スーパーフラット

けん先生 漢方/薬剤師@suzuki_kanpo

攻撃する人は怯えてる人。

怒っている人は傷ついてる人。

マウントを取ろうとする人は自信のない人。

みんな頑張ってる。

頑張って頑張っていっぱいいっぱいになった時に周りに人を傷つけちゃうんかもね。


Facebook山地 弘純さん投稿記事

長女がゲームを終えた後、「どんなゲームにも目的があるからいろいろと難しいけどやりたくなるんだね」と悟ったように語ってきた。

「ほんとだね。のぞみの人生にも目的はあるかな?」

「うーん、人の役に立つことかな。年下の子が怪我したら保健室に連れて行ってあげるとか。」

「そっか。保健室はあなたはいつもお世話になってて得意だよね」

「うー」

ちょっと怒ったような表情をして、今度は攻守交代。

「お父ちゃんはなにが人生の目的なの?」

「うーん、父ちゃんの持ち越してきてる課題を終わらせるためかな」

「課題って何?」

「お父ちゃんはね、誰にでも同じような目線で接することだよ。年上にも年下にも、有名な人にも無名な人にも、できる人にもできない人にも、自分にも他人にも。」

「できないの?」

「うん、できないんだよ。スポーツができる人、勉強ができる人、仕事ができる人、影響力がある人なんかをすご〜いって見上げたりしてる。」

「でも運動や勉強ができなくても、のび太は射撃がすごかったりあやとりができたり、すごいところがあるんだよ」

「そうだよね。誰もどこかに何かあるよね。それに、もしそれがまだ見つからない時にも、同じような目線で接したいんだ」

「そうなんだ。いい課題だね。」

娘に褒めてもらって、ちょっと照れる父でした。


https://hillslife.jp/art/2019/11/25/superflat-doraemon/ 【村上隆はなぜ、ドラえもんを描くのか?  村上隆 スーパーフラットドラえもん】より

世界有数の美術館やトップコレクターを顧客に持つ村上隆と世界の隅々の子どもに愛されているドラえもん。その組み合わせからなにが生まれるのか。なぜ村上はマンガを題材にするのか。その絵はどう読めばいいのか。ペロタン東京で始まった展覧会を見ながら考える。

村上隆は、伊藤若冲や曾我蕭白ら奇想派の系譜、俵屋宗達や尾形光琳ら琳派の系譜を引いているし、さらに浮世絵の影響は当然ある。それらは現代でいえばマンガやアニメとも通じるものである。根底でそういったカルチャーと行き来をし、それを現代美術の文法を忠実に従って生み出したものが彼の作品なのである。

(以下略)

http://blog.livedoor.jp/book_news/archives/24601821.html 【スーパーフラットとはどういう思想なのか。「村上隆とポスト・フォーディズムの美学」読書会レポート】より

16日は、「芸術係数」が主催する読書会に参加してきました(「芸術係数」についての詳細はこちら)。読書会で取り上げられたのは、アメリカの美術批評家パメラ・リーの『Forgetting the Art World 』に収録された「世界はフラットである/世界の終わりー村上隆とポスト・フォーディズムの美学」という論考(原題は「The World is Flat/The End of the World: Takashi Murakami and the Aesthetics of Post-Fordism」)。

※今回のレポートは、読書会に参加したナガタによる解釈でまとめたものです。芸術係数の代表者である辻憲行氏、論考の著者であるパメラ・リー、村上隆氏のいずれの思想をも代弁するものではありません。「芸術係数」によるレポートが後日公開されるということなので、その際はあらためてアナウンスします。

論考の内容は、国際的な現代美術の場で重要な位置づけを占めている村上隆と、現代的な生産体制を指すポストフォーディズムを結びつけて論じるというもの。

日本では一部の関係者を覗いて村上隆を嫌悪し、無視しようとしているのに対し、欧米では主に「消費」の観点からばかり見る傾向が強い。

これに対して「生産」という点から村上隆を捉えようというのがこの論考の目的だ。論集の皮切りとなる第1章に置かれたこの論考では、村上隆が提唱した「スーパーフラット」をキーワードに読み解いていく。

※村上隆が「スーパーフラット」概念を打ち出した2000年の展覧会図録

読書会は、論考の読解の前に、まず「日本で村上隆が無視されていること、海外の文脈では村上隆が一定の位置を占めていること」を概観。

村上隆自身も、日本向けと海外向けとでまったく異なった発言をしているとのこと。

村上隆は海外向けには積極的に自身の美術史的な位置付けを行なっているらしい。

日本でたまに「村上隆以降のキーワード」として「ポスト=スーパーフラット」ということを打ち出す人がいるが、そういう場合には、村上隆自身が提唱したスーパーフラットをきちんと踏まえられていない。

