https://note.com/megumi_kato/n/nfd356d3556b3【芸術を創作する喜び】より
芸術や音楽に触れることで、私たちは心が豊かになり、感動や喜びを体験することができます。しかし、芸術や音楽を創作することで得られる喜びは、それ以上のものがあります。
芸術を創作する喜びとは、どのような喜びなのでしょうか。それは、
*自分の感性や創造性を表現する喜び *自分の作品を通して、何かを表現する喜び
*自分の作品に込めた思いが伝わる喜び といった喜びです。
自分の感性や創造性を表現する喜びとは、自分の内にあるものを形にする喜びです。絵を描くことで、自分の見た世界を表現することができます。楽器を演奏することで、自分の感情を表現することができます。
自分の作品を通して、何かを表現する喜びとは、自分の作品を通して、何かを伝える喜びです。絵を描くことで、自分のメッセージを伝えることができます。楽器を演奏することで、自分の思いを伝えることができます。
自分の作品に込めた思いが伝わる喜びとは、自分の作品が受け入れられる喜びです。絵を描くことで、自分の作品が誰かの心に届く喜びを感じることができます。楽器を演奏することで、自分の演奏が誰かに感動を与える喜びを感じることができます。
芸術を創作することは、簡単なことではありません。
しかし、自分の感性や創造性を表現し、自分の作品を通して何かを伝えようとする過程で、大きな喜びを得ることができます。
具体的な例
芸術を創作する喜びを体験するには、さまざまな方法があります。
*絵を描くこと *楽器を演奏すること *詩や小説を書くこと *ダンスをすること
*映画や演劇を制作すること
また、芸術を創作する喜びを体験できる場所やイベントもたくさんあります。
美術教室や音楽教室 アートスクールやワークショップ 芸術祭や文化祭
芸術を創作することで、人生をより豊かに、充実したものにすることができます。ぜひ、芸術を創作する喜びを体験してみてください。
まとめ
芸術や音楽は、私たちの心を豊かにし、人生をより充実したものにしてくれるものです。芸術や音楽を創作することで、私たちは、自分の感性や創造性を表現する喜び 自分の作品を通して、何かを表現する喜び 自分の作品に込めた思いが伝わる喜び といった喜びを得ることができます。芸術や音楽を創作することで、人生をより豊かに、充実したものにしましょう。
https://saita-saita.com/artist-ikigai/ 【アーティストにとっての生きがいとは?芸術を追求する喜び――そしてあなたの言葉で教えてください】より
~アーティストの生きがいや喜びを言葉にしてみる~
アーティストとして、何かを生み出して表現する人として、あなたはどんなことに生きがいを感じていますか?
(「アーティストに生きがいなんてない」、それもひとつの考えです)
もしあなたが創造の場で「生きがい(らしきもの、そんな風なもの)」を感じたことがあるなら、それを言語化してみてはいかがでしょうか。
自分の感覚を言葉にすると、いつかその言葉がつらいときの自分を救ってくれたり、他者と共有するための足がかりになってくれます。
今回は、「アーティストの生きがい」をいろいろな角度から言語化してみました。人それぞれ、生きがいと感じることは異なりますし、正解もありません。でも、もしヒントになるような言葉が見つかれば幸いです。
[創造]芸術の奥深さにふれ、追求していくこと
創作者・表現者としての喜び
アーティストとしての生きがいは、創造性から生まれる深い喜びと共にあります。新しいアイデアを発見し、それを具現化するプロセスは、芸術家にとって非常に充実感のあるものです。自分の内面から湧き上がる感情や思考を形にすることで、アーティストは独自の喜びを見出します。
芸術の創造的なプロセス
