感覚の孤独を癒してくれた歳時記

https://hanahiroinoniwa.hatenablog.com/entry/2020/11/25/193337 【感覚の孤独を癒してくれた歳時記】より

俳句を嗜むのであれば、先ず「季語」「季題」に親しむことから・・・と言うことで、当初は角川から出ている持ち運びに便利な文庫本を折に触れて眺めていたのですが、ついにそれでは物足りなくなってきてしまい、(いや、多分そうなるとは思っていたけれど^^;)

図書館で借りてきて試し読みをした上で、「これは、持っとくべき本!」と判断。思い切って講談社から出ている『新日本大歳時記』を5冊ともまるっと大人買いしてしまいました!(*^^)v もう、大大大満足です。 

俳句で扱う「季語」の区分は、春、夏、秋、冬、新年、に分かれており、それぞれの季節につき1冊の歳時記があるので計5冊と言うことになります。

こちらの大歳時記。現在市場に滅多に出回っていない上に、まともに買おうと思ったら1冊7,500円もする代物。(Amazonでは大型本は更に高値。文庫本↓は比較的お買い得です^^)

ところがありがたいことに、メルカリで5冊まとめて17,000円と言う破格で出品されている方がおり、「その金額で本当に宜しいのですか?!(驚)」と拝むような勢いで決済ボタンを押してしまいました。

実際に届いたそれらは、装丁が恐ろしく優雅で、ほとんど未使用なのではないかと思われるほどの奇跡の”美本”でした。いや~、ありがたや・・ありがたや・・。

もともとは、俳句を詠むために触れ始めた歳時記でしたが、わたしにとってそれ以上の恩恵は、歳時記を読めば読むほど”感覚の孤独”が癒されていったことでした。

子どもの頃から、一晩寝て起きただけで空の色が昨日とは違って見えたり、月が優しそうに見えたり、冷たそうに見えたり、同じ場所なのに昨日通った時とはまるで違う空気の匂いがすることが面白いやら、不思議やらで、仕方がありませんでした。

初夏、良く晴れた日曜日の朝。

庭にあった柿木の葉が風で揺れるたび、光の粒をまき散らしているようで、それを部屋の中から見ているだけで幸せでわーと声をあげて外に駆け出したくて・・・

その衝動がいよいよ抑えきれず、父に「今日はどこか遠くに出かけたい!」とお願いした時に、「きょうは疲れてるから家に居る。」と言われた時のがっかりした気持ちったら!

え?どうして?

この光の粒の輝きを見て、どこかに行きたいと思わないなんて・・・!

わたしのこの駆け出したいほどの幸せな想いを、一体誰が分かってくれるの?

「そうだね、今日は本当にそんな日だよね!」と誰が共に手を取ってくれるの?

振り返ってみたら、そう言った「感覚の孤独」に襲われる機会にわたしは子どもの頃から

無数に見舞われていて、それをずっと持て余していたように思います。

それが、歳時記を読み始めて一番驚いたのは、わたしが感じていた細々した感覚的事柄があらかた言語化されていたことでした。

しかも、かなり”精確”に。

例えば、あの木の葉の光を見て”駆け出した”くなる気持ち。

ーあれは季語では、「夏きざす」とか「夏めく」と言って、歳時記の説明を読むと、

初夏となり夏らしくなることで、心理的にも軽快さや解放感が生まれることとあります。

わたしが感じていた衝動は夏への衝動で、それはもうずっと昔から誰かが感じていたし、

句に詠み語り継がれていた・・

そのことが分かっただけで、「そっか、わたしだけじゃなかったんだ」とあの日父に分かってもらえずにがっかりした気持ちが癒える思いがしました。

月の観え方が優しかったり、怖かったりして違ったことも、例えば「月冴ゆ」と言う言葉があり、これは温度が低い、澄んだ月を指すそうです。

そうか、わたしは「月冴ゆ」の月を”冷たい月”と感じていたんだなと分かり、嬉しくなったのでした。

他にも挙げたら切りがないのですが、誰とも分かちあってこられなかったわたしの感覚は、

季語としてこんなにも脈々と、生き生きと、この国で語り継がれてきたものだったことを知り、益々俳句に触れてゆくのが楽しみになりました。

いつか、自分が撮った写真と俳句でわたしだけの「歳時記」が作れたらいいな。

そんなことを、いま、目論んでいます。^^

きょうも、最後までお読みくださりありがとうございました^^ さとうみゆき


http://randomkobe.cocolog-nifty.com/center/11/index.html 【坂崎重盛◆季語・歳時記巡礼全書    …………日本のホテルに和英版俳句歳時記が置かれるのを夢見る】より

 思えば俳句歳時記、季寄せは、日本の言語空間に生きつづけてきた。ということは日本人の風土、生き死にとともにあった、そら恐ろしいほど重厚的な感情や、イメージの発露を記録、編集した、日本文化の総合辞典であったのである。

 歳時記が日本人にとっての聖書といわれる道理である。

と、すれば、たとえば日本の一流ホテルの各室に和英版でもよし、和仏版でもよし、俳句歳時記の類が置かれていてもよいのではないか。

 季語・歳時記巡礼をなんとか、まがりなりにも無事終えたいま、もしや、日本のホテルに、常備されている、歳時記のページを気ままにめくる幻影を思い浮かべるだけで、この道楽、愚行も少しは報われる気もしてくる。

 幻しは、時として現実になる。

◆季語・歳時記巡礼全書 坂崎重盛 /2021.08/山川出版社

 著者にとって神田神保町古本散歩は中毒、宿痾のようなもの。店頭の均一台の背表紙から「俳」の字が飛び込んでくる。明治以降の俳書が安く売られている。こうして歳時記など俳句関連本が約80種類が手元に(種類と書いたのは歳時記は春夏秋冬新年と分冊になっているため冊数で数えない)。雑誌連載10年、こうして500ページの大冊ができあがった。

 当初は“季語道楽”として、美しい、珍しい、面白い、難解な季語に関心をもっていたが、やがて優れた歳時記の選定、すなわち書評の方向へ動いていく。

 自分にふさわしい歳時記が本書で見つかるか。

 当方が所蔵している古いものに高浜虚子『新歳時記 増訂版』(1934年初版・1987年増訂50刷)があるが、これはよほど暇なときにぱらぱらと読む。季語を学ぶのには水原秋櫻子『俳句歳時記』(1978年初版、1995年講談社文庫)。類語を知るには日外アソシエーツ編『逆引き季語辞典』(1997年)。作句の参考にするには角川書店編『合本俳句歳時記第三版』(1997年)だが、角川文庫版5冊がぼろぼろになったので合本版に買い替えたもの。

 文庫版は現在第四番増補まででているが、掲載句がいちばん肌に合うのが第三版である。つまりは当方の俳句は昭和の終わりごろで止まっている。

 自分にふさわしい歳時記とは、発行年によって決まる。すなわち掲載句を選定した俳人、編集者が、読者である自分自身に年齢的に近いかによる。俳句は時代をまともに反映する。それが本書を一読した結論である。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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