今回の読書会の目的は、

村上自身が提唱した議論を踏まえるというところにある。

スーパーフラットと「平面性」について

「スーパーフラット」とは、単なるムーブメントではなく、思想であり理論だ、と村上隆は主張する。

村上は、「もの派」や「具体」といったムーブメントが日本にはあったが、それは心情的な反権力や、先行する別のムーブメントに対するアンチでしかなかったという。

村上は「印象派」や「シュルレアリスム」を挙げ、これらはムーブメントに留まらない思想や理論であったと主張する。

思想や理論は、時代ごとの状況を踏まえ、深くコミットしているという点が違うと言うのだ。

では、「スーパーフラット」はどうだったのだろうか。

「スーパーフラットが時代状況とどうコミットしているのか」というのを論じるときに、先に述べたように「消費」というキーワードが語られやすい。確かに、ある時期以降の村上は人々の消費行動と非常に相性のいい作品を発表している。しかし今回の論考で、著者のパメラ・リーは1993年という比較的早い時期の作品を取り上げることで、村上隆における生産の問題を論じようとする。

パメラ・リーが最初に注目する村上隆の作品とは、「DOBOZIDE DOBOZIDE OSHAMANBE」と書かれた看板。これは、のちに村上が展開するような商品化が容易な作品群とは違い、ただただ無意味なだけのものだ。(欧米の多くの論者が言及する)アニメ的でオタク的な図像と比べると、この作品はあまりに抽象的で、わかりにくいものだとパメラ・リーは認める。

なお、村上隆が2000年に提唱することになる「スーパーフラット」について、パメラ・リーは2つの文脈における「平面性」をめぐる議論を参照する。

美術史のグリーンバーグとスタインバーグにとっての「平面性」、

そしてドリーン・マッセイが指摘した「深みのない水平性」。

グリーンバーグは絵画の本質を平面性に求め、

スタインバーグは「情報を平らに並べる書類の表面」における平面性に着目した。

マッセイは、歴史の忘却に繋がる「新しい時代」の深みのない水平性、

つまりポスト・フォーディズムを論じいてた。

論考では、村上隆の作品の解釈に入る前に、

このポストフォーディズムについて概説がある。

ポスト・フォーディズムとDOB君

フォーディズムは、

工場での労働を最も効率化するために

労働者を「上から」規律的に管理する。

対して、ポスト・フォーディズム的な体制の下では、

労働者は外部化され、流動的な雇用状態に置かれる。

これによって、労働者は企業に対して

フレキシブルに(柔軟に)応じることが求められるようになる。

労働者たちは「自分で自分を雇う」ような状況になるのだ。

これは新しい情報技術、とくにコンピュータ産業の発達により、

旧来の製造業中心の社会環境が変化することと同時に生じてくる。

ひとつの国の中で労働者も市場も完結した、

大量生産・大量消費を前提としたフォーディズムの状況に対し、

高度に発達したコミュニケーション技術が可能にする、

国境を超えた労働力とニッチな市場に

フレキシブルに対応しなければならないポスト・フォーディズムの状況。

パメラ・リーは、村上隆が自らのアイコンとして使う「DOB君」というキャラクターが、

このポスト・フォーディズム的な方法で使用されていることを指摘する。

村上は、DOB君の絵をほとんどそのまま、ただし「色だけを変えて」繰り返し繰り返し描き続けた。

そうすることで、その時々の流行を反映することができる。

ちょうどファッション界に、シーズンごとの「トレンドカラー」があるように。

DOB君はフレキシブルなのだ。

「DOB」君の「DOB」は、

先述の看板の作品「DOBOZIDE DOBOZIDE OSHAMANBE」の最初の3文字を冠したもの。

看板の作品が生まれた背景には、村上の「プロジェクトZ」と言われる、

企業のブランドイメージについての実験的なプロジェクトがあったのだが、

ある展覧会の予算の制約のなかで、

効率の良い方法として見出されたのが看板という手法だったという。

予算的な制約のなかで、

ブランディング的な手法を「フレキシブル」に行うために、

DOB君のようなテンプレート作品は効率的なものとして生み出された。

村上隆が「スーパーフラット」において言及しているアニメーターの金田伊功の「止め絵の美学」もまた、ディズニーのような潤沢な資金を持たない日本のアニメ業界が生み出したもので、ここにも制約の中での可能性が重要な意味を持つ。