制作プロセスは、単なる技術の習得を超えて、アーティストの魂を表現する手段でもあります。キャンバスに色彩を重ね、彫刻を創り出す行為は、アーティストにとって過去や未来との対話であり、自らの存在を深く理解するプロセスです。このプロセスこそが、芸術を追求する上での真の喜びの源泉ともいえます。
[挑戦と克服]アーティストの醍醐味
困難に立ち向かう情熱
アーティストの旅には常に困難が伴いますが、その中にこそ真の情熱が燃えるのです。制約や批評、自らに課す高い基準といった挑戦を通じて、アーティストは自分自身と向き合い、成長していきます。困難に果敢に立ち向かうことが、彼らの創造的なエネルギーの源となっています。
成長と進化の過程
アーティストとしての喜びは、困難を乗り越えたときにこそ最大限に輝きます。自分の限界に挑戦し、失敗や試練を経て得られる成長が、アーティストをより深い喜びに導くのです。アートは変化と進化の過程であり、アーティストはその中で自らを更新し続けます。
[アートの共感力]人々との深い繋がり
作品を通じた感情の共有
アーティストが作り上げた作品(映画や絵画、文章)は、観客との感情的な共鳴を生み出します。色彩や形、ストーリーが呼び起こす感情は、言葉では表現しきれない深いコミュニケーションを生み出し、視聴者とアーティストを結びつけます。この共感力こそが、芸術が持つ特別な力のひとつです。
アーティストとしての社会的影響力
アートは社会を変える力を秘めています。アーティストが独自の視点やメッセージを作品に込め、それが社会的な問題や価値観にふれることで、作品は社会に対して新たな視点を提供します。アーティストは自らの芸術を通じて、社会的な変革を促す先駆者となることがあります。
[芸術と生活] 生きがいを見つける旅
アートと生活の調和
アートは生活と密接に結びついています。アーティストが自らの生活とアート制作を調和させることで、生きがいを見つける旅が始まります。ときには静寂な瞬間、または日常の美しさから着想を得て、それを作品に昇華させることで、アーティストは日常の中にも喜びを見出すことができます。
クリエイティブな活動の中での幸福感
アーティストは自らのクリエイティブな活動を通じて、深い幸福感を経験します。新たなアイデアや技術の発見、作品の完成といった瞬間は、アーティストにとって至福の時です。これらの瞬間が積み重なり、それぞれの生きがいを形成していくのです。
[未知の領域への冒険] アーティストとしての成長
新しい技術やスタイルの探求
アーティストは常に新しい技術やスタイルの探求に挑戦します。技術の進歩や芸術のトレンドへの敏感さは、アーティストが未知の領域に飛び込む原動力となります。新しい手法や材料の導入は、それぞれの人に新たな表現の可能性を開示し、喜びを生み出します。
芸術の進化と変化
アーティストは固定概念にとらわれず、芸術の進化と変化に柔軟に対応します。新しいトピックやテーマ性へのアプローチの変化は、人々にとって永遠の学び舎となります。これによって、アーティストは常に新しい挑戦に取り組み、自らを進化させることで生きがいを保ち続けます。
まとめ|語りつくせない創造プロセスと作品の持つ魅力
芸術を追求するアーティストたちが見出す生きがいは、喜びや深い感動を通じて形成されます。芸術の奥深さにのめりこむことで、アーティストは自身の内なる喜びを発見し、その表現を通じて、他者の心の琴線にふれることもできます。
ぜひ生きがいを言葉にして、アーティスト自身の感性や創作過程の情熱を、周囲と共有するためのサポートとして活用してみてください。
Facebook阿波宇多雄さん投稿記事
拙稿の一部です。ご笑覧を。
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そして響きの海へ
『月の裏側』という著書のなかで、「日本文化は調べ(tone)の文化である」といみじくも指摘したのは、フランスの文化人類学者のレヴィ=ストロースでした。
