になっている。

           東北の友人竹の子を掘ってよこす

        阿弖流為(あてるい)の裔の兵(つはもの)竹の子たち

黒褐色の毛が密生している何枚もの皮に包れた逞しい筍が数本、みちのくから送られてきた。阿弖流爲は平安時代初期の蝦夷の軍事指導者だが、その末裔の兵たちとして筍を見立てた。干渉部の「竹の子たち」が、基底部の上五中七を具体的にイメージする働きをしている。

https://amanokakeru.hatenablog.jp/entry/20181008 【スミレと薺(なづな)(9/10)】より

戦時体験から

川崎展宏にとって戦時体験は、重要な作句動機になった。彼の十代は第二次世界大戦と重なっていて、学徒勤労動員を経験し、B29が東京市街を空襲するのを間近に見た。

        南無八万三千三月火の十日

八万三千は「米国戦略爆撃調査団報告」による東京大空襲の日(三月十日)の死者数。調子のよい韻律が無常感をさそう。

        曼珠沙華零戦一万四百余

零戦の総生産数は一万四百三十一機という。

水兵の影が見てゐる石蕗の花

呉の「大和」記念碑のあたりに石蕗の花が咲いていた。

        三千ノ骸(ムクロ)屹立桜吹雪

「三千ノ骸」は、吉田満『戦艦大和ノ最後』の中の言葉。日本の兵達は、いずれ靖国神社の桜の花の下に集うことを誓っていた。

        次々に黄砂を拭ふ帰り水

帰り水は門司駅の水道水。引揚者が故国の水に喉をうるおしたという。

        敗戦の年の真赤な天井守

天井守はヤツブサ(八房)の別称。ナス科の一年草である。

        戦艦の骨箱にして蕨萌ゆ

方二メートルの箱に、戦艦大和以下海上特攻作戦の戦死者三千七百二十一柱を祭るという。奈良県天理市・大和(おおやまと)神社の境内にある。

           特殊潜航艇の残骸に触れて

        潜航艇青葉茂れる夕まぐれ

江田島の海自・術科学校に保存されている特殊潜航艇であろう。真珠湾攻撃から使用された特攻兵器である。言うまでもなく、中七座五は、落合直文作詩、奥山朝恭作曲の歌「青葉茂れる桜井の里のわたりの夕まぐれ・・」からきている。特攻隊の隊員やすぐ下の世代である展宏たちは、この歌をよく唄ったらしい。楠木正成・正行父子の訣別の場面が彼らの琴線に触れたのである。

        桜貝大和島根のあるかぎり

大和島根には、➀日本国 ➁大和島 という二つの意味がある。それぞれの場合で、句の解釈が違ってくる。万葉集にもそれぞれの例が載っている。

➀の場合: 戦争には負けたが、日本国が存在する限り、海辺では可憐で美しい桜貝を見つけることができよう、と詠う。祖国愛の詩である。万葉集には、「いざ子ども狂業(たはわざ)なせそ天地(あめつち)の堅めし国そ大和島根は」がある。

➁の場合: 戦争に負けて日本という国が消滅しても大和島即ち日本列島がある限り、その浜辺では美しい桜貝を見つけることができよう、という自然の美しさを賛美する。万葉集には、「名ぐはしき印南(いなみ)の海の沖つ波千重に隠りぬ大和島根は」がある。

なお「桜貝」を世界最短詩形である俳句の喩とする鑑賞もある。

           戦艦大和(忌日・四月七日)

        「大和」よりヨモツヒラサカスミレサク

展宏の自註によれば、鎌倉・七里ケ浜を散策していて出来た句。吉田満の『戦艦大和ノ最後』が脳裏にあり、スミレをよくみかけたのが契機になったという。以下は筆者の想像だが、電文句の形にしたのは、高浜虚子の次の句が潜在意識に働いたのではないか?

           九月十四日。在修善寺。東洋城より電報あり。曰、センセイノ

ネコガシニヨサムカナ トヨ 漱石の猫の訃を伝へたるものなり。

返電(明治四十一年)

        ワガハイノカイミヨウモナキススキカナ

また芭蕉の「山路(やまぢ)来(き)て何(なに)やらゆかしすみれ草(ぐさ)」が響いているように思われる。海底の斜面に沈んだ戦艦大和の兵士たちがさしかかった「ヨモツヒラサカ」と現世の旅で芭蕉が行く険しい「山路」が対応し、彼らの心を安らげたのが「スミレ」と「すみれ草」で共通していた。「「大和」より」の句は、以心伝心、拈華微笑の名吟といえる。

(芭蕉句との関わりについては、「貂」同人の須原和男も同様の感想を述べている。)

https://amanokakeru.hatenablog.jp/entry/20181009 【スミレと薺(なづな)(10/10 )】より

桜餅

おわりに

川崎展宏は古典的な俳諧(発句)の技法を現代俳句に展開した。それを立証するために、展宏作品を俳句の詩学の立場から分析すると共に、具体的な技法を芭蕉の句と対比させて見てきた。共通する面と異なる面があるが、なによりも時代と経験の違いが際立つ。

川崎展宏は自身の人生の終末期も「笑い」の俳句で表現した。失笑、苦笑、泣き笑いが多いようだが、全句集の中の『冬』以後 から例をあげよう。

        枯芭蕉厚いおむつをあてようか

        表裏洗はれ私の初湯です

        セーノヨイショ春のシーツの上にかな

        而(シカウ)シテ見るだけなのだ桜餅

        両の手を初日に翳しおしまひか

        薺打つ初めと終りの有難う

最後の二句は、「俳句」平成二十二年一月号向けに書かれた「白椿」八句にあるもので、死の十三日前に編集部へ送られた。「薺打つ」の辞世句は、芭蕉の句「よもに打(うつ)薺(なづな)もしどろもどろ哉(かな)」を踏んでいると解釈したい。芭蕉は、正月七日未明、七草粥のために七草を俎板の上で叩く音と囃し声がしはじめ、四方(よも)にその数を増して調子が入り乱れた、という目出たい情景を詠んだのだが、展宏はこれを転じて、生死の境にあってしどろもどろながら人々の新年の健康を祈念すると共に、自分の一生涯にこの世でお世話になった人々への感謝の挨拶とした。川崎展宏究極の俳諧精神の表れであった。

参考文献 (主要なもののみ)

  川崎展宏『春 川崎展宏全句集』(ふらんす堂、平成二十五年)

  川崎展宏『俳句初心』(角川書店、平成九年)

  川崎展宏『高浜虚子』(明治書院、昭和四十一年)

  川本皓嗣『日本詩歌の伝統』(岩波書店、平成三年)

  復本一郎『俳から見た俳諧』(御茶の水書房、平成十一年)

  堀信夫監修『袖珍版 芭蕉全句』(小学館、平成十六年)

  田中善信『芭蕉』(中公新書、平成二十三年)

  堀切 実『表現としての俳諧―芭蕉・蕪村』(岩波現代文庫、平成十四年)

  正岡子規『俳諧大要』(岩波文庫、昭和三十年)

  須原和男『川崎展宏の百句』(ふらんす堂、平成十五年)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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