「DOB君」は、予算の制約の中から生まれ、市場の変動にフレキシブルに対応する、

きわめてポスト・フォーディズム的な記号として使用される。

「DOB君」は、ポロックのような、北斎のような、ウォーホルのような、オタク的な、ディズニーのような、…といった様々な解釈を受け入れ、受け流し、固定化しない。

村上は、スーパーフラットの議論に際して、

明治期からバブル時代に至る日本の状況を参照していた。

しかし、 パメラ・リーは「スーパーフラット」の「水平な歴史性」を指摘する。

村上隆の作品には、過去と現在の日本、

そしてそれ以外の場所の「歴史的固有性」を超越して結びつける形式的平面性があるというのだ。

ポスト・フォーディズム的な時代状況においては、

時間や空間はひとつの平面として認識され、

「中心のある球体のようなもの」としては世界をイメージさせない。

そのような状況では、

歴史的な記憶がその物質的基盤とともにすぐに忘れ去られる。

ところで村上隆は、自分のアトリエを「ヒロポンファクトリー」と名付けた。

それはアンディ・ウォーホルの「ファクトリー」をなぞったものだが、

実際の「工場」のようでもある。

ただし、この「工場」はここまで述べられてきたような

村上のポスト・フォーディズム的な方向性を体現している、

とパメラ・リーは語る。

村上は、マイクロソフトのビル・ゲイツを経営手法を引用するが、

そのゲイツは自動車の生産システム、

とりわけアメリカ車の生産に対してトヨタ式の生産システムを参考にしていた。

それは情報化によって時間と空間が劇的に高速化・縮減された市場に対応する、

ポスト・フォーディズム的な「生産」の方法だという。

まとめと質疑応答

このようにパメラ・リーは、

村上隆と彼の提唱する「スーパーフラット」が、

フォーディズムの徹底と情報化の結果もたらされた

ポスト・フォーディズム的な「新しい水平性」の時代とリンクする、

効率化とフレキシブルさの追求という思想性をもっていることを論じていた。

個人的には、

村上隆自身が論じる「日本という国家と歴史の問題」とスーパーフラットの関係と、

ポスト・フォーディズムとの関係が、今回の論考では整理しきられていないと感じた。

もっとも、これは質疑応答の際に、

ポスト・フォーディズム的な「新しい水平性」の状況においては、

擬似的な国家主義はフラットな市場の上で価値を持つ多様性として変換される、

と説明されたのでとりあえず納得はできた。

アメリカの美術批評界にいまだなお隠然とした影響力を持つグリーンバーグも、

代表的な論考「アヴァンギャルドとキッチュ」において、

権力者たちの外部にある前衛を論じていたはずが、

富裕層の戯れとしてのキッチュの話になり、

最終的にそういった階級闘争を「平面において解決する」ものとして論じており、

「平面性」には、そもそも絵画の経済効率性の意義が込められているとも言える、とのこと。

※「アヴァンギャルドとキッチュ」収録した『グリーンバーグ批評選集』

「摩擦のない平面」というものは、

たとえば「貧富の差」「階級間の断絶」を均すものであれば理念的に良いものとして考えられるが、

情報化や流通の高速化によって実現される場合は、

却って貧富の差を広げるものとなりうる。

「フレキシブルな労働」といった場合によく話題になるブラック企業(あるいはいわゆる社畜)も、

フラット化の弊害として想起されるだろう。

これらは、スーパーフラットが戯画的に描き出し、

同時に覆い隠して忘却させてしまうものだと言えるかもしれない。

もし「ポスト=スーパーフラット」というものがありうるとしたら、

それはグリーンバーグの「平面性」の時代よりも情報や流通が加速した時代の「スーパーフラット」よりも、さらに加速した状況を踏まえたものということになるだろう、という意見もあった。

現代の状況では、金融情報を人間の認知限界を超える速度でやりとりするbotのようなものの経済や、金融取引所から物理的な距離が近い場所にサーバーが設置されること、あるいはサーバーセンターが天災に襲われるリスクなどが話題になっており、こういったことが踏まえられることになるかも知れない。

なお、ポスト・フォーディズムのキーワードでもある「フレキシビリティ」については、

関連概念(あるいは対立概念)として

フランスの現代哲学者カトリーヌ・マラブーが

「可塑性」の概念を提示している。

ポスト=スーパーフラットを考える際のヒントになるかも知れない。



コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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