かれは、数回来日して神武天皇の古里などを隅々まで歩き、そこで実際に、ある神霊の声を聴き、日本には西洋人の見えない世界が生きていることを発見しました。「知性の世界」にいる西洋からは見えない「調べの世界」が日本に息づいていることを発見して、ストロースは非常に驚いたのでした。「月の裏側」は、地球からは見えないけれども、表と対をなすものとしてやはり実在していたのです。
欧米を論理の文化、神学の文化とすれば、わが国はそれと対照的な調べの文化、響きの文化といってよいでしょう。私どもは、自由主義やバルト神学といった一貫性のある体系的な論理や神学によって説得されることよりも、天地(あめつち)に生り成りて鳴る「響き」の心地よさを味わって物事の良しあしを判断することを好んでいます。体感して「腑に落ちる」身体感覚を重視しているのです。
わが国は、和歌、俳句、謡曲、詩吟、カラオケといった多様な響きを発展させてきましたし、浮世絵や漫画、絵文字、アニメも調べの文化の延長上にあります。それは、日本語の倍音豊かな母音の響きがもたらす右脳と左脳の精妙なバランスによって磨き上げられてきたものと多くの脳生理学者は指摘しています。
この響き(resonance)の文化を、ひとつの思想に体系化したのは、ほかならぬ真言密教の空海でした。空海は、宇宙を構成する地、水、火、風、空の五大要素は、すべて響きを発している、「五大みな響きあり」と説きました(『声字実相義』)。
これは驚くべき発見です。思弁の得意なインド人のシャカが、「因果の無限連鎖」ととらえた実相を、日本人の空海は、身体感覚で感じとる「響きの無限連鎖」におきかえたのです。マントラと想念の響きを伝えることを通じて、身体と宇宙の因果を調えようとしたのです。真言密教は、池に波紋が広がるように宇宙の海に調和のとれた響きの波紋を伝えようとする、まさに「響きの宗教」といってよいものです。
最近の素粒子物理学では、物質は五次元ないし十一次元の膜に存在の根を持つ極微なヒモの振動体であるというヒモ理論が登場してきています。電子、原子も分子、細胞もすべてヒモの波動体であるというのです。とするなら、「五大みな響きあり」という空海の説は、そろそろ「五大みな響きなり」と修正してよいのではないでしょうか。天地を構成する地、水、火、風、空は、響きの事(こと)タマとして生り、成り、鳴っているのですから。
いうまでもなく、事タマや言タマだけでなく、形も数も想念も響きの波動体であり、意識体(タマ)であります。三角、四角、丸とそれらの組み合わせのカタチから発する響きはカタタマと呼ばれ、1から9までの数とその組み合わせが出す波動はカズタマと呼ばれています。愛や憎しみなどの想念は、瞬時に地球の裏まで飛んでいくオモイタマであることは、水の氷結結晶の国際実験からも裏付けられています。
わが国の「和」の国体物語は、このようにコトタマとカタタマ、オモイタマなど多重のタマの響き合わせを通じて、近代論理とイデオロギーによって乱された世界の波動を調えていくことを目的としています。中東における諸宗教の対立と戦乱がもたらしている地球の波動の乱れ、中共の国内圧制と民族弾圧が招いている波動のゆがみを、ヤマト心は響きあう言葉と想念と祈りを持って調え、雄々しき行動でもって整えていくことを求められています。
カオス理論によると、北京で羽ばたいた蝶の響きは、連鎖反応を起こしニューヨークで嵐をよぶことがあるそうですが、これからの日本は、コトタマをはじめ、多重のよいタマを響かせ、地球と宇宙によい波動の波紋を伝えて因果の連鎖を調え、対立と紛争に明け暮れる世界を包みこんでいくことが使命となるでしょう。それを先導するのが、宮中賢所でささげられる、地球の祭祀王たるスメラミコトの祝詞の響きであってほしいと私は願っています。
https://tb.sanseido-publ.co.jp/column/ltl/kotomana06/ 【俳句における「間」】より
長谷川 櫂 俳人
俳句誕生の背景
「家は夏向きに作るのがよい」―兼好法師は『徒然草』の中でこう言っています。じめじめして蒸し暑い夏は,ユーラシア大陸のいちばん東に位置し,海に囲まれた日本がもつ特徴的な気候です。夏をいかに過ごすかを日本人は昔から真剣に考えてきました。兼好法師のこの言葉は,家の作りのみならず,日本の文化全体にかかわるものでした。
日本は大陸から伝わる文化的なものを取捨選択して取り込んできましたが,そのなかで「暑苦しい」ものはことごとく捨て去られていきます。日本人にとって「涼しげなもの」でなければ文化としては根づかなかった。
例えば,仮名文字。中国から伝えられた文字,すなわち漢字を日本人も書き言葉に用います。『万葉集』ももともとは全部漢字で書かれていました。漢字ばかりがずらりと並びます。それはものすごく暑苦しいわけです。もっと涼しげな文字がほしくなる。漢字を簡略化したものでないと,日本人としてはとても耐えられない。そう考えたかどうかではなくて,文化の志向がそうなっているんです。そうして仮名が生まれた。
日本の初期の書,例えば空海の書も,中国の文献のように漢字がきちっと並んでいました。時代が経ってくると,小野道風のように横のラインが崩れていきます。字と字の間にたくさんの空白をつくって,一つの歌を書いていくことが主流になってくるんですね。書における「間」が生まれてくる。今も,俳句や和歌の書は,そのように書かれます。
絵画も同様。中国は基本的にリアリズムの国ですから,木一本からラクダの脚まで克明に描きます。西洋の絵も,空白があると未完成な絵として扱われてしまいます。セザンヌの絵は塗り残した部分が多いので,長い間,未完の絵とみられてきました。
ところが,日本人の絵は,描きたいものを描き,周りは空白のまま残しておく。長谷川等伯の松林図屏風がそうですね。
町を描くときにも,ヨーロッパの画家ブリューゲルは家並みを克明に描きます。日本人はすべて描くことはない。例えば,京都の町の中に「金の霞」という雲を描きます。実景にはない空白――「間」を描いて,日本人はやっと落ち着く。落ち着くとは,涼しい感じがするということです。
音楽や建築も同じ。こうやって「涼しげな」方向へ文化が創られていきました。
詩歌も例外ではありません。長々と言葉を使うのではなくて,短く言えればそれに越したことはない。言葉は人と人をつなぐもの。心が常に繋がる,相手のことが常にわかるというのは「暑苦しい」ことなんですね。遠ざけておけば,暑苦しくはない。これが日本人の言葉に関する感じ方です。
日本人の言葉への向き合い方,コミュニケーションのあり方は,大陸の国々とはずいぶん異なります。大陸では言葉の違う民族が接しあう。文化様式が異なる人々が行ったり来たり,通商や戦争,常にいろいろな民族が接しあいます。相手の考えをきちっとくみ取ったり,自分の考えを伝えたりするには,互いに言葉を尽くして,自分の考えを説明し,相手の言うことも聞く。これが大陸的なコミュニケーションのあり方です。
これに対して,日本は同じ日本語なので,方言があってもだいたい通じてしまいます。文化様式も互いに似通っているので,詳しいところまで説明しなくてもいいのではないか,わかりあえるのではないかと考える。実際にわかりあえているかはわからないけれども,そういう考え方が日本の詩歌の背景としてあった。このような気候風土,文化や考え方のなかで,俳句も誕生してくるわけです。
「切れ」と「間」
俳句は,五七五の17拍(音)が全部言葉で埋まっているように見えますが,句の前後とその句の中には,膨大な空白,言い換えれば「間」があります。
その「間」を生み出すのが「切れ」。「切れ」によって言葉を切断して,涼しげにつくっていく。そして「これだけ言えば,あとはわかりますよね」と。これが俳句の基本的な考え方です。
「古池や」とここで刻むことで,「蛙飛び込む水の音」との間に「間」が生まれる。その深い「間」によって,単に「古池に蛙が飛び込んで水の音がした」というのではなく,蛙が飛び込む音によって芭蕉の心に浮かんだ「想像上の古池」と「現実の水音」という次元の違う二つのものが響きあって,詩の世界が立ち上がってくる。
この「古池や」の「や」を「切れ字」といいますが,切れ字は,俳句に「切れ」を生む一つの言葉の手法で,「や・かな・けり」などがあります。しかし,「切れ」は必ずしも切れ字を必要としません。これはあまり教えられていないことですが,「切れ字」を使わなくても俳句は切れます。
山口素堂の「目には青葉山ほととぎす初鰹」には切れ字が一つも使われていません。名詞をぽんぽんぽんと並べているだけですが,「目には青葉/山ほととぎす/初鰹」と,句の中が三つに切れています。名詞に限らず,俳句ではすべての言葉は「切れ」を生み出すことができる。そのなかで「切れ」を生むために特別の使命を負った言葉が切れ字です。
先に,俳句は句の前後とその句の中に「間」があるとお話ししましたが,俳句の「切れ」といえば,「古池や/」「目には青葉/」などの「切れ」,すなわち句の中の「切れ」にのみ目が向けられてきました。句の前後の「切れ」については,『一億人の「切れ」入門』(角川学芸出版 2012)を出す前までは,俳人の間でもほとんど注目されてこなかったものです。句の「前後で切れる」はどういうことか。
例えば,『おくのほそ道』では,文章があって,俳句があって,また文章がある。文章と俳句がひと続きに書かれたように見えます。しかし,文章は論理,俳句は直観によって生まれるものですから,文章と俳句の間には見えない断絶があるわけです。直観による俳句の刃が,文章の論理の糸を断ち切っている。これが句の前後の「切れ」です。
「月日は百代の過客にして……住めるかたは人に譲りて,杉風が別墅に移るに」と論理の頭で書いてきて筆をおき,ここで詩の頭に切り換えて,「草の戸も住み替はる代ぞひなの家」と詠む。そして俳句を書き終えると再び論理の頭に戻って「面八句を庵の柱に懸け置く」と書く。芭蕉のなかでは,俳句の前後で心のスイッチが切り替わっている,日常の心から俳句の心へ,俳句の心から日常の心へという,心の調子の切り替わりが,俳句の前後の「切れ」を生み出します。
散文は説明や理屈の世界。理屈は言葉のなかでも最も暑苦しいもの。この「切れ」によって「間」が生まれ,その「間」によってこそ,俳句は俳句として,理屈から切り離された詩の世界をつくりあげることができる。
日常から切れているのは和歌も同じです。『伊勢物語』は歌物語といわれますが,地の文があって歌があり,地の文は歌が詠まれた状況を説明しています。『源氏物語』も同様で,地の文として登場人物の現実の生活を描いていきながら,そのなかで歌が詠まれます。どちらの作品においても,歌の前後には「切れ」が隠れています。『おくのほそ道』は,ずっと以前からある,こうした歌物語の伝統を引いているわけです。
「考える」ということ
切れ字の学習といえば,切れ字の代表的な種類を覚え,「この句のこの字が切れ字,この句には切れ字がない」というように切れ字の有る無しを確認するというイメージをもつ人も多いのではないかと思います。そうではなく,「なぜ俳句には切れ字というものがあるのか」という問いが大切です。
このことは,季語についても,字余りや字足らずについても当てはまることです。「これが季語,ここが字余り,ここは字足らず」と指摘して終わるのではなく,「季語が俳句に必要とされるのはなぜか」「どうしてここを五音で詠まないのか」を問うてみる。今,学校では「主体的に考える」「深い学び」ということが言われているようですが,「考える」ことの本質は,ものごとの根底に立ち返える「問い」をもつことだと思います。
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